中田さんは、数年前まで、都内某商店街にある不動産屋で働いていた。
ある日、近くの定食屋で昼飯を済ませデスクに戻ると、事務の佐藤さんからクレームの電話があったことを告げられた。
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3丁目のYハイツのB棟3号室の戸田さんからだという。
(またか。)
中田さんは、眉をひそめた。
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クレームの内容は、2つ。
1つ目は、つい先日、業者に依頼して壁紙を張り替えたばかりなのに、また脱衣所の壁に、人型のシミが浮き出て来た。それも、以前より、色が濃くなっている。再度確認に来てほしいとのこと。
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2つ目は、地下室からハエが飛んで来ては、部屋中を飛び回るようになった。殺虫剤を撒いても、昼夜を問わず湧き出て来る。煩いし、不衛生だ。地下室を封鎖するか、ハエの侵入先を特定し何らかの対策をお願いしたいと言うものだった。
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「戸田さん、かなり大声で怒鳴っていました。」
困惑した表情で賃貸契約書を見る佐藤さんの顔は、心なしか青ざめていた。
「壁張替えたのって、たしか一昨日でしたよね。」
「・・・。」
「それと、Yハイツに、地下室なんてありましたっけ。」
「いや。ないよ。あるわけないじゃないか。」
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Yハイツは、築3年にも満たないメゾネットタイプの賃貸住宅で、敷地内にA、B、Cと3棟あり各1棟に3世帯が入居できる。
1階と2階が内階段で繋がれており、今流行の人目を引くモダンな作りに加え、駅から徒歩8分。商店街にもほど近い高物件である。
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「オーナーの斎藤さんには、連絡した?。」
「それが、何度も電話しているんですが、通じないんです。というか・・・。」
佐藤さんは、怯えた表情を浮かべ、固定電話をプッシュすると震える手で受話器を差し出した。
―この電話は、現在使われておりません。番号をお確かめの上・・・―
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「さっきから、ずっとこんな調子なんです。管理人さんも今日はお休みなのか、不在みたいで。どうしちゃたんでしょう。」
(まいったな)
「とにかく、これから出向いてみるよ。」
中田さんは、佐藤さんから渡された受話器を置くと、Yハイツ関連の書類をカバンに入れ店を後にした。
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クレームがあった日は、戸田さんが入居してから2週間しか経っていなかったと思う。中田さんは、管理人のSさんとともに、戸田さんの元を訪れた。
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玄関ドアの前で待っていた戸田さんは、陰鬱な表情をしていた。
気だるい表情を浮かべる戸田さんに導かれ、ダイニングキッチンを通り、シミが浮き出るというバスルームに案内された中田さんは、全身にゾワッと悪寒が走るのを感じた。
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「ここなんですけど。なんか気味が悪くて。」
戸田さんは、脱衣所に面した壁の真ん中あたりを指差した。
確かに、アイボリーの壁紙の中央に部分に、紫色のシミが薄っすらと浮かび上がっているのが見て取れる。。
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それは、シミというよりは、人の形をした影と言ったほうが当たっているかもしれない。
中田さんは、幼い頃に見かけた、豆電球に照らされた大きな人影を思い出した。
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「この浮き出たシミ。シルクハットを被ったお洒落な紳士に見えますねぇ。」
管理人のSさんが、場の空気を和ませようと、明るい声で話しかけても、戸田さんは、無言のままじっと壁に浮き出たシミを睨みつけているだけで応えようともしない。
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たしかに、Sさんの言う通り、壁のシミは、シルクハットを被り、直立不動で佇む中年男性に見えなくもない。体型は、やや細身。上背は、170センチ前後といったところだろうか。
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平面な壁面に浮かび上がるシミは、豆電球が映し出す人影のように妙に生々しく、カーテンの隙間から陽光がこぼれ落ちる度に、今にも壁から抜け出して来そうな気さえしてくる。
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幽霊の類を信じてはいなかった中田さんだが、訪れてからずっと悪寒が止まらない。
「気のせいか、少しずつ、形が変わっているように見えませんか。」
同意を求める戸田さんの声は、ぷるぷると慄(ふる)えていた。
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「気のせいですよ。ロールシャッハ検査だと思えば。ははははは。」
Sさんは、おどけてみせたが、戸田さんは、にこりともしなかった。
「他になにか気がついたこととか。おかしなことはございませんか。」
「ないですね。とりあえずは、このシミをなんとかしてほしいかな。」
「わかりました。早急に対処させていただきます。」
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中田さんは、管理人のSさんと相談し、オーナーの斎藤さんとその場で連絡を取り、即了承を得ることが出来た。その後、中田さんの馴染みのリフォーム業者に依頼し、翌日の午前中には、管理人のSさんから、無事張替え作業が終了したとの報告を受けたばかりだったのだが。
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「わずか2日余りで壁にシミが浮き出るとは、どういうことだ。」
問題は、シミだけではなかった。
地下室と、そこから湧き出るハエの存在である。
2日前に訪れた際は、ハエや蚊は一匹も飛んではいなかったはずだ。
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長年、この仕事をしていると、借り手が頻繁に入れ替わる部屋、なかなか借り手のつかない部屋、何故か全く売れない物件を手掛けることがままある。
過去、数件曰く付きの「事故物件」を数件手掛けたことがあったが、一度もクレームを受けたことがない。
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仮に何らかの怪異や幽霊の類に遭遇したとしても、彼らとて、生前は、自分と同じ人間だったのだから、最悪、お祓いとか、ご供養とかすれば落ち着いてくれるだろうと気楽に考えていた。
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そういえば、内見に来ていた客が、それとなく話していた言葉を思い起こす。
「B棟のスペースを、A棟とC棟の中庭にしたら良かったのに。」
「B棟、どうして建てたんでしょう。ない方がすっきりするのに。」
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B棟に感じる違和感をうすうす感じてはいたが、都会では、狭い立地にアパートやマンションが屹立するのは、当たり前のことだ。この程度ならと、別段気にも止めなかったのだが。
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中田さんは、逸る気持ちを抑えつつチャイムを押し、わざと明るい声を張り上げ呼びかけたが返事がない。
仕方がないので、合鍵で中に入ろうとドアノブに手をかけたとたん、ドアが、ひとりでに、すぅと手前に開くやいなや、
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この瞬間を待っていたかのように、夥(おびただ)しい数の銀バエが、ぶ~ん、ぶぶぶぶ~んと不快な羽音をさせ、所狭しと飛び回った。身体にまとわりつこうとする数十匹のハエを手で払いのけながら、中田さんは、
「戸田さーん、例の件で参りました。入らせていただきますよ。」
声を張り上げ、ゆっくりと足を踏み入れた。
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むせ返るような異臭が鼻を突く。
4月上旬だというのに、湿気を帯びた室内の淀んだ空気。
数年前に独居老人の孤独死の現場に立ち会ったことがあるが、その時と、似たような空気に吐き気を覚えつつ、戸田さんの名を呼び続けた。
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「ヒューぃ。」
微かな息遣いが聴こえる。
閉じられたブラインドから溢(こぼ)れる陽光を頼りに、息遣いのするあたりへ足を向けると、ダイニングテーブルの足元に凭(もた)れかかるように俯く男がいた。
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「と、戸田さん・・・ですね。」
「・・ゔっゔゔゔゔゔ」
喉を締め付けるような呻(うめ)き声とともに、項(うな)垂れていた男の首がぐらぐらと左右に揺れた、
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近づこうとした瞬間、バランスを崩した中田さんは、張り替えたばかりのアイボリーの壁面が、赤紫色に変色しているのを目の当たりにした。
うぐっ
中田さんは、息を呑んだ。
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黒いシミと思われたものは、銀バエの大群で、ネトネトと壁にへばりつき、大きな塊となって蠢(うごめ)いていたのである。
銀バエは、中田さんの存在に気づくと、不快な羽音を震わせながら、壁から一斉に空中へと飛び立ったのだった。
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ハエの大群が去った跡には、例のシルクハットを目深に被り、直立不動で佇む男の姿が、塗り固められたように張り付いていた。2日前に見た時より、更に色濃く鮮明になっているのは、確かだった。
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ベリ
べリ
べリ
何かが剥ぎ取られる音を耳にした。
(う、嘘だろう。)
男の姿をしたシミ、いや人影が、壁からゆっくりと身を乗り出し始めたのだ。
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うわぁ。
尻もちをついたはずみで、バスルームのドアが閉まりかけ、やがて、不穏な音をさせ、ひとりでにドアが開いた。
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おそるおそる壁に目を移すも、
え?
なんと、件の壁は、張り替えたばかりの真新しいアイボリーの壁に変わっているではないか。
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赤黒く変色した壁も、その壁から、身を乗り出し、今にも実体化するかのごとき男の影は、嘘のように消失していた。
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混乱する中田さんの耳に、
う“ゔゔゔゔゔゔ
戸田さんと思しき嗄(しゃが)れた声が溢れ聞こえてきた。
(そうだ。戸田さんを助けなければ。なにをやっているんだ。しっかりしろ俺。)
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眼の前の状況を把握し、気持ちを落ち着かせるのに数分を要した中田さんは、ポケットから携帯を取り出し、救急車と警察に電話をかけた。
「戸田さん、今、救急車呼びましたから。がんばってください。」
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『とにかく、早く来て。』と何度も繰り返し叫んだことは覚えている。
中田さんは、警察と救急車を待つ間、戸田さんを励まそうと近寄った。
その時、ふと、心に湧き上がる違和感に愕然とする。
(ち、ちがう。戸田さんじゃない。)
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なんと!そこにいたのは、オーナーの斎藤さんだった。
「さ、斎藤さん。こ、これはいったいどういうことですか。戸田さんは、戸田さんは、どこですか。」
斎藤さんは、顔をこちらに向けると、
「・・・ち、か、し、つ・・・」
と、呟いた。
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斎藤さんの顔の周りを大きな銀バエが邪魔をするかのように煩(うるさ)く飛び回る。
何度振り洗おうとしても、しつこい銀バエは、斎藤さんの顔や右半身を埋め尽くすようにへばり付いて離れようとしない。
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「戸田さんは、地下室にいるんですか。どこなんです。地下室。」
斎藤さんは、銀バエをくっつけたまま、右手でキッチンとソファの、ちょうど中間あたりを指さした。
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そこには、中田さんの知らないポッカリと空いた「穴」があった。一メートル四方の穴から、冷気と湿った空気とともに、羽音をさせながら銀バエ数十匹が出入りしているのが見えた。
どうやら、ハエと異常な臭気の発生源は、この空間から湧き上がっているようだった。
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それは、地下室などではなかった。
井戸
汚泥の詰まった涸れた井戸だった。
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深さ5メートルほどもあろうか。
井戸 とわかった途端、中田さんは、絶句した。
この道10年以上のベテランだが、この地域に、かつて井戸があったことなど聞いたこともない。
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ぽとん
ぽとん
ぽとん
涸れた井戸の中から雫(しずく)が垂れる音が聞こえてきた。
(まさか)
中田さんは、身を乗り出し、更に井戸の中を覗き込んだ。
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昼下がりの陽光に微かに照らされた井戸の底には、ついさっきまで、バスルームの壁にへばりついていた男がいた。男は、こちらに背を向け、直立不動で佇んでいた。
もはやシミや影ではない。三次元のの存在と化した男に、中田さんは、思わず大声をあげてしまった。
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その声に反応するかのように、男は、左手でシルクハットの端を掴むと、少しずつ少しずつ身体を動かし始めた。
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じり
じり
じり
汚泥を擦る足音が響く。
男の身体が横向きになりかけた時、バンというけたたましい音とともに、昼白色の眩(まばゆ)い光が差し込み、男の姿も夥しいハエの大群も、地下室いや1メートル四方にくり抜かれた井戸も、いつの間にかきれいさっぱり消失していた。
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中田さんの肩にポンと手が置かれた。
「警察です。」
ふと我に返る。
救急車と警察が到着したらしい。
外は、野次馬で騒然としていた。
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「ここからは、私達が。事情は、後から詳しく伺います。」
後から気づいたのだが、警察が到着した時、中田さんは、パニック障害に陥り、過呼吸状態に陥っていたらしい。
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パニック障害と支離滅裂な言葉を発し続けたせいで、中田さんは、斎藤さん同様、救急車で緊急搬送されてしまった。
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「そりゃ、あんなもの見た後じゃ誰だって正気でいられませんよ。そうでしょう?」
「では、探していた戸田さんは、どこに行ってしまわれたのですか?」
私の問いかけに、中田さんは、激しく首を横に振った。
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「戸田さん・・・って、最初からいなかったんですよ。」
中田さんは、力なく笑った。
「どういうことですか。」
「・・・・・・」
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「では、オーナーの斎藤さんは、大丈夫だったんでしょうか。」
「多分、大丈夫じゃなかったと思います。」
中田さんは、これ以上は勘弁してくださいと両手を横に振り、二度と口を開こうとはしなかった。
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Yハイツは、オーナーを変え、今でもあるらしい。
B棟3号室が、その後どうなったのかはわからない。
中田さんは、長年勤めた不動産屋を辞め、今は、I県にある奥さんの実家で農業を営んでいるそうだ。
作者あんみつ姫
久しぶりに書いてみた ふたば様の三題お題。
ご笑覧いただけましたら、幸いに存じます。