私と家族は引っ越しばかりしていた。長くても二年ほど、短ければ三ヶ月で日本各地を行ったり来たりしていた。今思えば、仕事も転々としていたために貧しかったと思う。それでも、私はごくごく幸せに育ったはずだ。
我が家には決まり事があった。
まず、窓は絶対に開けない。夏は暑くて大変だったのを覚えている。
次に、外泊は厳禁。家族旅行はおろか修学旅行やお泊まり会すら行ったことがない。
そして、下着には十センチ四方ほどのワッペンのようなものを縫いつけなくてはならなかった。幼い頃は、複雑な模様の描かれたそれが密かにお気に入りではあったのだが。
他にもいくつかあったが、私の記憶に強く残っているのはこの三つだ。それほどまでに言い聞かされてきた。
今にして思えば、全くもっておかしな習慣である。だが、幼い頃からそうであったから、当時は何とも思わなかった。小学校に入学するまで窓が開くものだと知らなかったほどだ。ただ、修学旅行準備の話し合いをするクラスメイトを見ているのは辛かったのを覚えている。
中学生になった私は、徐々に自分の家庭の違和感に気付きつつあった。多感な年頃の私は、反抗期真っ只中でもあった。
長期休業明けにクラスメイトから旅行の土産を貰えば、私も旅行に行きたいと駄々をこねた。私の下着にワッペンを縫い付ける母を見れば、狂ったように激昂して下着を取り上げた。
しかし、母と一緒に買う下着には必ずワッペンを付けられた。私はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。今ならば気にならないのだろうが、当時の私には我慢がならなかった。
私は、母に黙って小遣いで下着を買った。今でも覚えている。パステルイエローに黄緑色と白で小花の刺繍の入った上下揃いの下着だった。母の選ぶスポーツブラや白いショーツと比べるべくもないほど、大人っぽい下着で、何よりもワッペンが入ってないことが嬉しかった。
買ったはいいが、気恥ずかしくて身につけられない。身につけた後、どうやって母にばれないように洗濯するかも思い浮かばなかったので、私はその下着を袋に入れたままにしていた。時折、袋から出しては眺め回して楽しむ程度であった。
だが、ある日、なんとはなしにその下着を着けようと思った。
私は学校にその下着を着けて行った。出がけに「忘れ物は無いの?ちゃんとハンカチは持った?」と声をかける母に「うるさい!持ってる!」と怒鳴って家を出た。
自転車通学だった私は、慣れない下着のレースやリボンの感触にもぞもぞしながらペダルを漕いだ。通学路の急傾斜した坂道を登り終え、ふと顔を上げる。おや、と首を傾げた。
向こうから人が来る。いや、通勤通学をする人達が見える限りで十人はいたと思うのだが、私はこちらへ来るその人に気を取られた。なんだか、妙な気配がしたのだ。
その人は袴姿であったが、それはあまり気にならなかった。こういう書き方はあまり適切ではないのかもしれないが、纏うオーラとでも言うのか、なんとなく雰囲気がおかしかった。
その人は弾むようなスキップするような足取りで、私の方に近づいてきた。私は、あまり関わりたくなかったので、目を伏せてペダルを漕ぎ続けた。
もう一度あの人の様子を窺おうと顔を上げると、その人は私の目の前にいた。目の前にいた、というよりも、鼻先がくっつかんばかりに私の顔を覗き込んでいた。
ぎょっとしたなどという言葉では済まなかった。私は声も出ずに呆然としていた。
視界がその人の顔でいっぱいになるほど近かった。ペダルを漕いで前進しているのに、その人は至近距離で私の顔を覗き込んでくる。
周りの人は、こちらに視線も向けない。そこで初めて背筋が寒くなった。
その人は一見ごく普通の人間だった。ただ、顔は爬虫類に似ていた。目がギョロリとしていて、白目の面積が異様に小さい。鼻は無くて、小さな鼻の穴が二つあるだけだった。
その時は髪が長かったので女だと思っていたが、後々聞いたところ男であるらしい。
私達はしばし見つめ合った。その人の鼻穴がひくひくと蠢く。その人はいきなり笑った。多分、笑ったのだと思う。口をがばっと開けた。顎が胸のあたりまで落ちた。口の中は真っ赤で、白い歯がずらりと並んでいた。
そこで、私はやっとそれが決定的に人間ではないことに気が付いた。あらん限りの悲鳴を上げて、自転車の前輪を後ろに向けると、今登ってきた坂をフルスピードで下っていった。
後ろを振り向く余裕も度胸もなくて、私はひたすらペダルを漕ぎ続けた。
私は母の待つボロアパートに急いだ。そこが一番近かったし、反抗期とはいえなんだかんだで両親のことは信頼していたのだと思う。
アパート前の道路に自転車をぶん投げ、外付けの階段を登る。パートに出るところであった母と丁度鉢合わせた。
「おがぁざあぁぁん!」と、無様に泣きながら母に飛び付く。それを見て何かを察したのか、母は大急ぎで私を部屋に引き入れた。
私は混乱する頭で、必死に状況を説明した。聞いている母の顔はみるみる青くなり、最後まで聞かないうちに父に電話をかけだした。
「お父さん早く帰ってきて。○○(私)が、おじゃん様見たって」
電話が終わると、母はひたすら私の頭を撫でて「大丈夫だよ、お父さん来るから」と言い続けた。何が何だか分かっていない私は、その母の様子に恐怖した。
やがて父が帰ってきた。父も真っ青な顔をしていた。
家族三人で軽自動車に乗り込み、かなり長い間車を走らせた。その日、私は初めてホテルに泊まったが、全く嬉しくなかった。
私が思春期のちゃちな反抗心から、おじゃん様に追われた話はこれで終わりだ。この一件以来、私は下着のワッペンを嫌がることはなくなった。
お察しの通り、このワッペンは御札のようなもので、おじゃん様から身を隠すものらしい。
おじゃん様というのは、父の実家の地域を治める神様らしい。日本の神様にありがちなことに、益もあれば不益もある神様である。
益は、恵みの雨で豊作をもたらすこと。不益は、気分屋でいきなり村人を殺したりするそうだ。
そこでかつての村人達は、おじゃん様に暇つぶしのゲームを提供することにした。
ある干支の娘(村の象徴が猫なら子年、といった決め方)を、おじゃん様の生け贄にすることを約束する。そして、その娘とおじゃん様で鬼ごっこをさせる。
おじゃん様が飽きて、村の祠に帰ったら村人の勝ち。娘は生き延び、おじゃん様もしばらくは大人しい。
おじゃん様に捕まったら、娘は食われる。満足したおじゃん様は、やっぱり村に帰って大人しくなる。
言わずもがな、今回のその娘というのが私だった。私はおじゃん様の餌で暇つぶしの遊び道具だった。
あれから二年ほどして、ようやくおじゃん様は遊びにも飽きたらしい。
私を捨てればもっと楽な暮らしが出来たのに、幼い私を守ってくれた両親にとても感謝している。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話