どこにでも怪談話はある。
しかし、それはいざ聞いてみると、根拠の無い半信半疑な物ばかりだ。
俺は昔から幽霊なんてものは信じていなかった。
怪談話なんて、人が広めた噂の延長線上の物としか思ってなかった。
でもまさか自分自信があんな体験するだなんて――――。
俺は、とある会社の営業マンだ。
(ここではY介としておく。
)歳は35歳。
独り身で、5年間この会社で頑張ってきた。
がむしゃらに働いて、契約ばんばん取って、同期で入った奴らをどんどん追い越して今では上司だって俺にデカイ口は叩けない。
恋人はいないが別に欲しいとも思わなかった。
俺は仕事の中に自分の価値を見出だしていたんだ。
週明け――。
いつものように事務所のデスクで取引先とのメールをチェックしていた時だ。
同期のA男がイスを転がしながら話しかけてきた。
「なぁY介、聞いたか幸子さんの話し。
出たんだってよ先週の金曜に!」
「誰だその幸子さんって。
新入社員か?」
「お前5年もこの会社に居て幸子さんの話知らねーのか?!」
A男は呆れたような顔で俺を見ている。
A男の話しによると、幸子さんというのはうちの会社に出没する有名な幽霊だか、妖怪の類いらしい。
「……くだらねぇ……。
」
「まぁ聞けって、でよ、その幸子さん見たってゆーのが山崎主任でよ、先週の金曜に残業してる時にどうやら見ちまったみたいだぜ?だっておかしいと思わねーか?あんな仕事一筋な主任が今日無断欠勤だぜ?」
主任のデスクに目をやると、確かに。
いつもいる山崎主任の姿が無かった。
「でも無断欠勤の理由がその幸子さん?を見たからと限らないじゃないか。
大体なんで主任が見たってわかるんだよ。
誰か他にも見た奴がいんのか?」
「そりゃーいないけどよー。
皆言ってるぜ?噂だよ噂!」
ほらな。
大体は根も葉も無い噂だ。
俺はもう聞く気にはならなかったがA男はお構い無しに幸子さんの特徴を話してくる。
「でよぉ、幸子さんっていうのは昔この会社にいた女性社員でよ、いじめを苦に地下の倉庫で自殺したんだよ。
んでもって幸子さんは片方だけ白いハイヒールを履いててな、毎年自分が死んだ夏の時期になるともう片方のハイヒールを探しに夜な夜な社内を徘徊するんだってよ!
怖ぇ〜俺もう独りで残業出来ねぇわ!」
一人盛り上がるA男の話しを半分で聞き流し、俺はもう午後からの商談の事で頭がいっぱいだった。
馬鹿馬鹿しい。
そもそも、うちの会社の女性社員は全員支給された黒い靴なのに何で白いハイヒールなんだ。
くだらねえ。
A男はA男で、もう遠くで若い女性社員に話しかけていた。
怪談なんかには全く興味は無かったが、無断欠勤している山崎主任の事は少し引っ掛かった。
あの人が理由も無しに仕事を休むだなんて…。
しかしそんな俺の疑問も、午後からの忙しさで払拭された。
いつしか俺はA男から聞いた“幸子さん”の話しなど、すっかり忘れてしまっていたのだ。
そして10日あまりが過ぎた。
あれから山崎主任は全く会社に姿を見せない。
ずっと欠勤が続いている。
自宅を知っている社員が様子を見に行ったが、中に人がいる気配も無いし病院に入院しているわけでもなさそうだった。
もしかしたらこのまま会社を辞めるかもしれないという噂が社内に広がった。
そんな中、俺は部長に呼び出された。
なんでも、滞っていたデカイ商談を俺に任せたいと言う。
山崎主任が手掛けていた仕事だ。
これ以上先方を待たせて契約破棄にでもされたら取り返しがつかないと部長に泣き付かれ、正直自分の仕事で精一杯だったが、もしかするとこれがきっかけで主任に昇任されるかもしれないという期待も有り、俺は二つ返事で引き受けた。
それからは文字通り寝る間も惜しんで働いた。
休みも返上で会社に篭り、自分の仕事と山崎主任の仕事両方を平行してこなしていった。
周りは俺の身体の事を心配していたが、俺には充実した毎日だった。
そんなある日の事だ。
いつものように皆が退社した後も、俺は一人フロアに残り仕事をしていた。
時間はとっくに深夜を回っている。
向かいのビルも明かりが消えて静寂が辺りを包んでいた。
すると急に足元がひやりと冷たくなった。
(冷房が効き過ぎたか…?)
そう思い、スイッチを切ろうと立ち上がるが、おかしな事に冷房の電源は入っていなかった。
(気のせいか。
)
その時、何気なく窓に映った自分を見て俺は目を疑った。
「…なっ…!?」
白い手が、窓に映る自分の首を掴んでいた。
ぞわりと首筋に寒気が走った。
俺は驚き後ろを振り返ったが誰もいない。
きっと自分は疲れているんだ…。
そうだ…ここ最近ろくに寝ていないから…。
そう思うことにした。
けれどあの感触は………
気分を切り替えようと給湯室でタバコに火を点ける。
白い煙がスーッと換気扇に吸い込まれるのを見ていると、心なしか気分が落ち着いて来た。
その時だった。
……コツ……コツ……コツ………
廊下からヒールの足音が確かに聞こえた。
一気にさっきの不安が逆戻りし俺はそれをごまかすように大声で叫んだ。
「…おい!誰かいるのか!?」
しかし俺の声がただ廊下に虚しく響くだけだった。
足速にデスクに戻り、パソコン画面を見ながら念仏のように俺は唱えた。
とにかく落ち着こう、何を俺はびびっているんだ。
幽霊なんかいやしない。
そうだ、あんなの、何か別の物音だ、と。
だが次の瞬間、そんなささやかな希望は打ち消された。
「……ワ…タシノ…ハイヒール…カ…エシ…テ……」
耳元で女が囁いた。
けれどまるで生きている人間の声とは思えないような…地の底からはい出るような声だった。
「…ヒッ…!!」
全身が粟立ち、夏だというのに震えが止まらない。
背中を、氷で出来た手で撫でられているようだった。
振り返ったが誰一人いない。
心臓の鼓動が徐々に速まる。
(…なんなんだクソ…ッ!)
大きく息を吸い、デスクに向き直そうとした時だった。
………女が―――。
真っ黒い髪の女がデスクの下の闇からはい出て俺の足を掴んでいた。
「……ワタシ…ノ…ハイ…ヒール…カエシテ………」
その目は白く淀み、ぽっかり開いたただの空洞のような口からさっきと同じ声がした。
「…ゔあ゙あぁぁああっっ!!」
俺はイスごと倒れながら女の手を払い、はいずり回るように立ち上がってなんとかその場から逃げた。
心臓がぎゅうっと掴まれたような感覚、恐怖でうまく身体が動かない。
…ハーッ!ハァーッ…!!ハァ…ッ!!
自分の荒い呼吸と靴の音とは別に、確かにあの女のヒールの音が聞こえた。
(………追って来る……!!)
ようやくエレベーターホールまでたどり着き、降りるボタンを連打した。
上がってくるエレベーターの点滅が永遠のような長さを感じさせた。
「…早く来いよクソォ…ッ!!」
俺は恐怖で居ても立ってもいられず、すぐ脇の非常階段で下まで降りることにした。
その間にも女の足音が確実に近付いて来てる。
転がり落ちるように階段を降り、正面入口まで全速力で走った。
だがそこで俺は重要な事に気がついた。
(…!…キー!カードキーが無い…!!)
先程倒れた拍子にデスクの所で落としたに違いない。
社員専用のカードキーが無ければ、在職時間外は扉は開かない事になっている。
だがとても取りに戻る事なんて出来ない。
「…頼むっ!!誰か来てくれっ!!開けてくれぇ…っ!!」
俺の叫び声とガラスを叩く音がフロアに響く。
………コツ…コツ…コツ…コツ。
そしてヒールの音が俺の背後で止まった。
ザァーっと全身の血が引いた気がした。
ガラスに女が立っている姿が映る。
バサバサの黒髪で顔はよく見えないが、うすよごれたブラウスにスカート。
白いハイヒールを片方だけ履いていて、もう一本の足は膝から下が異様な形に曲がっていた。
とても普通の人間があんな状態で歩けるとは思わなかった。
俺は声にならない悲鳴をあげ、とにかく無我夢中で走った。
何処に逃げようかなんて考える暇も無かった。
あの女から少しでも離れようと正面入口とは反対側に走っていた時だった。
いきなり横から手を掴まれ俺は叫んだ。
あの女だと思い、必死にもがいた。
「オイあんた!どうしたんだっ大丈夫かっ!?」
しかしそれはうちの会社の警備員だった。
いつもは冴えない初老のおっさんが、この時ばかりは救世主に思えた。
「…女が!化け物みたいな女が追い掛けて来るんだよ!白いハイヒール履いてて目が真っ白で…!…とにかく普通じゃないんだ!!じーさんあんたも早く逃げないと!!」
「大丈夫だから落ち着いて!…誰も追って来てなんかいないぞ!しっかりしなさい!」
まさかと思い見渡すと、辺りには俺とじーさんしか居なく、いつの間にかあの女の気配も消えていた。
「……た、…助かったのか俺は…」
全身の力が抜け、その場に座り込んだ俺を、じーさんが廊下に並べてあった長イスに座らせてくれた。
「……あんた、さっき白いハイヒールの女と言っていたが、あんたもまさか幸子さんを見たのか…!?」
……幸子さん…?
そこで俺はようやくA男から聞いた怪談話を思い出した。
「……じーさん、あの化け物の事知っているのか?!」
化け物じゃないよ、幸子さんは…。
そう言ってじーさんは俺の横に腰をおろし、悲しい顔で語り始めた。
「…もう20年以上も昔の話だ…。
ワシはあんたぐらいの歳の頃からこの会社に勤めていた。
その頃社長秘書をしていた幸子さんという女性がいてな、ある男性社員と秘密の恋をしていたんだよ。
…その男は金は無かったが、人一倍仕事熱心なやつでな。
…ある時、当時の社長の娘である女性社員がその男に目をつけた。
社長も男を気に入っていたので是非婿にしたいと言ってきたんだ。
男は野心が強かった為に将来の社長のイスを約束されるその話を受けてしまったんだ。
だが幸子さんは自分を捨てた男を少しも恨んだりしなかった。
それどころか、男が幸せになるならと、喜んで二人を祝福していたよ。
男も男で、結婚した後もずっと幸子さんを変わらずに想っていた。
けれどそんな二人の関係に気付いた社長の娘がな、執拗に幸子さんに嫌がらせをするようになったんだ。
ある時いつも幸子さんが履いていた白いハイヒールを、社長の娘が地下の倉庫に隠してしまった。
付き合っていた頃男が唯一プレゼントしてくれた物だ。
けれど幸子さんがいくら探してもとうとう片方しか見つからず、しかも誰かが誤って倉庫に鍵をかけてしまってな、可哀相に幸子さんは猛暑の密室の中で亡くなってしまった…。
それからだよ、幸子さんの幽霊が出ると噂が広まったのは…。
」
俺はただ黙ってじーさんの話しを聞いていた。
幸子さんがまさか実在する人物だったなんて…。
山崎主任も、きっと幸子さんを見たに違いない。
じーさんの話しに同情はするが、実際見てしまった以上俺ももうこの会社で働く気にはなれなかった。
じーさんの提案で、俺は朝まで警備室で休ませて貰う事にした。
そして二人で廊下を歩いている時だった。
俺は急に手を掴まれ、立ち止まって振り返った。
「……何だよじーさん、どーした……」
「あぁ、すまんすまん、急に靴紐が解けてな。
」
じーさんは俺のずっと後ろで靴紐を結んでいた…。
……じゃあ……
………今………俺の手を引っ張っているのは…一体……。
「……ねぇねぇ知ってる?3年ぐらい前に、この会社であった事件!」
「知ってる知ってるー!仕事のし過ぎで頭おかしくなっちゃった男の社員が、警備員のおじさん殺しちゃって自分も死んだやつでしょ!?」
「えー、私は仕事で取り返しのつかないミスした男がおじさん道連れに自殺したって聞いたー。
」
「違うよー、本当は二人共ね……
幸子さんに呪い殺されたんだよ。
」
怖い話投稿:ホラーテラー 山海さん
作者怖話