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中編3
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牛の首 エピローグ

まず、今現在最も有力な説の牛の首を紹介します。

コピペです。

明治初期、廃藩置県に伴って全国の検地と人口調査が行われた。

東北地方において廃墟となった村を調査した役人は大木の根本に埋められた大量の人骨と牛の頭らしき動物の骨を発見した。

調査台帳には特記事項としてその数を記し、検地を終えると、そこから一番近い南村へと調査を移した。

その南村での調査を終え、村はずれにある宿に泊まった。

宿の主人は関係あるかどうかは分からないが、と前置きをして次の話を語った。

天保3年より数年にわたり大飢饉が襲った。俗に言われる天保の大飢饉である。

当時の農書によると「倒れた馬にかぶりついて生肉を食い行き倒れとなった死体を野犬や鳥が食いちぎる。

親子兄弟においては情けもなく食物を奪い合い畜生道にも劣る」といった悲惨な状況であった。

天保4年の晩秋、夜も更けた頃この南村に異形の者が迷い込んできた。

ふらふらとさまよい歩くその躰は人であるが、頭部はまさしく牛のそれであった。

数人の村人がつかまえようとしたその時、松明を手にした隣村のものが十数人現れ、鬼気迫る形相にて、「牛追いの祭りじゃ、他言は無用」口々に叫びながら、その異形の者を捕らえ、闇に消えていった。

翌日には村中でその話がひそひそと広がったが、誰も隣村まで確認しにいく者はいなかった。

その日食うものもない飢饉の有様では、実際にそれどころではなかった。

翌年には、秋田藩より徳政令が出され、年貢の軽減が行われた。

その折に隣村まで行った者の話によると、すでにその村に人や家畜の気配はなかったとのことだった。

それ以後、「牛の村」とその村は呼ばれたが、近づく者もおらず、その名を呼ぶ者もいない。

役人は役所に戻り、調査台帳をまとめ終えた頃、懇意にしていた職場の先輩に意見を求めた。

先輩は天保年間の村民台帳を調べながら考えを述べた。

大飢饉の時には餓死した者を家族が食した例は聞いた事があるが、その大木のあった村では遺骸だけではなく弱った者から食らったのであろう。

そして生き人を食らう罪悪感を少しでも減らす為牛追いの祭りと称し、牛の頭皮をかぶせた者を狩ったのではなかろうか。

人骨の数を考えるとほぼその村全員に相当する。牛骨も家畜の数と一致する。飢饉の悲惨さは筆舌に尽くしがたい。

村民はもちろん親兄弟も、凄まじき修羅と化し、その様はもはや人の営みとは呼べぬものであったろう。この事は誰にも語らず、その村の記録は破棄し、廃村として届けよ。

この言葉を深く胸に受け止めた役人は、それ以後、誰にもこの話は語らず心の奥底にしまい込んだ。

日露戦争が激化する頃、病の床についたこの男は、戦乱の世を憂い、枕元に孫たちを呼び寄せ、切々とこの話を語ったという。

この孫の中の一人が、自分である。当時は気づかなかったが、祖父が亡くなった後に分かったことがあった。

何の関係もないと思われた南村の者が、隣村の民全員を牛追いの祭りと称して狩り、食らったのが真実である。

そうでなければ全員の骨を誰が埋められるものか。

…これから本編を書きます

怖い話投稿:ホラーテラー 見世永さん  

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