俺がまだ都内のアパレル会社で働いていた頃の話。
国内工場をメインで使っていたが、当時は民主党政権下で異例の円高が続いていた。
時勢の波には勝てず、わがブランドも中国を始めベトナムやフィリピン。
果てはネパールまで生産工場を求め、俺も海外出張の頻度が激増していた時期だった。
今回の出張先はベトナム。
何度も行っているホーチミン。
いつもと違うのはスケジュールの都合上、週を挟むことになり、進捗によるが日曜はフリーになりそうとの事だった。
同行者は同じ課の先輩と二人。
後々、直属の上司になるけどこの頃はお互い平社員。
という事で、
スケジュールが違うだけで、面子も行き先もいつも通りの出張。
着いてからも、これまたいつも通り。
サンプル依頼、量産ラインの指示、工場視察、進捗確認。
想定していたよりスムーズに事が進んだので、
ちょっと早いが土曜日の午後にはフリーになった。
何度も来ているベトナム。
だが、市内を観光がてら歩くのはこれが始めてだった。
現地の日本語の流暢な女性スタッフがアテンドしてくれる。
「何処か行きたいところはありますか?」
親切に色々聞いてくれるが、恥ずかしながら二人とも何処になにがあるのか、有名な観光地すら知らない。
仕事馬鹿の先輩は早々にお手上げ状態。
「お前に任せるよ」という雰囲気だった。
思い付いた。
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「本屋に行きたいです。」
俺は本が好きだ。だから本屋も好きだ。
外国の本屋なんて考えただけでワクワクする。
学生時代、パリに旅行したときも服なんてそっちのけで古本屋に入浸り、しまいには一緒に行った友人とケンカになった事もあった。
連れて行ってもらった本屋は思ってたよりずっと綺麗で大きく、ベトナムの青山ブックセンターといった趣きだった。
どうして今まで思い付かなかったんだろう。
俄然テンションが上がる俺。
「ベトナムまで来て本屋かよ」と呆れる先輩。
あんたが任せるっつたんだろ。
色々と見て周り、女性スタッフが
「そろそろ夕食にしませんか?」
と言い出す迄、夢中であれこれ漁っていた。
先輩に至っては、ベンチでパソコンを開いて何かやっている。
「ベトナムまで来て仕事かよ」
俺は内心で毒づいて、迷いに迷った末、ベトナム人写真家の写真集とベトナムの折り紙の本を買った。
写真集は嫁に、折り紙の本はまだ小さいけど娘へのお土産にした。
その日はそのまま、工場のお偉いさんや出向している日本人のスタッフと合流して夕食となった。
余談だが、ベトナムは何故か中華料理が美味い。
俺は特に好き嫌いもなく、パクチーも平気だがベトナムの中華料理には何度もお世話になった。
楽しい夕食も終わり、ホテルへ戻る。
先輩は日本人スタッフ達と何処かへ消えた。
明日は一日中フリー。
が、今日アテンドしてくれたスタッフは来られない。
そりゃそうだ。
休日出勤までさせて俺等の観光に付き合わせるわけにはいかない。
抜かりのない俺たちは夕食の席で、何処かオススメの観光スポットはないか聞いていた。
「観光ならベトナム戦争記念館がいいですよ。」
日本人スタッフが含み笑いで教えてくれた。
「ちょっと刺激が強いかもしれませんが。」
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ベトナム戦争記念館。聞いたことがある。
確か、シャム双生児のホルマリン標本が展示してあるんだっけか。
特にそういったものが苦手でもない俺たちは、
せっかくだから行ってみるかという事で意見が一致した。
明日の予定も決まり、することもなくなった俺は、ビールを飲みながら買ってきた折り紙の本をめくった。
結構ちゃんとした作例が載っている。
日本の折り紙とあまり変わりはないが、どことなく荒削りな印象を受ける。
ベトナムにも折り紙があるとは知らなかった。
ルーツは何処なんだろう。案外と日本かもしれない。明日覚えてたら聞いてみよう。
目に止まった見本を折ってみる。
これは水牛かな。
折ってみると以外と難しい。日本のとは違い絵が不親切で折り方が解らないところが所々あった。
服飾の学校を出たくせに不器用な俺は早々に諦め、寝ることにした。
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次の日。
遅くまで飲んでたらしい先輩がなかなか起きて来ないので随分と待たされ、結局ホテルを出たのは昼近くになってからだった。
幸いホテルから徒歩圏内なので、散歩がてら歩いて行くことに。
ホーチミンの街並みは以外と言っては失礼だが、なかなかお洒落でヨーロッパ的な風情がある。
昨日の女性スタッフがフランス建築の建物がある、と言っていたがこの辺りがそうなのだろうか。
ただバイクの多さには閉口する。
道路の横断なんて一苦労だ。向かって来るバイクと目を合わせながら、ゆっくり一歩ずつ歩く。急に動くのは厳禁だそうだ。
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なんとか目的地に到着。ベトナム戦争記念館だ。
中に入る。外との気温差が凄い。冷房が効いている。効きすぎてるくらいだ。
意外と人が多い。大半が同じアジア系の旅行者のようだ。
白人の姿もちらほら見られる。何処の国からだろう。
枯葉剤の資料を熱心に見つめる白人女性が、目に止まる。
嘘だろ?と思う程太っている。が、腰の位置がやけに高い。足が長いのだ。
痩せたらさぞスタイルがいいんだろうな。と思いながら後ろを通る。
アメリカ人だろうか。アメリカ人はこれを見て何を思うだろうか。余計なお世話なことを考え先に進む。
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少し先を歩いていた先輩が、なにやら壁にある除き穴のような隙間を覗き込む。
「おっ。」
と言って顔を離し、こちらに向って手招きする。
言われるがまま、俺も中を覗き込む。
暗く狭い部屋のようだ。
簡素なベッドがひとつ。あっちにあるのは便器だろうか。
奥の暗がりに誰かいる。
人だ。
痩せた男がひとり、暗がりの隅に縮こまっている。手足には鎖が付いていた。
少し怯んだが、目が慣れるとそれが人ではないことが解る。
蝋人形のようだ。
精巧な、とは言えないがやけにリアルなその顔には表情はなく、目は虚ろだった。
人形だから当たり前か。
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先輩が後ろで、
「虎の穴みたいだな。」
と、ピントのズレた感想を言う。
「誰もプロレス修行なんかしてませんよ。」
俺は笑いながら顔を離す。
そばにある解説に目を通した。
どうやら戦時中の捕虜の部屋を再現しているらしい。
実際この建物は捕虜収容所だったとの説明もある。
早々に飽きたらしい先輩はズンズン順路を進んで行く。
俺もその後を追おうとすると、後ろで
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ジャラ……
鎖の音がした。
俺はもう一度、例の虎の穴を覗き込む。
暗がりには先程と変わらない捕虜の人形が座っていた。
鎖も動いた様子はない。
当たり前か…
顔を離す。
ふと周りを見ると、さっきより人が少ない。
あんなに居たのに。
少ない観光客のひとりが順路の先に進むと、そこには俺一人しか残っていなかった。
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ジャラ……
また鎖の音が聞こえる。
やっぱり冷房が効きすぎてる。少し寒い。
俺は聞こえないふりをして、順路の先に急いだ。
ふと靴の裏に違和感が。
何か踏んだものがくっついているようだ。
見ると、茶色いしわくちゃの紙切れだ。
折り紙のような。
取り敢えず靴底から剥がして、手に持ったまま先を急いだ。
先輩の姿は見えない。
展示品の鑑賞もそこそこに、バタバタと出口に向かうと先輩は既に見終わったらしく、出口の先で待っていた。
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「ちょっと、置いてかないでくださいよ。」
「遅えよ。そんな面白いものあったか?」
「先輩の鑑賞が雑なんですよ。もっとこう、思うことないんですか?」
「いやぁ。中、寒かったじゃん。冷えちゃって。
と思ったけど暑ちぃな外。」
確かに寒いくらいだった建物から一歩外に出ると、ベトナムの気温が俺を襲った。
「気温差凄いからクラクラしますね。」
「見るもんも見たし、取り敢えずホテル戻るぞ。腹減った。」
「帰りはタクシーですね。」
ようやく捕まったタクシーに乗り込み、正規の値段かどうかも解らない額を言い値で支払い、俺たちはホテルに戻った。
「ちょっと早いけど晩飯食おう。腹減っちゃった。ホテルのレストランでいいよな。」
「いいですよ。取り敢えず一旦部屋戻りましょう。シャワーも浴びたいし。」
「俺も。じゃあ準備出来たら電話くれ。」
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部屋に戻る。
俺はひどく疲れていた。日射病だろうか。
頭が重い。
そのままベッドに倒れ込む。
シャワーも浴びたいが、体が重い。
自然と瞼が閉じていった。
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ジャラ……
鎖の音で目が覚める。
鎖?
体を起こそうとするが、びくとも動かない。
金縛りだ。
金縛りは何度も経験しているが、こんなのは始めてだ。
指先も動かせない。
うつ伏せの体勢のまま、どうすることも出来ない。
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ジャラ……
また鎖の音がする。
誰かが部屋にいる。
この体勢では部屋全体は見えない。
かろうじてドア付近とバスルームが見えるくらいだ。
ジャラ……
部屋の奥からだ。
捕虜収容所の光景が頭をよぎる。
したくないが想像してしまう。
部屋の隅の暗がりに、
鎖に繋がれたあの捕虜が居る。
人形と同じ、虚ろな目をした。
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ジャラ……ジャラ……
ん?
ジャラ……
ジャラ……
ジャラ……
音の間隔が短い。
ジャラ……
ジャラ……
ジャラ……
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歩いているのか。
こっちへ。
ジャラ……
ジャラ……
来ないでくれ。
頼むから。
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ジャラ……
目の端に何かが見えてくる。
捕虜だ。
痩せた黒い足が見える。
それから腰。黄ばんだ服が。
手が見える。
それに付いた鎖も。
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顔は。
顔は見えない。
俯いてボサボサの髪。
フラフラと今にも倒れそうに。
でも、ゆっくりとこっちに。
顔が上がる。
やめろ。
見ないでくれ。
こっちを見るな。
ゆっくりと顔が上がる。
伸びた髭。痩けた頬。
そして、人形のような虚ろな目が。
感情のない目が俺を見下ろしていた。
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携帯の着信音が響く。
それをきっかけに金縛りが解ける。
体が動く。
サイドテーブルに置いてあるそれに飛びつく。
「遅えよ。ロビーで待ってんだけど。」
先輩の不機嫌な声が聞こえる。
いつもならつられてこっちも不機嫌になる声だが、今は心から安心する声だ。
現実の仕事馬鹿の声。
「すんません。寝ちゃってたみたいです。シャワー浴びてから行くんで、先に食っててください。」
「これからシャワーかよ。まあいいや。先に行ってんわ。」
電話を切る。
寝汗がひどい。
部屋の中に異常はない。
さっきまでが嘘みたいだ。
取り敢えずシャワーだ。
今なら幽霊よりも、先輩の方が怖い。
急いで汗を流し、着替える。
新しいシャツを被る。
ジーンズは、
そのままでいいか。
携帯をとりカードキーも。
あれ、カードキーは何処だ。
ああ、ジーンズの後ろポケットだ。
キーを取り出すと、何かがポケットから落ちた。
茶色い紙切れ。
記念館で手に持ったまま、無意識にポケットに入れてたらしい。
ゴミ箱に捨てる、
の前にもう一度見る。
なんだ、なんの形だ。
折り紙だった。
それはひどく捻れたトラの折り紙だった。
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俺はそれから3年程たって会社を辞めた。
アパレル業界に魅力を感じなくなっていたし、なんとかしてしがみついてやろうといった情熱もなくなっていたからだ。
今は家族で都内を離れて、俺の地元で暮らしている。
アパレルとは全く縁のない仕事だ。
先日、トラックのタイヤにチェーンを巻く手伝いをして思い出したので書いてみた。
明日も冷えそうだ。
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俺はもう行く機会もないだろう、あの国の事を思う。
照りつける太陽と雨季のスコール。
悲しい戦争と捕虜収容所のことを。
そして、鎖に繋がれたトラ達のことを。
作者Kか H