中田さんは、数年前まで、都内某商店街にある不動産屋で働いていた。
ある日、近くの定食屋で昼飯を済ませデスクに戻ると、事務の佐藤さんからクレームの電話があったことを告げられた。
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3丁目のYハイツのB棟3号室の戸田さんからだという。
(またか。)
中田さんは、眉をひそめた。
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クレームの内容は、2つ。
1つ目は、つい先日、業者に依頼して壁紙を張り替えたばかりなのに、また脱衣所の壁に、人型のシミが浮き出て来た。それも、以前より、色が濃くなっている。再度確認に来てほしいとのこと。
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2つ目は、地下室からハエが飛んで来ては、部屋中を飛び回るようになった。殺虫剤を撒いても、昼夜を問わず湧き出て来る。煩いし、不衛生だ。地下室を封鎖するか、ハエの侵入先を特定し何らかの対策をお願いしたいと言うものだった。
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「戸田さん、かなり大声で怒鳴っていました。」
困惑した表情で賃貸契約書を見る佐藤さんの顔は、心なしか青ざめていた。
「壁張替えたのって、たしか一昨日でしたよね。」
「・・・」
「それと、Yハイツに、地下室なんてありましたっけ。」
「いや。ないよ。あるわけないじゃないか。」
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Yハイツは、築3年にも満たないメゾネットタイプの賃貸住宅で、敷地内にA、B、Cと3棟ありいずれの棟も3世帯入居できる。
1階と2階が内階段で繋がれており、今流行の人目を引くモダンな作りに加え、駅から徒歩5分に満たない高物件である。
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「オーナーの斎藤さんには、連絡した?。」
「それが、何度も電話しているんですが、通じないんです。というか・・・。」
佐藤さんは、怯えた表情を浮かべ、固定電話をプッシュすると震える手で受話器を差し出した。
―この電話は、現在使われておりません。番号をお確かめの上・・・
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「さっきから、ずっとこんな調子なんです。管理人さんも今日はお休みなのか、不在みたいで。どうしちゃたんでしょう。」
(まいったな)
「とにかく、これから出向いてみるよ。」
中田さんは、佐藤さんから渡された受話器を置くと、Yハイツ関連の書類をカバンに入れ店を後にした。
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最初のクレームがあった日は、戸田さんが入居してから2週間しか経っていなかったと思う。中田さんは、管理人の島田さんとともに戸田さんの元を訪れた。
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玄関ドアの前で待っていた戸田さんは、陰鬱な表情をしていた。
挨拶もそこそこに、戸田さんに導かれ、ダイニングキッチンを通り、シミが浮き出るというバスルームに案内された中田さんは、全身にゾワッと悪寒が走るのを感じた。
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「ここなんですけど。なんか気味が悪くて。」
戸田さんは、脱衣所に面した壁の真ん中あたりを指差した。
確かに、アイボリーの壁紙の中央にあたる部分に、紫色のシミが薄っすらと浮かび上がっているのが見て取れる。
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それは、シミというよりは、人の形をした影と言ったほうが当たっているかもしれない。
その影を見た中田さんは、幼い頃、田舎の祖父宅に止まった際、豆電球に照らされた黒く大きな人影を思い出した。
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人影は、深夜トイレに行く途中、寝相の悪い中田さんを気遣い、寝室を訪れた祖母の姿を豆電球が映し出したに過ぎなかったのだが、まだ、幼い中田さんには、その人影が、やたら不気味に視えて、声を上げて泣き出してしまったのだった。その日以来、祖父の家が、苦手になった。
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記憶の底に眠っていた過去の思い出が、今日に限って苦く蘇ってくるのは何故だろう。
中田さんは、ふと湧き上がった雑念を振り払うがごとく、管理人の島田さんと戸田さんの間に割って入った。
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「この浮き出たシミ。シルクハットを被ったお洒落な紳士に見えますねぇ。」
管理人の島田さんが、場の空気を和ませようと、明るい声で話しかけるも、戸田さんは、じっと壁に浮き出たシミを睨みつけているだけで応えようともしない。
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たしかに、島田さんの言う通り、壁のシミは、シルクハットを被り、直立不動で佇む中年男性に見えなくもない。体型は、やや細身。上背は、170センチ前後といったところだろうか。
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平面な壁面に浮かび上がるシミは、豆電球が映し出す人影のように妙に生々しく、今にも壁から抜け出し、こちらに向かって歩き出しそうな気さえする。
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幽霊の類を信じてはいなかった中田さんだが、訪れてからずっと悪寒が止まらない。
「気のせいか、少しずつ、形が変わっているように見えませんか。」
同意を求める戸田さんの声は、ぷるぷると慄(ふる)えていた。
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「気のせいですよ。ロールシャッハ検査だと思えば。ははははは。」
島田さんは、おどけてみせたが、戸田さんは、にこりともしなかった。
「他になにか気がついたこととか。おかしなことはございませんか。」
「ないですね。とりあえずは、このシミをなんとかしてほしいかな。」
「わかりました。早急に対処させていただきます。」
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中田さんは、管理人の島田さんと相談し、オーナーの斎藤さんとその場で連絡を取り、即了承を得ることが出来た。その後、馴染みのリフォーム業者に依頼し、翌日の午前中には、管理人の島田さんから、無事張替え作業が終了したとの報告を受けたばかりだったのだが、わずか2日余りで壁にシミが浮き出るとは、どういうことだ。厭な汗が流れてきた。
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問題は、シミだけではなかった。
地下室と、そこから湧き出るハエの存在である。
2日前に訪れた際は、ハエは一匹も飛んではいなかったはずだ。
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長年、この仕事をしていると、借り手が頻繁に入れ替わる部屋、なかなか借り手のつかない部屋、何故か全く売れない物件を手掛けることがままある。
過去、数件曰く付きの「事故物件」を数件手掛けたことがあったが、一度もクレームを受けたことがない。
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仮に何らかの怪異や、よしんば幽霊の類に遭遇したとしても、彼らとて、生前は、自分と同じ人間だったのだ。最悪、お祓いとか、ご供養とかすれば落ち着いてくれるだろうと気楽に考えていた。
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そういえば、この物件を内見に来ていた客が、それとなく話していた言葉を思い起こす。
「B棟のスペースを、A棟とC棟の中庭にしたら良かったのに。」
「B棟、どうして建てたんでしょう。ない方がすっきりするのに。」
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中田さん自身、B棟に対する違和感をうすうす感じてはいたが、都会では、狭い立地にアパートやマンションが屹立するのは、当たり前のことだ。この程度ならと、別段気にも止めなかったのだが。
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2度めの訪問である。
中田さんは、逸る気持ちを抑えつつチャイムを押した。
・・・・・・
応答がない。
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「戸田さーん。こんにちは。にこまる不動産ですが。」
再び、チャイムを押しながら、努めて明るい声を張り上げ呼びかけてみるも、全く反応がない。
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仕方がないので、合鍵で中に入ろうとドアノブに手をかけたとたん、ギィと鈍い音を立て、ひとりでにドアが開いた。
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その隙間から、この瞬間を待っていたかのように、夥(おびただ)しい数の銀バエが、ぶ~ん、ぶぶぶぶ~んと不快な羽音をさせ飛び出してきた。
「うわぁ、なんじゃこりゃ。」
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中田さんは、身体にまとわりつこうとする数十匹のハエを手で払いのけながら、
「戸田さーん、にこまる不動産です。例の件で参りました。入らせていただきますよ。」
声を張り上げ、ゆっくりと足を踏み入れた。
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むせ返るような異臭が鼻を突く。
4月上旬だというのに、湿気を帯びた室内の淀んだ空気。
数年前に独居老人の孤独死の現場に立ち会ったことがあるが、その時と、同じ臭いと漂う空気に吐き気を覚えつつ、戸田さんの名を呼び続けた。
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ヒュー ヒュー ヒュー
微かな息遣いが聴こえてきた。
閉じられたブラインドから溢(こぼ)れる糸のような陽光を頼りに、息遣いが聴こえるキッチンのあたりへ身を乗り出す。
そこには、ダイニングテーブルの足元に凭(もた)れ、頭頂部を見せたまま項垂れる男がいた。
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駆け寄り跪き、肩を揺すりながら、声をかけた。
「と、戸田さん・・・ですね。大丈夫ですか。どこか具合でも悪いのですか。」
「・・ゔっゔゔゔゔゔ」
喉を締め付けるような呻(うめ)き声とともに、項(うな)垂れていた男の首がぐらぐらと左右に揺れた、
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首は、90度に折れ曲がり、顎の部分から、血が滴り落ちていた。
予想外の事態におののき、バランスを崩した中田さんの目に、張り替えたばかりのアイボリーの壁面が、赤紫色に変色しているのが見えた。
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うぐっ
中田さんは、息を呑んだ。
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黒いシミと思われたものは、ネトネトした粘液をひきずり、塊となって蠢(うごめ)いている銀バエの大群だった。
銀バエは、中田さんの存在に気づくやいなや、壁から空中へと一斉に飛び立ち、不快な羽音を震わせながら瞬く間にその場からいなくなった。
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銀バエの大群が去った跡には、例のシルクハットを目深に被り、直立不動で佇む男の姿が、塗り固められたように浮かび上がっていた。たしかに、2日前に見た時より、更に色濃く鮮明になっている。
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ベリ
べリ
べリ
何かが剥ぎ取られる音がし始めた。
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(う、嘘だろう。)
壁に浮かび上がる男の姿をしたシミが、壁からゆっくりと身を乗り出し、中田さんに向かって近づいてこようとしているのだ。
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うわぁ。
信じられない事態に、混乱した中田さんは、その場に転倒し、フロアに腰をしたたかに打ち付けてしまった。
身体中に激痛が走り、うつ伏せになったまま、とうとうその場から動けなくなってしまった。
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ほんの十数分が、まるで数時間にも感じるほどの痛みに耐えながら、中田さんは、おそるおそる顔を上げ、件の壁を見やった。
え?
なんと、壁は、張り替えたばかりの真新しいアイボリーの壁紙に変わっているではないか。
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赤黒く変色した壁はおろか、壁から、身を乗り出し、今にも実体化し、中田さんに遭遇しようとしていた男の姿も嘘のように消失していた。
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混乱する中田さんの耳に、
う“ゔゔゔゔゔゔ
戸田さんと思しき声が溢れ聞こえてきた。
(そうだ。戸田さんを助けなければ。なにをやっているんだ。しっかりしろ俺。)
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眼の前の状況を把握し、気持ちを落ち着かせるのに数分を要した中田さんは、ポケットから携帯を取り出し、救急車と警察に電話をかけた。
「とにかく、早く。早く。来てくれ。YハイツB棟3号室 駅から5分。」
と何度も何度も繰り返し叫び続けた。
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「戸田さん、今、救急車呼びましたから。がんばってください。」
警察と救急車を待つ間、戸田さんを励まそうと、激痛に耐え、四つん這いになりながら、やっとの思いで戸田さんの元にたどり着いた中田さんは、項垂れ微動だにしない男を見て愕然とする。
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(ちがう。この人は、戸田さんじゃない。)
なんと!そこにいたのは、オーナーの斎藤さんだった。
「さ、斎藤さん。こ、これはいったいどういうことですか。戸田さんは、戸田さんは、どこですか。」
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斎藤さんは、首が折れたままで、絞り出すように、
「・・・ち、か、し、つ・・・」
と、呟いた。
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「戸田さんは、地下室にいるんですか。どこなんです。地下室。」
斎藤さんは、操り人形のように、くたくたに萎えた右手でキッチンとソファの中間あたりを指さした。
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あそこまでなら這って行けるかもしれないと判断した中田さんは、痛む腰を庇いつつ、匍匐前進(ほふくぜんしん)を繰り返しながら、「地下室」と思しき場所を探し始めた。
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10分ほど漂い続けただろうか。
ふと、右手の人指し指が、刳り取られたフロアの縁にかかるのを感じた。
指先にかかる湿り気を帯びた冷気に、中田さんは、そこが地下室であることをを確信した。
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両腕を伸ばし、フロアの縁に手をかけると、ありったけの力を振り絞り、ぐいと身体を引き寄ることに成功した。
上半身をせり出し、中を覗き込んで見た先には、1.5メートル四方に刳り取られた枠の中に、円形の「穴」がポッカリと口を空けていた。
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消失したはずの銀バエの群れが、
ぶぶ~ん
羽音をさせながら、穴から出たり、入ったりしているのが見えた。
どうやら、銀ハエと異常な臭気は、この穴が発生源のようである。
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腰の激痛に堪えながら、更に身を乗り出し、穴の中を覗き込んだ中田さんは、驚愕した。
それは、地下室などではなかった。
過去、これとおなじものを見たことがある。
そう、あの古い豆電球がぶら下がる祖父の家にあった。
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祖母は、訪れるたび、「ここの水はおいしいよ。」と自慢げに話していた。
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そこは、まさしく
井戸
汚泥の詰まった涸れた井戸だった。
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深さ5メートルほどもあろうか。
井戸 とわかった途端、中田さんは、絶句した。
この道10年以上のベテランだが、この地域に、かつて井戸があったことなど聞いたこともない。
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都の条例によると、過去井戸として使用され、そのままの状態で、現存している場合は、その旨届け出なければならないことになっていた。
その上に、建物を建てるなどもっての外である。
中田さんは、余りのショックと、度重なる不可解な現象にもはや、精神が崩壊しそうになっていた。
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ぽとん ぴたん
ぽとん ぴたん
ぽとん ぴたん
涸れたはずの井戸の中から雫(しずく)が垂れる音が聞こえてきた。
(まさか)
中田さんは、身を乗り出し、更に井戸の中を覗き込んだ。
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昼下がりの陽光に微かに照らされた井戸の底に、ついさっきまで、バスルームの壁にへばりついていたシルクハットを目深に被りうつむく男がいた。男は、こちらに背を向け、直立不動で佇んでいる。
もはやシミや影ではない。三次元の存在と化した男に、中田さんは、思わず大声をあげてしまった。
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中田さんが発した叫び声に呼応うるるかのように、男は、左手でシルクハットの端を掴むと、少しずつ少しずつ身体を動かし始めた。
ずる びちょ ずるっ びちょ ずる びちょ
汚泥を擦る重々しい音が 深い井戸の底から響く。
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男の身体が、中田さんに向きかけた時、バンというけたたましい音とともに、昼白色の眩(まばゆ)い光が差し込み、騒音とともに、ドヤドヤと数人がこちらに向かって来るの足音が聴こえてきた。
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中田さんの肩にポンと手が置かれた。
「警察です。」
ふと我に返る。
救急車と警察が到着したらしい。
市街地にほど近い場所なだけに、外は、野次馬で騒然としていた。
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「ここからは、私達が。事情は、後から詳しく伺います。」
警察が到着した時、中田さんは、パニック障害に陥り、過呼吸状態に陥っていたらしい。
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腰の怪我に加え、左の肘が複雑骨折をしていた上に、身体中が打撲痕で赤紫色に変色していた。大声で喚き散らし、支離滅裂な言葉を発し続けた中田さんは、斎藤さんとともに、担架に乗せられ、救急車で緊急搬送されてしまったという。
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「そりゃ、あんなもの見た後じゃ誰だって正気でいられませんよ。そうでしょう?」
「では、探していた戸田さんは、どこに行ってしまわれたのですか?」
私の問いかけに、中田さんは、激しく首を横に振った。
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「戸田さん・・・って、最初からいなかったんですよ。」
中田さんは、力なく笑った。
「どういうことですか。」
「・・・・・・」
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「オーナーの斎藤さんは、大丈夫だったんでしょうか。」
「多分、大丈夫じゃなかったと思います。」
中田さんは、これ以上は勘弁してくださいと両手を横に振り、二度と口を開こうとはしなかった。
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Yハイツは、オーナーを変え、今でも現存しているらしい。
B棟3号室が、その後どうなったのかはわからない。
中田さんは、長年勤めた不動産屋を辞め、今は、I県にある奥さんの実家で農業を営んでいるそうだ。
作者あんみつ姫
久しぶりに書いてみた ふたば様の三題お題。
ご笑覧いただけましたら、幸いに存じます。