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「好事魔多し」
好いことには とかく邪魔がはいりやすい。
という意味の格言ですが、昔の偉人は、よく言ったものだと、今更ながら感心します。
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この旅も、過去二回の旅同様、つつがなく終われるはずでした。
ところが、今日になって、なぜか胸騒ぎが治まりません。
そもそも、なぜ海を観たいと思ったのか、自分でもよく解らないのです。
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網棚のリュックを見上げ、私は、気分を変えようと、列車の窓を開けました。
見上げた空のはるか遠くから 低く垂れ込めた雨雲が速度を早めながら こちらに向かってくるのが見えました。
(あれ?もしかして、雨になるのかな。)
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列車は、予定通り午後2時前には、目的地のS駅に到着いたしました。
駅の公衆電話の前に立ち、宿泊先を探そうと受話器を取った瞬間、
ゴロゴロゴロ 雷鳴とともに
轟音と水しぶきをあげながら、雨が滝のように落ちて来ました。
つい先程まで、真昼の太陽がじりじりと照りつけていたアスファルトの路面は、瞬く間に荒れ狂う川になりました。
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「そうですか。それは仕方ないですね。はい・・・。」
ガチャン
(なーんかついてないなぁ。)
胸騒ぎが的中いたしました。
今夜の宿泊先が、取れないのです。
こんなことは、初めてでした。
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ガイドブックに掲載されていた海岸沿いにあるホテルや民宿数件に問い合わせてみるのですが、時は、秋の旅行シーズンまっさかり。
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軽い気持ちで「女ひとりぐらいなら、なんとかなるだろう。」と楽観視していた私は、あてが外れてしまいました。
当時、この業界には、原則「女のひとり旅はお断り」という暗黙の了解があることも知りませんでした。
(かなりお目出たい。)
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少しでも旅費を安く上げようと、明日の夜は、大阪に住む学生時代の友人宅に宿泊する予定でお願いしておりました。
友人には、JR大阪駅の改札口で会おうと大まかな取り決めだけはしていたものの、
列車の到着時間を、まだ知らせてはおりませんでした。
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帰りは、新幹線にするのか、日本海周りの特急にするのか、決めかねていたのです。
「泊めてやってもええけどな。決まり次第 はよ電話してな。
遅くとも、前日の夜までには頼むわ。夜の9時なら、なんぼか電話代安くなるやろ。」
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めったに訪れることのできない山陰地方です。
せっかくなら、日本海の夕日を眺めながら帰りたい。
そうだ!そうしよう。
福知山線経由大阪行きの特急券を購入し、明日は、ここS市から発つことに決めました。
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新幹線を利用するよりは、はるかに時間はかかりますが、大阪駅には、午後7時40分に到着するとのこと。
それなら、友人も文句は言わないだろうという思いもありました。
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パンパンに膨れ上がったリュックの大きさと相反するように、身体と財布は、ペタペタに平たくなっておりました。
大阪までの特急券を購入し、今晩宿泊する宿代を入れると、ほとんど余裕のない状況でした。
大金を使った覚えはありませんが、
ちょくちょくと使う小銭の類が、意外と足が出るのです。
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とほほほほ・・・・そのダメージたるや半端ではございませんでした。
(このままじゃ、駅で一晩あかさきゃならなくなるのかな。)
「あんた、ほんまのアホやな。」
と言われるのを覚悟し、私は、友人に明日の到着時間を知らせるため、再び公衆電話の前に立ちました。
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何度コールしても友人は、出ません。
(そっかぁ、今日は、平日だった。バイト2つ掛け持ちしているから、多分夜まで帰らないよなぁ。)
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当時、留守電機能のついた電話は、既にあったと記憶しておりますが、
まだまだ旧式の電話の時代でした。
仮に、留守電機能がついていても、設定するのを忘れて出かけてしまうと
伝えたいメッセージが伝わらないのは、便利な世の中になった今でも変わりません。
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いずれにせよ、電話は通じず、
「夜また電話しよ。」
と再び駅構内のベンチに戻りかけたその時でした。
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「あれ?これなんだろう。」
ぶら下がっている電話帳の間に、ちいさな紙が挟まっているのが見えました。
引っ張ってみると、それは、A6ぐらいの大きさの手書きのメモで、
民宿「○○の里」電話(0xxx)○○○-▲▲▲▲バス???(判読不能)のみ20分。とありました。
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余程慌てて書いたと見え、ところどころ判読できない文字もありましたが、幸い数字だけは、なんとか読み取れます。
背に腹は代えられないとばかりに、一か八か 早速このメモに書かれてある民宿に、電話をしてみることにいたしました。
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コール音が聞こえますが、なかなか出てくれません。
やっぱりここもダメかなぁと諦めかけたその時、
ガチャっと受話器を取る鈍い音がしました。
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「・・・・はい、△△(よく聞き取れない)です。・・・・」
かったるそうなボソボソとした低い男性の声がします。
ザザザザ。。。と時折、雑音が入り良く聴きとれません。
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「もしもし・・そちらは、民宿○○の里さんですか。」
私は、受話器に口を近づけ、大きな声でゆっくり はっきり話しました。
「・・・・はぁ?・・。おたく、誰?どこからかけてるの。」
「あの、民宿○○さん・・ではないのでしょうか。」
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「・・・・」
しばらく、沈黙が流れ、受話器からは、合間合間にザザザザとおかしな雑音が混じります。
間違い電話だったかな。
「申し訳ございません。間違いました。」
と、切ろうとした時です。
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ズコっと無造作に受話器を置く音がし、ぶつぶつと数人の男女の話し声が漏れ聞こえてきました。
音が遮断された後、カチリと音がしたので、
「もしもし。もしもし。」
と問いかけてみました。
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すると、
「アッ、すみません。はい!お電話変わりましたぁ。お待たせして申し訳ございません。
民宿○○の里でぇーす。」
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今度は、さっきとは打って変わって、とても威勢の良い元気な女性の声が耳に飛び込んできました。
「あの、今S駅にいるんですけど。今晩の宿泊先を探しているんです。
素泊まりで結構ですので、一晩だけ泊めていただけないでしょうか。」
「はい!大丈夫ですよ。えぇと 何名様でいらっしゃいますか。」
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「すみません。わたし、ひとりだけなんですが、それでも泊めていただけますでしょうか。」
「女性の方 おひとり様ですね?もちろん、大丈夫ですよ。こちらへは、お車でお越しになられました?」
とてもはしゃいだようすで、それはそれは嬉しそうでした。
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「いえ、電車を乗り継いでまいりました。今から、バスを利用して伺いたいのですが、そちらへ向かうためには、何行きに乗ったらよろしいのでしょうか。」
私は、さっき手にした小さなメモを見ながら尋ねました。
「それでしたら、これから、お迎えに参ります。そうですね。15分ほど駅でお待ちいただけますか。」
という嬉しい返事がかえってきました。
名前を告げ、駅前のポストの前を待ち合わせ場所に決め、受話器を置いた私は、
「うあっ、ヤッター!」と叫び、思わずガッツポーズをしました。
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雨もすっかり上がり、さっきまでの濁流は、ところどころに 水たまりを残したまま、いずこへと消えておりました。
再び、むせかえるような残暑が蘇り、太陽はまた じりじりとアスファルトを照り付け始め、
雨宿りをしていた乗客たちは、それぞれの行く先に向かい、足早に目の前を通り過ぎて行きました。
その中には、きれいなスーツケースやブランドの旅行バックを下げた数人の若い女性たちのグループもいます。
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すったもんだしているうちに、既に、手元の腕時計は、午後3時も回ろうかという時刻。
これから、観光地を巡るのは、時間的に無理があります。
でも、日本海に沈む夕日を見るだけでもいいよね。
とりあえずは、今晩、野宿しなくても住む安堵感に、心の中は小躍りしておりました。
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その時です。
目の前に、小さな軽トラックが止まりました。
中から出てきたのは、30代前半のすらっとした上背の高い綺麗な女性です。
私は、少しドキドキしながら、
「初めまして。Tです。○○の里さんですか。」
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挨拶すると、
「こちらこそ、○○の里です。ごめんなさいね。実は今、車が全部出払っていて。こんな車しかないんだけれど、
よろしかったら、どうぞ 助手席にお乗りください。」
申し訳なさそうに謝る姿が、とても愛らしく、私は、一目でこの女性が気に入りました。
「ゆかりさんっておっしゃるのね。私の友人も同じ名前なの。親しみを感じるわ。私、ゆう子。ひらがなで、ゆう 子は漢字。私の出身は、△○なの。ここへ来てから、もう10年以上になるかな。」
と気さくに話してくれました。
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「海が観たくて予定変更だなんて、なかなかのロマンチストね。岡山の美術館で芸術鑑賞のほうが向いていそうだけど。青海島までそう遠くはないから、長旅でお疲れだとは思うけど。どう?これから少しドライブしてみる?ちょっと、遠回りになってしまうけど。せっかく来たのですもの。」
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ゆう子さんは、そういうと、景勝地として有名な 青海島や仙崎港など有名な観光スポット以外にも、地元の人しか知りえない隠れた名所、数か所をていねいに説明しながら、車をゆっくりと走らせてくれました。
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写真を残しておきたくて、途中立ち寄った道の駅で、フィルムカメラを購入した私は、海を背景に ゆう子さんから
たくさん写真を撮ってもらいました。
私も何度か、
「撮ってあげますよ。一緒に取りましょうよ。」
と、誘ってみたのですが、ゆう子さんは、なぜか頑なに拒み続け、私は、少し残念に思いましたが、撮られたくない事情でもあるのかなと思い、それ以上誘うのは止めました。
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とりわけ、松林を抱く綺麗な砂浜と日本海が見渡せる海岸に心ひかれた私は、
「リュックを置いたら、また、ここ来たいです。短歌でも詠んでみたいんで。」
「あら。短歌なさるのね。」
「少しだけ。下手の横好きですけどね。」
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「ここなら、民宿からそう遠くないから歩いても来れると思うわ。荷物置いたら、また来てみたらいかが。」
「ホントですか。うれしいなぁ。」
「うふっ、ここはね。私の大好きな場所なのよ。そう、ここに来る若い子のほとんどは、みんなここが一番好きっていうのよね。」
ゆう子さんはそういうと、にっこりとほほ笑みました。
私はすっかり心赦し、民宿へと向かう道すがら、M駅で出会った、ご婦人に、あれ程厳しく諌められたにも関わらず、家族のこと、プライベートなこと等たくさん話しました。
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「ここは、どうしてわかったの?」
「あの・・・今晩泊まるところを探していたんですけど。あちこち断られてしまって困っていたんです。そしたら、電話帳に、これが挟まっていたのを見つけて電話しました。」
私は、くだんのメモを取り出し、ゆう子さんに見せました。
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ゆう子さんは、一瞬驚いた顔をして、深くため息をつき、
「ちょっといいかしら。」
私の手から、そのメモを取り上げたかと思うと、くしゃくしゃに丸め、自分のポケットに乱暴に押し込みました。
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「もう、この電話使ってないの。ごめんなさいね。なかなか通じなかったでしょう。」
「そうなんですか。最初、男の人が出た時には、びっくりしました。間違えて違う所にかけちゃたんじゃないかと思って。私、ほんとラッキーだったんだなぁ。」
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景勝地だけでなく、海岸沿いの穴場を教えてくれたゆう子さんに、私は、すっかり心許しておりました。
あれほど、厳しい口調で、あのご婦人に諌められたにもかかわらず、家族や仕事、今回の旅の思い出などをペラペラと話してしまいました。ただ、どういうわけか、M駅で出会ったご婦人と 頂戴した巾着袋とその中身についてだけは、決して語る気にはなれませんでした。
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民宿○○は、駅前側の民宿やホテル街から少し離れた国道沿いにありました。
それもかなり外れた場所にあり、あたりは森閑として特に看板らしきものも見当たりません。
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一見、民宿と言うよりは、どこかの工場の作業場のようにも見えました。
うまくいえませんが、あまり客受けしない造りと申しましょうか。
わざと隠れ家風に造ってあるのかなと、その時は、単純にそう思っておりました。
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「車置いてくるから、ゆっくりしていてくださいね。」
ゆう子さんは、そういうと、私だけを下ろし、少し離れた駐車場へと車を走らせました。
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「遅かったのね。駅でちゃんと会えたのかどうか心配したわよ。」
年配の女性が、私たちが着くのを、今か今かと気をもみながら待っていてくれました。
「よろしくお願いいたします。」
大きなリュックを背負い、若い女性のひとり旅とは、およそ似つかわしくない風体に、一瞬戸惑うような素振りを見せましたが、すぐに、笑みを浮かべてくれました。
「さぁ、どうぞ、こちらへ。随分と大きなお荷物ね。今お部屋にご案内しますね。
その前に、これでもお飲みになって。」
出迎えてくれた年配のご婦人は、Hさんとおっしゃいました。
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勧めてくれた冷たい豆茶をいただきながら、私は重いリュックの肩ベルトが食い込み赤く晴れ上がった鎖骨に冷えたコップを当てました。
カラコロと 軽やかな氷の音があたりに響き、清々しい気持ちにすらなりました。
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それとなく屋内を見渡すと、中は、思いのほか広く、一階が大衆食堂。二階が宿泊施設になっておりました。
Hさんに通された部屋は、6畳ほどの小ぶりな造りになっており、昭和を思わせる安普請ではありましたが、掃除は行き届き、旧いエアコンと100円入れると見れる小さなテレビと冷蔵庫が付いていました。
朝と夕の食事がついて3000円とのこと。
ぺたぺた財布の私には、十分すぎるほどに思えました。
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民宿と食堂経営は、ゆう子さんと入り口で出迎えてくれたHさんの二人が切り盛りしているようでした。
宿帳に記載した私の住所と名前を見て、Hさんは、ぎくりと固まったようでした。
???
「遠いですよね。びっくりなさいましたでしょう?」
「まぁまぁ、わざわざ遠くからようこそ。途中雨に当たらなかった?今日は、おひとりでお淋しいわね。昨日と一昨日は、若い人たちもたくさんいたんだけどね。今日の宿泊は、あなただけなのよ。」と言いました。
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その時の私は、アンラッキーな旅が一転、ラッキーな旅に転化したと、少々浮き足立っておりました。
後からどんな状況になるのか知る由もなく、その時は、ひとりは気ままでいいなぁ。なとど呑気に構えていたのです。
「いえいえ、ひとり旅は、孤独に浸れる贅沢を味わえるので。大丈夫ですよ。」と調子に乗って、いっぱしの旅人気取り、強気の発言をしたのでした。
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戻ってきたゆう子さんが、
「この方、ひとり旅が趣味なんですって。ひとりが好きなのよね。短歌も詠まれるそうなの。」
「いや、詠むってほどでもないです。短く書くのが苦手なんで。その勉強というか・・・(しどろもどろ)。」
「まぁ、そう。」
その時一瞬、眉間にしわを寄せたHさんでしたが、私は、特に気にも留めず、陸と海の両方から見れる青海島や美しい海岸などに思いを馳せ、心の中は、わくわく感で胸いっぱいになっておりました。
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宿に大きなリュックを置くと、心身すっかり軽くなったような気がして、
一緒についていくというゆう子さんを、
「今回の旅は、ひとり旅なので。ひとりにさせてください。」
と断り、ぶらぶらと歩きました。
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といっても、私のこの足で行けるところは限られております。
かんきつ類やおいしい果物がそのまま置いてある道の駅の直売所で働くおばちゃんと、おしゃべりに花を咲かせました。地元の人たちとのふれあいや、そこでしか味わえない人情との出会いこそ旅の醍醐味なのかもしれません。
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おばちゃんは、写真に撮ってくれたお礼にと、夏みかんを5.6個大きな袋に入れてくれました。
ぶらぶらと海岸を巡り、先ほど、ゆう子さんが教えてくれた砂浜で、日本海に沈む夕日を眺め、
「ひとり旅 ふれあう人の微笑みを 清かに照らす日本海の夕日」
ひやー字余り
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へたな一首を詠み、民宿へ戻ったのは、予定していた時刻から遅れること1時間。
午後6時を回っていました。
食事は既に用意されており、部屋には既に床の準備も整っておりました。
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海産物や山の幸、季節の酢の物など、贅沢に並ぶお膳を眺め、胸いっぱいです。
食べる前に既に幸福感で満たされておりました。
ゆう子さんは、私につきっきりで、もてなしてくれました。
たいそうな気の遣いようで、いちいち食べ終わった皿や小鉢を下げては、コップにビールを継ぎ足し、かいがいしく
動き回るので、
「子どもじゃないんだからいいですよ。ひとりでいたしますよ。」
ほろ酔い加減の私も、いささか鬱陶しく感じてしまいました。
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三分の二を食べ終わった頃、ぎぃという音がして、私の目の前の扉が開き、5~6人の男女が、次々と中に入って来ました。
30代から40代いえ50代ぐらいの人もいます。
背格好は、標準か もしくは少し小さいくらいで、皆ほっそりと痩せておりました。
男女の別なく、紺色の作務衣を身に着け、髪は、皆 短髪で、耳元の辺りまで、すっきりと刈り上げられておりました。
(テクノカット?みたいだわ。)
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私の姿を見て、一瞬、ぎょっとした顔をし、やがて重く暗いこもった声で、
「いらっしゃい。」
「どうもようこそ。」
「こんばんわ。」
などど、一言ずつ呟いては目の前を通り過ぎてゆきます。
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民宿や大衆食堂を経営している割には、宿泊客である私に、ゆう子さん以外、あまり笑顔を見せてくれないのが気になりました。
「厨房の奥にね、作業場があって、そこで働いている従業員さんたちなの。大丈夫、夜の9時には上がるから。」
「そうなんですか。夜もお仕事なさるんですね。でも、皆さん、ここで、一緒にお食事しないんですか。お夕飯の時間でしょう?私は構いませんよ。」
「いいのよ。食事はもう済んでいるの。というか、要らないのよね。」
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ややうつむき加減で話した後で、急に明るい声で、
「ねぇ、話しは変わるけど、私もね、短大の頃・・・・。」
ゆう子さんは、
自分はアウトドア派で、キャンプや登山が大好きなこと。
仲の良いお友達やボーイフレンドたちと一緒に東北や北海道まで足を伸ばしたこと。
都会からここへ来て、びっくりしたことなど、懐かしそうに話し始めました。
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「ゆかりさんのように、ひとり旅の経験もあるの。」
「そうなんですか。どちらへ。」
「海外よ。」
などなど・・
しばらく、おしゃべりに花を咲かせていましたが、
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突然、年の頃は、30代後半ぐらいの、色の白い、ちょっと陰気で神経質そうな男性が目の前のドアから現れ、
「こんちわ。いらっしゃい。」
と言って、私の座るテーブルの真向いの椅子に腰を下ろしました。
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その人は、終始、ゆう子さんを睨みつけ、私との会話に割って入り、いちいち話の腰を折るのです。
そのたびに、悲しそうな顔で笑みを浮かべるゆう子さんが、気の毒に思えました。
(この人、感じが悪いなぁ。ゆう子さん同様とても綺麗な顔をしているのに。)
もしかして、私に、つきっきりになってしまったゆう子さんが気に障るのかなと思い、
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「つい、いろいろとおしゃべりしてしまいました。お忙しいゆう子さんを、こんなに長い間、お引止めしてしまってすみません。」
と謝り、
「明日朝早いので、そろそろおいとまします。」
と言って、部屋に帰ろうと、椅子を引きました。
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すると、突然、
「この人は、未だに都会が懐かしいといっては困らせる。帰りたいといっては、泣きだす。ここに来てから、もう十年以上たつのに。いい加減にしてくれ。うちは、年中無休の民宿だ。民宿で働きたい。それが、この人の望みだったんだぞ。」
と、すごい剣幕で怒り出しました。
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思い余ったゆう子さんが、駆け出して、その場から立ち去り、
私は、一瞬何が起きたのか良く理解できませんでした。
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この二人の関係は、なんだろう。
夫婦?従業員と雇い主?
私は、もしかしたら、また自分の軽率な言動で、また人を怒らせるようなことをしてしまったのではないかと、後悔いたしました。
ゆう子さんと親しくなり過ぎたことも、ちょっぴり不安になりました。
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空気を変えようとおろおろしていた矢先、
「うるせぇぞ。お前ら。」
厨房の奥から、重い空気を、さらに重くするような、ドスの効いた、低い大きな声が上がりました。
目の前の男性は、身体を硬直させ、うつむいたまま黙りこくってしまいました。
「おい、これ。お客さんに持って行って食わせてやってくれ。イカの刺身だ。」
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中年男性の太くてざらざらした声が辺りに響き渡りましたが、肝心の姿は見えません。
「あんた。出身が○○なんだってなぁ。じゃぁ、こんな刺身食ったことないだろう。」
厨房と調理場には、洗い物や調理を担当する人たちでしょうか。
数人が中で働いている気配がします。
するというだけで、実際に働いている人の姿は見えません。
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今晩の客は、私だけなのに ここでは随分と多くの人が、この民宿と食堂と作業所の経営にたずさわっているのだなぁと思いました。
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すると、突然、厨房から、香水の香りをさせた、けばけばしい姿の化粧の濃い女性が現れ,
私の目の前に、ガラスの小鉢に入った、紋甲イカのお刺身を、でんと置きました。
派手な服装と化粧を施したその人は、
「ねぇ、おかみさん。私、この人に挨拶してもいいのかな。」と。
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さっきまで、一度も見かけなかった女の人です。
(おかみさんって、ゆう子さんのこと?それとも、Hさん?)
そもそも、この人誰なんだろう。
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断片的な情報をかき集め、なんとか自分なりにこの状況を理解しようと努めてみるものの、イマイチ人間関係が掴めません。
やっぱり、繁忙期に空いてるところって、なにか問題があるのかもしれないなぁ。
と、ちょっぴり後悔し始めましたが、
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下世話な詮索は辞めよう。
私は、出された お刺身を一切れ口に含みました。
とろけるような柔らかい身と、絶妙な塩加減に思わず声を挙げました。
「身が柔らかくて美味しいですね。」
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「ふん!これ作った板前。元漁師なのさ。語るも涙。語らぬも涙の物語。」
吹き流しのような長いドレスを来たその人は、焼酎のワンカップを取り出し、瓶の蓋をあけると、一気に飲み干してしまいました。
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そして、私の方に顔を近づけると、
鼻をクンクンさせながら、
「あんた、匂うよ。白檀かな?」
「いえ、何もつけてはおりませんが。」
「そぉ?匂うわよ。白檀だ。間違いない。頭が がんがんするわ。私の一番苦手な二・オ・イ。」
その時、
「ちっ!」
と舌打ちがして、
「そこで管巻いてねぇで、用が済んだら さっさと帰れ。ばばぁ。」
厨房から、さっきのどすの利いた声がガンと聞こえてきました。
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「言われなくても帰るわよ。だれがこんな辛気臭い所に居たい人がありますかって。」
女の人は、椅子を蹴り、振り向きざまに、私を見て、指を指し、
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「あんた危険。ヒジョウーによろしくない。」
と毒づき、掌を左右に振りながら、
「臭い臭い。吐き気がする。」
とサンダルのつま先でドアを開け、身体をあちこちぶつけながら、つかつかと出て行きました。
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「あの方どなたですか。」
Hさんは、別人のように、よそよそしく、つんつんした態度で、
私の問いには、全く応えず、
戸惑う私を前に、
「ふぅ。久々だから疲れるわねぇ。」
と、ひとりごとを呟き、小さくため息をついて厨房の中に入って行きました。
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私が来たことで、この一家といいましょうか。
ここの民宿に関わる人たちの心や人間関係に、さざ波を立ててしまったような気がして、ますます居心地が悪くなってしまいました。
「疎外感」というのでしょうか。
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私は、歓迎されていないのだろうか。
哀しいとか淋しいといったものとは少し違う、
風当たりの強さというより痛さに、少々辛くなりかかっておりました。
(一晩だけだし、我慢しよう)
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あたりもすっかり暗くなって来て、最後の小鉢を食べ終えると、他に用もないし、早々と部屋に戻ることにいたしました。
部屋に戻り、寛いでいると、
ゆう子さんが、手に濃い紫色の桔梗を携えて戻ってきました。
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私以外に食堂を訪れる人はなく、いつもは、夜の0時まで経営しているそうですが、今日は、午後9時前には閉めることにしたと。
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そして、クリスタルガラスの花瓶に差した濃い紫色の桔梗を、私に手渡しました。
「このお花、お部屋に飾ってあげて。最近、忙しくてお花いける余裕もなくてね。」
そうつぶやくと、そっと涙を拭いました。
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「ゆう子さん大丈夫ですか。」
「気にしないで。あの人いつもああだから。
それより、いろいろ気分悪くさせちゃったね。ごめんなさいね。
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ちょっとね。辛いことがあって。それから、みんなあんな調子なの。」
と、蚊の鳴くような震える声で謝り、
「じゃあ、おやすみなさい。朝までゆっくりね。お風呂は、二階の奥だから。」
厨房の前のドアに姿を消しました。
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小一時間も経ったでしょうか。
「お客さん。すみませんけど。」
荷物の整理と明日の準備をしていると、階下から、私を呼ぶ声がします。
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「はーい、なんでしょう。」
廊下に出て、返事をすると。
Hさんが、
「私たち離れに帰ります。明日の朝来ます。朝食は、7時からだから。それまで、ごゆっくり。おやすみなさい。」
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「あの、あの、ちょっと、すみません。ここって公衆電話ないんですか。」
「ここは、赤電話だけなの。それも使えるの営業時間内だけだから。ごめんなさいね。夜はね、使えないように鍵かけるのよ。国道沿いにある電話ボックスなら、長距離掛けられると思うわ。ここからちょっと離れているけど。そこ使って頂戴。」
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「えっ、でも、鍵どうするんですか。」
「うん、でも部屋に鍵かかるでしょ。大丈夫。外は明るいし、心配だったら、出ていく時、これ持って行って。
ここの食堂の鍵。電話掛け終わって戻ってきたら、ここに、このテーブルの上に置いてくれて構わないから。」
唖然としている私の目の前で
パチンと食堂の電気が消えました。
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従業員も含めた関係者全員が、
各々の自家用車に乗り込み、
バタンバタン
ブウウウウウウ
荒々しいエンジン音を響かせ、あっという間に誰もいなくなってしまいました。
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頼りのゆう子さんは、見当たらず、一階の大衆食堂は、真っ暗。
そう、つまり 今この民宿にいるのは、私たったひとり?
毛穴が一気に開きました。
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当時は携帯もなく、連絡するには公衆電話か備え付けの電話しかありません。
民宿と大衆食堂を経営していて、夜は、長距離の公衆電話も普通の電話も使えないのか?と驚愕と戦慄が同時に襲ってきたような気がいたしました。
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電話をかけたかったら、ここから海沿いの国道を徒歩で300メートルほど行った先にある公衆電話を使ってくれと言われ、とんでもない待遇に立腹しましたが、それ以上に、今晩、この建物内でたったひとり過ごさなければならない、不安と恐怖で心が押しつぶされそうになりました。
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その時、タイミングよく、廊下の柱時計が、ボンボンボンと鳴り始め、九つ数えて止みました。
その音に跳ね上がる程、びっくりした私は、友人A子の怒る顔を思い出し、顔面蒼白になりました。
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「もう9時だ。どうしよう。電話かけに行かなくちゃ。」
正直、幽霊よりも、明日の夜泊めてくれる友人に どやされる方がずっと怖く、また、両親にも心底心配を掛けたくないという思いのほうが強かったのも事実です。
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私は意を決して、テレフォンカードの入った財布を化粧ポーチの中に入れ、施錠したことを確認すると、おそるおそる階段を下りました。
非常階段の位置を知らせる緑のプレートが、ぼんやりと足元を照らしているだけで、廊下も食堂もほぼ真っ暗。
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通り過ぎる間際、何かがごそごそとうごめく気配を感じました。
例のごとく、
「見ないふり」
「気にしない」
と言い聞かせながら、一階の食堂の入り口を施錠し、鍵をポーチに突っ込んんで、国道にある電話ボックス目がけて猛ダッシュ!しました。
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街頭は明るく歩道を照らしておりましたが、夜の海は、真っ黒く、底知れぬ怖さがあります。
波の音は、来るな、見るな、近づくな。と威嚇し、砂浜に打ち寄せる波は、街灯の灯りに照らされて、青白い光を放ちながら泡立ちます。
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あの青白い光は、夜光虫の放つ光なのでしょうか。
波間を漂うきらきらとした光は、幻想的ではありますが、たいそう不気味でなりません。
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私は出来るだけ海から離れた反対側の車道を、でんでんと一心不乱に走り続けました。
高く低く盛りあがる波。
それに呼応するかのように、ザンブザンブ、ザザザザーと うねる波音。
それは、無防備に近づこうとする獲物を、丸ごと呑みこみ、暗い闇の底に引きずり込もうとしている大蛇のごとく思えました。
虎視眈々と狙いを定めて・・・
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「事故多発注意!」の看板の建つ ゆるいカーブに差し掛かった時、ひたひたひた、ぺたぺたぺたという足音が海からこちらに向かって来るのが解りました。
ひとり、ふたり、さんにん・・・・・
ひたすら、前を向いて走りました。
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「熱い!」
脇に抱えたポーチが異様に熱くなっています。
あっ、そうだ。
中に、巾着がはいってたんだわ。
私は、
(お願い。私を守って)
心の中で念じ、化粧ポーチを必死に握り締めました。
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ものの5,6分も経ったでしょうか。
闇の中に ぼうっと浮かび上がる電話ボックスを見つけました。
やっと着いた。
大急ぎでドアを開け、受話器を外し、がたがた震える指で、テレフォンカードをいれ、無我夢中でプッシュしました。
外は暗く、目の前に広がる景色は、時々砂浜に打ち付ける波が、白く浮き上がって見えるだけの黒い海。
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車が通り過ぎる刹那、ヘッドライトが、電話ボックスのガラスに反射し、ぎらりとした眩しい光を放ち、あたりは一瞬明るくなりますが、すぐに暗い海が戻ってきます。
友人は、あれ程言っていながら、お風呂にでも入っているのか、なかなか出てくれません。
「約束したじゃない。お願い早く出てー。」
と叫びながら待ちました。
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その間、誰かに覗かれているような、背後に誰かが立って、私をじっと見つめているような 厭な視線を感じましたが、視線はそのまま、受話器を握りしめたまま、待ちました。
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「はい!こちらF。わるい。待たせたな。」
A子の声が恐怖を払しょくしてくれました。
「ごめん。今外の公衆電話からなんだ。あんまり長く話せない。
明日夜7時40分大阪着の特急◆◆に乗るから。
JR大阪駅の中央改札まで来て。改札出ないで待ってる。」
「わかった。ほな、気いつけてな。無事会えるの楽しみにしとるで。
お土産待ってる。おやすみ。」
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次に我が家にかけました。
こちらは、さすがに一回のコールで取ってもらえました。
母は、とても心配しておりましたが、明るい声で、
「ちょっと、ゆかりちゃん。あなた今、どこからかけているの。
雑音で良く聞き取れないんだけど。予定の岡山にいるのではないの。」
「ごめん。予定変更してS市にいる。今、外の公衆電話からなの。雑音は、多分そのせい。」
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「そう、今S市なの。海の側なのね。身体は大丈夫。楽しんでる。お金は足りてるの。お土産なんて気にしないでいいからね。手に貴重品だけ持って、あの大きなリュックは、明日宅配で送るのよ。着払いでね。」
などと旅の不安を打ち消してくれるかのごとく、次々と嬉しいことを言ってくれます。
思わず涙がこぼれそうになりました。
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とりあえず、心配は掛けまいと、明日は、大阪のA子宅に泊めてもらい、明後日には、帰ることなどを手短に話し、
電話ボックスを後にしました。
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話し終わって、民宿に戻るまでの海沿いの道のり、例のカーブの所に差し掛かった時には、
ひたりひたりひたり
ぺたぺたぺた
寄り添うように
付いてくる足音がして、
生きた心地がしないほど、心臓が高鳴り、ひたすら走り続けました。
それでも、
これから私を待つ、本当の恐怖に比べたら、まだまだ序の口でした。
私は、民宿に戻る途中、化粧ポーチから、あの巾着を取り出してみました。
特に変わった様子もなく、
さっきあんなに熱く感じたのは、やっぱり気のせいだったんだと思いました。
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民宿に着き、鍵を開け、暗い食堂の中を通り過ぎ、部屋に戻って見ると、腕時計は、午後9時40分を指しておりました。
散々だったけれど、とりあえず、今日の予定は、無事終了し、早めに床に就こうと部屋の電気を消しました。
ところが、ペタペタ&クタクタの財布のように疲れているはずなのに、どういうわけか、目がさえてしまい、なかなか寝付くことが出来ません。
どうにも落ち着かないのです。
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手元の時計は、11時半を指していました。
肩のあたりが、スースーしだし、私は、もう一枚 布団か毛布を取り出そうと押し入れを探しました。
寝ている部屋の左壁の横には、ふすまの引き戸が何枚かすがっておりました。
推察するに、押し入れは きっとこのあたりかなぁと
開けた瞬間、
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思わず息をのみました。
そこは、押し入れではなく10畳ほどの大きな部屋で、真ん中には、仏壇が置かれておりました。
プン とした かび臭い匂いと線香の香りが漂い、ひんやりとした空気が満ちています。
私の部屋とこの仏間は、ふすま一枚隔てただけで繋がっていたのです。
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さっき、白檀の香りがするって、あの女の人言っていたけど、
ここの匂いが付いたの?
まさか!
私は、自分の部屋の電気を点け、隣りの部屋に入ってみました。
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床は畳ではなく、板張りのフロアになっておりました。
仏壇の前に立つと、
写真が数枚立ててありました。
そのうちの一枚には、若い女の人が写っておりました。
麦わら帽子をかぶり、微笑みながらVサインをしています。
歳は、私ぐらいでしょうか。
もしかしたら、もっと若いのかもしれません。
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どことなく、面差しが私に似ていて、日焼けした顔と屈託のない笑顔に、とても複雑な思いがいたしました。
合掌し、そのままふすまを閉め部屋に戻りました。
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反対側の壁に押し入れを見つけ、そこから毛布を出し、身体に巻き付けました。
(さっきの写真の女の人は、誰なんだろう。)
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テレビを点けても、チャンネルは少ないし、深夜見たい番組もありません。
私は、海側の窓を開け、ぼんやりと外の景色を眺めておりました。
沖には漁火が漂い、それはとても美しく、闇と恐怖の海とは また違った趣の世界がありました。
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対する左側の窓の外からは、時々テレビの音や、甲高い笑い声や話し声が聞こえてきます。
一家団欒を思わせ、さっき電話で母の声を聞いたこともあり、早く家に帰って、ゆっくり寛ぎたい思いに駆られました。
それにしても賑やかだなぁと この窓の下には何があるのだろう。
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カーテンを引き、窓を開け音のする方向を見下ろしてみると、
中庭を挟んだ すぐ目の前に平屋建ての民家があることに気付きました。
談笑する声
漏れてくる灯り
それら全ては、その家からのもので、私の部屋から 居間の様子が丸見えでした。
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よくよく目を凝らしてみると、
うごめく人の何人かは、知った顔です。
えっ、嘘。
そうです。
すぐ目の前にある平屋の住人は、私をここにひとり残して、
帰った(民宿を経営している)人たちでした。
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はぁ?なんだ、離れって、隣りの家のことだったんだ。
だったら、歩いても帰れるのに。どうして???
車に乗ってわざわざ遠回りして帰るふりをしたのだろう。
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不可解に思いながらも、いろんな都合と事情があるでしょうから。
と、自分なりに納得させ、窓に手を掛けたました。
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その時です。
今日、遭った民宿関係者全員が、縁側に横一列に並び、民宿の二階の窓から見下ろす私を
見上げているではありませんか。
いっ、いつの間に・・・・
そして、一斉に声を併せて、
「おやすみなさーい」
それから、ピシャリ とわざとらしい音をたて、
縁側のサッシが閉まり、
シャァと音をたて、誰かがカーテンを引きました。
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ほぼ同時に、居間の電気が消え、窓の下に平屋の民家があるのすら確認できないほど、真っ暗な闇に変わりました。
私は、慌てて窓を閉め施錠し、思いっきりカーテンを引き、ありったけの部屋の電気を点けました。
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左の窓の外から、ぶつぶつと数人の女性のつぶやきが微かに聞こえます。
(「こっちに泊めてあげてもよかったんだけどさ。」)
(「ひとりがいいんだって。変わり者ね。」)
(「女の子なのにね。」)
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(「さっき、外に公衆電話かけにいってたよ。」)
(「ひゃぁ、こんな時間に良く出歩くわ。言ってあげたら電話貸したのに。」)
(「ダメダメ。今から甘やかしたら。ゆう子みたくなっちゃうよ。」)
(「私、電話ないって言ってやったのよ。びっくりしていたわ。」)
ククククク
含み笑いをする女性の声は、あの優しく出迎え、冷たい豆茶でもてなしてくれた、Hさんでした。
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「疎外感」を与え「悪意」で潰す。
人の心の闇は、夜の海そのものです。
恐ろしいのは、人の心。
ぞっとした瞬間でした。
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ゆう子???
そういえば、さっき、一列に並んだ あの中に、ゆう子さんは見当たりませんでした。
なぜ?
どこに行ったの?
この民宿で朝まで、たったひとり過ごさなければなりません。
その恐怖に加え、唯一頼れる存在の ゆう子さんのいない心細さと淋しさは、たとえようがありませんでした、
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ブォーン
どこからか、鈍い振動音が聞こえます。
さっき帰ってくるなりテーブルの上に置いたままにしていた化粧ポーチ。
その中に大事にしまってある、巾着袋から漏れてくる音でした。
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慌てて巾着袋を取り出し、中を確認しました。
特に、変わった様子もありませんが、
気のせいか、石の表面が、少し赤くなっているように見えました。
私は、部屋の鍵を確認すると、更に念のために戸口にリュックを置き、部屋のテーブルをくっつけました。
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あの人たち、いったいなんなの。
私は、はらわたが煮えくり返るような怒りと悲しみ心塞がれるような思いに捉われましたが、
怒鳴りたくなる気持ちを ぐっとこらえ、朝になったらクレームをつけようと決意しました。
どうせ眠れないのだから、朝まで起きていよう。と・・・・・。
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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
早朝 砂浜を臨める松林の一角に私はいました。
薄暗い海岸で、数人の男女が裸体のまま、海に向かって祈祷しています。
その後、ひとりひとり順番に海の中に入って行きました。
最後のひとりが入り終わると、足がやっと立つ深さのところまで辿り付き、皆が各々の手をつなぎ大きな円陣を作り ました。
それから、一斉に1~2分の間隔で、潜る・浮かぶの動作を何度も何度も繰り返しておりました。
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やがて、その中のひとりが、激しく痙攣し出しました。
円陣は大きくバランスを崩し、繋いでいた手は離れ、皆が 散り散りになってしまいました。
溺れる者。泳ぎ、助けを求める者。そのまま儀式を続けようとする者。大声で叫びだす者。
皆がバラバラで鏡のように静かだった海岸が、阿鼻叫喚に変わり、私はその様を見て、その場に立ちすくんでしまいました。
ふと我に返り、早く誰かに知らせなくては、と、駆け出したその時です。
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ガツン!
いきなり後頭部を棒のようなもので殴られ、数人に羽交い絞めにされました。
もがくうちに、口には、さるぐつわを嵌められ、それから、胴体をロープで縛られました。
そして、布でぐるぐる巻きにされたまま、電信柱ほどの太さの木のあるところまで、ずるずると引きずられて行きました。
背中に松の葉と枝が、ちくちくと突き刺さります。
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それから、電信柱のほどの太さの木の根元に来ると、
「立て!」と言われ、
目隠しを去れ、目の前の木に括りつけられてしまいました。
身をねじり、声をあげようとするのですが、身体はびくとも動きません。
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恐怖と絶望感にもがき苦しんでいると、
遠くに、禍々しい何かの気配を感じました。
私のすぐ背後から、それはやってきました。
ハァハァハァという荒い息遣いと
獣のような匂いをさせて。
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ズリズリズリズリズリズリズリズリ
地べたを這いながら、それは 私の存在を見つけたのか、
「うぉう。」
と嬉しそうな叫び声をあげ、
ズズズズズズズズズズズズズズ
動きを早め、私の足元にやってきて動きを止めました。
ハアハアハアハアハハハハハ
木をつたい、身をおこし、それは、私の左横にぴたりと身を寄せ、
「さぁ、どこからいこうかなあ。」
私の顔に、ぶわっと生暖かい息を吹きかけました。
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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「うわぁ、」
「ひぇ」
「ぎゃー」
私は、ありったけの声を挙げて叫んでいました。
ドサドサドサドサ
リュックが横倒しになり、中から、5泊6日分の「収穫物&汚れ物」が飛び出し、
その上に転がるようにひっくり返りました。
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(なんだ夢かぁ、最悪の夢)
(ホラー映画でも、ないよこんな展開。)
耳元と頬にかかる、生臭い獣の体臭。
奇妙な儀式。
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廊下の柱時計が、ボンボンと2回時を知らせました。
午前2時か。
結局、眠っていたんだ私。
寝てしまうからいけないのだ。
もう二度と、こんな夢は見たくない。
と、今度こそ、朝まで起きていようと決意しました。
生湿った空気と日中は気づかなかった埃とカビの臭いが部屋中に充満しておりました。
新しい空気を入れようと、廊下側の窓を開けたその時です。
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階下から、ドサッ という重い袋を置いたような鈍い大きな音がしました。
カタン
キィィ
二階へ上がる階段と食堂をつなぐドアが開いたようです。
程なくして、
ぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃぎぃ
一歩ずつ、一歩ずつ 一足一足踏みしめながら
誰かが、階段を上って来る気配がします。
足音は、階段を上り終え、廊下に辿り付き、こちらに向かって
ゆっくりとゆっくりと歩いて来ます。
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(まずい。こっちに来るわ。)
そーと音をたてないように、窓を閉め、施錠しました。
ぎぃという音が止み
今度は、
ズリズリズリズリズリ・・・・
バサリバサリバサリ・・・・
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足を擦る音と
布のようなものを煽る音がほぼ同時に聞こえてきました。
(何よ、今頃、誰が来るのよ。私、ちゃんと鍵閉めたはずだわ。)
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ぶるぶる震えが止まりませんでした。
部屋の鍵を何度も確認し、リュックを部屋のドアの前に置き、足音が行き過ぎるのを
固唾をのんで、じっと待ちました。
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足音は、遠くから近づき、私の部屋の前を通り過ぎると、
ピタピタピタピタピタ
水を滴らせながら、お風呂手前の一番奥の部屋と階段わきの一番手前の部屋の前を
行ったり来たりしています。
廊下側の窓に、その影がぼんやりと映って見えます。
それは、どう見ても、この世のものではありません。
そう、得体のしれないものが、二階の廊下を行ったり来たり往復しているのです。
ズリズリズリズリズリ・・・・
バサリバサリバサリ・・・・
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三往復したところで、足音が止みました。
「トン」
私の部屋のドアが、小さくかすかにノックされました。
今、この部屋のすぐ前にいる!
息をひそめ、固唾をのんで巾着を握りしめていると、
なんと、巾着が
ブォーンブォーンと音を立てて振動を始めたではありませんか。
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「ひっ。」
私は、堪えきれず、つい小さな悲鳴を発してしまいました。
静寂な二階の廊下に、私の声が響きわたりました。
すると、
「どおん!」
目の前のドアが蹴られました。
それから、
「おい!」
という低い重厚な男の声が 響き、
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二階の部屋の全てのドアノブが
一斉に、ガチャガチャガチャと音を立て始めました。
目の前のドアノブも、
右左へと狂ったように激しく回転しています。
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ドクンドクンドクン
私の鼓動は、外にいる何者かに聞こえているんじゃないかと思うくらい、
早鐘のように高鳴りました。
「どおん」
「どおん」
「どおん」
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三度、ドアが蹴られ、
「どこだ。どこにいる。」と。
私は、巾着袋を握りしめ、ひたすら耐えるしかありませんでした。
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その時、
「ゆかりちゃん。どうしたの。
何かあったの。」
ゆう子さんの声がしました。
「大きな声が聞こえたから、心配で来てみたのよ。
お部屋開けてくれない?」
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嘘だ!
違う!
「ねぇ。開けてよ。
開けてってば、お願い。」
「ねぇ、なんであけてくれないの。
私たち、友達だよね。」
「優しくしてやったじゃない。
ねぇ。開けて。」
「私のお願いが聴けないの。」
「開けてよ。早く。」
声はだんだんと大きくなってゆき、
「いるんでしょう。今そこにいるのよね。
なんで開けないの。」
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「開けなさい。あなた起きているんでしょう。」
険しい声に変わり、
「開けろ。早く!開けるんだよ。」
やがて、絶叫し始めました。
「早く、早く、ここを開けろ。
開けろ、開けろ。」
「この野郎
開けねぇとぶっ殺すぞ。」
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どおんどおんどおんどおん
何度も何度もドアを蹴りあげる音がします。
最初は、優しかった声が、叱責になり、怒声になり、
罵声に変わり、やがて、下品で卑猥な罵詈雑言へと変わって行きました。
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ゆう子さん。。。。
そうだったんですね。
どうして、どうして、どうして。
私は、大粒の涙をこぼしておりました。
コト
コトコトコト
隣りの部屋から小さな音が聞こえてきました。
「ゆかりさん、大丈夫。もうじき終わるから。」
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窓の外が、うっすらと白み始め、遠くでカァとカラスが鳴きました。
すると、
ドサッ
と崩れ落ちる音とともに、
ぐぇぐぇぐぇ
ぐるうぐるうぐるうぐるう
禍々しいものは、たいそう息苦しそうに 悶絶しておりました。
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どおんどおんとドアを蹴る音は止み、
うぐうぐうぐうぐうぐうぐ
苦しいうめき声と
ずぼずぼずぼ
腹の底から何かを吐き出している音。
それから、
びちゃびちゃびちゃびちゃびちゃ
吐しゃ物をまき散らしているような音が聞こえてきました。
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しばらくすると、
「ちっ。」
という舌打ちを最後に、
ズリズリズリズリズリ・・・・
バサリバサリバサリ・・・・
足を擦る音と
合羽を煽る音が遠ざかって行くのが解りました。
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およそ人間ではないそのものは、
バサバサバサ
ピタリピタリピタリ
ゆっくりと這いながら一段一段階段を下ってゆきました。
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辺りは静寂に包まれ、チュンチュンとスズメのさえずりが聞こえてきました、
カーテンの隙間から、太陽が夏の名残を湛えながら
上ってくるのが見えました。
薄紫だった空は、明るいオレンジ色を交えた水色に変わり、
今日も、残暑が厳しい一日になることを予想させました。
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「あっ、痛い!」
握りしめた巾着袋の中から、いつの間にか石が飛び出しておりました。
その石は、私の右手の薬指と中指の間に挟まり、真っ赤な溶岩のような毒々しい色を呈しておりました。
石のはさまっていた右の薬指と中指の間は、小さく火傷し、水ぶくれが出来ていました。
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石にそっと触れてみました。
「ありがとね。(あんまり実感なかったけどさ。)助けてくれたんだね。」
ぶーん
小さな身体を振動させて、石は応えました。
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やがて、石は、みるみるうちに、色を変え、溶岩のような色から、藍色に変化しました。
掌に上げ、丁寧に隅々まで眺めてみると、石の表面には、キラキラとした棒状の装飾が施されてありました。
これ、もしかしたら、石じゃないのかも。
それ(正確には「アレ」)は、窓から差し込む朝日を受け、一瞬 稲妻のような光を放ちました。
すべてが終わったことを教えてくれたのだと思いました。
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巾着袋にそっと入れ、紐でその口を閉じると、
どこからともなく、
「よし。」
という声が聴こえてきました。
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廊下に出てみましたが、
特に変わった様子はなく、
窓から見える海は、鏡のように澄んでおりました。
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朝7時、階下に降りると、朝食の支度がなされておりました。
朝の挨拶をし、
「すみません。今日は、もう早く帰らなければならないので、食事はいいです。」
と言って、断りました。
Hさんが、微笑みながら、
「昨夜は、良く眠れた?」
と聞いてまいりましたが、
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それには応えず、
「お世話になりました。ありがとうございました。」
と感謝とお礼を述べました。
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厨房から、何人か出て来ましたが、
「せめて駅まで送らせて。」という
ゆう子さんの申し出を丁重にお断りし、
最寄りのバス停まで、重いリュックを背負って歩き出しました。
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バス停は思いのほか近くにありました。
バスを待っていると、
ゆう子さんが、軽トラックで追いかけてました。
「忘れものよ。」
昨日、道の駅の直売所でもらった夏みかんのお土産の袋を渡してくれました。
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ゆう子さんは、泣きそうな顔をして、
「お願い。バスには乗らないで。私、駅まで送るわ。ちょっと待ってて。」
と言いました。
「いえ、いいんです。バスで行きます。」
「どうして?」
「ちょうどいいのがあるみたいだし。これ以上、ご迷惑おかけできませんから。」
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「今朝がたのことなんだけど・・・・。」
「・・・・いいですよ。もう。昨夜、たったひとりで、あそこの建物に残された時の「悪意」と「疎外感」に比べたら、大したことないです。」
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「ごめんなさいね。本当にごめんなさい。実は、もっと話したかったんだけど。」
「すみません。もう帰らないと。」
「どうしても行くのね。」
「はい!今週、金曜日から仕事なもんで。
あっ、あの昨夜綺麗なお花ありがとうございました。
ゆう子さんも、喜んでいましたよ。」
「・・・・・・・。」
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「今朝方、最悪の夢を見ました。それで、解ったんです。ここで起こった詳しいことは解らないけど。」
目の前に佇む女性は、目に涙をいっぱい浮かべていました。
「いいわね。帰る家のある人は。」
「はい。わたしもそう思います。それと、私、こう見えても、自分のことが好きなんです。
ブスで バカで不器用だけど。自分以上の何かになろうだなんて、これっぽっちも思ってないんです。」
「・・・・・・・・・」
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きききききぃー
バスは、砂と小石を巻き上げ、急停車しました。
窓を開けて、運転手が大声で怒鳴りました。
「ちょっと乗るのかい?」
「はい。S駅まで。大阪までの特急に乗らなくちゃならないんで。」
「だったら、早く乗って。」
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私は、美しい女性に、ゆっくりとお辞儀をし、にっこりとほほ笑みました。
「じゃぁ、お元気で。
ありがとうございました。
ここは、いいところなんで。また来たいと思っています。」
美しい女性は、流れる涙を拭おうともせず、私の肩を抱きました。
「でも、多分、もう会えないかもね。」
「会えますよ。きっと。私たち似てるし。」
「世の中には、似ている人が7人はいるっていうわ。」
「名前もですよね。同姓同名。じゃぁ、お身体ご大切になさってください。」
そう言って、私は車中の人になりました。
(ゆかりさん、さよなら)
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途中、昨夜(お世話になった)国道沿いの電話ボックスが目に入りました。
通り過ぎる一瞬、仏壇に飾られていた写真の女性が、私に向かって にこやかに礼をする姿が見えたような気がしました。
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S駅に着くと、運転手は、
「さっきはすみませんでした。」
と小さな声で謝罪してくれました。
「いえ、かえってこちらこそ。
急停車させてしまい申し訳ございませんでした。」
と応え、小さく会釈して下りました。
同じバスの乗客の中のひとりが、
安堵の表情で私を見つめておりました。
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S駅で、列車を待っている間、
駅の売店で、あんパンと缶コーヒー買い、むさぼるように食べました。
ホラー映画を三本も立て続けに観たような一日を過ごし、さすがに眠気が襲ってきたようです。
辺りの景色も、ぼうっとして来ました。
意識だけは、しっかりとしていようと、うつらうつらと、舟をこいでいたその時、
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「もし、もし、ちょっとお嬢さん?」
トントンと肩を叩かれました。
赤い顔をした50歳ぐらいのおばさんが、
心配そうに覗きこんでおりました。
「あのね。
さっき、一緒にね。バスに乗っていた者なんだけど。
あなた、昨日、どこに泊まったの?」
「えっ、民宿○○の里ですけど。」
「・・・・嘘でしょ。」
「いや、ほんとですって。」
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「・・・いやね。そこ、もうずっと前から、やってないのよ。民宿は、もう閉めちゃったのよ。」
「え!やってないんですか。」
「もう随分前よ。あそこの人たち、一族みんなで経営していたんだけどね。
最初の頃は、良かったのよ。
何を隠そう私、あそこで働いていたんだから。
でも、途中から ゆう子さんっていう身体の弱い一人娘さんのためにって
いろいろやり出してから、どうもねぇ。上手くいかなくなっちゃったのよ。
旅行する人にもいろんな人がいるから。変な噂立っちゃうと客商売はね。いい人たちだったんだけど。」
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「じゃぁ、私無理やり泊まってしまったんだ。」
「それより、ちょっと、あなたどうやって あそこ知ったの。」
「えっ、駅の公衆電話の電話帳に電話番号を書いたメモが挟まっていたんで、
電話したんですけど。」
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「電話?おかしいわ。もうあそこやってないから電話取り外してないはずよ。」
「でも、電話繋がりましたよ。」
「それは、多分、別のお宅。お店だって、もうないでしょ。どこかの作業場に使っていたらしいけど。」
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「お隣に離れがありましたよ。平屋のお家。そこにご家族や従業員さんたちがいっぱいいらっしゃったようですけど。
そこには、電話あるって話してましたが。」
「変ねぇ。そこにはもう誰も住んでいないはずだけど。それこそ、何年も前からずっと空家。」
「・・・・・・・・・」
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「それと、あそこのバスの停留所って、あまり人乗り降りしないのよね。
降りる人はいても、乗る人を見たことがないっていう、些か気持ちの悪い噂のある場所なのよ。
バスの運転手さんだって、驚いていたでしょう。もう何年もあのバス停から乗る人いなかったから。」
「・・・・・・」
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おばちゃんは、急に真顔になり、今までとはうってかわった口調でこう言いました。
「好事魔多し。というではありませんか。あれ程、お気を付けなさいと言ったのに。
アレがあんなに形を変えるなんてありえないことなのですよ。」
白檀の香りが漂い、思わずあんパンを落としそうになりました。
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また、夢を見ていたようです。
「まもなく○番ホームに 大阪行き特急◆◆が停車いたします。
危ないですので、白線までお下がりください。」
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駅のホームに列車が到着し、
「あぁぁ、すみません。」
馬鹿でかいリュックを背負っていたので、よろよろしながら、他の乗客にぶつからないかどうか気遣いながら、やっとの思いで特急◆◆に乗り込みました。
列車は、ボックス席になっており、進行方向向かって左側の窓際の席が私の座る席でした。
日本海の夕日、綺麗だったなあ。
車内は、とても涼しく、リュックを網棚にあげると、大きく背伸びし、深呼吸し、席に座り直しました。
列車は、大阪駅めざし、速度を速めます。
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「あの、ちょっと、よろしいでしょうか。」
穏やかな柔らかい女性の声がしました。
見ると、若い母親が、5歳くらいの男の子の手を引いて席に立っておりました。
「こちら、10のA・B席ですよね?」
「えぇ、ここは10番ボックスですね。」
母親に促され、男の子は、静かに窓際の席に座りました。
私と男の子は、ちょうど向かいあって座る格好になり、目と目が合って、にっこり微笑みました。
「こんにちわ。」
半袖に半ズボンを履き、お行儀よく座るその子を、母親は、あたたかい眼差しで見つめておりました。
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「どちらまで。」
「大阪まで。」
「長旅ですね。お連れ様は、これからいらっしゃいますの?」
「・・・・・・大阪まで、私、ひとりですけど。」
「まぁ、それは失礼いたしました。てっきり、ホームにいらっしゃったあの方とご一緒かと勘違いしちゃいました。
和服を着たご婦人、最近では珍しいから。」
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網棚のリュックの右側のポケットから、ブーンと音が聞こえてきました。
この車中でも、また不可思議な出来事があるのかしら。
私は、次の出会いに備え、また仮眠をとることにしました。
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「すみません。ちょっと、眠らせてください。昨夜、良く眠れなかったんで。」
前の席の母子に、断ると、着ていたジャケットをくるくると椅子に巻き付け、その上に頭を乗せました。
「お姉さん。おやすみなさい。」
男の子がケタケタと笑いました。
「うん、おやすみなさい。」
私は、いつの間にか、深い深い眠りに落ちておりました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(追記)
あれから、もうかなりの歳月が経ちました。
あの民宿は、S市のどのあたりにあったのか、記憶が定かではなくなった今、思い出すことも難しくなりました。
また、駅で会ったおばちゃんのいうように、もうとっくの昔に、閉めてしまったのかもしれません。
というより、本当にあそこが民宿だったのかも、疑わしいような気もいたします。
ただ、あの日、あの晩、真っ暗な夜の道を、公衆電話めがけて、一心不乱に走り続けたあの時の恐怖と
一斉に見上げて、「おやすみなさーい」と言われた時の、恐怖。そして、あの夜に見た、とんでもなく恐ろしい夢と
「好事魔多し」の格言は、これから先も一生忘れることが出来ません。
作者あんみつ姫
今回は、随分長いお話になってしまいました。
申し訳ございません。
とにかく、怖かったんです。
はい。
いたずらに長いだけで、続きを期待しておられた皆様には、がっかりさせるような内容になってしまったかもしれません。
予め、お詫び申し上げます。
実話とは、一味異なりますが、実話系のお話として、お読みいただければよろしいかと存じます。
前作同様、忌憚ないご意見ご感想を、よろしくお願いいたします。