その晩のサーカス会場はかなりの賑わいだった。私はほぼ中段に陣取り眼前で展開されるハイグレードな技の数々に釘付けとなった。
前半が終わるとブレイクタイムなのか一人の道化師が一輪車に乗って現れた。
道化師は故意に失敗して観客の笑いを取るのが定石だが、今夜の道化師はそれを織り込んでも見ていられない下手さ加減だった。転倒を繰り返した挙げ句に壁に激突…観客席からドッと笑いが巻き起こった。
道化師は恥ずかしそうに起き上がり、奥へ引き返して行こうとした。どうもオツムの方も弱そうだ。
その時、悪ふざけのつもりかサーカス団の看板スターの娘が道化師の背中を蹴飛ばした。もんどりうって倒れる道化師。観客席は爆笑の渦だ。
道化師は起き上がると、ツカツカと娘に近づいてその手を引っ張り中央にある棺桶位の大きさの箱に引き摺る様に連れて行った。半ばおどけた様子で娘はされるままになっている。これはアドリブを装った演出だろうか。私には、道化師の雰囲気が一輪車の時とは一変している様に見えた。
娘を箱に閉じ込めると、道化師は剣を構えて渾身の力を込めて(私の目にはそう映った)箱に突き刺した。
つんざく様な悲鳴が会場に響いた。とても演技には聞こえなかった。観客も流石に静まり返った。
道化師はお構い無しに何度も何度も剣を箱に突き刺した。箱を剣が突き破る音と、凄まじい悲鳴が交互に会場にこだました。
ここ迄くると私の周りの観客も呑気には見ていられない様だった。私の隣の老婦人は青ざめて(私自身もそうだったろう)前の席の中学生位の女の子は涙ぐんでいる。もう止めてくれ!タネがあるにしてもやり過ぎだ!
観客席の緊張感が限界に達したか達しないかという瞬間だった。
「ホホホホホ あなたアジな真似するざゃない♪」
かん高い女の声が響いた。あの娘の声か…全く演出もいくら何でも度を越してるぞ。
観客席に安堵の空気が流れた。道化師は恭しく席に向かって一礼した。割れんばかりの拍手が道化師を包んだ。道化師は箱と共に奥へ消えて行った。
これで本当のブレイクタイムになった。気がつくと私は全身に汗をかいていた。やれやれスリリングにも程があると落ち着きを取り戻していると…
突然非常警報が響き渡った。同時に奥から煙が出て来た。冗談じゃない。火事か?
瞬く間に会場は大パニックになった。押し合いへし合いで全員が出口に殺到した。怒号と悲鳴がひっきりなしになる。私も体のあちこちをぶつけられたり叩かれたりしながらもみくちゃになったが、必死になって這いずる様に外へ転げ出た…
全くえらい目にあったと帰途についている途中、私は妙な不安に駆られた。
あの時聞こえた女の声…あれは本当にあの娘の声だったのか…?あれは道化師が腹話術で出した声じゃないのか…?そうではないと誰が断言出来る…?
満月に照らされながらそんな事を考えていると、急に足元が暗くなった。私は反射的に振り返った。
道化師が壁の上に立っていた。影になっているので表情はうかがえない。道化師の足元には何か丸い形のものが置いてあった。
道化師は奇怪な踊りを始めた。道化師の影が地面に大きく映った。両手両足を蛇の如くくねらせていた。私には、道化師が歓喜の舞いをしている様に見えた。
道化師は足元に置いてあったものを両手で掴むと、自分の顔に持っていった。
地面に何か滴り落ちたのが分かった。それはどんどん増えていった…
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話