長編22
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小径の話

高校時代の話である。

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僕の通っていた県立高校は最寄駅から徒歩一時間はかかる、交通の不便な立地に建っていた。

山の麓にあって、側には枯れかけの川が流れ、民家が近隣にぽつぽつあるぐらいの典型的な田舎にある学校だった。

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一時期モノレールが開通するという話が持ち上がったらしいが、その後の報せがなにもないまま計画は無かったことになっており、未だ交通は不便なままだという。

だが校舎は数年前に建て替えがあったことでとても綺麗で、学校生活は快適に過ごせていた。

入学試験の折、開校60年を超えていると聞いていたので覚悟して校門をくぐったのだが、内装は真新しく、傷なんてほとんどないコンクリート造りの白壁を見たときに、拍子抜けしたことを今でも覚えている。

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高校に入学して、新たな生活とその環境に順応し、毎日が代り映えない日常になり始めた一年生の六月。この頃から不気味なことが起こり始めた。

といっても、学校生活の中ではなく、下校の際での出来事だった。

先に言ったように高校は最寄り駅から遠く交通が不便なため、ほとんどの生徒は自転車を通学手段としていた。そして僕もその一人であった。

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僕の家も高校と負けず劣らずの田園風景広がる田舎にあり、自転車で片道40分ほどかけて毎日通学していた。

よくもまあ往復1時間半ほどかけて、毎日通っていたものだなと今になって思う。

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終業時間は皆同じでも、下校時刻は生徒によって異なる。

「生徒は何かしらの部活に所属しなければならない」という誰が得をするのか分からないような暗黙のルールがあったため、

授業自体は16時前に終わるのだが、その後生徒は各自部活へと向かうことになる。

僕は友人の誘いでサッカー部に入部していたので、毎日帰途に着くのは19時を過ぎたころ、家に着くのは20時前という日々を送っていた。

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もう春の面影は消え去り、梅雨までしばしの猶予がある六月の初旬。

何日か暑い日が続いていたが、その日は特に夏を前借りしたような、陽差しの強い日だった。

朝早くに自転車を漕いで登校するだけで、着ているYシャツの背中にぐっしょりと汗が滲んでいく。

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湿気を多分に含んだその暑さに辟易しながら、退屈な授業を六つほどやっつけて、僕は部活に向かった。

体育系部活動の一年に求められるのは、雑用要員としての働きだけである。

その日もボール拾いやグラウンド整備に精を出し、ボールを碌に蹴ることもなく解散となった。

この現状に文句を垂れ流す同年代の部員を横目に、僕は手早く帰り支度を済ませる。

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長く居残ると見回りの生活指導教員にこっぴどく叱られるし、愚痴を垂れ流せる友人もまだいなかったというのもあった。

僕をサッカー部へと誘った、唯一心を開いている友人に一言挨拶をしてから、足早に駐輪場へと向かった。

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自転車にまたがり、ふと見た腕時計は18時50分ほどを指していた。

陽は西方のなだらかな山の稜線にほとんど沈みかけ、校舎の影は刻一刻とその領分を広げていくようだった。

日照時間の伸びに夏を予感しながら、額から吹き出た汗を手の甲で乱暴に拭う。気温は未だ下がらない。

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ここから一時間弱、自転車を漕いで家にまでたどり着かなければならないことを思うと、げんなりしてしまう。

しかしいざ自転車を漕ぎ始めると、風が顔の汗をさらっていき、幾分心地よかった。

帰りはなだらかな下り坂である。

学校の側を通る片側三車線の広い街道から一本逸れた寂れた旧街道。その道が僕の登下校の道だった。

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その道はかつて昭和の後期までは頻繁に使われていたらしいのだが、新街道が通ると、まるで忘れ去られたように車の行き交いが減ってしまったのだという。

だが車通りが少ないことや交差する道路が少ないことから、自転車が通るにはむしろ適している道であった。

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旧街道を走るころには、もう日は完全に暮れ、等間隔にぽつぽつと置かれた街灯が照っている。

旧街道に置かれた街灯は、新街道のそれに比べて間隔が広く、かえって夜の闇を濃くさせるように自身の足元だけをぼんやりと照らしていた。

初めて夜にこの街道を使ったときは、昼時とは全く違う顔を見せるその道に、僕は少し怖気づいてしまった。

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しかし新街道の車通りの多さや、信号の多さなどによる不便と天秤にかけてみて、しぶしぶ旧街道を使うようになると、

慣れとは不思議なもので、二か月もしないうちに不気味さがやがて心地よさに変わっていた。

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旧街道をのろのろと走り始めて20分ほど経ってから、道は二股に分かれた。

左手に行くと新街道と合流し、右手に進めば道は次第に細くなり、田んぼの端をとおってから急な下り坂へとつながる。

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僕の自宅はその坂を下りきって、川面から三メートルぐらいの高さにある、こじんまりとした橋を渡った先の、小さな町にある。

その二股の道を左に曲がって新街道と合流しても家に帰れるのだが、田んぼ道を突っ切った方が圧倒的に早く着くのだった。

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その日もなんの迷いもなくハンドルを右に切った。

やがて左右に申し訳程度に置かれていた街灯の間隔がさらに長くなり、ついには途切れてしまう。

光といえばぼんやりとした月明りと、新街道にある街灯や飲食店の明りのおこぼれぐらいか。あとは兄のおさがりである、このおんぼろ自転車の頼りないライトのみだ。

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左には広大な田んぼが広がり、右手には急な山の斜面が続いていて、白樫の枝が道へとせり出している。

その道は舗装などされておらず、大小様々な石を踏んでは自転車はごとごとと音を立てて揺れるような道である。

ハンドルをしっかり握っていなければ、バランスを崩してしまいそうになる。

自転車が揺れるたびに、教科書や部活着を詰め込んで膨らんだリュックの肩紐が、肩に食い込んで、鈍い痛みが走った。

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田畑は青々とした稲が一面に植わっているだろうが、田は闇に沈み何が植わっているのか判然としない。

街灯が無く、辺りが闇に暮れて代り映えしないこの細道は、昼間に通るよりもずっと長い気がした。

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この道に出口はなく、自転車を漕いでいるようで、その実全く進んでいないのではないかという錯覚に陥る。

そんな錯覚と、未だに蒸し暑い絡みつくような空気を振り払うように、ペダルをこぐ足に力を入れようとする。

腰を浮かせ足に力を入れたとき、後ろから音がした。

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――カラ、カラ。

すぐ後ろというわけでもないのだが、10メートルほど後ろだろうか、なにか金属を引きずっているような音が響いてくる。

気になって後ろを振り返るも、暗くてよく見えない。

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――カラカラ、カラカラカラ。

引きずるような金属音が近づいてくる。心なしか、人の荒い息遣いのようなものまで聞こえ始めた。

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――ガラガラ、ガラ

もう一度振り向く。

まだ何も見えない。

しかし自転車の五メートルほど後ろに何かがいることは気配で分かった。息が荒くなる。

その呼吸が僕の物か、得体の知れないものなのか一瞬分からなくなった。

近づいてくる正体のわからない不快な音に、ペダルを繰る足に力が入った。

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――ガラガラガラガラ、ガラガラガラガラ、ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ

やがてその音が、僕の漕ぐ自転車に並んだ。

ガラガラという金属音の途中に金属と石がぶつかるような音が混じっている。

僕は理解できない現状にひたすらペダルを漕ぎ続けた。

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最後の方はもう目を瞑って一心不乱に足を回していたと思う。

まだすぐ隣で、いや耳元で、不快な音を立てながら”なにか”が僕に並んで着いてきていた。横を見る勇気はなかった。

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やがてそれは「――キーッ」という甲高い叫び声のようなものを挙げたかと思うと、

ひときわ大きいガラガラッという音を立ててから、それからは何の音もしなくなった。

先ほどまでしていた異様な気配も消えていた。

エンマコオロギの鳴き声が、まるで思い出したかのように響き始める。

額からじわじわと汗が噴き出ては顎先から滴り落ち、それを生暖かい風がさらっていった。

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ブレーキを握り自転車を減速させてから、片足を凹凸のある地面についた。

鼓動が激しく脈打っていることが分かる。

全力で泳ぎ切った後のような激しい動悸と、耳に綿でも詰めたような閉塞感がしばらく続いた。

息が落ち着いてから、後ろを振り向く。

何もいないことを確認して安堵した後、再びペダルを漕ぎ始めた。

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あれは何だったのだろう。

二か月ほどこの道を使っていたが、初めての体験だった。

ただなんとなく、この世に起きる出来ごとや理からは外れた存在なのではないか、と漠然と思った。まだ脈動は激しかった。

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僕は霊やオカルトとは無縁の人生を歩んできていたので、実際に理解の及ばない体験をしてみると、恐怖というよりは呆然とした心持で現実感が持てないでいた。

その後、田んぼ道は拍子抜けするほどすぐ抜けて、やがて街路灯に照らされた下り坂に差し掛かった。

もう一度後ろを振り返る。やはり、なにもいなかった。

あれは幻だったのだろうか。

そう思おうとしたが、しばらくは、あの不快な金属音が耳にこびりついていて離れそうになかった。

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その日から、帰り道に件の細道を通ると、毎回ではないものの、後方をあの金属音が付いてくるということが続いた。

あの日のように僕を追い越さんばかりに横に並ぶことはなかったが、それでも自転車を漕ぐ僕の後ろを、付かず離れずでぴったり追ってきているような気がしていた。

しかしその細道を抜けると、その音は僕を追うことを辞めるのが常だった。

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初めての時のような焦燥感や緊張感はないにしても、その道を通ってあの金属音を聞くことは、

疲れ果てて帰途に着いた僕にとって、多少なりともストレスのかかることだったのだ。

なによりあのカラカラといった耳に着く金属音が、不快でたまらなかった。

その音の正体に、なにか心当たりというか聞き覚えがあった気がしたが、答えは出ない。

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あの時には呆然として現実感の無かった体験が、多大な恐怖感を伴って時間差で僕に襲い掛かってくるような気がして、

いつからかその道を使うことは無くなっていた。

便利な道も、無いものだと考えれば、使えなくてもさして不便ではない。やがて新街道を使った少し遠回りな登下校に慣れて時間が経った。

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半ばその道の存在を忘れたころ、サッカー部の友人が僕の家に泊まりに来ることとなった。

十月の初め、未だ暑さは残るものの、湿度が低く過ごしやすい日だった。

部活を終えて自転車を押して校門をくぐったのは、その日も19時過ぎだった。

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既に太陽はどっぷりと暮れていて、校舎は闇に沈み、

昇降口の明かりだけが頼りなく漏れ出ている。

カーディガンを羽織る生徒を何人か見かけて、あぁそろそろ冬か、などと思ったりもしたが、激しく動いた後の僕には、まだ夏の面影が尾を引いているように感じた。

隣を歩く例の友人は、ワイシャツの襟をつかみ、ぱたぱたとはためかせている。

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しばらくしてバツが悪そうに

「自転車、パンクしたんだ」と苦笑しながら言った。

この友人も自転車通学のはずだったが、自転車がないのはそういうことかと納得した。

どうやら朝はバスで来たらしい。

そしてそれは暗に、お前の家に行くのだから後ろに乗せてくれ、と言っているのだと少ししてから気付いた。

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僕はぶっきらぼうに「もう少し離れてからな」と言うと、友人はニカッと屈託ない笑顔を向けた。

二人乗りをしているところを、帰りがけの教員に見つかるわけにはいかない。

先日、サッカー部の友人が二人乗りをしていて教員に見つかり、

後日たっぷり説教された後、反省文まで書かされた、と嘆いているのを思い出した。

同じ轍は踏みたくなかった。

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その時ふと、あの旧街道とその先の細道のことを思い出した。

二人乗りはあいにく慣れていないので、できれば障害物や車のいない道を走りたい。

旧街道ならまだしも、一人ではあの細道は通りたくなかったが、誰かと一緒なら大丈夫だろう。

それに、あの時の恐怖が薄れていたというのもあった。

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結局僕は荷台に友人を乗せて、何か月かぶりの相変わらず薄暗い旧街道を進み始めた。

ペダルに足をかけた際、友人がなぜか荷台に半身で座る。

普通は跨いで座るものではないのかと思って、訝しながら友人の顔を見た。

僕の胡乱な視線に気づいた友人は俯いたかと思うと、上目遣いをしながら

「恋人座り」

と掠れた裏声で言った。

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日に焼けた坊主頭でそんなことを言わないでくれ。

僕は笑いそうになるのを堪えて、友人の頭を軽くはたくと、ペダルを漕ぎ始めた。

いつだか見た「耳をすませば」を思い出し、高校生活初めての二人乗りを、男としているという事実に少し複雑な気分になった。

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部活のことなどくだらないことを話しながら旧街道を進み続けると、やがて二股に出た。

右に進めば件の細道である。

少し迷ったが、慣れない二人乗りのせいか、やはり早く家に着きたい気持ちが勝りハンドルを右に切った。

細道は数か月前の記憶と何ら変わらなかった。

強いて挙げるとすると、山肌にそって群生するススキが、白い花穂をぶら下げていたことぐらいだった。もう秋である。

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友人は

「暗いな、この道」

ときょろきょろとあたりを見回すようにしてつぶやいた。

自然と足に力が入ってしまう。

すると少し漕いだところで、あまりの地面の凹凸に加え、二人分の人間の重みのせいか上手くバランスが取れず、左に倒れかけた。

その勢いで友人は自転車から飛び降りる。少しよろけてから「ひでぇ道だな」と悪態をついた。

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僕はこの道が舗装されておらず、走りにくいことを今更ながらに思い出した。

引き返そうかとも思ったが、あのY字路からはだいぶ進んできてしまっている。

仕方なく僕も自転車から降り、歩いて進むことを友人に提案した。

かつての恐怖が頭をちらつき、一人で自転車に乗ってこの道を抜けたい気もしたが、そこまで薄情にもなれなかった。

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友人は渋々といった様子で携帯のライトをつけて足元を照らしながら、僕の後に続いた。

しばらくお互い無言で歩き続けた。

きっと友人も疲れていたのだろう、その足取りは僕と同様に重かった。

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道の中ほどまで来た頃だろうか、突然何かを発見したらしい友人が、

山の斜面に沿うようにして茂っている背の高い雑草の中を、携帯のライトで照らしている。

そしてその茂みをかき分けてどんどん中に進んでいくと、しばらくして何かを重そうに抱えて戻って来た。

友人は「よっ、と」と声を漏らしながら、抱えていた物体を土の地面に慎重に置く。

おそらく蜘蛛の巣にでも引っかかったのだろう、制服のズボンを手で払っていた。

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「なんだこれ」

僕は言いながら友人が置いたものに目を凝らした。

そしてそれは薄汚れた自転車だった。

「自転車。草むらの中でなにか光が反射してると思ったんだ。」

友人は幾分自慢げである。

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その自転車はいわゆるママチャリだと思うが、

網籠は半分以上破れていて、前照灯も割れている。

特に車体右側のペダルとその付近のフレームがひどく歪んでいた。全体的に損傷がひどいし、なにより車体とチェーンが錆びていた。

携帯のライトで照らし出されたその車体は、およそ本来の自転車の用途通りに、人が乗れるとは思えない。

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「こんなぼろい自転車、どうするつもりだ」

僕が友人にそう問うと、彼は自転車のペダルをいじったり車体をさすりながら答える。

「タイヤはまだ大丈夫っぽいし、乗れねーかな」

僕は唖然とした。この自転車をどう見たら、乗れると判断できるのだろうか。

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おそらく近隣に住む人が、破損したこの自転車を放棄したりでもしたのだろう。

山の斜面に沿って茂る雑草は僕の背ほどもあり、人の手が入っているとも思えない。

自転車が投棄されたところで、すぐには見つからなかったのだろう。

だから、この自転車もいつ投棄された物とも判別できなかった。

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友人は汗を垂らしながら自転車をなんとか起こして、また何やらいじっている。

友人は黙々と自転車の復旧を試みているようだった。

この友人が、一度没頭するとすさまじい集中力を発揮するという、

ともすれば短所ともいえる気質であることを僕は熟知していた。

湿気のない冴え冴えとした風が吹いている。その風が汗ばんで火照った体から、体温を奪っていくようで、軽く身震いした。

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「あと10分も歩けば、舗装した道路にでれるぞ」

僕は呆れてそう言い残してから、

友人の「ああ」という生返事を聞いて再び自転車を押し始めた。

一人で自転車を押して歩いていると、かつての恐怖がふつふつと湧き上がってくるのに気付いた。

かつての体験が、自分の意志とは関係なく、まざまざと思い出される。

そして恐怖が自分の心を満たすようにじっくりと広がっていく。

それに耐えられなくなって友人に声を掛けようと歩みを止めたとき、後から音がした。

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あの音が。

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――カラ、、、カラ

その音を聞いた途端、僕は友人を呼ぼうと振り向く途中の態勢で固まってしまった。

内臓が締め上げられるような感覚に襲われ、上手く息が吸えずに呼吸が荒くなる。

今すぐ逃げたい欲求に駆られるが、体がうまく動かない。

心臓はバクバクと脈打ち、体も変に力んでしまって満足に動かせないというのに、

頭では友人を捨ておくわけにはいかないと冷静に判断していた。

しかしその音は近づいてくる。

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――カラカラカラ、カラ

ただ、かつてのような激しい音ではなく、緩慢な金属音である。

しかし狭い一本道をこちらに向かって近づいてきていることだけは確かだった。

鼓動はいまだ僕の体を駆け巡るように早く鳴り、強くなっていく。

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――ガラガラガタッ、カラカラ、ガラガラ

そしてその金属音の間に、かつてのような金属と石の衝突音のようなものが挟まっていることに気付いた。

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――ガラガラガラ、ガラ、ガラガラ

やはり記憶よりも緩慢な動きで近づいてきていた。

だがいよいよ振り向いて手を伸ばせば、”それ”に届くかという距離まで音が近づいてきたとき、僕は意を決して振り向いた。

僕の脈動と呼吸は、かつてないほど早く、荒くなっていた。

苦しくて出た涙で、視界ぼやけていたように思う。

それでも確認をして、この恐怖から解放されたいという想いが強かった。

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振り向いた途端、その音はぴたりとやんだ。

辺りには静寂が広がる。そしてその音の主と目が合い、それが僕を見下ろしていることに気付いた。

そいつはこの世ならざる者、

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などではなく、

損傷のひどい自転車友を必死に乗りこなそうとする友人だった。

荒い呼吸のまま中腰で今にも座りこんでしまいそうな僕を、友人は怪訝な顔で見下ろしている。

そして自転車から降りたかと思うと

「やっぱこの自転車、だめだわ」

大して残念がるそぶりもそう見せずに言い放った。

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どうしたんだお前、と心配そうに言う友人。

僕はなんとか立ち上がって友人の手を引っ張ると、

無理やり荷台に乗せてがむしゃらにペダルを回し始めた。

かの自転車は友人の手から離れると、バランスを失い地面に倒れ込んだ。その時のがしゃんという音が、やけに耳にこびりついた。

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「おい、どうしたんだ」

狼狽する友人。

「いいから!」

戸惑う友人を後ろに乗せ、凹凸の激しい地面を車体を揺らしながら進んでてく。

何度もバランスを崩しそうになる。だがそのたびにハンドルを強く握った。

かつてこの道で聞いたあの音は、さっきの自転車を友人が漕いでいた時の音にそっくりだった。

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あの金属音はおそらく、錆びついたチェーンを無理やりにでも回そうとして軋む音。

そしてパンクしたために、タイヤのホイールが地面の石と直接ぶつかる音だったのだろう。

あの音に妙な聴き馴染みがあったのは、今漕いでいるこの自転車が

初めて兄の手から僕に渡った時、あの自転車ほど酷くはなかったものの

道を走ると同じような音がしていたからだった。

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とにかく、あの時聞いた心身を凍えさせるような不快な金属音が、

あの自転車が発している音だということだけは確かだった。それは間違いない。

しかし、、、。

息を荒げて必死にペダルを漕ぎながらも、鎌首をもたげたある疑問に、僕はなにか合理的な解釈を見出そうとしていた。

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——では一体、あの時は何を乗せていたのだろう。

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今日、あの音を聴いたのは、友人が打ち捨てられていた壊れかけの自転車を無理やり漕ごうとした結果だった。

あれだけ錆びていたのだ。

誰が漕いだところで同じような音が鳴っていただろう。

ではあの時はどうだろうか。

今日と同じように、誰かがあの自転車で僕を追い掛けてきたのだろうか。

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それはあり得ない。

何故ならばあの自転車は、鬱蒼と茂る雑草に埋まるようにして放置されていたのだ。

そこに群生するススキなどの多年草は、友人が踏み入るまでは隙間がないほど繁茂していて、

自転車を抱えて帰って来た友人の後にはくっきりと踏み倒された跡が残っていた。

長い間その道に踏み入った者はいなかったはずだ。

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それに、あれだけ必死に友人が漕いでたのにもかかわらず、その速度は自転車を押しながら歩く僕よりも、ともすれば、遅いぐらいだった。

けれどあの時は、全力で自転車を漕ぐ僕をあっという間に追い抜くほどのスピードだったのだ。

同じようなガラガラという金属音だったのだが、自転車の状態を鑑みるに、

あきらかにあの時の自転車は常人を乗せていたとは考えられない。

何より僕は、”それ”を自転車だ、と判別すらできなかったから。

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息を大きく吐きながら、手は強くハンドルを握る。

足はペダルを激しく回すが、しかしいつもより人を乗せた分の重みが、足に負担としてのし掛かる。

脛の骨が軋み、太腿が張っているのが分かった。

それでも頭では、さきほどの出来事と数か月前の怪奇な体験のことを分析する。だが、答えは出なかった。

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友人が後ろを振り返りながら

「なんなんだよ」とつぶやく。

おそらくあの自転車を見ようとしていたのだろう。だがこの闇夜だ、もうあの自転車はずいぶん遠ざかってしまっている。

やがて車一台がやっと通れるほどの細道を抜けた。ここからは2車線の街灯の置かれた比較的明るい道である。

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ほっとしてペダルを繰る足から自然と力が抜けた。

説明を求めるような友人の不満げな視線を受け、息も絶え絶えでなんとか

「ごめん、後で話す」と振り向きながら言った。

かの細道はぽっかりと暗闇が口を開けているようだった。

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やがて急な下り坂へと差し掛かった。

汗で額に張り付いた髪の毛を、風が梳かすように後ろへと流していく。車輪は激しく回る。

友人は後ろで僕の両肩を掴んでいた手を上空へ掲げながら

「涼しー」

と叫んだ。耳元で叫ぶんじゃない。

ブレーキを軽く握りながら、考える。

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やはりあれは、人ではなかったのだと思う。

だが間違いなくあの自転車は何かを乗せて、あの時僕を追ってきたのだ。不快な音を響かせながら。

そこではた、と考え直す。

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だが僕は別に危害を被ったわけではない。

もしかしたら、偶然異形を乗せたあの自転車の往来に、僕が立ち会ってしまっただけなのかもしれない。

それでも、もうあの道を使おうとは決して思わなかった。

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急坂を下り、橋を渡ると僕の家へはすぐに着いた。

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結局その日、寝床に着いた際、友人に今までのことを話した。

友人は笑いを堪えながら聞いていたが、最後に

「幽霊の正体見たりぼろ自転車、ってか」と言って堪えきれずに吹き出した。

まるで真に受けていない。

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僕は苦笑いするしかなかった。

いかに恐ろしい思いをしたのか、懇切丁寧に教えてやりたい気もしたが、あまりにも疲れていた。

それにこうして笑い飛ばしてくれると、未だに心に、そして、耳にこびりつくあの恐怖が、薄まっていくような気がしたのだ。

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翌日は土曜日。久しぶりに部活も休みだった。

寝ぼけた友人を坂下にあるバス停まで送り届けてから、再び玄関を開けようとして僕ははっとした。

僕の家と隣の家とを隔てるフェンスに沿うようにして停めていた自転車に、違和感を感じたのだ。

確かめるために自転車に近づく。そして違和感の正体に気付いた。

錆びだった。

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以前からところどころ錆びていたのだが、チェーンを保護するように覆っているホイールが一晩で、すっかり赤茶色にくすんでいる。

それを認識した瞬間、心臓が一つ大きく跳ねた。

自転車の周りの敷石の上には、錆びの粉が落ちている。

一晩経って多少は恐怖が薄れた昨日のことが、「決して幻ではないのだぞ」と、あの自転車が、はたまた乗せていた何かが、僕に語り掛けでもしているのかだろうか。

もう、この自転車にも、乗れそうになかった。

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残りの高校生活、僕は新しく購入した自転車で、新街道を通って通った。

親に小言を言われながらも、近所のホームセンターで自転車を買ってもらった。

なんせ毎日部活に明け暮れていたのだ、バイトをして自転車を買うなんてできるわけもなかったのだ。

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あの自転車はたまに街をめぐりに来る廃品回収車に引き取ってもらった。

家の庇の下に置いたので風雨に晒したわけでもないのに、自転車は日に日に錆びていった。

そしてもちろんだが、あの道も昼夜問わず、二度と通ることはなかった。

もとより人通りなんて皆無に近く、誰かにあの道のことを聞くことはなかった。

あの時放置した自転車は、まだあの道に倒れているままなのだろうか。

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いつからかそんなこと考えることもなくなり、あの道に対する漠然とした恐怖だけが尾を引いていた。

我ながら臆病だと自嘲してしまうが、もう一度あの道を通って、

後ろからあの音が聞こえてきたらと思うと、どうしてもあの道への嫌悪は拭えなかったのだ。

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後日談である。

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やがて高校も卒業し、そんな体験も忘れていたころ。

あの田んぼが、マンションと何件かの住宅を建てるために区画整理されることとなった。

それに伴い、その端に通っていた小道は田とともに均され、山の斜面も土地を広げるために掘削されたのだ。

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そうした開発が進んでいる途中、ちょっとした騒ぎが起きた。

坂の上が何だか賑やかで、やがて警察が何人か駆け付けていたことを今でも覚えている。

近所の世間話好きな叔母によると、どうやら田んぼ脇の叢に自転車が投棄されていて、

その自転車の防犯登録から、十数年前に行方不明になった県内の高校生の物だということが分かったという。

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それからは大騒ぎだった。

土地開発は一時、停止を余儀なくされ、警察官や作業服を着た人たちが田んぼや山に入っていった。

おそらくその高校生の遺体が近くに遺棄されていると考えたのだろう。

このことは地元の新聞にも載った。

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しかし結局、その高校生の遺体が見つかることは無かった。

ただ見つかった自転車が経年劣化では考えられないような損傷をしており、

何かに追突されたような跡から、交通事故に遭った可能性が高いとのことだった。

その後も新聞は注意してみるようにしていたが、新しい情報は載っていなかった。

日に日にそのことすら忘れられ、気付けば区画整理も何も無かったかのように再開されていた。

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しかし僕にとっては、当分は忘れられないような大事件だったのである。

新聞を見て、その自転車がかつて僕を追い掛け、友人が乗りこなすのに難儀していたあの自転車だということを確信した。

友人が乗り捨てたあと(僕のせいだが)、数少ない通行者が邪魔で脇に除けでもしたのだろうか。

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ただそういくつも自転車があの道に投棄されているとも考えられないし、あの自転車の様子を思い出すと、事故に遭ったと言われても納得できる。

そしてあの自転車が車などに轢かれたのだとすれば、その事故現場は細道で間違いない。

もしもしひき逃げだとしても、わざわざ他所で轢いた自転車を運びこみ、道脇に投棄するのであれば、山まで登って茂みに捨ててしまったほうが確実に見つからないのだから。

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不謹慎とも思われるかもしれないが、あの自転車がなにか曰く付きであったと聞いたとき、少し安堵した心持になった。

突如自分を襲った到底理解できない事象に、僅かばかりの因果を見い出せたからかもしれない。

依然、不可解な現象に変わりはないのだが。

だがあの自転車を、もしくはあの道を媒介して、少年の無念が僕に訴えかけてきたと考えれば一応の辻褄は合うのだ。

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僕は初めてあの自転車に追い掛けられ、そして並ばれた時のことを度々、思い出す。

あの時は自転車を漕ぐのに必死で分からなかったが、気配が消える直前の甲高い叫び声のようなもの。あの音には聞き馴染みがあった。

あの音は、自転車のブレーキ音ではなかったか。

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かつて乗っていた古い自転車も、急ブレーキをかけるとうるさいほどの甲高い金属音が鳴ったものだった。

なにか小動物の叫び声にも聞こえたが、今考えれば、猛スピードで迫りくる鉄の塊から、

必死に逃れようと、躱そうとした音ではなかったかのだろうか。

その後のひときわ大きい何かが崩れるような音も、車との衝突音だと考えれば納得できる。

というよりは、一度そう思いついてからは、もうそれ以外には考えられなかった。

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自身の体験した怪現象と過去の事故に、自分なりの解釈をつけてもなんの意味もないことは承知している。

しかし、考えずにはいられなかったのだ。

あの道は、今では住宅街を縫う小道のうちの一通りであるし、薄暗くて走りにくいかつての面影は全く残っていない。

夜でも街灯と、民家から漏れ出る灯で明るく、左右を覆っていたススキや樫の木も無い。

また、その道でなにか怪現象が起きるということも聞くことはなかった。

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道が変わったのだ。

その道で起きたことや、起きたかもしれない事故のことなど次第に忘れられていく。

今はもう歳下になってしまった高校生の少年の、

あの自転車の、

そしてあの道の記憶はこの瞬間も消え去っていく。

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記録としては、地方紙の紙面の一部で、文字として残り続けるし、町の図書館で閲覧することも出来るだろう。

ただ「記憶」は「記録」として残されても、「記録」が誰かの「記憶」になることはまずない。

自身に迫るような体験の記憶というものは、不可逆なのだと思う。

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だからせめて、あんな体験をした自分だけは覚えていようと思った。

おそらくまだあの少年は発見されていない。どこかで生きていればそれでいい。

しかしもし亡くなっていたとしたら、僕はあの時体験した少年の訴えを、

はたまた「小径」の訴えを、

自転車の訴えを、充分に受け取ることはできなかったとしても、

忘れてしまうことはなにか薄情なような気がしていた。

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それにあれだけ怖い思いをしたんだ。

その体験になにか意味があってほしかった。

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今でもあの小径のような薄暗くて狭い道を歩くと思い出してしまう。

そしてついつい後ろが気になって振り向いてしまう。耳を澄ましてしまう。

何かが追ってはこないだろうか、なにか聞こえはしまいだろうか、と。

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しかしそれ以降不思議な体験をしたことは未だに、ない。

願うのはただ少年の無事と、

これからの僕の人生の平穏だけである。

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