夏の暑さに滅法弱い俺は、夏はあまり外出しないようにして猛暑を乗り切るのがセオリーだが、七月に入って早々に、どういうわけかエアコンが壊れてしまい、どうにもこうにも家に居られなくなった。屋敷町なら涼める場所を10箇所以上知っているとはいえ、四六時中そこにいる訳にもいかないので、さっさと最終手段に頼る事にした。
新屋敷の小綺麗な駅前に聳え立つタワーマンション。その最上階に住むある人を訪ねることにした。いかにも高級そうなエントランスのチャイムを押すと、インターホンの向こうで絶句する様子が簡単に想像できた。
「どうも」
『ど、どうして私の住所を』
「前に柊さんに教えてもらったんだよね。暑いからとりあえず中に入れてくれないかな。大野木さん。ついでに冷たい麦茶とかあると最高」
『……柊さんが知っていたのも初耳ですが…どうぞ』
「お邪魔します」
やたら豪華なエントランスを抜け、エレベーターへ向かう。しがない県庁職員のくせにやたら良い住まいである。こちとら薄給で怪異相談窓口の実行部隊をさせられているというのに、この格差はなんなのか。
最上階の角部屋。表札には大野木とあり、普段からきちんと清掃しているのだろう。ドアの縁から窓枠に到るまで埃一つ落ちていない。
呼び鈴を鳴らすよりも早くドアが開く。
「どうぞ」
そういえば私服姿を見るのは初めてだ。いつもスーツにネクタイといった風だが、プライベートもあんまり印象は変わらない。シャツにチノパンというなんとも真面目で面白みのないスタイルだ。なんだ、つまらん。
「びっくりした。なんだよ、まだ呼び鈴鳴らしてないじゃん」
「待ち構えていたんです。さぁ、どうぞ」
「なんでそんなビクビクしてんの?」
「別にビクビクなんてしていません。近所の目もありますから、どうぞ素早く」
「人を腫れ物みたいに扱いやがって」
ぶうぶう言いながら室内へ。靴を脱ぐと、案の定どこもかしこも整然と片付けられていて、スリッパ一つにしても角度まで揃えたみたいに整っている。
「大野木さんさ、彼女いないだろ」
「なんですか。なにを根拠に」
「潔癖すぎて疲れる」
お、少し傷ついた顔をしてる。
「無駄話は結構です。さぁ、どうぞこちらへ。リビングで話しましょう」
「へいへい」
リビングに来てみて驚いた。市内が一望できるとは正にこのこと。さぞや夜景も綺麗だろう。というか、一体何帖あるんだ、ここ。フットサルくらいなら出来るんじゃなかろうか。したことはないけど。
おまけに豪華なオープンキッチン。我が家の汚い旧式のシステムキッチンに比べて、まるでドラマのセットのような空間だ。ここまでくると、正直頭にくる。
「おい、公務員。貴様、県民の血税を贅沢に使いやがって。金輪際、おめーの依頼は受けないからな。あとクーラーでかいな。業務用じゃない?」
「ここは父の遺産で、私が購入したものじゃありませんよ。私の給与でこんなマンションに住める筈がないじゃないですか」
「大野木さんて金持ちのボンボンだったんだな。まぁ、そういう気はしてたよ。庶民とは違うなって。スレてないっていうか、真面目っていうか」
「ボンボンはやめてください。それよりも、本題に入ってください。今日は一体なんのご用件ですか? 突然、家にまでやってくるだなんて」
「いや、大した要件じゃないんだよ。家のクーラーが壊れたから、修理が終わるまでここで暮らすことにしたんだ。それだけ」
よほどショックだったのか。大野木さんは黙ったまま目頭を押さえている。
「……ひとつ、質問してもいいですか?」
「はい。どうぞ」
「私、事前にそのような話を伺っていましたか?」
「いや、つい二時間前にクーラーが壊れて、電気屋を呼んだけど、修理は一ヶ月先だって。その間、あの家でクーラーもなしに生きていくのはどう考えても難しい。なので、ここに来たってわけ。頼りになるよ、ホント」
友達に頼るという手もあるが、男ふたりで暮らすには手狭なのは否めない。おまけに炊事、家事、洗濯全てをこなせる男を、生憎俺は一人しか知らなかった。
「……折衷案があります」
「はいはい」
「私の担当する物件に、現在居住者がいない物件が幾つかあります。家具家電付き、家賃も一切頂きません。期限なしで住んで頂いて構いません」
ははは、悪い冗談だ。
「もれなく心霊物件だろうが。どさくさに紛れて仕事させようとするんじゃない」
「ダメですか。正直に言ってしまって、私は他人とプライベート空間を共有するのが苦痛なんです。友人知人が訪ねてくるのも、正直に言ってしまえば鬱陶しい。どうでしょう。分かって頂けますか?」
「わかる。実は俺もそう。でも、これは死活問題なんだ。だからさ、交換条件」
そう。俺たちはビジネスライクな関係だ。友情だなんだと馴れ合うのは性に合わない。
「大野木さんの所に厄介になっている間は、仕事の依頼を無条件で引き受ける。その代わり、三食昼寝付で厄介になる。まぁ、謝礼はもらうけどな。生活できないから」
「むぅ」
腕を組んで眉に皺まで寄せて悩んでいる。無理もない。俺は基本的に気分でしか仕事を引き受けないし、大野木さん一人でも危険はないと感じたらやらない。あと遠出する仕事も気乗りしないのでパス。俺の他にも柊さんのような凄腕の専門家がいるが、放浪癖が酷いのでまず捕まらない。県内は愚か、国内にいるのかも分からないような人だ。
「確認しても良いですか。無条件でと仰いましたが、一日に何件も入れてもよろしいので?」
「いや、そこは体力的に可能な限り。それから、俺が逃げろと言ったら必ず逃げるのは変わらず厳守してもらう」
「それはどのような場合でも、でしょうか」
「これについては問答はなし。俺が逃げろと言ったらどんな場合でも逃げ出してもらう。大野木さんは特に後者を守って貰いたいね。いつも逃げ足遅いし。条件はこの二つだ、どうする?」
早く決めてくれ、と言いながら中身のない右手の袖を左右に振る。
大野木さんは真剣に悩んでいる。それもその筈。怪異絡みの事故案件というのは減るどころか増加の一途だ。少しでも案件を片付けたいというのが本音だろう。
まぁ、普通は仕事とプライベートは分けて考えるものだが、この堅物公務員はそれほど器用なタイプじゃない。
「分かりました。背に腹は代えられません。申し出を受けます。同棲を始めましょう」
「待て待て待て。同棲とかいうな。気持ち悪い。居候でいいんだよ。ここは」
カップルか。
「では、居候で。どうぞ客間を使ってください。好きにして貰って構いません。私物があるなら運び込んで下さい」
「助かるよ」
「いいえ。助かるのはこちらも同じです。では、早速ですが、県境のトンネルに関する怪異から解決して行きたいと思います。車を回して来ますので、その間に準備を」
テキパキと動きながら、なんだか仕事モードになっている。
「え?」
「早速、ご依頼を。さぁ、行きますよ」
「………」
早まったかもしれない、そう感じずにはいられなかった。
○
大野木さんの車の助手席に寝そべって、思わず欠伸を噛み殺す。
「聞いていますか?」
「はいはい。聞いてる、聞いてます。で、そのトンネルがなんだって?」
大野木さんは神経質にメガネを指で押し上げ、これまた神経質なハンドリングで車を走らせる。さっきからやたら左右へ揺れるのは、山道に差し掛かったからだ。これまた親の遺産らしい高級車には、いささか以上の悪路だ。尤も、乗っている側としては空調も革張りの座席も素晴らしいことこの上ない。飛石でボディに傷がつこうが、知ったことじゃないのだ。
「神隠しのトンネル、と噂されているそうです。曰く人が消えるのだとか」
「前に地下道でもそんな事件があったよね。ああいうのとは別物?」
「はい。場所も造られた年も全く無関係です。あの時のような過去の事件というものも、今回は見当たりませんでした。或いは判明していないだけなのかもしれませんが。ただ、歴史資料館の方に伺ったのですが、このあたりは昔から神隠しが頻繁に起こると言われていた場所のようです。事実、明治期に神隠しに遭ったという記事が残っていました。それから数十年は事件らしい事件もなかったのですが」
「えぇ。嫌だな。危険なやつじゃん」
「以前依頼させて頂いた時には、そういって断られましたから。行方不明になった方は三人。警察にも捜索願いは出ていますが、既に捜索を打ち切られた方もいます」
こうしてみると、つくづく行方不明者というのは膨大にいるのだなと思う。なにもこの街が特に多いという訳でもなく、国中で毎年相当な数の人間が消えている。死体が出てこない、生死不明のまま闇に消える人間は今も昔も一定数いるのだろう。
「件のトンネルですが、現在は落石事故があったということで規制をかけています。しかし、それでも噂を聞きつけた若者がやって来ているようですが」
「まぁ、その類のバカは一定数湧くから仕方ない。封鎖されている先にわざわざ車で乗り入れるような連中だろう? 放っておけよ」
「彼らとてこの街に暮らす県民です。納税の義務を果たしている以上、私の職務が問われます」
「税金なんか納めてるか分かんねーよ」
「消費税も立派な税金です。滅私奉公とまでは言いませんが、自身の能力の範囲内で職務を全うしなければ。それに彼らは怪異が存在することを知らないのですから、無理もありませんよ」
「あのさ、大野木さん。人間ってのは自分の眼で見たことでなきゃ信じられない生き物なんだよ。いる筈ない、そう思っているんだ。で、いざ怪異に囚われると掌返したみたいに泣き言いいやがる。痛い目に合わないと理解できないんだよ」
事故で失った右腕、感覚だけが残った右腕は少しずつ身体を侵している。以前は肩のすぐ下だけが怪異の存在を知ることができたが、最近は右眼のあたりまで感覚が重なっていて、右眼は常に怪異が視えるようになってしまった。鼻まで狂い始めたのか、最近はありもしない匂いを嗅ぐことさえある。
それらは俺にとっては知覚できる現実だが、他の人間にとってみれば知覚できない架空なのだ。
「私も怪異のような心霊現象などは信じていませんでしたが、実際に目の当たりにしたことで、あれもまたこの世界の一部なのだと考えていますよ。ああいう世界もある、のではなく、この世界にはああした側面もあるのだと。だから、私はこの仕事は橋渡し役だと思っています。あなたのようにどちらの世界も知覚できる人物が、その間に立ってくれていることは非常に重要なことです」「俺は仕事だからやってるだけだよ。別にそんな難しいことなんて考えてねー」
「そうですか? 私はそうは思いませんが。あなたはなんのかんのと言いながら、いつも身体を張っているじゃないですか。逃げる逃げると言って、私はあなたが逃げ出した所を一度も見たことがありませんよ」
「買い被りだな。言っとくけど、お世辞言ったって一円もまけてやらないからな」
「ええ。存じておりますとも」
慇懃に言いながら、微笑む姿が腹立たしい。
「そう言えばさ、前から気になってたんだけど、どうして俺のことを『あなた』って言うんだ」
「それはあなたが以前、『上の名前も、下の名前も女みたいで気に入らない』と自分の名前について仰っていましたから。仕事の付き合いをするのですから、相手が忌避していることは注意すべきです」
「まぁな。柊さんくらいだよ。俺のことを名前で呼ぶの」
「あの方は人をからかうのが生き甲斐のような所がありますからね。私も随分とからかわれたものです。まぁ、仙人のような人ですから」
「違いない。湖の上を歩くわ。空に浮かぶわ。闇に溶けるわ。あれで人間っていうんだから、世の中は広いぜ。死んだ木山のおっさんも人間離れしていたけど、ああいうのとはまた違うもんな。どっちかっていうと帯刀老の方が近いか」
「そうですね。なんと言えばいいのか、まだぎりぎり人間、という点では同じなのかも知れませんね。帯刀様には随分とお世話になりました。本当に惜しい方を亡くしたものです」
「帯刀老の葬式に呼ばれたんだろ? どうだった?」
「黙秘します。口外すべきではないかと」
「まぁ、恐ろしい目には遭ったろうさ」
「いいえ。素敵なお葬式でしたよ」
涼しげに笑いながらも、冷や汗が頰を伝うあたり、よほど恐ろしいものを見たらしい。まぁ、あの魔窟によくも一人で出入りできたな、と感心する。俺なら大金を積まれても御免蒙る。
「葛葉さんはまだあの屋敷にいるのかな?」
「さぁ、どうでしょうか。あれから昼間に尋ねたことがありますが、どうしても屋敷には辿り着けませんでした。四十九日にお線香をあげたかったのですが」
「怖いもの知らずにも程がある。あんまりあの山に近づかない方が、」
いいぜ、そう言おうとして、ハッとなる。
「大野木さん。このあたりの山も帯刀さんの管理していた地域だよな」
「ええ。県境に跨る山間地域のほとんどを管理していらっしゃいました」
「あの人が死んで、誰がその管理を引き継いだんだ?」
キィ、と音を立てて車が止まる。その拍子に体が慣性に負けて座席下へ滑り落ちた。
「痛い!」
「ちゃんと座席を立てて座らないからですよ。しかし、あなたの仰る通りですね。山の管理は一体誰がしているのでしょうか」
ここでいう山の管理というのは、国有林がどうこうとかそういう話じゃない。帯刀老は代々、この辺りの山々の霊的な繋がりというか、そういうものを管理していた御仁だ。昔から山は異界と言われるだけあって、人の暮らす世界とは全く違う。人と山の仲立ちをしていたのが、帯刀という人だった。
「そのトンネルの怪異も山の中での出来事だろう。それなら帯刀老に相談すべきだ。でも、もうあの爺さんはいない。誰かが引き継いでいるんだと思っていたんだけどな。なぁ、もしかして山にまつわるような案件って増えていたりする?」
「そう言われてみれば、山岳や山間の川に関するものが多いように思えます。確かに帯刀さんの葬儀の後に報告のあった案件ばかりです」
要は、帯刀老が亡くなったことで、あちこちで歪みのようなものが生まれているということだ。軋轢と言ってもいい。彼も誰かの後を継いだと言っていたから、やはり誰かが引き継がなければならないのだろう。
「問題は誰が後を継ぐのか、だよな。いや、継げるような人間もそうそういる筈がない。大野木さん、前に帯刀老から後継者にって誘われてただろ?」
「私では力不足です、と何度もお断りしました。実際、その通りですから。あの時は葛葉さんも味方して下さって、その話は完璧に立ち消えになりました。葛葉さんが引き継がれたのでは?」
「いや、あの人は善意でこちら側に気を配っているだけで、立場的には完全にあっち側だから。それはない。元々、人に仕えること事態が珍しいタイプだし。まぁ、大野木さんが後を継いでいたら甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたとは思うけど」
「葛葉さんでもないとなると、皆目見当がつきませんね」
「ここで幾ら話し合っていても仕方がないし、とりあえず今日は帰ろうぜ」
なにしろ奥の手が使えないような現状だ。何が起こるか分からない。
「いえ。それはダメです」
「え? でも、何が起こるかわからないぜ?」
「それは今に始まった事ではないでしょう。それに今まで帯刀様の力を貸して頂いていたのが僥倖だったというだけで、これからは我々で解決していくしかないという事ではありませんか」
「まぁ、そりゃあそうだけど」
我々というけれど、正直言って大野木さんは戦力にはならない。見届け人程度の話だ。助けて貰ったことがない訳ではないけれど。最初から宛にするのも違う気がする。
「こうしている内にも、新たな被害が出ているかもしれません。急ぎましょう」
さぁ行くぞ、とばかりに急発進する車の中で、俺は思わず呻いた。
●
『落石事故発生! 現在、封鎖中!』と赤文字で書かれた看板を横にどかし、先に暫く進むと件のトンネルが見えてきた。道路の左右には杉林が広がり、山間にいるせいか、風が背筋にくるほど冷たい。遠くで油蝉の鳴き声が聞こえる。時間はまもなく夕刻、俗にいう黄昏刻というやつだ。怪異というものをより見易く、遭遇しやすいよう、波長が合うようになる時間帯だ。
「さ、さぁ! 行きましょう」
「はいはい」
別に二人で車に乗って行かなくてもいいのだが、聞けば割と長いトンネルらしいので徒歩は避けたかった。それに車という遮蔽物に身を隠せるのは精神的にも安心できる。
トンネルの入り口には『狭間トンネル』とある。いかにも嫌な予感がする命名に思わず苦笑した。勿論、大野木さんには黙っておく。ガチガチに緊張しているので、パニックになったら猛スピードでトンネル内を暴走、勝手にスリップして自損事故になりかねない。
「しかし、怖がりの癖によくも毎回こうしてついてくるよな。感心する」
「仕事ですから」
真面目すぎる。俺ならこんな職場、とっくに辞めている。なにしろ、対処する方法を何一つ持っていないのに、こんな場所にやってこなければならないのだ。使命感といえば聞こえはいいのだろうが、大野木さんは少しその辺りがおかしい。
「ゆっくり進んで。あとライト点いてないぜ?」
「あ、ああ! はい! 点けました!」
「よし。ゆっくり行こう。異変を見つけたら言うから。止まるか、進むか指示する。冷静にな。Uターンできなければバックで戻ろう」
「わかりました」
徐行速度で真っ暗闇のトンネルへと侵入していく。夕暮れ時とはいえ、幾ら何でも暗すぎる。
トンネルの中に入った途端、蝉の音が遠くに消えた。ライトで照らされた数メートル先の他には、何も見えない。右も左もぼんやりとしか見えず、もし誰かが倒れていたりしても気づけるか怪しいほどだ。
二人で押し黙ったまま、あたりを見渡しながら進み、しっかりと十五分以上の時間をかけてトンネルを出た。トンネルの先にも異変はなく、手入れされていない道路のひび割れから草が生えていたりするくらいで、特に何もない。
「何もありませんでしたね。なにか視えましたか?」
「いいや。何も」
「おかしいですね。やはり一度では難しいのでしょうか。それとも車だったのが原因?」
「まぁ、徒歩なら隅々まで探せるけど。相当な距離があったぜ。今からやってたら夜になる。流石に分が悪いよ」
「そうですね。わかりました。とりあえず現場の写真だけ撮影しておいて良いでしょうか?」
「ああ。詳しいことは明日にしようぜ」
わかりました、そう言ってカメラを手に車を降りた瞬間、大野木さんの姿が消えた。消えたというよりも、落ちたように視えた。
「大野木さん?」
慌ててドアを開けて下を見たが、アスファルトがあるだけで特に異変はない。だが、大野木さんは間違いなく地面に呑み込まれた。
「ああもう。早速、失踪してるじゃないかよ! 悲鳴の一つでもあげればいいのに。世話の焼ける相棒だな、ホント」
本当にあの人はなんというか、怪異に好かれる体質というのか。柊さん曰く『三歩歩けば怪異に遭う、おもしろい人』と言われる程だ。実際、柊さんは大野木さんを餌扱いしていたけれど、なるほど確かに間違いない。
車の反対側に回り、周囲を見渡す。特にこれといって異変はないが、人が一人消えているのだから異変がない筈がないのだ。
右眼で視る。ただ眺めるのではなくて、注意して視る、という感覚に近い。右眼が鈍く熱を帯び、視界が歪む。感覚だけの右腕で地面に触れると、柔らかく弾力のある感触に押し返された。よく視ると、そこはトンネルの影が差していて、そこがちょうど大野木さんが降り立った場所と重なっていたらしい。つくづく運が悪い。
右手の感覚を研ぎ澄まして、ゆっくりと指先を差し入れる。冷水に近い感触に、思わず背筋が粟立つ。この世でもなければ、あの世でもない。そういう間のような空間が、思っているよりもずっとこの世界にはあるのだ。
肩のあたりまで差し入れたが、これ以上は駄目だ。届かない。
指先であたりを探るが、感触もない。
陽は暮れ始めている。おそらく、この影が消えたら繋がりも絶たれてしまうだろう。
大野木さんも間抜けではない。
自分の仕事をしている筈だ。
●
私は音もなく地面に呑み込まれました。
悲鳴をあげる暇もなく、本当になんの抵抗もなく、まるでバランスを崩してプールに落ちたかのようでした。問題は、落ちた先が安全なプールなどではなく、異界ともいうべき場所だったことでしょう。
そこは一見、小さなトンネルのようでした。私が立って歩くのが精一杯という程度の高さしかなく、丸い水路のようにも見えます。コンクリートではなく、古い煉瓦作りの下水道のような所でしょうか。
「誰かいませんか!」
声をあげても、返事はありません。彼の名前を叫んでみようかとも思いましたが、極端に名前を呼ばれるのを嫌がるのでやめました。
携帯電話は圏外、一か八かで通話を試みましたが、受話器の向こうから刃物を研ぐような不吉な音が聞こえてくるだけでした。二度とかけない方がよいでしょう。
「大丈夫。慌てる必要はない。私は冷静だ」
自分に言い聞かせて先に進んでみることにしました。理由は二つあります。一つは同じ場所にいても仕方がないこと。二つめは動いていないと叫び出してしまいそうだったからです。
これまでにこういう事態には何度となく遭遇してきましたが、いつになっても慣れません。恐らくは慣れるような人はいないでしょう。楽しめる人なら何人か心当たりがありますが。
問題は、この水路はどこに続いているのか、ということです。
前後のどちらかにしか進めない以上、私はとりあえず前進を続けます。どこかに出口があれば良し。なければ反対側を探るだけです。万が一、どちらも行き止まりであった時のことは考えません。絶対に考えてはいけません。
どれほど歩いたでしょうか。時計の針は微動だにしていません。およそ五千歩ほど歩いてみましたが、まるで景色が変わらないので感覚がおかしくなりそうです。
汗を拭い、上着を脱いで膝の上で畳んでから胸に抱え直します。こんなことになるのなら、装備一式の入ったリュックを背負っておくべきでした。まさか運転席を降りた瞬間に、地面に呑み込まれるとは思いもしなかったのです。
水は進行方向へ流れていっています。つまり、必ずどこかに繋がっているということです。そして、生存者がいるのならそこにいる可能性が高いとも言えます。どうやらここは時間自体が傾いでいるのでしょう。問題は、どのように傾いているのかですが。
ふ、となにか聞こえたような気がして顔を上げると、水路の先から光が左右に揺れているのが見て取れました。おーい、と複数の男女の声が聞こえてきます。
立ち上がり、携帯のライトで応じると声が大きくなりました。生存者です。
駆け寄ってきたのは三人の男女で、それぞれ失踪したとされる人物の特徴と一致します。
「あんた! 大丈夫か! どこから来たんだ!」
「あなた方を探しにやって来ました。県庁職員の者です」
「県庁? 警察じゃなくて?」
「はい。皆さん、とりあえず無事でなによりです。どなたか怪我をしている方はいらっしゃいますか? あるいは気分が優れない方は?」
「こんな場所で気分が優れる訳ないじゃない。あなた、一体どこから来たの? 私たち、もう丸一日くらい歩き続けているのに、どこにも出口が見つからないの。あなたが来た方角には何かあったんじゃない?」
丸一日。なるほど。彼女たちの主観時間はその程度しか流れていないのですね。
「私も水路の途中のような場所にいたので、とりあえず前方に歩き続けていたら皆さんにお会いした次第です」
「あのう、私たちを探しに来て下さったということは、帰れるんですよね?」
「はい。戻ることは可能です」
よかった、と三人が胸を撫で下ろすのを見ながら、私は自分の言葉が嘘にならないよう努めようと思いました。
「で、どこから帰れるんだ? そもそも此処はなんなんだ?」
「断言はできませんが、時空が捻れているのだと思います」
「時空?」
「はい。以前にも似たような事件に遭遇した経験からの仮設ですが。時空、つまり時間と空間です。その時には地下道という空間はそのままでしたが、時間軸が捻れていた為に被害者がその場に残されていました。今回の場合、トンネルという場所から空間軸、時間軸のどちらも捻れているのだと思います」
「つまりなんだ。ここはあの世とか、そういう場所じゃないってことか?」
「はい。簡潔に言いますと、時間と空間がずれた場所です。狭間のようなものでしょうか」
「ちょっと待ってよ! そんな場所からどうやって出るっていうのよ!」
「方法はあります。私の相棒が最善を尽くしてくれている筈です。彼はこういう事態の専門家です。大丈夫、何も問題はありません」
「専門家? 霊媒師か何かか?」
「そうですね。霊能者という方が近いでしょうか」
「県庁の職員がどうしてまたそんなことをしてるのよ」
その疑問は当然でしょう。他ならぬ異動の辞令を受けた私自身が、一番最初に感じたものでもあるのですから。
「皆さんの生活の狭間で、あるいは皮一つめくった裏側で、こうした事態が日常的に起こっています。総称として怪異と呼んでいますが、今回皆さんはその騒動に巻き込まれてしまわれたのです。我々、特別対策室はこうした事件を解決することを目的としています」
「ダメだ。訳わかんないわ。信じられないし」
「そうか? 俺はなんか納得したわ。確かにこれは怪異現象だもんな」
「あの、私も信じます」
「有難うございます。質問なのですが、皆さんはあちらからいらしたのですよね。向こう側に何か変わったものはありませんでしたか?」
「別にこれといって何があったわけでもないな。ずっとこの面白みも何もない景色が続いているだけだよ。一人でいる間は気が狂いそうだったぜ」
「私もよ。携帯も使えないし。車に乗ってトンネル通ったら、私だけ下に落っこちたの」
「あ、私もです。大学のサークルのみんなでやって来て、なんでか私だけ落っこちるみたいにここに来て。お二人がいなかったら、今頃どうなっていたか」
出入り口のようなものはない。ただ、落ちてきたという状況だけが類似している。つまり、ここになんらかの手がかりがある筈です。
「私もです。まるで落とし穴に落ちたかのように、音もなく飲み込まれました。トンネルの下に」
ふ、と奇妙なことに気がついたのは、どうやら私だけでないようでした。
「トンネルの下?」
水路の天井部分を見上げると、水が反射して光の模様が写っています。しかし、ここはトンネルの下。光源はどこにもないのです。ランプも電灯も。当然、陽の光が届く筈がない。
「ホントだ。どうして光源もないのに、こんなに明るいのかしら」
「確かに。おかしいよな。どこからきてるんだ、この光」
「もしかすると……」
水路の中央を通る水の中を覗き込み、私は思わず声をあげました。水面に映る影、その中に見覚えのある蒼白く光る腕が見えたのです。
顔を上げ、天井に手を伸ばすと、見えない手が私の手首をしっかりと掴んできました。水面に視線を移すと、彼の右腕が私の腕を掴んでいるのが見えます。
合図するように二度見えない手を叩くと、しっかりと感触が返ってきて奇妙な感覚です。
「ここです! さぁ、早くこっちへ!」
最初の女性に水面を指差し、天井から伸びる見えない腕を掴ませると、予想通り悲鳴をあげました。
「な、なんですか、これ! 掴んでる! 誰か掴んできてます!」
「心配いりません。これが私の相棒ですから」
腕を三度叩くと、こちらの意思を汲み取ってくれたのか、ゆっくりと女性の姿が天井へ飲み込まれていき、やがて視えなくなりました。そうして、すぐにまた腕が現れます。慌てているのか、腕が「急げ!急げ!」と忙しなく動いています。
「だ、大丈夫なのよね? 信じるわよ! ほ」
本当に、と仰いたかったのでしょう。言葉の途中で、彼女の姿も消えました。
「さぁ、貴方で最後です」
「ああ。有難う! 戻ったら礼を言わせてくれ。あんたらは命の恩人だ」
「いえ。これが仕事ですから。さぁ、急いで下さい」
男性の姿が消え、ようやく私の番になりました。
目には確かに見えないのですが、しっかりとした感触が私の腕を掴みます。ぐい、と体が浮き上がった瞬間、上下が反転し、視界もまた暗転しました。
私は気絶したようです。
○
成人を四人も片手で持ち上げる羽目になり、俺は気絶した四人の傍で息を切らして横になっていた。トンネルの内部なら右腕が使えるが、こっちに引きずり出した途端、左腕だけで持ち上げなきゃならないのは参った。
とりあえず四人とも命に別状はないらしい。どういうわけか、どいつもこいつも悠長にイビキをかいてやがる、呑気なものだ。
その中でもとりわけ悪夢に唸れされていますといった顔の大野木さんを足で小突く。
「おい。起きろよ。大野木さん。鼻に小石詰めるぞ」
ぐぉ、と唸ったきり目を覚まさないので、手近の小石を鼻に詰め込み、とりあえず警察に通報することにした。県庁の特別対策室の名前を言っただけで救急車も手配してくれるというので向こうも慣れたものである。
陽が暮れ、群青色の空を眺めながら、ぼんやりとトンネルの中に立つ着物姿の老人を視る。
帯刀老だ。
「死んでも山ん中にいるのかよ。さっさと成仏したらいいのに」
何も言わず、ただ穏やかに微笑む姿がなんだか懐かしい。なんとなくだけれど、被害者たちの時間が流れていなかったのは、あのお人好しの爺さんの仕業だろう。なんだかんだと言いながら、あの御仁は人間に甘い。
「爺さんがいなくてもなんとかやってる。まぁ、後継者がいないのは困るけど。とりあえずは俺たちもどうにか足掻いてみるさ。爺さんは大野木さんを後継者にしたかったんだろうけど、この人はダメだ。これ以上、こっち側に来ないようにしとかないとな。俺みたいに後戻りできなくなる」
帯刀老は一度だけ頷くと、やがて闇に溶けるようにして消えた。
「あー、終わったー」
ごろり、と固いアスファルトの上に横になると、遠くでひぐらしの鳴く声が聞こえてきた。なんだか泣きたい気持ちになったので、なんとなしに大野木さんの眼鏡を持ち上げたらレンズが落ちて割れた。
「…………」
そっと眼鏡を戻すと、酷く間抜けな顔に見えた。
それから暫くして警察が来て、救急車がやって来て気を失ったままの三人を搬送していった。起きても暫くは混乱しているだろうから、病院側がうまく夢だったということにでもしてくれるだろう。どうせ二度と俺たちに会うことはない。
大野木さんを叩き起こし、十分に意識がはっきりするのを待ってから俺たちも家路についた。不思議なことに大野木さんはトンネルの中で起こったことを何一つ覚えておらず、気がついたら鼻に小石が詰まっていて、おまけに眼鏡のレンズがなくなっていたと嘆いた。
「一体我が身に何が起きたのか、皆目見当がつきません。事件は無事解決したというのですから、別に問題はないのですが」
車をマンションのガレージへ駐車しながら、大野木さんが不平を漏らす。確かに腑に落ちない気持ちも分かる。
「まぁ、割と今回は活躍したんじゃないの? 覚えてないだろうけど」
「お役に立てたのでしょうか。正直、何が何やら」
「そういや、帯刀老を視たぜ。あの爺さん、まだ山にいるらしい」
「それは、成仏できていないということですか?」
「どうなんだろうな。大野木さんの話じゃ、葬式も普通じゃなかったんだろ?あんたの顔でも観に来たんじゃねぇの」
あの御仁は殊更、大野木さんのことを気に入っていた。数ある知人の中から、ただ一人自分の葬儀に招くほどに。正直、少しだけ嫉妬していたりする。勿論、言わないけど。
「そうでしたか。残念です。一目、お会いしたかった」
部屋に戻ると、どっと疲れが出たのか、家主そっちのけで高級ソファへ飛び込む。このまま眠れそうだ。
「今日はありがとうございました。明日も頑張りましょう」
「え。明日もやんの?」
「勿論です。お仕事ですから」
それと、と大野木さんがスーツを壁にかけながら、ネクタイを緩める。うーん、なんともサラリーマンっぽい仕草だ。俺には当分真似できそうにない。
「これから我が家に居候なされるのですから、なんとお呼びすれば良いですか?今まではあえて名前で呼ぶことを避けていましたが、やはり不便です」
「いや、だから俺は自分の名前が嫌いなんだって」
「可愛いじゃないですか。桜くん、それとも千早くんが良いですか?」
ああ、とうとうこの時がきたか。今までずっと忌避してきたのに。
「どっちでもいいよ。もう」
「そうですか。でしたら、千早くんとお呼びします。うん、良い響きだ」
「大野木さんはいいよな。男らしい名前で。なんだよ、龍臣って。戦国武将か」
「父の名前が利臣ですので。一文字もらったそうです。千早くんも、桜という苗字は似合いますよ。可愛らしくていい」
にっこりと微笑む。嫌味でもなんでもなく、あの顔は本気でそう思っている顔だ。忌々しい。
「女ならいいだろうけどよ。男だぞ、俺」
「それも個性かと。では、これからよろしくお願いしますね。千早くん」
「兄貴風吹かせやがって。まぁ、こちらこそ宜しく頼んます」
握手を交わしながら、妙に気恥ずかしくなる。
こうして相棒と生活するっていうのもベイカー街の探偵とその助手みたいで悪くないかもしれない。
犬でも飼うかな。
作者退会会員
新作になります。
徐々に終盤で向けて収束していく予定なんですが、今回はその前の小休止みたいな話です。