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長編9
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小夜子

大学二回生の夏のある日。

僕はとあるアパートへの引っ越しを余儀なくされた。

家賃二万五千円。ユニットバス付きの六畳二間。

これだけ見れば好条件のアパートだが、事態はそうやすやすとはいかない。

どんな事態かといういと、それは遡ること一ヶ月前の話、僕は盛大にやらかしてしまっていた。

大学の友人Dに頭を下げられ、借金の保証人になったのが運の尽き。

ありふれた話だが、Dは姿を消し、後に残ったのは、どこの街金かも分からない強面の借金取りと、塵に積もった借用書だった。

「でだ、今日び田舎の貧乏学生から、こんだけの額、こっちも回収できるとは思ってないわけよ」

玄関越しに煙草の煙を撒き散らしながら、強面の男は僕に今月の請求書を投げてよこした。

震える手でそれを拾い、視点の定まらない目で何とか数字を確認する。

とてもいっかいの大学生に払える額ではない……。

いや、待て、今この人は何て言った?

ハッとして顔を上げると、強面の借金取りは待ってましたとばかりに、僕にこんな話を持ちかけてきた。

金が払えないのなら良いバイトを紹介してやる、普通に生活するだけで借金が返せる、夢のようなバイトがある、と。

その夢のようなバイトというのは、とあるアパートに引っ越し、一年間そこに住むだけという内容だった。

もちろん生活費や光熱費、家賃などは自分で工面しなければならない。

無論、普段なら怪しむとこだが、今は藁をも掴みたい時だ。いや、この際蜘蛛の糸でもいい。

とにかく、生活拠点を代えるだけで借金が返せる、僕にとってこんなに美味しい話はなかった。

強面の男の手を取り即答で返事をすると、引越し準備のため一ヶ月の猶予をもらい、僕は新しい新居へと向かった。

ここまでは全てが順調だった。

そう、ここまでは……。

さっきも言ったが、事態はそうやすやすとはいかなかったのだ。

それは、新居へと向かう途中に掛かってきた一本の電話。

借金取りからだった。

車を路肩に停め電話に出た僕は、そこで初めて今回のバイトとやらに激しく後悔した。

電話で告げられたのは、今回のバイト本来の目的と、その詳しい内容についてだった。

まず本来の目的とは、率直に言うと、僕が住む事になっている部屋は、ネットの怪談話やらでよく登場する、所謂(いわゆる)曰(いわ)く付き物件の事だったのだ。

そしてその詳しい内容についてだが、心理的瑕疵担保責任(しんりてきかしたんぽせきにん)という言葉を知っているだろうか?

宅地建物取引業法のルールの一つで、瑕疵とは欠陥の事を意味し、貸主には物件の欠陥を担保する責任があると定められているのだ。

世間一般的に言われるあの事故物件は、心理的な瑕疵に相当するとされている。

例えば、前の入居者が自殺をした部屋だと知らずに入居して、暮らしはじめて3カ月後に、別部屋の入居者から訳あり物件だと聞いたとする。

そこで、もし自殺があったと知っていれば入居しなかった、と判断した場合は、法律上、貸主に損害賠償を請求することができるのだ。

こうしたリスクを回避するために、法律上での告知義務が設けられているのだが、この告知義務というのが実に曖昧な制度だったりする。

一応のセーフティーラインとしては、次に住む入居者が退所した後は、この告知義務が貸し物件に限り適用されなくなる。

が、入所から退所までの期間が短いと、これに該当しないらしく、告知義務の期限としては、最低でも一年近くが望ましいとされているらしい。

最初から事故物件ですと告げるのは簡単だが、やはりそれでは借り手が見つからない。

だとしたら、何とかこの告知義務をなくす事が、貸し物件としては一番望ましい方法なのだ。

ここまで話せば分かると思うが……そう、僕が今回選んでしまったバイトというのは、今から一年間、事故物件に住まなければいけないという事だったのだ。

何があったのかも分からない事故物件に住む、これがどんなに不安で恐ろしい事か想像できるだろうか?

最後の方はもう事切れそうな程の小さな声で返事を返し、僕は電話を切った。

徐にキーを回し、死んだ魚のような目で地図を確認しながら、僕は再び新居を目指した。

車を走らせる事二十分、やがて目的地に着いた僕は、件(くだん)の物件の前で車を降りた。

コンクリートの床に初夏の光がまぶしいほど照りかえる。

ジリジリとした日差しに顔を背けながら、僕は目の前にある建物を見上げた。

鉄筋コンクリート製で築数十年といったところだろうか。

一見貸しビルのようにも見えるが、入り口には『黄昏荘』という、経年劣化で今にも落ちてきそうな看板が貼り付けてある。

周囲をビルで囲まれているせいか、部屋の内部に光は行き届いていなさそうだった。

そのせいか、建物の中はいかにもといった暗い印象。

蔦の絡まった石壁には、何やら訳の分からない落書きがのたうつように書かれている。治安も余り期待はできなさそうだ。

これなら家賃三万五千円の前の古巣の方がまだましだった……。

世の中そう上手い話は転がっていないと言ったところだろう。

半ば諦めモードの僕は、これから一年間お世話になる住まいを確認すべく、黄昏荘へと足を踏み入れた、が、

──カツン

僕のつま先に何かが当たった。

確認すると、それは箒(ほうき)だった。

「えっ?うわぁっ!?」

いつの間に現れたのか、僕の横に腰の曲がった老婆が、塵取りと箒を手に持ち、せっせと地面を掃いていた。

「あっすみません、僕今日からここに、」

と、そこまで言いかけて、僕は箒から逃げるようにして入り口の石段に飛び退いた。

老婆には、まるで僕が見えていないのか、その場で箒を一心不乱に振っている。しかも何やら独り言のようにぶつぶつと呟いていた。

そっと耳を澄ますと、微かに、

「肉……が」

と、しわがれた声が聞き取れた。

今晩の買い物か何かだろうか?とにかく何だか異様過ぎて気持ちが悪い。

ふうっと軽くため息をついた後、僕は建物の中へ入る事にした。

思った通り、中は昼間だというのに異様な暗さだ。

カチカチと音を立てながら点灯する、赤熱電球の僅かな明かりを頼りに、二階へと上がる。

窓がないせいか、陽の光も差してこない。二階へと上がっているのに、まるで地下に潜っているかのようだ。

階段を登り角を曲がると、等間隔に並んだ、塗装の剥がれた鉄製の重たい扉が見えた。

「202……202と……あった」

仲介業者から貰った鍵で、早速部屋のドアを開けようとポケットに手をやると、

「あっ……まじか……」

やってしまった。

鍵がない。

引越し用に借りた車の中だ。

仕方なく部屋を離れ、角を曲がり階段を降(くだ)ろうとした時だった。

「ねえ、学生さん……」

突如した声に、思わず足が止まった。

「えっ?」

短く返事を返す。

「学生さんってば……」

よく見ると女性が一人、暗がりの踊り場に腰掛けて此方を見ていた。

しかも一目でかなりの美人だと分かる。

髪は短く黒髪で、目鼻立ちはすぅっと通っており、切れ長の目には、妖艶な瞳が灯るように潤んでいた。

思わず息を飲むと、女性はソレを見透かしたように、クスリと小さく妖しい笑みを零した。

「学生さん、煙草一本、恵んでくんない……?」

女性は細い声でそう言うと、懇願する様な瞳で見上げてきた。

「え?あ、はい、い、いいですよ……」

急に言われ慌てて胸ポケットを探り煙草の箱を取り出すと、そこから一本手に取る。

そして目の前に差し出された、女性の透き通るような真っ白な手の上に、そっと置いた。

その瞬間、

──ガシッ

突然だった。差し出した俺の手を、女性が強く掴んできたのだ。

「うわぁっ!!なっ何を??」

「くくく……あははっ」

握られた手を、驚きと恥ずかしさからか慌てて振りほどくと、それを見た女性がさっきよりも大きく笑った。

「えっ?ええ??」

もう何が何だか分からずにいると、女性は余程おかしかったのか、目に浮かんだ涙をそっと人差し指で拭ってみせた。

そしてすっとその場で立ち上がり、僕の口を塞ぐように人差し指を立ててこう言った。

「ま……とりあえずあんたが人間だって事は分かったよ」

「えっ?に、人間って」

「言った通りの言葉だよ、あんたも、ここに住むなら気をつけな」

聞き返そうとする僕の返事を待たずに、女性はそう言った。

「ちょ、ちょっと待ってください!一体さっきから何を……!?ここがいくら事故物件だからって……あっいや、」

言ってから僕はハッとなった。

会ったばかりのアパートの住人に、こんな事言ってよかったのかと。

バツの悪そうな顔をしていると、女性は僕の顔を覗き込むようにして口を開いた。

「ここに来る前、誰かに会ったかい?」

誰か?

「え?ああ、えっと、お婆……さん、玄関の前で掃除していたお婆さんが一人」

すると女性は、口元を小さく歪めて、

「あぁ……あのババア、まだやってるんだ」

と吐き捨てるような口調で言った。

ば、ばばあって……随分口が悪いぞこの人。

と、僕は胸の内でボヤいた。

「ま、まだやってるって、何がですか?掃除を?」

尋ねると、女性は軽くため息を吐いて、首を二~三度横に振ってみせた。

「三年前、このアパートの四階から、ババアの旦那さんが飛び降りたのさ、頭からコンクリートの床にズドンってね。で、その時下に飛び散った旦那の肉片を、片っ端から箒で掃いてたよ、一心不乱にさ」

「えっ……ええぇぇぇっ!?じゃ、じゃあさっきのお婆さんは!?」

「婆さんは亡くなったよ、一年前に」

「はっ、はいぃぃぃっ!?」

もう意味が分からない。さっきからこの女性は何を言ってるんだ?

混乱する僕を他所に、女性は話を続ける。

「爺さんを自殺に見せかけて殺したんだと。それがバレて警察にね。後はそのまま留置所でぽっくりだとさ。家賃も溜まってたってのに」

「あ、あの!さ、ささっ、さっきから何言ってるんですか!?自殺?殺人?だ、大体僕はさっきそのお婆さんを見たんですよ!?あそこの、」

アパートの入り口を指差しそう言いかけた時だった。

僅かに開いた入り口から漏れる外の光、それに重なるようにして、ドアの隙間からこちらをじっと見つめる人影が揺らめいた。

見覚えがあるシルエット……先程、このアパートに入る前に見た、あの老婆の姿だ。

目を凝らしジッと見つめた瞬間、ドアの隙間からこっちを見つめる、老婆の顔が……。

「うわぁぁぁっ!!」

僕は叫び声を上げ、思わず踊り場で尻餅をついてしまった。

慌ててドアに目をやるが、そこにはもう誰もいない。

代わりに、ドアの裏側には、煤(すす)けた箒と、ヒビ割れかけた塵取りがセットになって立て掛けられていた。

今のは……一体……何だ??

余りの事に呆然としていると、目の前に立っていた女性から突然、口の中に何かを突っ込まれた。

「うぐっ……!」

自分の口元を見る。煙草だ、さっき僕が渡した。

見上げると、女性は違う煙草を口に咥え、此方を見下ろしながらクスリと微笑した。

自分の煙草……持ってるんじゃないか。

心の中でそうボヤいていると、突然、女性の顔が僕の顔に急接近してきた。

えっ?ええっ?

思わず硬直していると、僕が咥えている煙草に、女性は自分の口で咥えた煙草を、そのまま押し付けてきた。

煙草の先端から、灰色の煙がもくもくと立ち昇り始める。

「悪いね、私メンソール苦手なんだ」

そう言って女性は立ち上がり、うまそうに煙を吹き出すと、真直ぐ立ち昇る煙を見つめた後、ゆっくりと階段を登り始めた。

「あ、ああ、あのっ!!」

思わずその後姿に声を投げかけた。

何を言えば、いや何を聞けば? さっきから混乱し続ける頭を抱え、何とか絞り出した僕の言葉は……。

「お、お名前……を」

明らかに間抜けな声だった。

けれど女性は立ち止まり、ゆっくりとこっちに振り返る。

「小夜子……ここの管理人だよ、今日からよろしくね、学生さん」

そう言い残し、小夜子と名乗った女性はまた階段を登り、今度こそ去って行ってしまった。

呆然とした僕はその場に一人取り残されてしまった。

ジジっと、溜まった煙草の灰が零れそうになり、思わずハッとして我に返る。

僕は 何とか立ち上がると、フラフラとしながらアパートの外に出た。

暗がりから出たせいか、外の日差しがやけに眩しい。

正面を見ると、向かいの堀から覗く七夕の笹が、短冊と共に風に揺らいだ。

蒸すような熱気が、一瞬だけ和らいだ気がした。

ふと、胸ポケットにしまった煙草を取り出す。

「切れた……か、コンビニでも行くかな……」

そう呟くと同時に、僕の頭に先程の光景が頭に浮かんだ。

煙草と煙草、シガーキスってやつだっけ……。

思い浮かべると同時に、胸の内で大きな音が鳴った気がした。

「メンソール、やめようかな……」

煙草の箱を手の中で丸めると、僕はコンビニへと足早に向かった。

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ん?誰かわたくしのこと呼んだ?あら。気のせいかしら……。最近耳も、記憶も遠くなっちまってサ。きゃっほぃ。
(*^_^*)

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2章も見てきました‼️

とても今後の展開が気になります‼️

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