寒かった冬は終わりを告げ、木々は爽やかに葉桜を揺らしている。
信号に捕まっている間、車の窓を開けて外の空気を大きく吸い込むとなんとなく春の味がした。
こんな気持ちのいい日はまさに絶好の旅行日和だ。
思わずアクセルを踏み込み過ぎてしまう。
「ーーーコウタ、おい、コウタってば。聞いてんのかよ」
助手席に座る村田の声に思わず、あ、生返事をした。
村田はバシッと決まっている短髪を整えながら、怪訝そうな顔をして僕の顔を覗き込む。
「あ、じゃねぇよ。お前運転してるんだからぼさっとするなよな。女子達がコンビニ寄りたいってさ。」
「聞いてなかった、ごめん。こんな田舎だと、次にいつコンビニに寄れるかわからないしな、寄っておこう」
「おーい、次コンビニ寄るからトイレとか行ける時に行っとけよー」
村田はやれやれとした感じで後部座席へ振り返りながらそう言うと、はーい、と楽しそうな声が返ってくる。
まるで小学生の遠足のようだ。
「ーーーもう、これで最後だなぁ。卒業したら今みたく気軽に遊びにいけねぇけど、二日間は楽しもうぜ。さっさと温泉につかりてぇな」
ため息混じりの村田の言葉に、僕は短くああ、と返す。
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来月で僕達は大学を卒業する。
就職の決まっている者・いない者、進学する者、実家へ帰る者等色々であるが、いつもつるんでいたこのメンバーで思い切り遊べるのはこれで最後かもしれない。
そう思うと、少しセンチメンタルな気持ちになるが、皆の楽しそうな表情を見ると思い切ってこの旅行を企画したかいがあった。
ーーーしかし、この時はあんな恐ろしい事が待ち受けているとは思ってもみなかったのだけれど。
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国道から外れ山道に入りしばらく車を走らせていると、ガタガタと車が揺れ出した。
あまり舗装されていないようで、レンタカーに傷がつかないかと僕は内心ヒヤヒヤしていた。
「おいおい、これ本当にナビあってるんだろうな。この先にマジで旅館なんてあるのか?」
助手席のバーに掴まる村田が不安そうに呟く。
僕はナビをチラッと覗き、順調に距離を縮めている事を確認した。
「たまによくわからない所を走る時あるからな、ナビって。道路情報が古いんだよきっと」
僕はそう言いながら笑って前方へ直ると、視界が先程よりも白くなっている事に気付いた。
ーーー霧だった。
しかも徐々にそれは濃さを増していき、気付けば辺り一面真っ白になっていた。
2メートル先も見えないような濃霧で、まるで僕達を包み込んでいるようだ。
たまらずブレーキを踏み車を停めた。
大丈夫?怖いね、と後方から皆次々と言う。
「すげぇ霧だな。しばらく車動かせないなこりゃ。なぁ、みんな外出てみようぜ。あ、コウタ、一応ハザードランプつけとけよ」
村田の言葉で全員車を降りて、写真をとったりしてはしゃいでいた。
こんな霧はなかなか体験できない。
まるで雲海にいるような気持ちである。
それにしても、3月の山中はとても寒い。
僕は身震いすると、パーカーのチャックを上まで上げた。
「ねーねー、なんか変なのがあるよ」
女子の声の方へ集まると、側道に大きな一枚岩がそびえ立っていた。
随分と古ぼけているが、人工物のようで何やら難しい漢字が掘られている。
おまけにその傍らには、奇妙な地蔵がいくつも佇んでおり、濃霧と相俟って不気味な雰囲気を醸し出していた。
「これは石碑だな。たぶん、この辺で人が亡くなったんだよ。それにーー」
高野が得意気にそう言いながら、一枚岩の横に鎮座している地蔵を指差すと更に言葉を続けた。
「身代わり地蔵って言ってさ、もし旅の途中に何かあってもこの地蔵が守ってくれるんだとさ。何か事故があった時の慰霊碑も兼ねてるみたいだな、これは」
高野が顔を上げるのに倣い、視線を岩にやると、ある事に気付いた。
“虎列刺菩薩碑”
そう彫ってあるのだ。
何て読むかはわからなかったが、何かを奉っている事はなんとなく理解できる。
そしてよく目を凝らせば、その下あたりに名前の様な文字も沢山彫ってある。
「ーーー何かの事故で人が死んだのかな」
そう高野のが呟くと、妙にシーンとなってしまった。
すると、1人の女子が沈黙を破る様に口を開く。
「へー。高野、詳しいんだね。でもなんか怖くない?守ってくれそうに見えないけど」
その言葉に、僕は心の中で激しく同意した。
僕にもこの不気味な地蔵や道祖神とやらを、とてもそんな風には捉えられない。
すると村田がぶつぶつと言いながら地蔵を見回し、感嘆の声をあげた。
「この地蔵、全部で33体あるぜ!昔の人は暇だったんだな」
村田の戯けに皆笑う。
かわいい、とか言い地蔵の写真を撮っている者もいたが、この無表情な顔と目が、僕はたまらなく嫌悪感を抱いた。
ーーーそんな事をやっている内に、霧は徐々に晴れてきた。
そろそろ行こうか、と車に乗り込みエンジンをかけると、またも村田がすっとんきょうな声をあげる。
「なに?どうしたの?」
「いや…これナビ見てみろよ。ぶっ壊れたのか」
ナビを見てみると、”error”の文字がディスプレイに表示されている。
うまく連動していないのだろうか。
レンタカー会社に電話しようとスマホを取り出
したが、それも圏外である。
「だめだ、俺のスマホ圏外。誰か電話貸して」
そう言い後ろを振り向くと、全員口々に圏外と言うのだ。
いくら山中とはいえ、全員のスマホの電波がなくなるのはおかしい。
これにはすっかりお手上げになってしまった。
「まいったな…どうするか?一旦引き返す?」
村田に意見を求めると、いやいや、と首を横に振る。
「さっきのナビのルートだとここをずっと真っ直ぐだったし、進もうぜ。看板くらいあるだろ」
そうだな、と僕は頷き車を更に山奥へと走らせた。
しばらく走っていると、完全な未舗装路となりこれ以上進むのは困難な状況になった。
未舗装路というよりも、車一台通れるか通れないかという獣道のような感じだ。
「なぁ、これもう道路じゃないよ。どこかで道間違えたかなぁ?」
「ここまで来て冗談じゃねぇよ、もう。ナビは相変わらずだしどうなってんだぁ?」
僕の言葉に村田は大袈裟なジェスチャーをする。
背後からは、まだぁ?どうなってるの?等と無責任な声が飛び交う。
痺れを切らした村田はドアを開けた。
「この先、人間が通ってるような道があるし、ちょっと歩いてみようぜコウタ。それに、焚き火の匂いがする。誰かいるよきっと。みんなは待っててくれ」
と言いながら、村田は生い茂る木々の向こうへ顎をくいっとやった。
運転手として若干の責任を感じた僕は、黙って頷き村田に続いた。
5分は歩いただろうか。
人道だと思われるこの道は思ったよりも険しく、虫や垂れ下がった木々が鬱陶しくて仕方なかった。
道なき道を黙々と歩き続けると、突然視界が開き、その先には集落のようなものがあったのだ。
「おぉ、村みたいのがあるじゃん。あそこで道聞こうぜ!」
村田の嬉しそうな声に、ずっと不安だった僕の気持ちにも余裕ができる。
「これ、やばいね、もう冒険だよね。いい思い出だな」
僕達はそんな軽口を叩きながら集落の入り口へ近づくと、異様な光景が眼前に飛び込んだ。
ボロボロの着物の様な服を纏った老人が、丸太にもたれかかっていた。
明らかに、様子がおかしかった。
思わず老人に駆け寄り、大丈夫ですか、と顔を近づけると、ひゅー、ひゅー、と辛うじて呼吸をしているような状態だ。
「どうしたんですか。体調悪いんですか?」
村田の声にピクッと反応した老人は、ゆっくりと僕達の顔を見回す。
「おまんら、他所のシの人か…?助けてくれんか、俺だけじゃねぇ、皆いごけねぇような体だ。けったるくて駄目だ。ここはお役人さんも見放してる」
老人の言葉はかなり方言がきつく、聞き漏らさぬように耳を傾げるのでやっとだ。
それにーーー、と息も絶え絶え言葉を続ける。
「俺は、もうずくもねぇから多分駄目だ。おらげのモンらもこの病さたけっちまって…うっ…うっ…。だけんど、村にゃまだボコも女もおる。お医者様を頼む」
僕と村田は思わずギョッとし顔を合わせた。
ひどく聞き取りづらかったが、”病”と”お医者様”というワードと、老人の様子を見れば、何かの伝染病がこの集落を蝕んでいるのは一目瞭然であった。
「ーーーコウタ、ここ、やばくねぇか。」
「うん、何かの病気が流行ってるのかもしれない。スマホも使い物にならないし、とりあえず道を引き返して人を呼ぼうよ」
僕の言葉に村田は首を横に振る。
「バカ、そんな事やってたらこの人死んじゃうだろ。とりあえず中に入って、電話か何か借りて救急車呼んだ方がいいに決まってる。…ちょっと怖いけどな…いくぞ」
集落の中へ僕達は足を踏み入れると、その異様さと違和感に呆然とした。
建っている家はすべて合掌造りになっており、奥の小屋にいる牛や鶏等の家畜が奇声をあげている。
何より、しんと静まり返っており、人っ子1人いないのが不気味であった。
まるで大昔にタイムスリップした気分である。
「何か…すげぇなここ。昔ながらの集落って感じだな。こんな所まだあるのかよ。地面なんて土剥き出しじゃん」
村田はそう言いながら地面をガッガッ、と蹴り、言葉を続ける。
「人がいないな。電話借りようにも借りれねぇぞ。でもあの人、ここにはナントカと女はいるって言ってたから、家の中に誰かいるんじゃねぇか?」
「そうだね、とりあえずこの家に入ってみようか。ーーーすみませーん、誰かいませんかー?」
僕は声を張ってドンドンと引戸をノックした。
返事はない。
誰もいないのか。
僕はもう一度叫ぶ。
「救急車を呼びたいんですけど、電話貸してくださーい」
相変わらず反応はなく、僕の声だけが集落中にこだまする。
すると、村田があることに気づいた。
「コウタ、これ、ドア少し開いてねぇか?ほら、鍵閉まってねぇよ」
村田の指差す方へ目をやると、確かに引戸が少し開いている。
「緊急事態だ。悪いけど勝手に上がらせてもらおう、人の命かかってるんだからな。すみませーん、入りますよー」
村田はそう言いながら戸を開け、中へ入っていった。
こういう時の村田の行動力は本当にすごいと思う。
就職は未だ決まっていないものの、いいリーダーになれるのではないだろうか。
ーーーその時だった。
村田の悲鳴が轟く。
僕は慌てて中へ入ると、とんでもない悪臭が土間の奥から放たれていた。
思わず口を抑え、呼吸を整えるように息を大きく吐いた。
土間では村田がゲェゲェ、と嘔吐しており、その奥の囲炉裏の方には人と思われる遺体が三体ほどあったのだ。
大量のハエやよくわからない虫が夥しく飛び回り、蠢いている。
「だ…大丈夫か、村田」
僕は村田の背中をさすりながら、胃からこみ上げる酸っぱさをこらえていた。
「ーーー死体、見ちまった…。あれ、どう見ても腐ってるよ」
「あの人の言っていた、病気で死んだのかもしれない。早く電話を探そう」
僕達は家中あちこち見回したが、電話と思われる物は見つからなかった。
電話というより、冷蔵庫やテレビ等の電化製品が一切置いていなく、代わりに囲炉裏や竈門といった昔ながらの物があるだけであった。
僕達はこの家を出て、他の家にも回ったが同じような状況で、電話もなく、遺体があちこちにあるだけであった。
「やべぇよこの村、全滅してるじゃんか。電話も何もねぇし、どうなってるんだよ一体!」
村田は不安と格闘するかのように、外にあった木箱を蹴ると、うずくまってしまった。
まだ回っていない家もあるが、この様子じゃ恐らく全滅だろう。
途方に暮れていると、集落の奥の方から傘を被った人間が僕達の方へ歩いてくる。
格好から察するにお坊さんであろうか。
ゆっくりと、確実に僕達に近づいてきている。
傘の間から目が合うと、にこりと微笑み、口を開いた。
「あなた達は他所から来たのですか?どうやってここまで来たのですか?」
全く訛りはなく、綺麗な標準語で話すその声はあまりに無機質で冷たく感じた。
「あっ、あの、ここに住んでる人ですか!?大変です、皆死んでますよ!俺達ーーー」
僕と村田が慌てながら状況を説明すると、お坊さんはただ黙って僕達を見つめている。
相槌すら打たず、ただただ、傍観しているようだった。
「何かわからないんですけど、道に迷ってしまって、ここに来てしまって…あっ、そんな事より電話持ってないですか。警察とか早く呼ばないとーーー」
僕の言葉を遮るように、突如お坊さんは口を開いた。
「この村の人達は、重篤な流行病にかかっていて、もう助からないでしょう。ここより奥にも何軒か生き残っている人々もいますが、残念ながら間も無く亡くなります。これは決まっている事です。」
無機質な表情でそう言うと、僕達の顔をじっと見つめた。
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ、まだ生きている人がいるなら助けないと!」
村田が興奮気味にまくし立てたが、お坊さんは眉一つ動かさずこう告げたのだ。
「あなた方はここにいるべき人間ではないのですよ。早く、元いた場所へとお戻りなさい。日没までに戻らなければ、帰り道を失います。」
何を言っているのか理解できなかったが、こんな訳の分からない状況だ。
一刻も早くここから出たい気持ちは事実である。
すると突如、村田が舌打ちをし帰り道とは逆方向へ進もうとする。
「ちょっと村田!何処行くんだよ!」
僕は思わず村田の手を掴んだ。
「何処って、助けに行くに決まってるだろ!その人の言う通り、夜になったら迷って帰れなくなるかもしれないから、お前は先に戻って警察とか呼んでおいてくれ。俺は運べるだけ病人をは運んでおくから」
そう言うと村田は僕の腕を振り切り、奥へと走り去ってしまった。
すると、お坊さんがゆっくりと僕の方を向き、持っていた鈴のついた棒で、シャン、シャンと鳴らす。
「残念です。彼は間に合わないかもしれませんが、あなたはお行きなさい。帰路、御仏の功徳があなたに降りかかるよう、お祈りします。どうかご無事で。」
僕は間髪入れずに、来た道を全速力で走った。
辺りは暗くなりつつあり、枝や葉で身体中擦りむいたが、とにかく走った。
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ーーーそこから先の事はよく覚えていない。
気付いたら、僕は仲間達に抱えられていて、名前を呼ばれ続けた。
ぼやっと視界が開くと、心配そうにしている高野や皆の顔が目に映る。
「コウタ!どうしたんだよ、大丈夫か?」
「あれ…あっ、村田は!?早く警察を呼んで助けを呼ばないと!」
僕の言葉に少し戸惑った高野は、真顔でこう言った。
「村田…って誰だよ?」
話を整理すると、僕は小便が我慢できず、車を停めて藪の中で用を足していたらしい。
しかし戻りが遅い事を心配した皆が、茂みの中に倒れている僕を見つけたのだという。
しかも、僕と村田が進んだ筈の藪の向こうは、集落など無く、キャンプ場だったのだ。
ーーーそして、村田の存在が最初からなかった事になっていた。
全員、村田を知らないというのだ。
さっきまで一緒にいたというのに?
大学も4年間つるんでいたのに?
これには僕は頭がクラクラとした。
その後、仲間達の反対を押し切って警察へ行き事情を話したが、「あそこに集落などない」と取り合って貰えなかった。
結局、当然旅行は中止となり帰路についた。
後日、大学の友人に連絡をとったがやはり村田の存在を知らないのだ。
一人暮らししていた筈のアパートに行けば、知らない名前の表札が掲げられていた。
数日後、それでも納得いかなかった僕は、再びあの場所へ1人で訪れたが、やはり集落はなくキャンプ場になっていた。
子供達の楽しそうな声が時折聞こえてくる。
ーーー村田は一体、どこへ消えてしまったのだろう。
うな垂れるように帰路についている途中、あの時立ち寄った石碑が目に入った。
相変わらず地蔵が横に佇んでいる。
だが、それだけでなく、男がいる事に僕は気付いた。
何やら、タワシか何かでゴシゴシと石碑を磨いているようだ。
僕は思わず車を側道に停めて、降りた。
男は初老くらいであろうか、短く刈り込まれた髪型にヤッケとデニムを着用し長靴を履いている。
僕に気がついた男は、おや、という表情をするとニコリと微笑む。
優しそうな雰囲気が印象的であった。
「こんにちは、ここに人が来るのは珍しいなぁ。何か、御用ですか?」
「あ、いや、前にここを見かけた事があったんですが、何かなと思って」
僕はそう答えると、こんなものに興味あるの、と言わんばかりに目を丸くする。
「あぁ、これはね、慰霊碑なんだ。大昔ーーーそうだな、明治初頭にこの辺りの土地一帯でコレラが大流行してね、人口の2/3は亡くなったらしい」
ーーーコレラ…?
テレビ等で聞いた事はある。
確か感染症の一種で、死亡率の高い菌だ。
男は石碑を見上げ、言葉を続ける。
「当時はまだコレラの特効薬はなかったからね、とにかくたくさんの人が亡くなったんだよ。これは、その慰霊碑さ。ほらごらん、あそこに“虎列刺菩薩碑”って刻まれているでしょう。あれで、”虎列刺(コレラ)”って読むんだよ。」
男の言葉に、突如あの集落の件が脳裏にフラッシュバックされた。
この妙な違和感は何だろうか。
僕は、胸のざわつきを抑えることができなかった。
「この石碑の関係者の方なんですか?」
「うん。私はね、ここで弔われている人間の子孫なんだ。月に何度か、石碑を清めに来ているんだけどね。先祖はコレラ撲滅の為に随分骨を折ったそうだよ。正義感の強い人だったらしくてねぇ、しまいには医者になって、たくさんの命を救ったと我が家では言い伝えられているよ。だから、きちんと手入れはしないとバチが当たりそうでね」
照れ臭そうに笑いながらそう言うと、再び地蔵をゴシゴシと磨き始めた。
「あの、この地蔵はどういう理由でここにあるんでしょうか」
「あはは、おかしな事を聞くね。地蔵の意味ねぇ。これは、コレラで亡くなった人達を象ったものと聞いてるけどね。全部で34体あるんだけど、本当はもっとたくさんいたと思うよ。とにかくーーー」
一呼吸おいて、男は言葉を続けた。
「もうこんな惨事が起きないように、未来永劫、ご先祖達に見守って頂きたいーーーそんな想いがあるんだろうと、私は思ってるよ」
この時、僕の頭の中で思い描いていた仮説が、確信に変わりつつあった。
僕は思い切って、ある事を聞いてみた。
「すみません、失礼かもしれませんが、お名前を教えてもらえませんか」
「私かい?私はねーーー」
この瞬間、僕は頭を何かで殴られたようなーーーそんな強い衝撃を受けた。
まさか、そんな事があるなんて思いもしなかったが、これは紛れもなく現実なのだ。
地蔵に手を合わせて黙祷すると、男もそれに倣った。
「じゃあ、俺帰ります。ありがとうございました。あぁ、あとーーー」
「うん?なんだい?」
「あ、いや、なんでもないです。じゃあ、また。」
僕は頭を下げると、その場を後にして帰路に着いた。
ーーー手を合わせた時、あの時のお坊さんが、あの地蔵と同じ目をしていた事に今更気付いた僕は、何とも言えない気持ちになった。
あの時、村田を引き止める事ができなかった自分を責めていたが、あの時とった村田の行動は轍となり、道標として確かにこの世に存在しているのだと今は不思議と思えるのだ。
窓を開けると、暖かい春の風がやさしく吹いていた。
作者退会会員