1985(昭和60)年8月12日、娘が日航機墜落事故で遭難した。
娘は体育の教師をしていた。
御巣鷹山の山奥で傷があれば自分で止血し、夜露を飲んででも必ず生きているに違いない。
そう信じて現地へ駆けつけた。
事故は凄惨を極め、想像を絶していた。
蒸し風呂の体育館に漂う線香と遺体の臭気の中に、「性別不祥」「年齢不詳」と記された柩が並ぶ。
バラバラ遺体の中を気が狂ったように探し求めて、わが子にやっと巡り合えたのは7日目であった。
娘の柩には「中学生」と書かれていた。
妻が「この手、愛子の手や。爪の切り方が愛子や。」と言う。
「どんなに変わり果てた姿であろうと、せめて一晩我が家の畳の上に寝かせてから葬ってやりたい」
そう言う妻を説いて遠い高崎の地で荼毘にふした。
来春の結婚に夢見たであろうウエディングドレスを着せ、好きだったテニスボールを左手に握らせて、変わり果てた娘の遺体を抱きしめた。
一条の煙と共に白骨と化したその遺骨を再び抱きしめた時、とめどなく流れる涙と共に
「よう帰ってきたのう」
と思わず微笑んだ私。
一緒に同道した婚約者の姿がいじらしかった。
彼はこの事故の一ヶ月ほど前に「愛子さんとの結婚を認めてください」と我が家を訪れた。
「うちは同和地区ですよ」という私に
「愛子さんから聞いています。両親がお盆にお願いに来るはずです」と彼は言った。
これが彼と交わした最初の会話であった。
そして、奇しくも遺体収容の藤岡市の体育館で両家の親が対面した。
私が同和問題に触れた時、彼のお父さんはこう言った。
「私は教師です。少なくとも人様に平等を説く人間として、自分を偽るようなことは絶対にしません」
私は返す言葉もなかった。
娘の縁談を聞いた時、
「それでも親戚の中には反対の人がいるかも」
「娘が先々思い悩むのでは」と、
あれこれ思い過ごしていた自分が恥ずかしかった。
こんなお父さんや彼だからこそ「私部落の生まれなんよ」と重い言葉を打ち明けることができたのだろう。
「これからも息子をお宅の家族の一員に加えてお付き合いさせてください」とお父さんはおっしゃった。
お盆休みの休暇が切れ、いくら勧めても彼は職場に帰ろうとはしなかった。
疲れ果てた妻の肩をもみ、私に濡れタオルを絞り、買い物や遺体の確認に奔走した。
遺体が見つかるまでの一週間、娘が神戸を発つ時の服装や持物、歯型などの情報を持って数人の友人が阪神や和歌山から駆けつけてくれた。
いずれも大学時代やその後のスポーツ仲間だった。
葬式がすんでからも四国や岡山から友達が訪ねてくる。
友情とは何なのか。
愛とは何なのか。
ひとかどに愛の道を説いてきた私に果たしてそれが出来るのか。
愛とは人に説くことではなく行うことなのだ。
それを私は教えられた。
49日がすんでから、彼は半畳分もある大きな娘の肖像画を持ってきた。
娘の面影が鮮やかに描かれていた。
「仕事の合間に毎晩絵筆をとる間だけが心休まる時なんです。愛子さんに会いたくなればこの絵を見に来ます。」と彼は言った。
49日を一つの区切りに、思いを断ち切らせたいと願った私だったのだが。
人の命には限りがある
だからこそ自分の思うように生きたい
人は軽く10年先、20年先を口にするけれど
そのときを大切にしなければ
今、光っていたい
娘の絶筆である。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話