魍魎という言葉がある。魑魅魍魎の魍魎だ。辞書には魑魅も魍魎も同じく『山川の異気の生ずる所にして、人を惑わすもの』とある。だが、魍魎には日本では『みずは』すなわち水神を指すともいう。つまり、魑魅魍魎とは山や川などの自然により生じた怪異だということだ。これらには人を害する者もあるが、自然に発生したり、消失したりするのだという。
対して、私が職業柄、遭遇せざるを得ない怪異は人の穢れだという。呪詛や怨嗟を残す死は、穢れとして残る。それは様々な形で人々に障るのだ。死霊や悪霊などという言い方を、私の相棒は好まない。
「あんなのは残り滓だよ。煙草の煙てのが近いかな、名残りみたいなもんなんだ。亡くなった本人そのものじゃない。だから、大野木さんみたいに一々泣いたり怒ったりしても無意味なんだよ」
そう忌々しげに言いながら、助手席に座る千早くんは窓の外へ顔を向けて、こちらを見ようともしない。単純に彼は私に怒りを感じているのだ。
「お節介なんだよな。ホント」
「まぁ、そう言わないでください。その眼では危険ですよ」
最近、右眼の視力が殆どなくなってしまった彼を、私は一人で外出させるのが恐ろしくなっていた。青白く変色してしまった瞳には、もうこちら側の風景はなにも写ってはいないのだ。
「仕事には支障はないから問題ないって言ってるだろ? 遅かれ早かれこうなるのは分かってたんだ。だから、そんな顔するのはやめてくれ。辛気臭い」
「すいません。そうだ、気分転換に外食でもしましょうか」
「いや、だから今日は仕事だろ。何の為に送って貰ってるんだよ」
「ですが、一人で出かけるのは危険では」
「ああもう。大野木さんってさ、恋人とか束縛するタイプだろ?」
「ノーコメント」
どちらかといえば私は今まで、お付き合いをしてきた女性から『人間味がない』『神経質でつまらない』などと言われてきた。なるほど、納得の評価である。その度に私は仕方ないな、と特に追いかけるようなこともしなかったので、事実冷たい人間なのだろう。
そんな私も自責の念に駆られる事はある。彼の眼が見えなくなってしまったことの責任の一端は、間違いなく私にあるのだから。
彼は事故で右腕を失い、その代償のように怪異に触れることができる幻肢を手に入れた。以来、彼は怪異と関わるようになり、私の依頼にも応えてくれた。だが、まるで存在しない右腕に浸食されていくように、右眼が怪異を視るようになり、その代償のように彼は右眼の視力を喪ってしまった。
このままではいけない。けれども、解決策も見つからない。
焦る私を余所に、彼は右眼が視力を失ってもなんら今までと変わらない。よく右足の小指をぶつけて癇癪を起こすくらいで、我が身を呪ったり嘆いたりする所は見たことがなかった。
「そういえば、千早くんが泣いている所は殆ど見たことがありませんね」
「いや、泣かないだろ。もう成人してるんだから。いい大人が泣くかよ」
彼はニヤニヤと微笑を浮かべて、ケケケと意地悪く笑う。
「そういや、大野木さんは普段クールぶってる割によく泣くよな」
「いけませんか?」
「悪かないだろうけど、普段の様子からじゃ想像つかない」
「千早くんは感情的に見えて、土壇場でも冷静ですよね。恐ろしいとは思わないのですか? 正直、私は恐ろしくて仕方がありません。死にたくない、と心の底から思いますよ」
「まぁ、俺は多分どこかおかしいんだよ。事故の時に壊れたのかも。学生だった頃はもっと臆病だったんだ。でも、あの事故からこっち、怖いって感じなくなったな。まぁ、流石に死ぬのは嫌だけど。受け入れてる部分が多分かなりあるんだ」
私は高速道路を降りながら、ナビが目的地に近づきつつあるのを見て不安を覚えた。
「千早くん。やはり私も一緒に行くべきです」
「いらない。俺さ、過干渉されるの嫌いなんだよね。送ってくれてありがとう。でも、ついて来なくていいから」
「ですが、美嚢団地は危険です」
「ああ。そんな曰くつきの団地に最後まで残っていた入居者からの依頼なんだ。断る訳にいかないだろ。それに大野木さんは此処は駄目だ。風呂場で掬い上げた赤ん坊の霊のこと、忘れた訳じゃないだろ?」
巨大な棺桶を思わせる灰色の棟。それらの連なりが不気味に聳え立つ姿は、並みの精神なら裸足で逃げ出したくなるほど不吉で恐ろしい。県下でも屈指の自殺スポットであり、死者の絶えない死の坩堝だ。
私は、この場所が地獄よりも恐ろしい。
「それは、そうですが」
車を第七棟の脇に止めると、千早くんは戸惑う様子もなく車を降りた。
「二時間経ったら、ここに迎えに来てくれ。でも、俺がいなかったら帰っていい。絶対に探したりするなよ。犠牲者が二人になるだけだから。大人しく家に帰るんだ。ああ、俺の私物は全部捨てて良い。大野木さんが欲しいものがあれば使ってもいいぜ」
「冗談はよしてください」
「本気だよ。さ、もう行って。ここに残って待つなんて馬鹿な真似はしないでくれよ? 俺の仕事が増える」
私は言い返そうとして、しかし、なんの言葉も返すことはできなかった。彼は私などよりも、遥かに物事の核心を視ることができる。彼が私を不要というのなら、本当に不要なのだろう。
「わかりました。ただし、危険だと判断した場合はすぐに戻ってください。車ですぐ駆けつけられるよう待機しておきます」
「ああ、その時は連絡するよ」
言うなり、踵を返して歩き始める。そして、一度も振り返ることなく第七棟へと消えていってしまった。一人になった途端に背筋がぞわぞわと泡立ち、何処からか赤ん坊の鳴き声が聞こえてくる。いいや、こんな所に生きた赤ん坊がいる筈がない。不意に、視界に入った団地の屋上からスーツ姿の男が身を投げる。氷嚢を床にぶちまけたような音に怖気立つ。
べたん、と車のトランクを何かが叩いた。
私はすぐに車を発進させ、一度もブレーキを踏まないまま敷地を飛び出した。カチカチと歯の根が噛み合わず、冷や汗が止まらない。自分の足元に広がる闇さえ恐ろしく、街の明かりが見えるまで、ひたすらに前を見ていた。
ハザードランプを点け、停車帯に車を停める。恐る恐る足元に目をやり、後部座席や背後になにもいないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
千早くんは美嚢団地のことを死の坩堝だと言う。度重なる死者の穢れが、更なる死を呼ぶ忌み地。私のような人間にさえも、まるで目の前にいるかのように鮮明に霊と焦点の合ってしまう異界。
そんな場所に、私は彼をひとり置き去りにしてしまった。
戻るべきだ、そう心は命じているのに、どうしようもなく身体の震えが止まらない。
私は震えながら、雨が降り始めた夜の街並みを遠くに眺めた。
◯
あの骨董店の女主人曰く、この街は『底が抜けてしまった』のだという。
元々、この土地は怪異と混じり合い易いのだという話は帯刀老に聞いたことがあった。特にこの街が特別という訳ではないらしいが、加速度的に不安定になっているという。そして、つい先日の地震騒ぎ。あれが決定打になったらしい。
「あの化け物め。絶対、隠し事してやがるな」
いつも煙管で煙をぷかぷか吐いて余裕ぶって、人をさんざんこき使う。そのくせ肝心なことは何も話さない。
あれが何者であれ、俺にはどうでもいいことだ。間違いなく人間ではないだろうが、あれは自身の立ち位置をこちら側だと定めているらしい。そこにどんな意図があるのか想像もつかないが、少なくとも敵ではないのだと思う。
美嚢団地の最期の住人の名は、義兼慎三と言った。記録によれば年齢は今年で81歳、一人暮らしだという。本籍地は遠く四国の出身らしい。散々の立ち退き勧告も黙殺し続けた彼から、大野木さんのところへ電話があったのが昼間のことだ。
『団地を出たい。手続きをしてくれ』
それだけ言うと、電話は切れてしまったらしい。俺なら間違いなくそのまま放置してしまう所だが、大野木さんは事細かに相手のことを調べ、退去後の住まいまで用意をしてから話を聞きにいくことになった。
問題は、この美嚢団地が県下でも最悪の場所だということだ。放棄され、朽ちかけた大型団地。よくも人が住んでいるものだ、と戦慄すら怯える廃墟ぶりには閉口する。毎年のように県内外の怖いもの知らずが、やってきては死んだり消えたりするので、益々地獄と化していく有様だった。
この団地での案件は何度か取り扱ったが根本的な解決にはならなかったし、そんなことできるような力もない。対処療法しかできない上、対処の仕方も完全ではないのでどうにもならなかった。
だが、最期の住居者が退去すれば取り壊しができるよう、大野木さんが既に準備を済ませている。団地そのものが消えても土地の穢れはそう簡単には消えないが、ものがなければ犠牲者は減る筈だ。性懲りも無く、マンションでも建てたりしない限りは。
第七棟は他よりも大きく、一階にはそれなりの広さのエントランスがあった。勿論、壁や床も罅割れ、頭上の僅かな灯りさえ明滅しているが。
あちこちでクスクスとこちらを覗き見るように、密やかな笑い声が聞こえる。
ポーン、と電子音と共に到着したエレベーターが扉を開く。無人のエレベーターに乗り込もうとして、失明した右眼がこちらに背を向けて立ち並ぶ死霊たちを捉えた。
ぶつぶつぶつ、と何かを呟き続ける彼らは若い男女ばかりだ。全員が頭からぐっしょりと濡れていて、床の上に黒い水が滴り落ちている。
そういえば、去年の夏に美嚢団地の屋上に設置された貯水タンクから、大学生の男女八人の遺体が見つかるという事件があった。彼らは貯水タンク内で悪ふざけをしていて事故死したとテレビでは報道されていたが、どうやらただの事故死ではないらしい。彼らは死に惹かれたのだ。
「ほら、もう外に出なよ。こっちだ」
ぴたり、と呟きが止まる。
手前にいたスカートを履いた女の子の手を引く。事故で失った右腕。感覚だけが残った、この右手は霊に触れることができる。硬く冷たい死の感触。
よろめくように彼女が外へ出ると、それに倣うように次々と彼らがエレベーターから出てくる。そうして、輪郭が歪み、形を保っていられないとでもいうように、溶けるようにして姿を消した。
ありがとう
消え入るような声だった。
ああ、嫌だ。彼女たちは成仏したわけではない。魂というべきものはとっくに消え去っている。ここに残っていたのは死の間際の残響、残り滓に過ぎない。また焦点のあった誰かが彼女たちを見るのだろう。感謝されるような謂れはない。
忌々しさに舌打ちする。
死者は嫌いだ。でも、俺はそんな彼らが哀れで仕方ない。
エレベーターに乗り込むと、ボタンも押していないのに上階へ動き始める。ボタンがあちこち明滅し、スピーカーからひび割れた風のような音が響き渡る。ガタン、と大きく揺れてエレベーターが停まった。
最上階で止まったエレベーターから降りると、金属製のドアがひしゃげて天井に突き刺さっていた。コンクリートブロックの壁に、赤黒い血がぶち撒けたように染みついている。
ここで真新しい死体が出てきても驚かないし、むしろ次に壁の染みにになるのはこっちかも知れない。
一番奥、突き当たりの部屋に辿り着く。赤錆びた表札には義兼とあった。重い金属製のドアは僅かに開いていて、中からはテレビの音が漏れ聞こえてくる。
隙間から中を窺い見ると、女性もののローファーが揃えて置いてあった。脇には黒く黴の浮いたサンダルがあり、手入れの行き届いた黒光りする靴は対照的だ。
声は出さず、室内へ入る。窓が開いているのか、台所のある廊下まで雨風が吹きつけてくる。奥の壁に、花挿が見え、そこに菖蒲が一輪活けてあるのが見えた。
半分だけ開いたガラス戸の向こう。家具ひとつない畳敷きの居間に、一人の少女が背中を向けて立っていた。背中まで伸ばした黒い髪、すらりとした手足は骸骨のように白い。黒いセーラー服を着た、この少女がどうしようもなく不吉なものに見えた。
「おい」
俺の声に驚くでもなく、彼女はゆっくりと振り返る。息を呑むほどの美少女と言って良いほど彼女の容姿は整っていた。だというのに、俺は悲鳴を上げそうになる口を手で塞いだ。背筋が震え、手足の血が一瞬で引いていくのが分かった。
鴉の呪具の時に霊視した少女。
右眼で視る、目の前の少女は悪魔としか形容できない姿をしていた。あの眼がダメだ、あの眼は。あれは危険だなんてものじゃない。あれはいったいなんなんだ。
「こんにちは」
少女特有の高い、あどけなさと儚さが入り混じったような声音。
「わたし、お兄さんのことを知っているわ。千尋のお母さんの後始末をしてくれたのよね。敵討ちを見逃してくれた、優しい見鬼。あの店にも出入りができる稀有な人」
虻川千尋。そうだ。イジメにあって自殺した少女。彼女の母は自身の家に伝わる外道箱という呪具を使って復讐を果たした。そうだ。この娘の制服はあの学校のものだ。
「なんなんだ、お前は」
さぁ、と少女は肩をすくめ、眼を細めて微笑う。
「私には人の死が視えるんだ。大叔父様には魂の色が視えたけれど、私には色なんてどうでも良い。誰も彼も、私からすれば違いなんてものはないの。泥を詰めた袋みたいなものだもの」
くっくっと、咽喉を鳴らすように笑う仕草に見覚えがあった。
「お前、木山さんの身内だろ」
生まれつき人の魂の色に惹かれていたという奇人。あの変人は死んで尚、この街に様々な影響を及ぼしている。
「血は繋がっているけど、身内と言われるのは好きじゃないな。私はね、死を蒐集するのが好き。死を集めて、混ぜて、与えて、そうして『門』を開いておきたいだけ。この団地はね、死の坩堝なんだよ。そうなるように、私が決めたんだ」
くるり、と可憐に少女がステップを踏む。白い指先が花挿の菖蒲に触れた途端、命を吸い取られたように一瞬で枯れ果てた。色を失い、枯渇した菖蒲の残骸が畳の上に散らばる。
「でも、どんなに死を集めても、新しい『門』は開かなかった。私はあちらに行きたいだけなのに、あの『門』は小さ過ぎる。だから別の方法を探さないと。だから、管理人にしていたオジサンもいらなくなったの。もう要らないの」
「随分、勝手な言い草だな。意味がわからねぇ。ここの住人を何処にやったんだ」
「知らない。だって、もう要らないもの」
「殺したのか」
微笑む少女の足元に伸びた影が、まるきり人の形をしていないことに気がついた。幾千もの茨が絡まり合って出来た、翼と角を持つ影。ギチギチと棘が連なり合う音が聞こえてきそうなほど禍々しい姿に絶句した。
「魂もね、劣化するんだ。器を変えても、やがて散って消えてしまう」
天使のように美しい少女が微笑う。成程、天使と悪魔は似たようなものだと誰かが言っていたっけ。本質的には同じだ、と。同じものの別側面に過ぎない、と。
右眼が灼けつくように痛む。青白い右の視界に、彼女の瞳が燃え上がる炎のように視えた。
「お兄さんには、私がどう視えているのかな?」
痛みに唸る。熱を帯びる右眼から血が溢れ、頰を伝って床に落ちた。
「きちんと人に視えている? それとも」
一歩、彼女が歩みを進めると、右眼の痛みが増す。立っておられず、膝をつく。止めどなく流れ出る血が顎から滴り落ちる。あまりの痛みに瞼を閉じようとするが、どうしても視線を切ることができない。視えない手で瞼を押さえつけられているように微動だにしない。
赤い瞳が、黄色く変じていく。見てはいけない。
帯刀老から聞いたことがある。これは、邪視だ。見るだけで人に不幸や、苦痛、死を与える瞳のこと。西洋では魔眼とも言うのか。
眼を見てはいけない。いいや、これが本当に邪視なら見られているだけでマズい。
「ぐ、離せ!」
「面白い腕と眼だね。悲鳴もあげないなんて」
抑揚のない声でそう言って、今度こそ彼女の瞳が真っ直ぐに俺を視た。
それは陵辱だ。侵略だ。蹂躙だ。眼という器官から脳へと逆流する、圧倒的な力の奔流。全身の筋肉が硬直する。指一本動かせないまま、激痛が頭蓋の中を暴れまわる。このままだと、脳が灼けついて死ぬ。
「見鬼のくせに、なんてお節介」
「–−−−もっと、貴方を視せて 」
意識が遠退く。
硫黄色の双眸しか、視えない。
◯
どうして戻ってきてしまったのか。
論理的に考えれば私は安全圏で待機しておき、いざという時に備えておくべきではないのか。
なのに、どうして自分は美嚢団地へ戻り、あまつさえ一人で車外に出てしまったのか。それは急に車のエンジンが急に停止してしまったからであり、車載オーディオから少女のすすり泣くような声が響き始めたからである。おまけに外に出たら何故か鍵がかかり、車内に戻ることも出来なくなってしまった。
私は愛用のチタン金属製の丈夫な懐中電灯を構えて、周囲を油断なく見渡した。千早くんが戻ってくる気配はない。
時計を見やると、彼と別れてからすでに1時間以上経過している。携帯電話にかけても呼び出し音すら鳴らないのは奇妙だ。
何かがあったのかもしれない。普段は飄々としていて意地の悪い若者だが、彼はああ見えて他人を悪戯に心配させるような男ではない。彼の身に何かあったと考えるべきだろう。
私は意を決して、件の入居者のいる第七棟を目指すことにした。
義兼慎三氏の身辺調査は既に済ませていた。正確には、彼に限らず、立ち退き命令に応じなかった少数の人々については前任者の時代から調べがついていたのだ。
義兼氏はバブル絶頂期に珍しい単身者の入居者であった。当時、同じ棟内に住んでいた住人たちの証言によれば、あまり近所づき合いをしない人物だったらしく、これといった情報はなかった。しかし、9年程前に団地を出た人物によると、隣に入居していた家の女の子を預かったりすることがあったという。もう高齢になる老人だったからか、祖父と孫娘のようにも見えたというが、血縁関係は一切なかったという。その女の子というのは隣の部屋に3年だけ入居していた、鷹元という母子家庭の娘だろう。この娘も母親が団地の中庭にある公園で変死したのを契機に家を出ている。その後の消息は不明で、どうしても追うことが出来なかった。
義兼氏が立ち退いてくれたら、すぐにでも建物を取り壊さなければならない。更地にして、木花が覆うまで土地を慰撫する必要がある。かつて帯刀老に伝え聞いたところによると、人の怨嗟が染みついた土地は草木が生えないという。穢れの残った土地に家を建て、人が住まうと障りがある。穢れは人に染み入り、また他の土地で穢れを振りまいて触るのだ、と。
しかし、穢れは散らすことができるという。時間はかかるが、誰も近づかず、草木が根を張り、花をつけ、実を結ぶまで待てば良い。随分と気の長い話だが、成程、とも思う。
私が出会う曰く付き案件というのは、大概がそういう死という穢れがもたらす事件が多い。自殺、殺人、そうしたものだ。中には想いのこもった道具などが原因であることもあるが、やはり人の死がもたらす穢れは少なくない。
この国には、昔から穢れには二つの概念がある。赤不浄と黒不浄だ。赤不浄というのは血にまつわる穢れであり、女性の月経や出産を意味する。対して、黒不浄とは死を意味する。これらは災禍を呼び、人に害を成すとされてきた。
つまり、私はそうした穢れの只中に、今まさに一人でいるのである。
「うう、ううう」
あまりの恐ろしさに嘔吐しそうだ。胃が痙攣しているのがよく分かる。背広の上着に常備している胃薬に手を伸ばした所で、数メートル先の街灯の下に誰かが座り込んでいるのが見えた。
「ヒィ」
情けない悲鳴が漏れ、手に取ったばかりの錠剤が地面に散らばる。
しかし、よくよく見ると街灯の下で座り込んでいる顔には見覚えがあった。
「あの、義兼慎三さんですか?」
距離を保ったまま声をかけると、白髪頭を上げて初老の男性がこちらを見た。
「ん? あんた、誰だい」
「私は県庁の対策室から参りました、大野木と言います。義兼慎三さんですか?」
「ああ、そうだよ。俺だ」
安堵で腰が抜けそうになる。なんてことだ。部屋に行く必要などなかったのだ。千早くんには無駄足を踏ませてしまった。今頃、不機嫌な顔をして戻ってきている頃かもしれない。
「お迎えに上がりました」
「ああ、そうか。そうだったな」
なんとも歯切れの悪い返答だ。
「どうかなさったんですか? 退去に応じるとのことでしたが」
「兄さん、煙草を持ってないかね?」
持っている。同居人が嫌がるので滅多に吸うことはなくなったが、仕事で焦燥に駆られることがあると堪らなく喫煙したくなるので常に上着に一箱常備していた。
「ショートホープですが、それでよければ」
「ショッポか。若いのに渋い趣味だな」
義兼氏は手慣れた様子で煙草に火をつけると、噛みしめるように紫煙を吸う。
「ああ、うまいな」
「それはよかった。しかし、どうして急に退去に応じて下さる気になったのですか?」
「そりゃあ、解放されたからだよ。俺だって好き好んでこんなトコに居たわけじゃない。どうしようもなかった」
「越してきたのは、まだ5歳くらいだったんだがね。母子家庭てやつさ。父親は死んだらしい。この母親の頭がおかしかったんだ。悪魔がどうとか、門を開くとか、贄がどうとか。みんな気味悪がってな。なんかの宗教でもやっているんじゃないかって。俺はそんなのが隣に越してきたもんだから、そりゃあ面倒なことになったなと思ったよ」
「お隣? たしか、鷹元さんという母子家庭のご家族がいらしたとか」
「ああ。死んだ親父の姓らしいがね。奇妙な母娘だった。娘は天使みたいな顔してるのに、母親は痩せこけた骸骨みたいな顔してな。働いている様子もなかったが、金に苦労しているようには見えなくてな。得体のしれない家庭だったよ。おまけに夜になるとな、壁が薄いから嫌でも声が聴こえてきやがる」
「虐待、ですか?」
「頭のおかしい母親が、ずっと娘を叱るんだ。それでな、よく怒鳴り込んでやったよ。そうすると静かになるからな。そうこうしている内に、その母親が死んだ。中庭に遊具があるだろう。ほら、あそこだ。あそこで死んだんだ。死因は心臓麻痺らしいが。あの娘は少しも泣いたりはしなかったよ」
紫煙を吐きながら、義兼氏が顔を俯く。
「あの娘にはな、死を扱う力があるんだ。生きものを殺したり、生き返らせたり。そんなことに気づいたのは、俺があの娘のやろうとしていることに気づいてからだった。遅過ぎたんだ、なにもかもが。それでも、死にたくねぇと願っちまった俺の頼みを、あの娘は叶えてくれたんだ。だがなぁ、もう俺は疲れたよ。こんな形で縛られるんなら、願ったりなんかしなかった」
なんの話をしているのですか、そう問おうとして、義兼氏が忽然と消えた。
「え? は?」
辺りを見渡しても影も形もない。ただ、ついさっき彼が座り込んでいた場所には、季節外れの蛍が息絶えていた。傍らに火の消えた煙草が一本、音もなく転がっていく。
意味がわからない。義兼氏は何処へ消えたのだろうか。
まさか、彼もまた死者の一人ではなかったか。
その結論に至り、血の気が引く。こうなれば、もうこんな場所にいる必要はない。
千早くんと連絡がつかない以上、論理的に考えて、彼は身動きが取れない可能性が高い。なんらかの脅威に遭遇した。問題は、私ではその脅威に対抗することは出来ないという点だ。共倒れになる可能性が極めて高い。
「今更、怖気付いてどうする。もう後戻りできないんだ」
第七棟へ駆け出す。恐怖のせいか、膝がうまく曲がらない。背広なんか着てくるんじゃなかった。せめて鞄くらい車に置いて来ればよかった。真夏の夜の夢というが、これはまぎれもない悪夢だ。今夜こそ私は命を落とすかもしれない。
逃げたい。けれど、彼一人置いて帰ってどうするというのだ。
第七棟のエントランスは荒れ果てているが、非常灯が淡く辺りを照らしている。ポーンと電子音がなり、到着したエレベーターの扉が開いた。どこからともかく啜り泣くような声が聞こえたが、無視してエレベーターに乗り込むと、ボタンも押していないのに上昇を開始した。ひび割れた鏡に自分以外の誰彼が写っているような気がしたが、背を向けて耐えた。
扉が開き、ひび割れた通路へ出る。頭上の蛍光灯が明滅し、酷く硫黄臭い。思わずハンカチで鼻と口を覆う。
問題の部屋は、鍵がかかっているどころか、そもそもドアがなくなってしまっていた。まさかと思い、中庭へ目をやると重い金属の扉がへし折れ、無残に転がっているのが見えた。
慌てて土足のまま室内へ飛び込むと、右眼から血を流して昏倒している千早くんの姿があった。駆け寄り、脈を取ると微かに呼吸もしているが、極端に脈が弱い。酷く衰弱した様子で、熱も高い。
呼びかけようとして、不意に襖が音もなく引いていく。六畳ほどの和室、その壁にもたれかかるようにして朽ち果てた屍体。風化して脂漏化した、その御遺体の格好には見覚えがあった。
「義兼さん。あなた、やっぱり亡くなっていらしたんですね」
手を合わせ、冥福を祈る。彼自身は、きっともう何年も前に此処で亡くなったのだろう。
千早くんを背負い、件の部屋を飛び出したところで違和感を覚えた。
朽ちかけた団地の手摺壁、その向こうから奇妙な音がする。低い唸り声のような、嘆くような音は中庭の方から聴こえてくるようだ。惹きつけられるように視線を投げると、朽ち果てた公園に何十人もの男女が立って、砂場の辺りを一点に眺めている。そこに、黒い孔が在った。
群衆の中に義兼氏の姿を見つけ、慌てて口を閉じる。あそこに集っているのは全て死者だ。恐らくは、この美嚢団地の穢れに触れて死んでいった者たち。
黒い孔の前に、一人の少女が立った。黒いセーラー服を着た、遠目でも酷く容姿の整った子だ。その子が、くるり、と軽やかに回る。
視線が合う、そう思った瞬間だった。
「見るな!」
背負っていた千早くんの右腕が、青白く半透明な腕が私の視界を塞いだ。水の中で目を開いたような朧げな視界の先、悪魔としか形容のしようがないナニカがこちらを視ていた。硫黄の火を孕んだような双眸。
瞳の奥に激痛が走り、意識が遠退く。膝が折れ、無様に廊下に転がった。
「大丈夫か、大野木さん」
「え、ええ。なんとか。千早くんこそ何があったのですか? いや、あれはなんなのですか?」
「不用意に顔を出すなよ。まともに眼が合ったら即死しかねない。どうやら、あれが元凶らしい。詳しくはわからないけど、ここを死の坩堝にしたのは今の小娘だ。ほら、前に鴉の混ざった死霊に襲われただろう。あの時の女の子だよ」
「それは、にわかには信じられませんが」
「あいつな、木山の姪の子なんだってよ。要するに、あいつが一枚噛んでる」
「ああ、なるほど。納得しました。それは、最悪の事態ですね」
木山氏は既に鬼籍に入っているが、生前は様々な曰く付きの骨董品を蒐集し、そうした収集物を用いて幾多のトラブルの種を蒔いていた人物だ。彼は生まれついて人の魂の色が視え、その輝きに執着するあまり、最期には人の魂を蒐集していたという。
「おい、大野木さん。あれ」
こっそりと手摺の支柱の隙間から外を覗く。そこには死者の群れもおらず、先程の少女も忽然と消えていた。砂場の上に浮かぶ黒い孔だけが、あの奇妙な音を立てている。しかし、すぐに孔も小さくなっていき、やがては見えなくなった。
「終わったな。もうここには何もいねーよ。思念の欠片も残ってない。本当に何もかもなくなっちまった」
吐き捨てるように言って、ごろりと仰向けに寝転がる。
団地全体に重く漂っていた、あの不吉で禍々しい空気が嘘のように消え去っている。一体どれだけの霊が此処に囚われていたのか。最早、想像もできなかった。
「とにかく解決はしたんだ。良しとしよう。まぁ、新たな問題に直面したわけだが。大野木さん、ひとつ調べて欲しいことがあるんだけど。その鞄の中にタブレット入ってる?」
「はい。それは勿論」
「ならさ、ここの義兼さんとこのご近所の入居者に旧姓が木山って女性はいるかな」
「…ああ、過去の住民録の中には、ありますね。旧姓は木山千賀子。入籍後は鷹元千賀子に。出産とほぼ同時期に夫とは死に別れています。こちらに入居して三年後に変死しています。そうか。この人が木山さんの姪に当たる方」
「問題は、その娘の方だ」
「はい。娘の名前は、鷹元ひさぎ」
「ひさぎ?」
「楸と書きます。きささげとも言う樹木の名で、中国では古来から薬として用いられてきたようです。果実は薬にも毒にも用いられたとか」
なるほど、と言って千早くんが身体を起こす。まだ痛むのか、右眼から血が一筋頬を伝う。
「大野木さん、あいつは木山さんから何かを託されてる。あいつは俺に言ったんだ。『門』を開く、と」
「門?」
千早くんは頷いて、左手で血を拭う。
「帯刀老に聞いたことがある。此岸と彼岸を繋ぐものがあるらしい。それは『門』であったり、『橋』や『孔』だったりするらしいんだけど、これはあの世に繋がってる。地獄? 黄泉の国? まぁ、呼び方はなんでもいいんだけど。あいつは言ったんだ。【あの『門』は小さ過ぎる。だから別の方法を探さないと】って」
「つ、つまり既に最低でもひとつは開いていると?」
なんてことだ。地獄への門が、この街にあるというのか。ああでも、それならば納得できる。確かにこの街は異常だ。行方不明になる者や、死者の数は全国でも群を抜いている。その為にわざわざ対策予算が組まれる程なのだから。
「私の使命は、県民が安全に健やかに生活できるよう務めることです。その為には鷹元ひさぎという少女を止め、『門』を閉じることが最優先事項かと」
「まぁ、大野木さんらしい答えだよな。そう言うと思ったよ」
「千早くんは乗り気ではないのですか?」
「死にかけたんだ。やる気満々なワケないだろ」
でも、と彼は続けて私の肩に左腕を回し、
「相棒がやるってんなら、付き合うさ」
さも面倒臭そうに言って、照れたように笑った。
「特別手当が出るよう掛け合ってみましょう。全てが解決した暁には、豪遊しましょう。どこかの観光地へ慰安旅行でも良いかと」
「野郎二人で慰安旅行ってのも奇妙だろ。でも、それなら俺、海外行ってみたいな」
「野郎二人で暮らしているのに、おかしなことを言いますね。ですが、海外というのも良い案です。溜まった有給を消化しなければ」
そんなことを言いながら、私たちは現場を後にした。
東の空が、もう白み始めていた。
作者退会会員
夜行堂奇譚の新作になります。
シリーズものなので、未読の方は読んでみてください。