母が亡くなった。人形作りを生業とする父は、母の死に何も感じないのか、いつものように人形作りに没頭する毎日。
私はそんな父に反抗するかのように大学を休学し、日がな毎日、こうやって鎌倉の町を、何の目的もなく歩いている。
散歩と言えば、少しは聞こえはいいのかもしれない。
まだ早朝という事もあって、行きかう人も少ない。出歩くには丁度良い。
古い町並みを見渡しながら、適当に細い路地に入る。この辺りはまだ一度も来た事がないので、少しワクワクするものがある。
ふと、路地の通りで、一人の男性が瓦屋根をじっと見つめていた。
通り過ぎ様よく見ると、屋根の角に、何か壊れた置物の様な物が目に入った。
思わず立ち止まり見ていると、
「神猿だよ」
じっとその壊れた置物を見ていた男が、突然口にした言葉。
まさる?
人の名前か?
「人の名前ではないよ。神の猿と書いてまさると読むんだ」
「えっ、あ、ああそうなんだ。ていうか私に言ってるのか?」
読唇術でもやってるのかこの男?
「君にはこれが見えるみたいだからね。というか、女のクセに随分口が乱暴なんだな」
「何だ、今度は喧嘩を売ってるのか?」
思わず言い返す。口が悪いのは昔から、父親に何度咎められたか数え切れない。よって今更改めるつもりはないし、こんな訳の分からない男に言われても腹しか立たない。
だいたい見える?何が?この壊れた置物が?
「いやすまん。言い過ぎたな。あんまり女性とは話さないものでね、許してくれ。それより君は、」
「伊織だ。伊織でいい。」
君と言われるのも、あんまり好きじゃない。それに一応は謝ってきたのだから、名乗るくらいいいだろう。
「伊織か、ではそう呼ばせてもらおう。私は水城だ。すぐそこの古書店に住んで、まあそれはどうでもいいか。伊織はこれが何だか気になるのか?」
水城と名乗った男にそう言われ、私は黙って質問に頷いた。
「ふむ。昔から猿は神の使い、魔除けの象徴とされてきたんだ。有名な日吉神社では大神様として祭られている。京都なんかでは、延暦13年、都が平安京に遷都された時、京都の東北の鬼門に比叡山があり、鬼門の山があるのは地相が悪いと反対の声が上がったんだが、比叡山にはすでに日吉大社と延暦寺があり、日吉大社の大神によって守られていることから、この問題は解決し、京都が都に選ばれたという話だ」
「何だか小難しい話だな」
歴史の話は嫌いじゃない、むしろこういった話題は興味もある。が、事細かくなるのは少し苦手だ。
「まあ聞きたまえよ。伊織は、鎌倉という名の由来を知っているかい?」
「鎌倉の?」
鎌倉の由来……そういえば何だ?
思わず顎に手を当て思案する。
「まあ諸説色々あるんだが、その中でも一つ、こんな説がある。日本初代の天皇である神武天皇が、東夷を征服しようと大量の毒矢を放った。すると、その毒矢に当たって一万人以上もの人々が死に、その死体が山となって、あの鎌倉の山ができたという」
男はそう言ってここから見える山を指差して見せた。
男に言われるまま、私は山に視線を移した。
雨雲がゆったりと山の頂に流れている。少しどんよりとした風景。
「その時の戦いで、屍が蔵を作ったので、屍蔵となり、それがなまって、かまくらになったと言われている。あの山は、人々の死体の山でできているんだよ」
男は表情一つ変えないまま、淡々とそこまで話すと、また、先ほどの壊れた置物に視線を戻した。
「えげつない由来だな。観光客が聞いたらドン引きものだ」
口端を歪めて私が言うと、男も釣られるように微笑した。
無愛想な男だと思っていたが、意外と笑いもするんだな。
「ふふ、そうだな。でも私はこの由来、あながち嘘ではないと思うんだ」
「嘘ではないって、あの山が死体の山でできてるって、本当に信じているのか?」
「ああ。この置物はね。日吉神社から分霊された、大神様の御霊の一つなんだ。あの山の鬼門を封じるために、この町の至る場所に据えられていたんだが……」
「それ、猿の置物だったのか?近所のガキ共の投げたボールが当たったとか?」
「普段は人の目に触れる事も、触る事もできないよ。人の方から避けるように作られているからね」
男はさも当たり前のように話すが、正直頭のネジが緩いんじゃないかと思いたくなる話だ。
見る事もできない?なら私の目の前で壊れている猿の置物は何だと言うんだ。
「なら何で壊れたんだろうな。まあいい、私には到底分かりそうにない話みたいだし。昔話、面白かったよ」
私はそう言うと、男を横目に手を振り、その場から再び歩き出した。
このままいけば、話がどんどん明後日の方向にいきそうだ。
「鬼門が破られたと言う事は、道が開けると言う事だ。新たな道、あってはならない道がね……」
去り際、男は独り言のようにそう言った。が、流石に付き合いきれない内容だ。
私は何も返事を返さないまま、歩く速度を少し早めた。
これ以上はあまり関わりたくない。
路地に入ってきた道まで引き返すと、私は左右を見渡した。
来た道とは逆の方には、広い道がある。
自然と足をそちらに向けた。
その瞬間。
──がしっ
と、いきなり後ろから腕を掴まれた。驚いて直ぐに後ろを振り向くと、そこには男だ。先ほどの若い男が、私の腕を掴んでいた。
「なっ何を!?」
私がそう言い掛けた時だった。
「そこは行っちゃいけない」
男の真剣な声。そして私を見つめるその瞳も、さっきとは違い、射竦める様な鋭い光を放っている。
「離せ!」
瞬時にやばいと思った。やはり頭のおかしな奴だ。
生憎とスマホは出歩く時は持ち歩かないようにしている。
通りに出て誰かに助けを。
腕を振り払い振り返る。
だが……。
道が……道が……ない。
さっきまであった道が、忽然と消えた。
見間違などではなく、しっかりとこの目で見た光景が、一瞬で消えた……。
「な、何で……!?」
「言ったろう」
後ろから声が聞こえる、男の声だ。今度はさっきよりも落ち着いた声。いや、さっきよりもどこか冷たいような声。
「鬼門が破られたと言う事は、道が開けると言う事だ。あってはならない道がね。君には見えるようだ、この町の異変が色々と……気をつけたまえよ……」
「き、君と呼ぶな。い、伊織だ……」
思わずそう言い返す、が、男は返事も返さず後ろに向き直ると、その場から歩き出した。
呼び止めようと声を掛けようとしたが、
「神猿とは、魔が去るという念が込められているんだ。だから神の猿と書いてまさると読む。その猿が居なくなったという事は……」
男はそれだけを言い残し、後ろ手を振って、その場を去っていった。
作者コオリノ
少女怪帰→http://kowabana.jp/stories/29796
新作→http://kowabana.jp/stories/29860
手直しまだでーす。ごめんなさい。