リビングのソファでだらしなく漫画を読んでいると、遠雷のような腹に響く音が聞こえてきた。窓の方に目をやると、いつの間にかすっかり日が暮れてしまっている。時計を見ると、もう午後八時を回っていて驚いた。
携帯に目をやっても着信の履歴はなし。夕食の材料を買いに大野木さんが出かけて行ったのはもう二時間以上前のことだ。いくら何でも遅過ぎる。駅に隣接した百貨店なら一時間もあれば買って帰って来られる筈だ。
「腹減ったな。どこで道草食ってるんだ」
試しに携帯へ電話をかけてみると、呼び出し音が繰り返されるばかりで応答がない。携帯していない携帯電話など捨ててしまえ、とも思うが、考えてみれば俺の方が大野木さんの電話を無視していることが多い気がする。
せっかちな性分なのでここで苛立ちながら待っているよりも、探しに出かけることにしよう。あわよくば寿司でも食いに行けるかもしれない。勿論、大野木さんの奢りで。
そう悪巧みしていそいそと身支度を整えていると、汗だくの大野木さんが帰ってきた。
「ただいま帰りました」
「おお、おかえり。なんだよ、えらい遅かったじゃん」
大野木さんは買物袋をキッチンへ下ろすと、テキパキと中身を冷蔵庫へ収めていく。冷たい麦茶の一杯でも飲んで一息つけばいいのに。
「千早くん。今日は夜祭りが水天宮で催されていますよ。失念していました」
「ああ、それで遅かったのか」
「予想していたよりも大勢の人間で賑わっていました。花火も上がっていますよ」
「嘘!」
慌ててテラスへ出てみると、確かに鎮守の森の向こうで大きな花火が派手に打ち上がっていた。
「流石はタワーマンションの最上階。下で眺めている時は妬みで燃やしてやりたかったけど、最高だな。窓を閉めると音がほとんど聞こえないのか。どうりで気づかない筈だ」
「私も失念していました。ここの所、かなり忙しかったですから」
「今日も休みがなかったら失踪してたよ、俺は」
「十分な休暇になりましたか?」
「一日中、エアコンの効いた部屋で音楽聴きながら漫画読んだり、映画見たりしてたからな。気力も十分」
「それは良かった。千早くん、このまま祭りに行きませんか? 露店で食べるものを買って帰るのも悪くないかと」
「そいつは夏らしくていいね。大野木さん、もう出られる?」
「はい。懐中電灯だけ用意して行こうかと」
懐中電灯?
「ちょっと待った。祭りに遊びに行くんだよな。夕食の買い物がてら」
「千早くん。夜の縁日は危険だと前に言っていましたよね。特にこの時期はよくない、と。境界が曖昧になる、と。仕事だと受け止めてもらわなくても構いません。パトロールのようなものです」
「うわ、真面目すぎて引くわ。今日はオフだろ? 楽しもうぜ。縁日行って、花火見て、ビールと焼きそば買って帰ればいいじゃん。なんでわざわざ仕事にするんだよー」
ああもう、嫌な予感しかしない。盆前の夜祭りなんて怪異に遭わない可能性の方が少ないじゃないか。
「縁日の買い物はすべて私が負担します」
「本当だろうな」
「はい。誓って。大好物のりんご飴を最初に買います」
なんで俺がりんご飴好きだって知っているんだよ。一体どこで聞いたんだ。
「ひとつだけ。無害そうなやつは無視するから。どうせ色々混じり合ってるし、怪異を見かけたくらいじゃ何もしないからな。死者が帰ってくる時期でもあるし」
「ありがとうございます。では、行きましょう」
エレベーターの中で大野木さんはなんだか嬉しそうにしていたが、こっちは憂鬱で仕方がない。仕事のオンオフはしっかり分けて貰いたい。さっさと片付けて花火を見て帰ろう。
マンションを出た途端、むせ返るような夜の暑気に思わず唸る。サウナよりも暑苦しい。
「前言撤回してもう帰ろうぜ。蒸し殺される」
「こまめに水分補給をしながら適度に塩分も取れば熱中症の心配はありませんよ。正門へ向かいますか?」
「うん、どうせなら正門から入ろうぜ。そっちの参道の方が出店も多いし、人の流れも速いだろうから」
「では、正門から入って拝殿を抜け、南門から帰るというのでどうでしょうか。境内にも露店はありますから、どこもそれなりに人は多い筈です。ここは見ておくべき、という場所はありますか?」
「それは怪異が出やすいって意味?」
「はい」
「神社の境内、鳥居の向こう側ならどこでも怪異に遭う可能性はあるよ」
「ご神域なのに?」
ああ、なるほど。そういう誤解の仕方をしてるのか。
信号待ちの人で賑わう中、大野木さんがこまめにハンカチで汗を拭っている。俺みたいにスポーツタオルを首から下げとけばいいのに。
信号が青に変わり、人混みに紛れながら参道をゆく。
「神社の結界っていうのは悪い物が入ってこないように、というよりも中のものを外に出してしまわないようにて意味合いの方が強いんだ。結界っていうのは外界との遮断を意味するだけで、どっち側に危険な物があるかは分からない。神社なんだから、鳥居の向こう側の方がよっぽど危険だろ。何しろ、日本の神様なんて元は祟神も大勢いるからな」
「つまり逃げ道はない、と?」
「そういうことじゃなくて。中は特別ってことだよ。おまけに盆前の夜祭り。拝殿に近い方が危険だと思うけどな」
「わかりました。では道順は変えず、正門を通って南門へ抜けていくことにしましょう。何か異常を視たなら教えてください。どんな些細なことでも」
「へいへい」
巨大な石造りの鳥居を潜る。不意に、鳥居の上に翼の生えた人のような者が視えたけれど、瞬きをするとすぐに視えなくなった。振り返ってもやはりそこにはもう何も視えない。
「どうかしましたか?」
「いや。何も。あ、りんご飴! 買ってくれよ」
露天に並ぶりんご飴を見て、思わず笑みが溢れる。誰になんと言われようが、祭りと言ったらりんご飴だ。りんご飴のない祭りなんて祭りじゃない。
「一個でいいのですか?」
「一個あれば十分。他のも食うし。あ、そこの右から二番目のやつな」
他人の金で食うりんご飴は尚のこと美味い。バリバリシャリシャリと噛み砕いて歩いていると、大野木さんがくすくすと笑うので肘で小突く。
「なんだよ。大野木さん。文句ある?」
「い、いえ。美味しそうに食べるな、と」
「当たり前だろ。美味しいのを選んで買ってるんだから」
「そういえば選んでいましたね。何か違いがあるんですか?」
「大有りだ。りんご飴は中身のりんごが不味いと最悪だ。だから、ちゃんとしたりんごを使って、なおかつ腕のいい職人の作ったやつを食べないとダメ」
「そういえば、中のリンゴはあんまり美味しいと感じたことはないですね」
「齧ってみろよ。ほら、一口。一口だけな」
「はい。……おお、これは甘くて美味しいですね」
「美味いりんご飴を見分けるコツがあるんだ。まず気泡がついてること。甘くて美味しいりんごの種類で『ふじ』ってのがあるんだけど、気泡がついてるやつはほぼ間違いなく中身が『ふじ』なんだ。で、あと耳があるやつだけを選ぶ」
「耳?」
みみ、と言って咥えたりんご飴の頭の羽みたいになった部分を指差す。
「これが大きくなってるのは職人の仕事。さっきの屋台、若い兄ちゃんと爺さんがいたろ? で、若い兄ちゃんが作ったのには羽がなかった。あの中で一番羽が大きかったのがこいつなんだよ」
「よっぽど好きなんですね。りんご飴」
「まぁ、思い出の味だよ。子供の頃からずっと食べてるし。大人になったら食べなくなるかな、とか思ってたんだけど、まだまだ好きだな。多分、死ぬまで食うと思うわ」
最近の露店は種類が増えて、なんだか異国情緒があっていい。
「そういえば私が幼い頃は、祭といえばサーカスが来ていました」
「え! サーカス?」
「はい。祖父の家が田舎にあったんですが、縁日には必ずサーカスの一団がやって来ていましたね。かなり幼い頃の話ですが。空中ブランコや軟体芸など、本格的で面白かったのをよく覚えています。小学生に上がることにはいつの間にか来なくなってしまいましたが」
「そういえば帯刀老に似たような話を聞いたことがあったな。縁日にしか見れないやつ…なんだっけ、見世物小屋?」
「ああ、見世物小屋。流石に私も見たことはないですね。祖父や父の子供時代の話でしょうから」
「俺が子供ん時はクジ屋でゲーム機狙って返り討ちにあってたなあ。どういうわけか、表の景品が当たった試しがない。よくわからない商品が裏から出てくるんだよな。あれってどうなんだ。公務員的に。詐欺なんじゃない?」
「無粋なことは言いっこなしでしょう。私もこう見えて、紐クジに当時貯めていたお年玉の残額を全て溶かされた経験がありますが、あれも社会経験です。成人すれば手を出すことはありませんし、あそこの夢に目を輝かせた少年たちそのものがクジ屋の醍醐味かと」
そんな他愛のない会話をしていると、大野木さんの肩が浴衣姿の女性にぶつかった。
「あ、すいません」
慌てて駆け寄ると、その女性は顔に狐のお面を被っていた。この先の盆踊りの会場からやって来たらしい。
「大丈夫ですか? 余所見をしていました。申し訳ありません」
相手はこくん、と頷くと立ち上がって、そそくさと去って行こうとする。
「お待ちを。怪我はありませんか」
引き留めようとする大野木さんの手を引く。
「いいから。あんまし話しかけないの。向こうも驚いてたろ」
「ですが、ぶつかってしまったのは私の落ち度です」
「いや、そうじゃなくて。あれってお盆でこっちに帰って来てる霊だから。放って置いていいの」
潮が引いていくように、大野木さんの顔が青ざめていく。
「え? つ、つまり幽霊ということですか」
「お盆なんだから別におかしなことじゃないだろう? 盆になると向こうから帰ってくるんだ。おまけにここは神社だぜ。ほら、さっきからお面をつけた人をあちこちで見かけるだろう。あれ全部って訳じゃないけど、かなりの数がお盆に帰って来た故人だぜ」
「ほ、放置していてもいいんでしょうか」
「野暮なこと言うなよ。誰に迷惑かけるでもなし。別にいいじゃん」
「そういえば柊さんに聞いたことがあります。盆踊りは元々、お面をつけてするものだったと。お盆にこちらに帰ってきた人と見分けがつかないよう、そうしていたのだと」
お盆やお彼岸という時期は街中で霊を見かけることが多い。俺の場合、右眼は怪異を視ることができるけれど、左眼はそういうものは見えないので、すぐにそれが故人の魂だと分かる。でも、右目だけで見ていたならきっと幽霊とは思わない筈だ。それほど生きている人間との差異がない。
「そういえば花火は前半と後半で別れてるらしいね。さっきの看板に書いてあった」
「そうですか。でしたら、後半が始まるまでにパトロールを終わらせてしまいましょう」
「焼きそばとかタコ焼きは?」
「終わった後にしましょう。まずは仕事を」
終わらせてから、と言った大野木さんの前を学生グループが遮る。そして、彼らが去った後、大野木さんの姿は忽然と消えていた。辺りを見渡してもそれらしい人影はない。
「……頼むぜ、おい」
どうやら何かに巻き込まれたらしい。
●
ほんの僅かな時間でした。目の前を学生が二、三人通り過ぎたかと思うと、千早くんの姿はどこにもなく、そればかりか何だか自分が酷く奇妙な場所に紛れ込んでしまったことに気づいたのです。
そこは夜市でした。提灯が真っ直ぐに伸び、その下には様々な露店が並んでいます。屋号を見ると日本語ではないのか、どこかの象形文字のようで全く読むことができません。ただ何と無く人間の目だの舌だのが記されているようでした。
「これはいけない」
私は震えそうな自分の膝を叩くと、とにかく道の脇へ避けました。往来が激しいので、どいておかないと危険だと思ったのです。しかし、よくよく観ると往来を行き来しているのは人間にどこか近い姿をした異形ばかりで、一言で言ってしまえば化け物でした。
石畳だった足元は夜の闇のように暗く、地面の感触こそあるものの、何があるのか何も見えません。露店の奥は林があるようですが、木々の幹が暗闇に淡く白い光を放っていました。
私はなるべくパニックにならないよう自分を律しながら、とにかく顔を隠すものが欲しいと思いました。
夜市を見渡すと、なんだか奇妙なお面ばかりを背負っている小柄な男性がいました。
「あの、すいません」
「へい。何かお探しで」
「お面を売っているのですか?」
「他の何を売れって仰るんで? あたしはしがないお面屋です。はて、お前様の顔はどこかで見たような気がするんだが、初対面ですかね?」
「私は初対面だと思うんですが」
「まぁいい。大事なお客様だ。ケチがつくと良くない。さぁ、どれにします?」
言われてはみたものの、かけられたお面はどれも動物やら苦しげな顔をしたお面ばかりで、なんだか薄気味が悪い。
「あの、やっぱり結構です」
「馬鹿を言いなさんな。冷やかしだったのかい」
「いえ。こちらの求めるものがそちらにはなかっただけのことです」
「待ちなさいよ。ほら、この男のお面はどうだい? 恋人を質に入れてまで賭け事に狂った男の面だ。この表情がいいだろう。それともこっちの女のお面にするかい? 我が子を五回も間引いた業の深い女だ。罪深い顔をしてやがる。なぁに、お代は後でいいんだ。旦那が気に入ったなら払ってくれりゃいい」
「いや、ですから」
「それにね。あんた、人間だろう。こっち側の市に来て無事に帰れると思ってるのかい。ここで素顔を晒すのは、魂を晒しているのと同じことだよ。悪いモノノ怪に齧られる前に、ほら、このお面を顔につけて。そうすれば浮世の憂さも何もかも忘れられる」
手渡された男の面。今にも叫び出しそうな苦悶の表情に、頭の奥がじんと痺れる。そうだ。これは仕方のないことなんだ。
そっと顔に近づけた瞬間、ひょいとお面が取り上げられた。まるで酔いから覚めたようでした。
「あ! テメェ何しやがる!」
顔を上げると、そこには友禅の着物に身を包んだ葛葉さんが立っていました。にっこりと微笑み、こんばんは、と鈴のような音色で答えます。
葛葉さんの顔を睨みつけた瞬間、お面屋の顔色が彫刻のように固まっていくのがよく分かりました。蛇に睨まれた蛙、いえ、この場合は狐に睨まれた蛙でしょうか。
「疾く失せなさい。二度とこの方に近づいてはいけませんよ? そうでないと頭から食べてしまうから」
お面屋はひったくるようにお面を取ると、まるで背中に火でもついてるかのように転げながら逃げ去って行きました。
「ご無沙汰しております。大野木様」
「葛葉さん。助けて頂いて有難うございます。帯刀老の葬儀以来ですね」
「はい。何時ぞやは無事に帰られたようで何よりでございます。それはそうと、そのままでは都合が悪うございます。どうぞこちらのお面を」
手渡されたのは白狐のお面で、触るとなんだか暖かい。
「有難うございます。では遠慮なく」
「警戒なさらないのですね。私の正体はもうご存知でしょうに」
「葛葉さんには二度も命を助けて頂きましたから。いえ、もしかすると千早くんと二人、今まで何度助けて頂いたのか分かりません。私は葛葉さんを尊敬し、信頼しています」
くすくすと葛葉さんは笑って、お面の紐を結んでくれました。
「今日は桜様は御一緒ではないのですね」
葛葉さんは千早くんのことを苗字で呼ぶ数少ない方です。彼は苗字で呼ばれるのを嫌がるのですが、葛葉さんに呼ばれるのは渋々了承しているという節があります。二人の関係は私よりも古く、私には姉と弟のように見えたものです。
「いえ。一緒にお祭りに来ていたのですが、どういう訳かはぐれてしまって。私だけがここに来てしまったようです」
「こちらに人が紛れ込むことは稀にございます。無事に帰れるかどうかはその方の運に依りますが。そのお面をしていれば悪事をなそうとする者は近づかないでしょう。しかし、桜様も今頃焦ってらっしゃるでしょう。ああ見えて根は寂しがり屋ですから。大野木様のような理解者が近くに居てくださるのは心強いはず」
「そうでしょうか」
「そうですとも」
葛葉さんはコロコロと笑って、すっと夜市の向こうへ指差しました。
「今宵は月が満ちております。御池が水鏡となり、あちら側を写しておりますから飛び込めば帰ることができましょう」
「本当ですか。有難うございます。葛葉さんにはいつも助けて頂いてばかりで」
「また御縁があればお会いすることもあるでしょう。私もご一緒したいのですが、私用がございますので失礼を。そうだ。これをお持ち下さい」
いつの間に取り出したのか、葛葉さんが摘んでいるのは鬼灯でした。まるで狐火のように淡く辺りを照らす、その一粒を私の手にそっと握らせ、葛葉さんは姿を消しました。まるで霧のように消えたのです。
私はその場で一礼して、彼女の指差した方へと歩き出しました。
どれほど歩いたでしょうか。どうやらこの夜市はあの境内の鏡写しになっているようです。拝殿や林の位置も全て鏡写しになっています。そういえば水天宮には大きな御池があり、夏には神事が催されていたのを思い出します。
池の形はほぼ楕円形で、季節外れの菖蒲が御池を縁取るように咲いていました。
そっと水面を覗き込むと、大きな花火が咲いているのが見えました。慌てて顔をあげますが、こちら側の空には花火は上がっていません。これは向こう側の景色を写している鏡なのでしょう。
「問題は、どこから向こう側へ帰ればいいのか、ですね」
飛び込めば良いのでしょうか。もっと葛葉さんに詳しく聞くべきでした。飛び込めば良いと仰いましたが、本当にどこから飛び込んでも良いのでしょうか。それとも何か特定の場所があるのかも知れません。ここは慎重に事態に臨まねば。
ぶつぶつ独り言をしていたせいか、ガサガサと草木を掻き分けて何かがやって来ました。慌ててしゃがみこみ、息を潜めます。暗闇に目を凝らすと、やたら大きな影が三つ、近づいてくるのが見えました。
「臭うぞ。人間の匂いだ。近くにいるぞ」
「おい、止さないか。御前に知れたら只では済まんぞ」
「ふん。人の間に子を成したような女を恐れるやつがあるか。それよりも探せ。必ず近くにいるぞ」
「いや、そいつの言う通りだ。俺も御前様を怒らせるのは恐ろしい。なぁ、もう戻ろう。人なんていつでも食えるだろう」
「嫌だ嫌だ。俺はもう腹が減って仕方ない。辛抱堪らんのだ」
前言を撤回します。私は立ち上がるや否や、真っ直ぐに御池へ駆け出しました。
「おい! いたぞ!」
「待て!」
背後から駆け寄る声を無視して、私は御池の柵を踏み越え、大きく跳躍しました。
眼下には夜空に咲く、大輪の花が見えました。
○
三歩歩けば怪異に遭う、と大野木さんを夜行堂の女主人が笑っていたけれど、身近にいる人間からしたら冗談じゃない。どうしてこうも怪異に惹かれやすいのか。
苛立ちながら何度、境内を探し回ったか分からない。あんまりムシャクシャするもんだから、りんご飴をバリバリに噛み砕いてしまったので後半は全く味を楽しめなかった。歩き回ったせいで腹も減ったし、汗だくで気持ち悪い。帰りに銭湯に寄ってフルーツ牛乳まで奢らせてやらなきゃ気が済まない。
しかし、冷静に考えてみれば、大野木さんが怪異に惹かれやすくなった要因の一つは間違いなく俺だろう。
霊感の強い人間と一緒にいると霊が見えるようになる、と言うのはよく聞く噂話だが、あながち間違っちゃいない。怪異を視るということは、向こうからの影響も受けるということだ。怪異を視ることのなかった大野木さんは、怪異からも視えない。だが、怪異を視たり、触れたりしてきた大野木さんは、すでに怪異からよく視える存在になってしまった。
「まぁ、職業柄しょうがないんだろうけど。根が真面目すぎるんだよな」
さっき買った缶コーヒを飲みながら、ぼんやりと考える。
頭の先まで浸かってしまった俺は別にいい。もう今更戻ることはできないし、半分以上が怪異側だ。当初は失った右腕の根本までしか幻肢の感覚はなかったのに、いつの間にか右眼まで怪異が常に視えるようになってしまった。おかげで右眼はほとんど視力がない。このままだと遅かれ早かれ、俺はあっち側に行く羽目になるだろう。
別に後悔はないし、悪いことだとも思っていない。あの最初の事件で俺は人を殺すことに加担した。霊が人を祟り殺す、その手伝いをしたんだ。あの時にとうに覚悟は済ませてある。
「でも、大野木さんはマズイよな」
まだ間に合うだろう。怪異と触れるのを止めてしまえばいい。街の喧騒の中で生きていけば怪異に触れる機会も減る。勿論、皆無になる訳ではないけれど。
あの人は体質的に怪異に惹かれやすい。それは逆に言えば怪異を惹きつけやすい体質なのだ。
「優しいからな。節操なしに」
その優しさに甘えたがる。怪異も人間も。
飲み干した缶コーヒをゴミ箱へ放り投げる。早くしないと花火が終わってしまう。
あと見回っていないのは御池周りくらいか。
境内の御池は花火がよく見えることで有名なので、案の定大勢の人で賑わっていた。レジャーシート持参で寛いでいる家族連れまでいる。俺もああやってのんびりしたい。
不意に、右眼が御池の水面が揺らぐのを捉えた。なんていえば良いのか。夜の海で見かける夜光虫のように、青い光の粒が湧き上がっている。左眼で見ると何も起きていないように見える。
「ちょっと! どいて! はいはい、ごめんよ!」
人混みをかき分けてなんとか最前列に割り込んだ時だった。
頭上で一際大きな花火が炸裂し、ザバーっと御池の真ん中から大野木さんが立ち上がって現れた。思わず周囲の人が次々に悲鳴をあげる。
「え? なに、あの人」「いつから潜ってたんだ? いきなり出てきたよな」「何してんだろ」「ヤバい人なんじゃない?」「服着たまま泳いでんのかな」
ざわざわと衆目の中心で、大野木さんが呆然と立ち尽くしている。
「おい! こっちだ! こっち!」
我に返った大野木さんが顔を真っ赤にして、ザブザブとこっちへやってきた。
「逃げるぞ!」
「はい!」
どこかで警備員が聞きつけたのだろう。俺と大野木さんは闇に紛れる泥棒のように逃げた。公務員がこんなところで捕まったら懲戒免職もあり得る。
夜の街を二人で散々逃げ回って、俺たちがようやく一息つけたのは近衛湖疎水そばの小さな公園だった。
「あー、疲れた。もうダメだ。一歩も歩けない」
「すいません。ご迷惑を、おかけしました」
「よく一人で帰って来られたな」
「葛葉さんに助けて頂いたので。危ない所でした」
「あの人、本当に神出鬼没だな。元気そうだった?」
「はい」
「そっか。まぁ、怪異に元気も何もないか」
大野木さんの頭に引っかかっている白狐の面。それを手に取り、少し離れた場所におく。
「ああ、それは葛葉さんから頂きまして。次、お会いするときまで保管しておこうかと」
「いや、その必要はないよ。ほら」
狐の面が、溶けるようにして歪む。すると、そこには小さな白狐が立ってこちらを見ていた。
クシュ、と小さくクシャミをすると、白狐は藪のなかへ飛び込んで姿を消してしまった。
「驚きました。あれも怪異だったのですね。悪いことをしてしまいました」
「眷属とかいうのじゃないの?」
いつの間にか花火も終わってしまっている。おまけにりんご飴しか食べてない。不完全燃焼もいい所だ。
「パトロールに来た筈の私が騒動を起こしてしまうなんて。情けない限りです」
「いいんじゃないの。大野木さん以外は平穏そのもの。あんたもこうして生きてるんだから」
「しかし」
「そんなことより。俺まだりんご飴しか食べてないんだけど。おまけに汗だく。大野木さんも池の水臭いぜ」
「返す言葉もありません」
「だからさ、今から銭湯入って帰ろうぜ」
勿論、大野木さんの奢りで。
「お伴します。フルーツ牛乳もご馳走させてもらいます」
「人の好みを熟知するなよ」
「千早くんは好き嫌いをもう少しなくした方がいいですね。もういい大人なんですから」
「いいんだよ。別に。食べなくても死にやしないんだから」
そんな他愛のない話をしながら帰路につく。
頭上を見上げると、丸い月が煌々と夜空に輝いていた。
作者退会会員
新作になります。
閑話休題といった話になればと。
楽しんで頂ければ幸いです。