以前、飛騨高山南部にある、乗鞍岳に、登山旅行に出掛けた時に体験した話だ。
登山を開始して三時間程立った時の事、俺は丁度良い平らな岩を見つけ、少し休憩をとる事にした。
バックパックを降ろし、中から水筒を手に取ると、それを口に運び中身を軽く流し込む。
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生き返る……
ふぅっと息をついてそう思っていると、
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「置いてけ、置いてけ……その包みにある握り飯、どちらか一つ置いてけ……」
どこからともなく、地の底から這い出るような奇妙な声が響く。
少し生暖かな風が、俺の横っ面をゆるりと凪いでいく。
ゴクリ、と喉が鳴った。
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何だ?誰だ?なぜ俺のバックパックの中におにぎりが二個入っているのを知っている?
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「置いてけ、握り飯、どちらか一つ……」
目の前から聞こえた。
一瞬、視界の先がぼやける。
目をこすりながら、何だ?ともう一度目の前に目を凝らす。
何かが不自然に揺らめく。
巨大な何か、ヒグマぐらいの大きさをした、ほぼ透明のそれは、周囲の景色に半ば溶け込んだ形で揺らめいていた。
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いる、目の前に、巨大な何かが。
そいつが動くたびに、目の前の景色が不意に歪む。
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突然、辺りに臭気が立ち込める。
何だこの臭いは?
ただの獣臭ではない。
それを更に腐らせたような、不快極まる臭い。
思わず顔をしかめていると、
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「置いてけ……」
またもやそいつから声が聞こえた。
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俺は恐ろしくなり、バックパックから急いでおにぎりを取り出し、そいつに投げて寄こした。
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するとおにぎりはすぅっと宙に浮くと、
突如何もない空間から巨大な口が、ぐわっと現れ、浮いていたおにぎりを、ガバっと丸呑みにしてしまった。
一メートル近くはありそうな、獣のような大きな口。
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化け物だ。
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冷たい汗が額を伝っていく。
目がチカチカしだした。
歯の根が合わず、ガチガチと鳴りだす。
震えが止まらない。
心臓がバクバクと鳴り、内側から激しく胸を叩く。
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「置いてけ、置いてけ、包みの中の果物二つ、どちらか一つ置いてけ……」
また聞こえた。
今度は果物。
確かにバックパックの中には、バナナが二房入っている。
ここにいちゃ駄目だ、逃げなきゃ。
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shake
そう思った瞬間、俺はバックからバナナを一つ取ると、それを思いっきり遠くに投げ、投げた方向とは逆の方向に向かって一気に走り出した。
無我夢中。
山間を転がり落ちるように駆け下りた。
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草木が肌に食い込み、引っ掻き傷ができた。
衣服が引っかかり、ビリビリと音を立て破けた。
それでもおかまいなしに走る。
するとまた、
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「置いてけ、置いてけ――」
今度は耳元で聞こえた。
俺は、
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「うわぁぁぁっ!!」
叫び声を上げていた。
瞬間、体が宙に浮いていた。
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崖だった。
正確には浮いたのではない、俺は足を踏み外し、そこから十メートルはある高さから、真下にある川へと大きくダイブしていた。
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shake
川に飛び込むのと同時に激痛が走り、俺はそのまま意識を失った。
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気がつくと、俺はとある病院先のベッドに寝かされていた。
あの恐怖の時より、丸一日経過していたのだ。
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川へと飛び込んだ俺は、下流へとほんの少し流された先で、地元民に発見され救急車でこの病院に担ぎ込まれたそうだ。
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意識を取り戻した俺の右耳は、何か鋭利なものに切り取られたかのように無くなっていた。
崖から落ちた際に、何かに引っ掛けたのだろうと医者は言っていた。
が、俺を最初に発見してくれた地元民の人が後から病室にやってきて、何やら変な事を話していった。
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「今年は山の災害が相次いで山神様のお供えが疎かになっていた……あんたにはすまん事をした、本当にすまんかった」
そう言うと、その人は俺がお礼を言う間もなく、押し黙ったまま病室を直ぐに出て行ってしまった。
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一体何を言いたかったのだろうか、俺には理解できないまま、あれから数年が立ち、無くなってしまった古傷の右耳を見る度に、今でもこれだけは思う。
俺を襲ったあいつは、あの時、多分こう言ったのだろう、
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「置いてけ、置いてけ、お前の耳どちらか一つ、」
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置いて行け、と……
作者コオリノ
何となく書きたくなった山怖第二段です。
手直しなしです、誤字脱字ありましたらごめんなさい。