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鬱蒼《うっそう》とした森が続く田舎道で、俺は一人、車を走らせながら煙草に火を付けた。
ここへ帰って来るのは、いつ振りだろうか——。
(確か……。両親の離婚以来だから、十年振りくらいになるのか……)
そんな事を考えながら、口元の煙草を離して口から煙を吐き出す。
離婚後、一人田舎に残った親父が病死したと知らせが届いたのは、つい昨日の事だった。元々親父と折り合いの悪かった俺は、両親の離婚後、一度も親父に会いに行く事はなかった。
その親父が死んだと聞かされたところで、俺は悲しいだの淋しいだの、そんな感情は一切湧かなかった。
ただ、田舎に帰るのは面倒だな——と。
五年前、女手一つで俺を大学まで進学させてくれた母親は、元々病弱だったせいもあったのか、過労で倒れるとそのまま体調を崩してこの世を去ってしまった。
どんな時も、俺の味方でいてくれた母親。
そんな母親が好きだった俺は、母親に苦労ばかりさせる親父が嫌いだった。
その親父も死に、今では身内と呼べる唯一の存在は、この田舎に住んでいる祖父母だけとなった。
母親が亡くなった時、俺を心配して田舎へ呼び戻そうとしてくれた祖父母。そんな祖父母の事は嫌いではなかったが、俺は田舎に戻る事を拒んだ。
——親父がいるから。
勿論それもあったが、何より、俺はこの田舎が大嫌いなのだ。
民家へと続く道へ差し掛かかったところで、俺は流れる景色を眺めながら昔を思い返した。
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「おいっ!! つまみはっ!? いつまで待たせんだっ!!」
畳に寝転がり、酒を片手にテレビを見ている父親が、台所にいる母親に向けてそう怒鳴り散らす。いそいそと台所から出てきた母親は、父親の側まで近寄ると口を開いた。
「ごめんなさい、待たせちゃって……」
手に持った皿を差し出すと、それをチラリと見た父親は思い切りその手を叩いた。
「きゃ……っ!」
手元から離れた皿は畳に転がり、驚いた母親は小さく声を漏らした。
「こんな不味そうなモノ、俺に食わせるのかっ!?」
「ごっ……ごめんなさい」
叩かれた手を抑えながら、ビクビクと怯えて謝る母親。そんな母親に怒鳴り散らす父親は、鬼の様な形相で持っていたグラスを壁に叩きつける。
ガシャーンッとグラスの割れる音が部屋中に響き渡り、驚いた俺はビクリと肩を揺らすと縮こまった。
外では複数の女性と関係を持ち、家では酒を呑んで酔っ払ってはこうして母親を怒鳴りつける父親。そんないつもの光景に、部屋の隅で蹲《うずくま》る俺はただ黙って時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「しけた面しやがって。……あーっ、気分悪ぃ」
そう言って大きく舌打ちをした父親は、床に転がる酒ビンを蹴飛ばすと部屋を後にした。きっと、女の人のところにでも行くのだろう。
パシンッと玄関扉が閉じる音を確認した俺は、パッと顔を上げると母親に駆け寄った。
「っ……お母さん。……大丈夫?」
「うん、大丈夫。……ごめんね、公平」
俺の頭を優しく撫でる母親は、そう言って悲しそうに微笑む。
畳に膝を着き、そこに散らばった食事を拾い始めた母親。その手元を見てみると、先程叩かれた右手は真っ赤に腫れ上がっていた。
(あんな奴……。早く、死んじゃえばいいんだ)
拳を握りしめて下唇を噛んだ俺は、足元にいる母親を見下ろして一筋の涙を零した。
頬に流れる涙を気付かれない様にこっそりと拭うと、母親のすぐ横に腰を下ろして片付けを手伝う。そんな俺を見た母親は、「ありがとう」と告げると、今にも泣き出しそうな顔をして優しく微笑んだ。
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「近寄んなよっ、性病っ!」
「うわ……っ! くっせぇ〜!」
「ほんとだっ! くせぇー!」
「性病の匂いだっ! くっせぇ〜!」
「「「性病ぉ〜っ! 性病ぉ〜っ! 性病ぉ〜っ!」」」
学校からの帰り道。いつまでも続く田んぼ道の真ん中で、同級生に囲まれた俺は、そんな悪口を浴びせられながらトボトボと歩いてゆく。
ゲラゲラと笑いながら、代わる代わるに俺を小突く智《さとし》と司《つかさ》と隆史《たかし》。
人口の少ないこの田舎では、大抵の者が皆顔見知りで。その狭いコミュニティの中で、複数の女性と関係を持っていた俺の父親。それは勿論、周知の事実として、大人達は呑んだくれの父親の事を悪く噂した。
それを間近で見ていた子供達は大人達を真似、その悪口の対象は父親ではなく、その息子にあたる俺へと向けられた。
悔しさに涙を滲ませた俺は、下唇を噛みしめると目の前の智を着き飛ばして一気に駆け出した。
「……あー! 性病が逃げたーっ!」
「っ、……いってぇ。……ふざけんな、公平っ!!」
「待てぇ〜! 性病ぉーっ!」
逃げ出した俺を捕まえようと、智達はゲラゲラと笑いながら追いかけてくる。
捕まってたまるかと必死に走って逃げるその姿は、まるで、獣に狩られる兎のようだ。
そのまま必死に走って逃げ切った俺は、玄関扉に手を掛けると家の中へと入ろうとした——その時。
グンッと軽く宙を浮くような感覚とともに、俺の身体は後ろへと引き戻された。
———!?
驚きに反射して背後を振り返ってみると、俺のランドセルを掴んだ智は、ゆっくりとした動きで口角を吊り上げた。俺を見つめて嬉しそうに瞳を細め、ニヤリと不気味に微笑んだ智。
「つ〜かま〜えた〜」
呆然と、そんな智の姿を見つめたまま硬直した俺は、額から冷んやりとした汗が流れ出るのを感じながら、ゴクリと小さく喉を鳴らした。
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———ドサッ
「……っ!」
智に引きずられるようにして裏庭へと連れ込まれると、突然突き飛ばされた俺はその場に尻餅を着いた。
再び三人に囲まれる状況に陥り、それでも負けてたまるかと智達を見上げて鋭く睨みつける。
「性病のくせに、生意気なんだよっ!」
そんな俺の態度が気に食わなかったのか、智は顔を歪ませると右足を大きく振り上げた。
———ドカッ
「っ……!? グッうぅ……」
あまりの痛さに、蹴られたお腹を抑えるとその場に倒れ込む。そんな俺の足元から靴を剥ぎ取った智は、ニヤリと微笑むと口を開いた。
「罰として、これは没収しま〜す! 返して欲しかったら、取ってみなー!」
ゲラゲラと笑う智は、俺の靴を持ったままおどけて見せる。
「……っ返、せよ!」
蹴られたお腹を抑えたまま、よろけながらにも立ち上がった俺を見て、パンパンと靴を打ち鳴らすと挑発する素振りを見せる智。
「取れるもんなら、取ってみろ〜!」
そう言うなり、突然駆け出した智達。
俺は裸足のまま智達の後を追いかけると、広い裏庭を懸命に走り回った。
「……返せ……っ! 返せよーっ!」
必死になって追いかける俺を見て、挑発しながら嘲《あざけ》り笑う智達は、草が生い茂った場所へと入って行くと一際大きな声を上げた。
「……あっ! なんか、いいもの発け〜んっ!」
shake
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———!?
少し遅れて追いついた俺の目に飛び込んできたのは、智のすぐ傍《わき》にある何とも不気味な井戸。
生まれてからずっとここで暮らしているとはいえ、裏庭といってもほぼただの山状態のこの場所。勿論、俺はこんな井戸が存在していただなんて、今の今まで知らなかった。
腐って黒ずんだその井戸は何ともおどろおどろしく、一瞬怯んだ俺は思わず一歩、後ずさった。
「お前のきったね〜靴に、ピッタリのゴミ箱だなっ! 俺が処分しといてやるよっ!」
———!!
あっ! と思った時には、既に遅かった。
俺の靴を高々と持ち上げた智は、井戸の上でパッとその手を離すと、そのまま靴を投げ入れた。
「……っ!? 何するんだよっ!!」
声を荒げる俺を見て、ゲラゲラと笑い出す智達。
悔しさから零れ落ちそうになる涙を必死に堪えると、震える拳をグッと握りしめてその場で俯く。そんな俺の姿に満足したのか、何事もなかったかのようにその場を立ち去っていった智達。
一人、その場に残された俺は、ゆっくりと井戸へと近づくとそっと中を覗いてみた。
長いこと使用されていなかったのか、中には水などなく、すっかりと渇ききっている。そのお陰か、井戸の底までハッキリと目視ができる。
想像していたより深さはなかったものの、真っ暗でじめっと湿ったその不気味な雰囲気は、実際の深さ以上のものを俺に感じさせた。
「あれ……?」
目を凝らしてよく見てみるも、先程智に捨てられた靴が見当たらない。
(一体、どこへいったんだ……?)
確かに、この井戸の中へ智は靴を投げ入れた。目の前で見ていたのだから、見間違うわけがない。そう思って必死に目を凝らしてみるも、やっぱりそこには靴らしき物はなかった。
仕方なく諦めることにした俺は、裸足のままトボトボと歩き始めると、沈んだ気持ちのまま自宅へと帰って行った。
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——その日の夕方。
赤く腫れ上がった頬をさする俺は、裏庭で一人、悔しさに涙を流した。靴を無くしたと謝罪した俺に向かって、酔った父親が怒って殴ったのだ。
(俺のせいじゃ、ないのに……っ)
やりきれない悔しさから、側にあった大きな石を掴むとジッと見つめる。
(これを、思いっきり投げたら……。少しは、悔しさも晴れるかな……)
「ニャア……」
いつの間に来たのか、俺の目の前で小さな鳴き声を上げた黒猫。痩せ細ったその身体から察するに、きっと野良猫なのだろう。首輪もしていない。
放心した頭で、そんな事を考えていると——。
気付けば、右手に持った石を何度も大きく振り上げていた俺。右手に伝わる、鈍い衝撃。
その何度目かの衝撃で、ハッと我に返った俺は、足元に横たわる黒猫に視線を落とした。
shake
——!!!
ピクピクと手足を痙攣させながら、顔面から大量の血を流し続ける猫。その姿は、もはや原形すらとどめていない。
「っ……ごめんっ。……ごめん、なさい……っ」
涙を流して謝りながら、震える手でそっと猫に触れてみる。その指先から伝わる体温はとても温かく——けれど、鼓動を感じる事はできなかった。
(……っ。どう、しよう……っ。どうしよう……っ)
自分のしでかした事態に恐怖すると、ガタガタと震え始めた身体でそっと猫を抱える。
(っ……か、隠さなきゃ……。でも……どこに……? ……あっ!)
井戸の中で消えた靴のことを思い出すと、そのまま猫を抱えて歩き始める。
(……もしかしたら——)
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そんな思いを胸に井戸の前までやってくると、コクリと小さく息を飲む。
俺は抱えていた猫を持ち上げると、ギュッと固く瞼を閉じ、そのまま井戸の上でパッと手を離した。
閉ざされた視界の中で、恐怖に震えながらも聞こえてくるはずの音にだけ集中する。
けれど、いつまで経っても聞こえてこないその音に、俺はゆっくりと閉じていた瞼を開くと、恐る恐る井戸の中を覗いてみた。
「……猫が……いな、い」
確かに井戸の中へと投げ捨てたはずの猫の死体。
それは、やはり先程の靴と同様に、井戸の中で忽然《こつぜん》と姿を消したのだった。
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——翌日。
いつものように学校へと登校した俺は、誰も教室にいない時間帯を見計らうと、智が大事にしているペンケースをコッソリと盗んだ。
智が筆箱代わりに使っている、この少し変わった型のポーチ。海外旅行に行った親戚からのお土産だとかで、そんな話しを教室で自慢気にしていた智を思い出す。
俺は手元のポーチを宙にかざすと、パッと手を離して井戸の中へと落とした。
ポーチの行方を目で追って見ていると、それは井戸の底へと着く瞬間、まるで何かに吸い込まれるようにして忽然と姿を消した。
「……ざまぁみろ」
何とも不可解なその現象を不思議に思いながらも、爽快感からフッと鼻から息を漏らしてほくそ笑む。
「——おいっ!! 公平っ!!」
———!!?
突然の声に驚くと、ビクリと肩を揺らしてゆっくりと後ろを振り返る。
「ペンケース盗んだの、お前だろっ!!?」
そう叫んだ智は、酷く怒った形相で俺に向かって突進してくる。それを既《すんで》の所でかわすと、俺は目の前の智を睨んで口を開いた。
「……そんなの、知るかよっ!!」
「お前以外に誰がいるんだよっ! ……この、貧乏人がっ!!」
掴みかかって殴ろうとする智をかわしながら、必死にその場で転げ回る。何とか立ち上がって、逃げようと背を向けた——その時。
グイッと背後から髪を掴まれ、俺はその痛みに思わず顔を歪めた。
(くそ……っ!)
頭にきた俺は、手元に転がる石を掴むと勢いよく後ろを振り返った。振り向きざまに、力任せにその手を大きく振り上げる。
shake
———ゴッ!
鈍い音を響かせた智は、その衝撃でドサリと後ろへ倒れた。
俺はハァハァと息の上がった呼吸のまま立ち上がると、智からの反撃に備えて身構える。
(…………?)
中々起き上がらない智を不思議に思い、ゆっくりと近寄って様子を伺う。
shake
———!!!?!!!?
ヘタリとその場に倒れこんだ俺は、ガタガタと震える身体で後ずさった。
目の前で、ピクリとも動かずに仰向けで倒れている智。その目からは尖った鉄が突き出し、後頭部から貫かれている。
草むらで隠れていてよくわからなかったが、所々に錆びれて折れた鉄や木材が落ちている。それに、運悪く刺さったのだ。
(そうだ……っ。これは……、俺のせいじゃない……)
そう自分へ言い聞かせると、呼吸を整えてもう一度智に近付いた。
草むらに横たわったままピクリとも動かない智を見て、思わず笑みが溢れる。
(……とりあえず、隠さなきゃ)
そう思った俺は、ズルズルと智を引きづって井戸まで移動させると、想像以上に重たい智を懸命に持ち上げた。
やっとの事で井戸の縁に上半身を置くと、ハァハァと息を上げながら額の汗を拭う。俺は休む間も無く智の足を掴み上げると、そのまま勢いよく井戸の中へと落とした。
「…………。さよなら、智……」
空っぽの井戸の中を見つめながら、俺はニヤリと笑って小さく呟いた。
——その後。
行方不明になった智の捜索は暫くの間続いたが、遺体など出てくる訳もなく、いつしか大人達は神隠しだと噂するようになった。
そんな大人達を横目に、俺は内心、何て馬鹿な奴らだと蔑《さげす》んだ。
智がいなくなったお陰か、司と隆史からのイジメも段々と減り始め、その後、中学二年で転校するまでの三年間、俺は比較的平穏な暮らしを送る事ができた。
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長いこと走らせ続けてきた車のエンジンを止めると、俺は目の前に建つ年季の入った日本家屋を眺めた。
「相変わらず、ボロいな……」
中学まで自分が暮らしてきた家を見つめてそう呟くと、車から降りて玄関先へと続く道を歩き始める。
———コツンッ
(ん……?)
何かを蹴飛ばしたような感触に、俺は自分の足元へと視線を落とした。
(これは……)
地面に転がっていた靴を拾い上げると、マジマジとそれを見つめる。
(……っ! やっぱり、そうだ!)
この靴は、あの時智に井戸の中へと捨てられたもの。
(何で……これが此処に……?)
やっぱりあの時、智は井戸になど捨てていなかったのだろうか? そう考えてみるも、それでも今になってこの場所にある事が不思議でならない。
(——! きっと、あいつらだ……っ)
俺が帰ってくると知った司か隆史のどちらかが、また俺に嫌がらせをしているに違いない。
(……あの時、やっぱり井戸になんて捨てずに持ってやがったんだ)
十年経っても変わらない関係にウンザリとしながらも、明日の告別式で恥でもかかせてやろうとほくそ笑む。
田舎から出た俺は、母親に楽をさせたい一心で猛勉強をした。その甲斐あって、ストレートで有名大学へと進学すると、そのまま大学を卒業して一流企業へと就職をした。
そう——今の俺は、昔とは違う。
足元の高級な革靴を眺めてフッと鼻で笑うと、俺は手の中にある薄汚れた靴を遠くへと放り投げた。
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——翌日。
告別式の受付が開始される中、やっと手の空いた俺は煙草を吸いに外へと出て来た。煙草に火を着けようと、何気なく受付を流し見た——その時。
その懐かしい人物の姿に目が止まり、ピタリと止まった俺の右手。十年経っても記憶の中にいる姿と変わらないその可憐さに、俺は思わず見惚れてしまったのだ。
この田舎で、俺に優しく接してくれた人と言えば、祖父母と母親以外では彼女だけだった。
河原美香。そう——彼女は、俺の初恋の人。
俺の視線に気付いた彼女は、その場で軽く会釈をすると俺の元へと歩み寄った。
「この度は、誠にご愁傷様さまです。……久しぶりだね、公平くん」
「……うん。久しぶり、河原さん」
親父の事などどうでも良かった俺は、それだけ答えるニッコリと微笑む。
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「——きゃあーーっ!!!」
———!!?
突然聞こえてきた大きな悲鳴に、何事かと騒ぎの方へと視線を向けてみる。すると、人など殆どいない受付の横で、なにやら一人の女性が騒いでいる。
「……ごめん。ちょっと、行ってくる」
「あっ、うん。……また後でね」
(何なんだよ、一体……)
俺は面倒に思いながらも、河原さんを残して受け付けへと向かった。
未だに一人騒いでいる女性に近付くと、「猫が! 猫が!」と地面を指差している。俺はその指先を辿るようにして、少し先の地面へと視線を向けてみた。
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———!!!
(っ、……何だよ、これ……っ)
頭から血を流して横たわる黒猫を見て、その気持ち悪さに思わずたじろぐ。その顔は原型をとどめぬ程にグチャグチャで、見ているだけで吐き気がする。
(なんて最悪なんだ……っ。どうすんだよ、この死体。俺が片付けなきゃいけないのか……?)
上から落ちて来たと言う女性の言葉に、俺は目の前の大木を眺めると大きく溜息を吐いた。
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「——公平。今、ちょっといいか?」
告別式も無事に終わり、部屋の片隅で食事をとっていた俺は、その声に視線を上げると声の主を見た。するとそこには、昔の面影を残しつつも立派な大人へと成長した司と隆史がいた。
「……あぁ」
面倒臭そうに答えた俺の態度を特に気にするでもなく、二人は俺の前に腰を下ろすと口を開いた。
「「あの時は……っ、ごめん」」
———!?
俺に向けて頭を下げる二人を見て、予想もしていなかった展開に面食らう。
(あの二人が……。俺に、謝るっていうのか?)
目の前で頭を下げ続ける二人の姿を見つめる俺は、一度小さく溜息を吐くとその重い口を開いた。
「……いいよ、もう」
(……何だか、拍子抜けだ)
そう思った俺は、それだけ告げると席を立った。また何かしてこようものなら、どう鼻を明かしてやろうかと画策していたのだが、どうやらそれは杞憂《きゆう》だったようだ。
気分転換にと外での一服を終えると、俺は再び部屋の中へ戻ろうと玄関扉に手をかけた。
「——公平には、近付くなよ」
———!?
中から漏れ聞こえた話し声に、扉からそっと手を離すと身を潜める。
(……俺の事?)
何やら、俺の話しで揉めている隆史と河原さん。俺はその会話に耳を傾けると、二人に気付かれぬよう息を殺した。
「……あいつはっ! 死んだ親父に、ソックリだよ!」
河原さんのすすり泣く声が聞こえた後、パタパタと走り去る音を残して静かになった扉の向こう側。俺はゆっくりと扉を開くと、中に向かって話し掛けた。
「……隆史。二人きりで話し、いいかな? 裏庭に行こう」
突然現れた俺に驚いた顔を見せる隆史。そんな隆史を見て、俺はゆっくりと口元に弧を描くとニヤリと微笑んだ。
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「明日には帰っちゃうなんて……。せっかく会えたのに、何だか寂しいね」
そう言って俯いた河原さんは、受け付けの横でピタリと足を止めた。
「……今度、遊びにおいでよ」
「え……? っ、うん」
ほんのりと赤く頬を染めると、嬉しそうに微笑んだ河原さん。そんな姿を見て、やっぱりまだ好きだな、と改めて思う。
「……ねぇ、公平くん。隆史くん、何処にいるか知らない? 一緒に帰る約束だったんだけど……見当たらなくて」
「さぁ……。俺は告別式で見かけたきりだから……分からないなぁ」
「そっか……」
「俺が送るよ」
「っ、うん。ありがとう」
照れたようにして微笑む河原さんを横目に、歩き出そうと右足を一歩前へと踏み出した——その時。
俺の目前で何かが落下し、ポトリと地面へと落ちた。
地面に転がる、見覚えあるポーチ。
(これは……智の……? あの時……確かに、井戸の中へ捨てたはず……。空から、降ってき……、た……? っ、え……?)
俺は震える手でポーチを拾い上げると、先程見た猫の死体と、昨日拾った靴のことを思い返した。
その全ての出来事を思い返しながら、ガタガタと小刻みに震え始めた俺の身体。
(じゃあ……。次に、降ってくるのは……っ)
俺は強張る身体をゆっくりと動かすと、絶望に満ちた瞳で空を見上げた。
頭上に広がるその空は、そんな俺を嘲笑《あざわら》うかのように不気味な色で覆われ——それはまるで、底なしの井戸の中のようだった。
—完—
作者邪神 白猫
裏庭にひっそりとある、その古びた井戸。
誰からも忘れ去られて腐って黒ずんだ姿は、近付くのも恐ろしい程にとても不気味だった。
——けれど、それ以上に不思議な魅力があった。
次第にその井戸に取り憑かれてゆく俺。
そこは——俺の過去を隠す、秘密の場所。