長編11
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つんつるてん

犬の散歩は大変だと思う。早朝や夜遅くに散歩している人をよく見かける。

そのたびに、ついそんな事を考える。日中は仕事や学校だから、そういう時間帯になってしまうのだとは思うが…。

おれも小さい頃、実家で犬を飼っていたが、追いかけられた記憶しかない。本人はじゃれていたつもりだったのだろうが、おれにはそれが恐怖だった。

そして中学に上がり、犬にも慣れ始めた頃、飼っていた犬は病死してしまった。

おれの通っている大学は、下宿先から自転車で15分ぐらいの所にある。いつも近道である川沿いの道を通る。その日も実習が長引いて遅くなってしまった。

いつものように川沿いを自転車でこぐ。川沿いの道は、車が一台やっと通れるぐらいの広さ。両岸とも自転車を除いて一方通行となっている。

川といっても上水路といった感じで幅はせいぜい10Mぐらいしかない。

おれは冬の寒さに凍えながら家路を急いだ。

橋にさしかかった時、人影が見えた。こちらに背を向けて、じっと立っている。

犬の散歩中らしく、手綱をひいて、犬が用をたし終えるのを待っている。

「こんな寒い中、大変だな。」

と思った。

ふと見ると、その人ズボンの丈が合っていない。スネが丸見えで寒そうだ。紺のダウンジャケットを着て、ファー付きのフードを頭まで被っている。

その人の横を通り過ぎた時だった。

「わん。」

犬の声とも、人の声ともとれないような声。むしろ音だったのかもしれない。

少し驚いて、おれは振り向いた。

穴だった。黒い穴が三つ。そいつの顔であろう場所に、ぽっかりあいている。穴のような目と、穴のような口…。

背筋に悪寒が走った。猛スピードで自転車をこいだ。

川沿いをひたすら走り、一つ目の橋を超え、二つ目の橋を超え…

何か嫌な予感がした。振り返ると、追いかけてきている。距離は遠いのだが、そのまま夢中でペダルをこいだ。

アパートに着く頃には、そいつはいなくなっていた。

次の日、友人に昨晩の出来事を話した。

「そりゃぁお前、つんつるてんだよ。」

「つんつるてん?」

妖怪のたぐいかも思ったが、どうも違うらしい。友人が言うには、ズボンの丈が合わずにスネが丸見えの事を、つんつるてんというらしい。単なる見間違いだ。と軽くあしらわれた。

次の日の夜だった。そいつはまた現れた。

実習で遅くなり、川沿いを帰ってきたとき…そいつは同じ場所、同じ格好で立っていた。ズボンの丈が合っていない…

「わん」

そいつから逃げる為に、思い切りペダルをこいだ。幸いヤツはおれの自転車についてこれない。

「わんっ。わんっ。わんっ。」

犬のような、人のような。低い男の声。逃げ切るまで止むことはなかった。

そんなことがあってからというもの、おれは川沿いの道を通らなくなった。

ある日、前にも話した友人と一緒に帰ることになった。彼も同じアパートで、帰る方向は同じである。

「近道を通ろう」

と言い出し、イヤイヤ川沿いの道を行く羽目になった。

「ここの道、あいつが出るから嫌なんだよ。」

「ああ、例のつんつるてんか。何かされたのか?」

「いや…追いかけられただけだけど…」

友人がいたせいなのか、一人でないと現れないのか、あいつは姿を現すことはなかった。

数日後の夜のことだった。

あいつが現れた。

飲み会の帰り、少し酔っていて、川沿いの道を使ってしまったのだ。いつもの場所、いつもの服装、顔はフードで見えない。ただいつもと違うのは、あいつが自転車に乗っていたこと。犬を連れて、あいつは橋の向こうからこいできた。

「わん。」

夢中でこいだ。こいだ。でも今度は違う。あいつは自転車に乗っている。振り向くと、目の前にあいつの顔があった。白い肌、作りもののような肌にぽっかりとあいた穴三つ。

こいでも、こいでも距離は遠のかない。

「わん。わん。わん。」

あいつの連れている犬はスピードについていけずに引きずられている。

「わん。わん。わん。わん。わん。わん。わん。わん。」

もう酔いなんてとっくに醒めてしまった。

(このまま家に着くと、あいつに居場所がバレる!)

そう思って、とっさに道を曲がり、公園の便所へ逃げ込んだ。洋式便所に入りカギをかけ、閉じこもるとすぐにあいつがやってきた。

ドアの向こうに立っている。

下の隙間から覗くと、丈の合っていないズボン…

つんつるてんだ。あいつはしばらくその場で動かないでいた。

と…。

…ドンッ

ドアの叩く音。

…ドンッ…ドンッ…ドンッ

いや、叩くというよりかは、何かをドアにぶつけている。

…ドンッ…ドンッ…ドンッ

寒さと恐怖で限界だった。

何時間そうしていただろうか。

気づくとあいつはいなくなっていた。

便所を出ると、ドアの外側が凹んでいた。そして血と、犬の毛がこびりついている。あいつがドアにぶつけていたのは、自分の犬だったのだろう。でもドアにぶつけている間、犬の鳴き声は聞こえなかった。あいつの

「わん。」

という声以外は…。

しばらく二週間ぐらい大学を休んだ。その間、友人の部屋で寝泊まりした。

おれと友人は同じ医学部生だ。講義と実習で毎日大学へ通っている。

ある日、友人が言った。

「なぁ、そのつんつるてん、なんでお前を追っかけんだ?」

「知るかよ、そんなこと」

「追いかけられるからには理由があるんじゃねーの?理由が」

おれには見当もつかなかった。あいつが追いかける理由…

なぜ追いかけられたのか?

「逆に考えてみてさ、そいつに追われたとき、お前何してたよ?例えばどんな格好してたとか。」

思い出しても心当たりがない。ただ…

「そういえば黒いダウンジャケットを着てたな。」

あいつに追われた日は思い返すと、毎回黒いダウンを着ていた。

「うーん、それじゃあお前の黒いダウンに何かあるんじゃないか?」

そう考えると、理不尽な話である。黒いダウンを着ていただけで目をつけられ、追いかけられ、とじこもったドアに犬を投げつけられる…。

しかし思いつく原因はそれくらいしかなかった。捕まっていたら一体どうなっていたのだろう。

それ以来おれは、白いダウンを着るようになった。友人に説得され、大学にも通い出した。しばらく川沿いの道はやめ、遠回りして大通りの街道沿いを行くことにした。

それから数日がたち、大学は冬季休業に入った。冬休みである。でもおれはこれから4日間毎日、大学へ通わなければならなかった。

医学部の実習では、週に2回解剖の実習がある。しばらく大学を休んでいた時期があったから、休んでいた分の実習を終わらせなければならなかったからだ。

解剖の実習は、決して面白いものではない。34時間解剖室にこもってひたすら検体… つまりご遺体のスケッチを描くのだ。ずっと立ちっぱなしで作業をし、先生のダメだしをくらいやり直す…その日の分を終わらせた頃には日が暮れていた。

実習をしに大学へ通って3日目の夜だった。いつものように遠回りして帰る。

明日が実習最後だ。最終日にテストをやることになっている。解剖学的な名称を答えさせる問題だ。おれは明日のテストに備え、途中で喫茶店に寄って勉強することにした。

駅前の喫茶店に入り、窓際の席へ腰をおろす。イヤホンを取り出し勉強に集中する…。

そうして一時間ほどたった頃だろうか。

…ドンッ

驚いて窓を見た。あいつだ。つんつるてん。あいつが外にいる。

窓越しに穴のあいた目でおれをじっと見つめていた。…と、

ドンッ…ズルズルズル

窓に向かってあいつは犬を投げつけてきた。犬はミニチュアダックスだろうか、とにかく小型犬だ。あいつは投げつけた犬の手綱をたぐいよせ、犬を手元に運んだ。とまた…

ドンッ…ズルズルズル

ドンッ…ズルズルズル

ドンッ…ズルズルズル

また投げつける。手綱をたぐりよせ、また投げつける。その繰り返し。こいつは一体、何がしたいんだ?!何故おれを狙ってくる?

ドンッ…ズルズルズル ドンッ…ズルズルズル ドンッ…ズルズルズル

窓はだんだんと犬の血で赤くなっていった。

あいつは人間だろうか?何がしたいんだ?

しばらくして警備員がかけつけてきた。あいつはもういなくなっていた…。

家に帰り今までの事を思い起こしてみた。何故あいつはおれを狙うのだろう?

今日着ていた服は、白のダウンだった。黒のダウンじゃないのにあいつは現れた。色は関係ないのだろうか?だとすると他に何があるというのか。あいつが現れたとき、おれがしていた共通の事…共通の…

「あ、もしかして…解剖…」

思い当たった。あいつが現れた日、おれはいつも解剖の実習があった。解剖室はいつも検体のホルマリンの臭いが漂っている。34時間もそこにいると、体にホルマリンの臭いが染み付くのだ。

もしかしてあいつはその臭いに反応したんじゃないだろうか?色ではなく臭いに…そう、まるで犬のように…。

黒を着ていたのは解剖で汚れが目立たないから着ていただけのことだった。

次の日おれはテストを終え川沿いの道を通ってみることにした。その日はテストだけだったので、解剖室には入っていない。ホルマリンの臭いはしないはずだ。

注意しながらいつもの場所へ向かう…。

いた。あいつはそこに立っていた。

いつものように犬を連れ、身動き一つしない。

横を通り過ぎた。

振り返ってみる。

あいつは同じ格好で立っていた。気付いた感じもない。

「そうか…やっぱり臭いだったんだ。」

あいつは何者なのか、よくわからないが、これではっきりした。ホルマリンの臭いに反応していたんだ。

おれは何だか可笑しくなった。もう実習はない。ホルマリンの臭いもない。よって、あいつに追われることはないんだ。

明日からは晴れて冬休みだ。休みを満喫できる。

気分がよかった。

途中友人の部屋に行こうとしたが、留守のようだったので帰って寝る事にした。明日は友人でも誘って服でも買いに行こう…。

朝、チャイムの音で目が覚めた。

ドアを開けると二人の男が立っていた。

「警察ですが。」

「…何ですか?」

「あなた、この方の友人だそうですね?」

警察は友人の写真を取り出した。

聞くと、友人は下の階の自室で冷たくなっていたそうだ。

死語数日たっている。なぜか数日しかたっていないのに腐乱していた。

部屋は鍵がかかっていて自殺の疑いが強いという。

「一応、確認をお願いしたいのですが」

警察に言われおれは死体の確認をさせられた。

友人の顔は膨れ上がっていて生前の面影は無い。

「彼…だと思います…多分…。」

つんと鼻んつく臭い…これが死臭というものなのかと思った。

「臭いが出てもね、気付かないことの方が多いんですよ。まぁ一般の方は死臭なんて嗅いだことありませんものね。」

警察が言ったとおり、おれにも分からなかった。

おかしいとは思っていたが、まさか友人がこのような姿になっていたなんて。

「何か変わったことはありませんでしたか?」

おれはふと、彼の部屋のドアを見た。よく見ないとわからないくらいの…凹みと…血のような跡…そして郵便受けには犬の毛のような…

(ドンッ…ズルズルズル ドンッ…ズルズルズル)

あいつが友人の部屋のドアに犬を投げつけている映像が浮かんだ。投げつけ、たぐりよせ、投げつけ、たぐりよせ…

ズルズルズルズルズルズルズルズ…

警察の事情聴取が終わっておれは部屋に引きこもっていた。もう出かける気も失せていた。ここ数日、友人を見ていなかった。あいつは友人を殺したのだろうか。そんな事出きるはずない。そう信じたい。

でもあのドアの凹み…あいつは友人の部屋にやってきていた。あいつは同じ大学の友人を自殺にまで追い込んだんだ。次は、おれだ。

…バリンッ

いきなり窓が割れた。何かが投げ込まれた。部屋の外からだ。見ると、小型犬がぐったりしている。

「わん。」

うああああああああああああいつだ。あいつがおれの部屋の外にいる。裏庭から犬を投げつけたんだ。おれは思わず部屋飛び出した。どこでもいい、とにかくここから逃げたかった。夢中で走った。

ブロロロロロ

後ろからエンジンの音がする。あいつはスクーターに乗って追いかけてきた。

相変わらず犬を連れている。鳴き声をあげず、ひきずられている。犬のかわりに聞こえてくるのはあいつの鳴き声。

「わんっわんっわんっわんっわんっわんっわんっわんっわんっ」

だめだ!このままだと追いつかれる!足とスクーターじゃ時間の問題だ。

「わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわん」

あいつの声が次第に近づいてくる。

「わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわん」

路地を抜けて大通りが見えた。おれはとっさに右に曲がった。

キキキキキキーッ

ブレーキの音。そして衝撃音…。

あいつは曲がりきれずに対向車と衝突した。あいつは宙を飛んだ後、後ろからきたトラックの下敷きになった。おれは唖然としていた。時が止まったかのようだ。

「死臭だ…。」

色でもない、ホルマリンでもない、あいつは死臭を追ってきていたんだ。人間が感じることの出来ないくらいの、死の臭い…。

トラックのタイヤの間からあいつの足が覗いていた。あいつのスネ…つんつるてんは動かない。

しばらくして野次馬が集まってきた。

「うわぁひどい」

「救急車は?」

人々の話し声が聞こえる。

「顔がぐしゃぐしゃだ。みんな見ないほうがいいぞ」

とたんに寒気が襲った。おれは偶然右に曲がったからいいものを、もし真っ直ぐ走りぬけていたら…おれがあいつのようになっていた。あいつは死の臭いを嗅ぎつける。友人を自殺に追い込んだのはあいつなのだろうか?それとも友人の自殺を嗅ぎ分けてやってきたのか。おれには分からなかった。

つんつるてんは死んだ。

血が流れている。

動かない。

「事故だ、事故!犬も死んでるよ。」

さらに野次馬が集まってくる。皆興味津々だが、かわいそうの一つも言わない。所詮他人が死んだというのはそういうものなのだろうか。

みんな、死んだつんつるてんをのぞき込んでいた。

買い物中の主婦や、子連れの親子…おじいさん、おばあさん、犬の散歩中だった人も…犬を連れた人も…散歩中の人も。犬を連れた人も…犬の散歩を……

あれ?あれ。

犬を連れてる人、なんだか多くないか?

皆いっせいに、ゆっくりと、こっちを向いた。

「わん。」

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん  

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なんか永遠に続く恐怖みたいでちょっと…夢に見そうで怖い(^^;;

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