私の故郷には江戸時代中期頃、河上定之《かわかみさだゆき》という無名の藩士がいた。彼は数巻で構成されている文献を書き記していた。文献の名は「界隈俗話抄《かいわいぞくわしょう》」。城下町を中心に流布されている様々な情報を記した物だ。藩内での派閥問題や、大手問屋の悪い噂、さらには町一番の美人に関して書かれていた。そして少ないながらも物の怪の類も記載されている。
「狗陀狸」という名前の物の怪はこの文献に登場する。読み方は文献には明確に記されていないので音読みし「くだり」。界隈俗話抄には次の文を以て狗陀狸について説明されていた。(原文は古文のため簡単に現代訳にした)
***
『名は狗陀狸。城下を賑わす噂の一つ。山の物の怪らしく、山間部の村々にも同じ噂があり、村から城下へと流布したと考えられる。その物の怪、姿は犬にして犬に非ず、狸にして狸で非ず。故に狗陀狸なり。嘆くように低くぼうと鳴き、目は虚ろに鈍く輝く』
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これ以外に狗陀狸が登場する文献を私は知らない。他に登場する可能性も拭いきれない。何故私がこの文献に出逢ったのか。それは偶然だった。民俗学を修めている友人が偶々この文献について調べていた事があった。私が経験した出来事を友人に話すとこの文献を教えてくれた。
そもそも全ての始まりもまた偶然だった。いや、必然だったのかもしれない。この話を作り話と思って頂いて結構。だが、イギリスの詩人、ジョージ・ゴードン・バイロンの「真実は小説より奇なり」という言葉だけは忘れないで欲しい。
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私は大学二回生で演劇サークルに所属していた。サークルでは夏と冬の年二回地元の文化ホールで定期公演を行っていた。冬の公演でミュージカル風のオリジナル喜劇を行う事が決定した。
私は主役とはいかなかったが、三番目に出番の多い役を貰った。ただ、私は元々体が弱い事もあり、舞台の上で激しく縦横無尽に駆け回りながら歌う程の体力がなかった。そこで同じ大学の通っている運動好きの彼に体力を付けたいと相談すると色々な運動方法を教えてくれた。
あれも体力を付ける為の一環であり、役に入り込めずに悩んでいた私の気分転換の為だった。季節が丁度木々が薄く色付き始めた頃だった。標高一千三百メートル程の山へ一緒に登ろうと彼が提案した。私は当然断る理由がなかった。
十一月のある晴れた日に私と彼は一緒に地元のある山へ登りに行った。アスファルト等で舗装はされていない山道だったが、登山客が多いのか道は堅く踏み固められており登るのはさほど困難ではなかった。登山口ではまだ木々の葉は青々としていたが、登るにしたがって気温が低くなり木々が色付き始める。まさに天然のグラデーションだった。
「ねえ、あとどれ位で山頂に着くの?」一時間ほど登ると私は息が絶え絶えだった。
「確か入り口付近の看板に一時間半って書かれていたからもう少しだよ」彼は平然と言ってのける。私には三十分がもう少しとは思えなかった。
私は何度も彼に休もうと願い出た。だが彼は飲み物を飲む程度の立ち止まる事しか認めなかった。一度休んでしまえば再び登りだした時に辛さが倍増すると説明した。
「お前って本当に体力無いよな。舞台って大体一時間から二時間程あるんだろう。よくそれで演じられるよな」
「何時もギリギリだよ。役に集中していたら体力の限界なんて忘れているから一瞬でも集中が切れたらバタンキューだよ」私は山道の脇にある丁度良い高さの石を見つけると腰を下ろした。背中に担いだ重いリュックを下ろすと背筋を伸ばして深呼吸した。「やっと一息付けた」
「おい、休むなよ。体力付ける為に登ってるんだからさ」少し先を歩いていた彼は戻ってきて、私の顔を見て呆れた。「休憩はもう終了。行くぞ」
「嫌よ。休憩は休む憩いって書くんだよ。休んむどころか憩いも感じておりません。休まないなら先に行っても良いよ。どうせ一本道で意外に解りやすい道だし、目的地は山頂だから構わないよ」
「お前な、熊が出たって知らないぞ」彼はリュックをわざと担ぎ直す。すると鈴が鳴った。「この山は自然も多いから野生動物が沢山いるんだよ。それにこの時期の熊は冬眠の準備をするから気性が荒くなっているんだぞ。どうせ、熊除けの鈴なんて持ってきてないんだろう?」
「当たり前じゃん、そんな話聞いていないよ」私は突然怖くなった。辺りを見回す。
「熊だけじゃないぞ、野犬、猪、それに」
「……狸……」
「はっ?」彼は首を傾げる。「俺は危険な動物の事を言っているんだぞ。狸の何処が怖いんだ。狸の性格は臆病だから出逢ったらまず逃げ出すぞ。狸よりも鹿の方が怖い。怒らして角で一突きされた事故もあるんだぞ」
「違う、違う。ほら、あそこ」私は生い茂る木々の根元を指さす。「あれ……さっき狸みたいな動物がいたんだけどな」
私は目を凝らす。ずんぐりとした体格の動物がこちらを見ていた。だが、すでにいなくなっていた。
「そりゃ、狸もいるだろうよ」彼はそう言うと再び山頂を目指し一人で歩きだした。「ほら行くぞ、山頂に行けば一面の綺麗な紅葉が見れるんだ。それを見れば元気になるさ」
私は慌ててリュックを担ぎ彼の後ろ姿を追う。彼の忠告通り休む前よりも足取りが重く感じた。休まなければ良かったと後悔をした。
漸く山頂に着くと小さい池が目に入った。畔には人の背丈ほどの小さなお社がある。子供連れの家族や、自分と同世代の女性が沢山いた。
「やっと着いた」私は息を荒げながら呼吸する。「ねえねえ、この山って有名なの。地元だけど今まで名前も聞いた事もないのにこんなに人がいるなんて」
「ああ、最近パワースポットが流行っているだろ」彼は一畳ほどのレジャーシートを敷いて陣取る。そしてリュックから小さなハイキング用のガスコンロを取り出した。「この池は昔から龍神伝説があるんだって。それに山頂で何処からも水が流れてこないのにこの池があるから龍が水を湧かせているとか言われてパワースポットになったみたい」
彼はガスコンロに火を着けると持ってきたミネラル水を入れた薬缶を載せた。彼はお湯が沸くまで時間があるから、とレジャーシートの上に座り休もうとした私を連れ出す。何よ、休ませてよと愚痴を溢しながらと彼に連れられて山の尾根に出た。
「ここが紅葉の絶景の穴場って雑誌で見ていたんだけど」彼は感嘆の息を漏らす。「写真で見る以上だな。ほら凄い眺めだろ?」
山肌が赤や黄に色付いていた。視界全てが紅葉だった。風に揺れると紅葉が波打つ。今まで見てきた紅葉とは一味違った。
「凄い眺め」私は溜息を吐く。「疲れも吹っ飛ぶ眺めとかってよく言うけど、実際には飛ばないんだ」
***
登山から帰り一週間が過ぎた。なんら変わらない普通の日常だった。ただ筋肉痛が酷く辛かった。彼が言うには山を登る際は通常よく使う筋肉を使用する為酷い筋肉痛は起き難い。だが帰り、即ち山を下りる際は普段使われない筋肉を使用するから酷い筋肉痛が起きると説明した。
「痛い……」私は舞台練習前の基礎運動をしながら呟く。「行くんじゃ無かった」
「おいおい、一週間ぶりに練習に参加したと思ったら何文句言っているの?」部長が不敵に笑いながら近づいてきた。「筋肉痛か?」
私は苦笑いで違いますと否定する。部長は女性でスポ根気質、さらに若干サディストのきらいがあった。私はあまりにも筋肉痛が酷く練習を少しさぼっていた。ここで筋肉痛だとばれたらさぼっていた罰として何をされるか判らなかった。
「へえ、なら如何して休んでいたのかな?」
「ちょっと具合が悪くて、他のメンバーに迷惑をかけるかなと思って」
「そうか、それは気遣いをさせてしまったね」部長は優しく声を掛けた。「お詫びにストレッチのパートナーは私がやろう」
「えっ、大丈夫ですよ」私は慌てて断る。
「遠慮するなって」部長は前屈をするように言った。
私はもうストレッチはやりましたと答えるが、部長はストレッチは大切だ、やり過ぎても悪くはないと脅すような口調で強要する。案の定私は苦痛の叫び声に似た悲鳴を上げた。
「たく、こんな状態で練習に参加できるのか」部長は口調は乱暴だったが、優しく私の体を前に押す。「お前の彼氏に聞いているから知っているんだよ。下手な嘘は吐くんじゃない。練習さぼっている時もストレッチしなかっただろう。だから痛みが一週間近くも残っているんだよ。今日は立ち回りはしなくていいから読み合わせだけしとけ」
部長と彼は同じ研究室に在籍していた。部長はマッサージしておけよと言うと立ち去った。私は言われたとおり立ち回りの練習は見ているだけにし、自分の番になると台詞を合わせるだけにした。
練習が終わると帰宅した。実家暮らしで楽なのは帰って直ぐに御飯が出来ている事だ。ふっくらと炊き上がった茸御飯、脂がのった焼いた秋刀魚等が食卓に上っていた。香ばしい香りが食欲をそそる。テーブルに着くと美味しい御飯で舌鼓を打った。
「お母さん、お風呂沸いている?」
私は食事を終えるとすぐにお風呂に入った。部長に言われたマッサージも丁寧に行う。心なしか痛みが和らいでいた。そして時折休んだ罰と評した部長のツボ押しが効いたのかもしれなかった。
「あの時は死ぬって叫んだけど、ツボ押しって効果があるんだ」
私は風呂から上がるとそのまま自室のベッドの上に横たわった。ベッドランプを付け最近購入したばかりの演劇に関する本を読む。だが、何時の間にか寝てしまった。
ふと夜中に目が覚めた。自分から目が覚めたわけではない。よくドラマなどで聞く船の汽笛のような音が聞こえたからだ。何処かで暴走族が走っているのかと寝ぼけた頭で考える。薄く眼を開けるとベッドランプの明かりで眩しかった。手探りで明かりを消す。そして再び寝ようと布団を掛け直した。
眠りにつき始めようとした瞬間に再びあの音が聞こえた。それと同時に生臭く温かい息を頬に感じた。一瞬にして眠気と血の気が引いていくのが感じられた。何かがいる。それも近くにいる。
私の家にはミニチュアシュナウザーを一匹室内で飼っていた。だから愛犬かと考えた。私の部屋は二階にあり、階段が怖いのか滅多に愛犬は上がっては来なかった。今日は偶々二階に上がってきたのかと思った。声も唸っているからだと無理矢理こじつけた。
「ユンカース?」私は眼を瞑りながら小声で愛犬の名を呼ぶ。
だが反応はなかった。ただ生暖かい息を肌に感じるだけだった。段々と頭が覚醒していくと疑問を持った。頬に感じる生臭い息の向きからすると愛犬がいるのは私のお腹の上のはず。だが、全く重さを感じなかった。すぐに愛犬ではないと悟った。
泥棒又は変質者が何処からか入ってきたのかと悪い方向に物事を考えた。それでも奇妙な違和感を拭えない。ここで起きて正体を確認したり抵抗したりすれば殺されるのではと考える。だから私は眠っているふりをした。先程愛犬の名前を出したが何者かに起きていると悟られないように寝ぼけている声を出し演技を行い誤魔化す。
「ぼおおおぉ」次は耳元で声がした。
あまりにも近くで声がしたために反射的に体をびくんと震わせ反応してしまった。恐怖心故か同時に目を開けてしまい見てしまった。
私のお腹の上辺りに中型犬程の大きさの黒い獣がいた。部屋が暗い為に詳しい姿は判らなかった。ただ見つめられているのは本能的に感じた。徐々に夜目が効き始める。
「ぼおおおおぅ」
再び獣が鳴いた。目に生臭く温かい息を感じるとそこで私の記憶が途切れた。
朝になるとお母さんの声で目を覚ました。起きたばかりで記憶が曖昧だった。燦々と窓から太陽の日差しが降り注いでいた。幽かに覚えているあの獣は実は夢だったのではと考える。だが、布団の上に獣らしき泥の足跡と短く堅めの灰色の毛が無数に落ちているのを見ると一瞬にして夢でないと判った。
私の叫び声が家に響いた。
獣の足跡は壁から突如現れ、そして私のベッドの上へと続いていた。
***
「寝ぼけてたんじゃないの?」母はその言葉で全てを片付けようとした。
ユンカースは私の暗い表情を不安そうに見つめながら足下に座っていた。目の前に出されていたベーコンエッグとトーストを食べる気分にはなれなかった。ベッドの上にあった獣の毛は愛犬の体毛とは違った。また足跡も部屋の入り口から続いていたならば少なくとも愛犬の可能性が残っていたが、足跡は壁から突如現れていた。また部屋の外には一切足跡は無かった。
「散歩して帰ったら脚を綺麗に拭いているけど、きっと土が残っていたのよ。ユンカース、あんまり驚かせたら駄目よ」お母さんは愛犬に餌を出しながら叱る。だが、愛犬は無実だと訴えるような小さな声を漏らした。第一私にはどうして壁から突如足跡が現れたのか疑問が残っていた。
母は気にしない、気にしないと気楽に言う。一限目から講義があるためのでトーストを無理矢理口に入れる。焦げた部分が苦く感じた。
「今日はアルバイトがあるから昨日よりも帰る時間が遅くなるから」私は半分程度を食べ終わると大学へと向かった。
大学に行っても昨夜の事が頭にちらつき講義には集中できなかった。講義が終わるとアルバイト先へと向かった。この日は仕事が忙しく大変だったが、その間は獣を忘れる事が出来た。
アルバイトが終わり帰宅した。食事と入浴を済ませると自室に戻る。疲れてベッドに潜るが、否が応でも獣が頭に過ぎり眠るのが怖かった。昨夜は耳元で鳴いているだけだった獣。だが今日はそうとは限らない。
私はオカルト事をあまり信じていなかった。幽霊なんて大抵は見間違い、昔から「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」と言われているくらい人の怖い、怖いという心が疑心暗鬼で見せる幻想だと考えていた。だが私が直面している事態は違った。日中に母が掃除したと思われる足跡と布団の上にあった無数の毛を思い出すと現実だと私に残酷に告げた。
「私が何をしたって言うのよ……」私は明かりを付けたまま布団に隠れるようにして一夜を過ごした。
朝を迎えた。私は鳴り響く目覚ましを腕を伸ばして手探りで止めた。そして恐る恐る布団から顔を出して辺りを確認した。私の心配は露と消えた。足跡や毛は一切無かった。
そんな恐る恐る夜を過ごす生活が一週間続く。だが、あれから獣は出る事はなかった。私も段々とやはり寝ぼけて愛犬を見間違いしたのではと思うようになり始めていた。足跡は全ては説明出来なくとも私には気にしないようにした。
だが、それで全てが終わった訳ではなかった。
***
「お前等!! 講演まで一ヶ月切ったんだ」部長が威勢の良い声を高らかに上げる。「体調壊して本番に影響する事があったらどうなるか覚えとけ!!」
部長の言葉にメンバー全員は萎縮した。脚本や裏方を纏める何処か頼りない優男な副部長はあんまり気にせずにな、と補足を付ける。こうして私達の練習はより講演に向けての道具を使用したものへと変わっていった。
今回はミュージカル風の演目とあって舞台を大きく使う。効果としてムービングスポットという移動式のスポットライトを使用することが決定していた。だが、大学にはスポットは無いためリハーサルと本番時のみ借りる事になっていた。一人が演技を練習する度に効果担当がどの色のスポットを使用するのかと直前で問題が起きないように綿密に打ち合わせをする。その合間に手の空いているメンバーは台詞を確認したり、柔軟体操をしたり、衣装の準備をしていた。
部長の扱きが日に日に増していった。練習が終わると暖房が効いていない寒い練習場だったが汗で服がびっしょりと湿っていた。
帰路につく。混み合う満員電車、私はなんとかドア付近に押しつぶされそうになりながらも乗車出来た。早く帰って晩御飯を食べお風呂に入ろうと心で考える。降りる駅までの約二十分、その間に疲れて睡魔に襲ってきた。何度か頭がリズム良く上下する。
「ぼおおおおおぅ」
覚えのある声が聞こえると睡魔が去った。同時に血の気が引いていくのが感じられた。呼吸が荒くなる。忘れていた、いや忘れようとしていた記憶が徐々に鮮明になっていった。自分は寝ているのではないか思いと軽く頬を叩く。
「ぼおおおおおぉ」
私は恐る恐る周りを見渡す。高校生と思われる制服姿の少年、酒を飲んでいるのか顔を少し赤らめて吊革を握りながら立って眠っている中年サラリーマン、バンド活動しているのかギターバッグを担いでいる女性等が視界に入る。あの時見た獣は車内には居なかった。
「風の音だよね……気のせい、気のせい」溜息を吐きながら自分に言い聞かせた。
予想以上に疲れていたのだと考えた。こんな体力の無さで本番を無事に乗り切れるのか心配になる。もう少し体力を付けなきゃと反省した。あと何分で目的の駅に着くのだろうと思いながらふと車窓を見た。
「ヒィッ……」体が感電するかのように大きく震え、乾いた悲鳴が出た。
振り向くと周りにいた人間が一斉に私を見ていた。いや、睨まれているように感じた。無数の視線が私に集中する。遠くの座っている人がこそこそと私を横目で見ながら何かを呟いている。私は震えながら小声で謝る。近く座っていた優しそうな年輩の女性が顔色が悪いようですよ、席を譲ろうとしてくれた。だが私は大丈夫です、と断った。
あの時の獣は夢じゃないと改めて身に染みた。私が車窓で見たものはあの夜に私の上に乗っていた獣だった。獣は私を静かに見つめていた。いや、正確には背後から見つめていた。外が暗いために鏡のようになっていた窓、そこにはずんぐりとした体格の灰色の獣が映っており、眼は獣の鋭い眼ではなくぽっかりと空いた黒い穴でもあるかのような奇妙なものだった。そしてその獣の存在は誰も気付いていなかった。
「……あの時の……」
ふと頭に過ぎる。私はその獣に見覚えがあった。彼とパワースポットの池がある山へ登山した際に出逢った狸のような動物に似ていた。
早く駅に着く事を願った。それまで私は何も見ないように強く目を閉じる。
「ぼおおおおおぅ」
駅につくまで獣は何度も鳴いていた。誰も気付かない獣、誰も聞こえない声。私しか気付かない獣、私にしか聞こえない声。どうして私を苦しめるのか解らなかった。
***
あれから獣が現れる頻度が多くなった。一週間前までは現れなかった獣だが、今では一日に最低一回は現れた。寝ている最中、大学の講義中、通学中、バイト中と時と場所は選ばなかった。私は十分に休む事が出来ず、獣が何時も何処からか見つめているのではと震える毎日を過ごした。御陰で眠る事すら恐怖を感じていた。
母に相談しても信じては貰えなかった。彼に相談しても頼りなかった。体つきは立派でも会談や幽霊関連が苦手だった。あまりにも眠れない日々が続いたので寺にも足を運んだ。御祓いでも何でも受けるつもりだった。だが住職に相談して返ってきた言葉が私を無情にも突き放す。
「見た限り……何も憑いてはおりませんよ」
住職は穏やかにそう言った。私は反論する。寝ている最中に耳元で鳴く、通学中に背後に現れて見つめていると伝える。だが、住職は聞く耳を持ってくれなかった。仕舞いには「疲れているようですのでゆっくり休みなさい。宜しければ信頼できるお医者さんでも紹介しましょうか」と遠回しに私が異常だと話した。私はこれ以上話しても無駄だと気付き、寺を後にした。
インターネットでその手のサイトで一連の情報を集めた。あれは動物霊だと自分の中である程度見当がついた。だが、如何して自分を憑いているのかは依然として不明だった。如何して初めて現れてから一週間は現れなかったのかも不明。動物霊は人の道理が通じない類のため厄介な存在という情報を見つけると妙に納得がいった。
私は盛り塩を部屋の四隅に置いて寝るようになった。だが、効果は全くなかった。逆に夜中獣が現れ、朝になると明らかに塩が減っていた。減っているよりも嘗めたという感じで塩の山が崩れていた。また、現れた時には付け焼刃で覚えた般若心経を必死に念じた。だが、効果はなかった。馬の耳に念仏という言葉通り獣に仏の言葉は通じなかった。
***
「大丈夫か?」練習中珍しく部長が優しく声を掛けてきた。「寝不足か、もしかして公演が近くなって緊張して眠れないのか?」
食欲も無く厳しい練習に参加していたために痩せ、十分に眠れない日々が続いた為に少し目の下に隈が出来ていた。誰が見ても異常と感じられた。
「いえ、少し夜更かしで」私は信じて貰えないだろうと敢えて嘘を吐いた。「なかなか役に入り込めなくて困っているんです」
「本当か……」部長は私の顔を見つめる。思わず視線が怖くなり顔を背けた。「……あまり気分が優れないなら練習は見るだけにしておきなよ。練習を見るのも練習だからな」
私は部長の言葉に甘えた。練習場の隅で邪魔にならないように座りながら練習風景を見た。公演まであと二週間と迫っていたのに練習を見ている自分が嫌になった。全てあの獣のせいだ、と憎んだ。自分が何をした、ただ山で出逢っただけで如何して私を執拗に追い詰めるのか。一体如何すれば離れてくれるのかと朧気な意識の中で考えた。
何時の間にか眠ってしまった。目覚めた頃には練習場に人気がなかった。ただ一人私の隣に部長がコンビニ弁当を食べているだけだった。
「起きた?」部長は箸を止める。「食うか?」
「寝てしまってすいません」私は慌てて体を起こすと部長に向かって頭を下げた。
「気にするな。で、食うの食わないの」
部長は三色そぼろ弁当を食べていた。甘辛い香りの鶏そぼろが食欲を呼び覚まそうとしたが、寝てしまったという罪悪感で遠慮した。部長は「あっ、そう」と素っ気なく答えると再び食べ始めた。
「……獣に現れるんだって?」部長は弁当で頬を膨らましながら聞いてきた。
「どうしてそれを……」
「練習が終わって彼奴に電話したから」彼奴、どうやら彼に電話したらしい。
私は信じて貰えないだろうと解っていながらも頷いて答えた。
「明日、土曜だけど講義はあるの?」私はありませんと答えた。「今回の舞台さ、結構暗い所で動き回るでしょ。それに動きも激しいから怪我とかも今の練習段階でも多いのよ。だから無事に成功するように大学近くの神社に安全祈願を御願いしに行くけど……一緒に来る?」
「実はお寺には行ったんですが、住職に何も憑いていないって。逆に医者を紹介しましょうか、て言われたんですが」
「何その糞坊主」部長は私に箸を向ける。「そこはそこ、今回は今回。気休めかもしれないけど行って損はないと思うけど」
私は部長に説得される形で神社に行く事に決めた。
***
次の日、待ち合わせ場所に行くと部長だけが待っていた。てっきり副部長も来るものだと思っていたが、私の事もあり部長だけが安全祈願に行く事にしたのだろう。神社に着くと中年の優しそうな神主さんが笑顔で出迎えてくれた。あまり大きくない神社だった。先に公演の安全祈願を執り行った。
「ほう、山で獣にね」
神主さんは安全祈願が終わると私達に御茶を出してくれた。そして部長から事情を話すようにして私の話へと変わった。私は事細かくこれまでの経緯を話した。
「行逢神の一種でしょうか」一通りの経緯を話すと神主はぽつりと口に漏らした。
「いきあいがみ?」
「その名の通り、行った出先で出逢う神。神といっても人が憑かれるのを恐れて神と崇めているだけで、実際には怨霊や物の怪の類です」神主さんは首を傾げる。「ただ申し上げ難いのですが……」
「……やはり憑いていないんでしょうか」
「ええ」神主さんは御茶を一口飲むと湯飲みを見つめながら話した。「なんと言いましょうか。貴方の周りに邪気を全く感じないのですよ。それに行逢神はすぐに祟りを為します。行逢神のひとつであるミサキと呼ばれるものは憑いた者を取り殺し、また餓鬼憑きは異常な空腹をもたらします。が、初めて出逢って一週間は現れず、その後一週間もまた現れない。そして再び現れると頻度が多くなるとは不思議だ。ところで貴方自身に危害は?」
「常に見られている感じが」
「そうではありません。見られているという感覚は貴方の恐怖心からくるものでしょう。私が聞きたいのは獣は現れて何をするのかという事です」
「そう言われても……ただ現れて私を見つめながら鳴くだけですが」よく考えてみれば直接危害を加えられた事はなかった。
「……申し訳ないが、どうやら私ではお力になれそうにありませんね」神主さんは申し訳なさそうに言った。
「いえ、こちらお話を聞いて頂きまして有り難う御座います」私も頭を下げた。「やはり私が変なのでしょうか」
「その可能性はないでしょう。ご安心なさい」神主は微笑む。「ただ獣が山の神やその眷属という事もありますので、山神の祝詞を読んであげましょう」
神主さんはそう話すと立ち上がり、私の前で大幣《おおぬさ》と呼ばれる道具を左右に振るう。
「高天原《たかあまがはら》に神留座《かみずまりま》す……」厳かに響く祝詞に耳を傾けながら私は必死で願った。
***
神主さんに祝詞を読み上げて貰ってからも獣は毎日のように私の前に現れた。獣は相変わらずに私を見つめながら鳴くだけだった。
人間とは不思議なもので始めは恐怖で寝る事すら怖かった。だが神主さんと話し、別に自分に危害を与えないと気付くと、視線やあの鳴き声を耳にしても気にしなくなり次第に慣れていった。御陰で本番前日には睡眠も十分に取れるようになり体調は万全だった。
「セットの準備はいいか?」部長が観客席から大声で叫ぶ。
本番の前日に最終の打ち合わせと、立ち位置確認。そして通してのリハーサルが行われた。収容人数が二百人程度の小さな文化ホール。私には四度目の舞台だった。
「ああ、出来たよ」副部長が大道具の設置場所にカラーテープで印を付けながら答えた。
部長は一度三十分休憩してリハーサルを行うとメンバー全員に伝えた。私は舞台の上でストレッチしていた。
「どう、最近十分に休めてるいるのか?」ペットボトルの水を二本持ちながら部長が私の前に立った。そして一本を私に投げて渡す。
「御心配お掛けしました。十分に睡眠を取れてますから大丈夫です」私はガッツポーズで元気だとアピールする。
「ストレッチの手伝いしてやるよ」部長はそう言うと耳元で囁いた。「……まだ出てくるのか?」
私は小さく苦笑いしながら頷く。
「大丈夫なのか?」部長は心配した口調で言う。
「大丈夫ですよ。ただ鳴いて見ているだけですから」
「私が心配しても意味がないか」ストレッチが終わると部長は笑う。「公演、成功させような」
休憩が終わると部長は全員を呼び集めた。そしてリハーサルを開始した。私は舞台の下手に行き出番待ちをした。私は深呼吸し役になりきろうと集中した。舞台の上では主役の二人が演技を開始した。
「ぼおおおおぅ」何処からか悲しい声が聞こえた。
私は獣の声を気にしなかった。今は舞台に集中するのみ。余計な事は一切考えなかった。私は私じゃない、今は演じる役になりきるのみと念じるだけだった。そして自分の登場する番になると舞台の上へと飛び出した。
一つの場面が終わると上手の袖に消え、次の出番に控えた。舞台が暗転し、場面変更に伴いセットも変更される。私の隣に置かれていた登場する際の効果として使われるムービングスポットの明かりが付けられた。古いの電球式の為熱気が感じられた。
「ぼおぉぉ」再び獣が鳴いた。
下手から主役がスポットに照らされて登場した。第二場面が始まった。ここでは主役と私がメインとなり、自分に取って大切な場面。私は気持ちを改めるために深呼吸して落ち着く。獣を忘れる。ムービングスポットを動かす効果担当が初めての操作だからか慌てていた。
「よし!!」気持ちを入れる掛け声を出す。そして登場前の立ち位置に向かう。
が、私は前に進む事が出来なかった。何か後ろから強く引っ張られていた。
「ぼおおおぉ」真後ろからあの声が響く。
刻々と自分の出番が迫ってきた。だが、出ようとしても足が動こうとしなかった。明らかに今までと違う。殺気のような視線も感じた。初めて獣が自分の部屋に現れた時の恐怖とは別の感覚が襲う。
「……止めて……」私は震え始めた。「……私が何をしたっていうのよ。大切な時なのに……」
背後から獣の生臭さが鼻を掠める。吐き気がした。
「ぼおおおおおおおぉぉ」
私はゆっくりと振り向く。もう役に集中する事が出来なかった。舞台の上で演じている主役の台詞が徐々に私の番が近づいている事を示唆していた。
「……御願い……もう止めて……」
背後には獣が居た。今までと違い怒っている形相で私を睨んでいた。戦慄が走った。
「ぼおおおおおおおおおおぅぅぅぅ」
真後ろで突然大きな音が響いた。重量のある物が倒れた音。舞台が騒然とした。私は音がした方を向いた。
「如何した!!」部長の怒号が上がった。「明かりを付けろ!!」
部長の命令で舞台に明かりがついた。
「すいません、コードがどこかに引っかかっていて」私の横にいた効果担当が謝った。
重量十七キログラムのムービングスポットが倒れていた。辺りには割れた電球が散乱していた。散乱具合から衝撃が如何に凄かったが窺えた。
「おいおい、床を傷つけていないだろうな」走ってきた副部長が効果担当に尋ねた。
「床よりも人の心配しろよ!!」部長が副部長を怒鳴った。「怪我とかは無いだろうな……どうした? 硝子の破片が飛んだか」
部長は呆然としている私に聞いた。だが、私は言葉を返せなかった。スポットが倒れている位置……それは私が出番直前の立ち位置だった。
「おいおい、足から血が出ているぞ。大丈夫か?」部長は私に近づくと屈み、太腿についていた傷を見た。「……傷は深くないようだけど……これ……」
私は部長の言葉で我に返る。そして自分でも傷を見た。赤くなった何かに噛まれたような歯形と二つの血が流れている歯牙。まるで獣に噛まれたようだった。
獣は何時の間にか夢だったかのように消えていた。
***
あれから獣は全く現れなかった。声も聞かなくなった。そして翌日の本番は安全を考慮した上で公演が行われ、無事に終了した。
「有り難うね、これ」私は民俗学を納めている友人に借りていた文献のコピーを返した。「やっぱり……あの時の獣はこれなのかな」
私は大学を卒業していた。同窓会で久方ぶりに出逢った小学校の友人が地元の私とは別の大学で民俗学を修めていた事を知った。彼は幼少の時から妖怪等が好きだった。私は彼も参加した二次会で酔った勢いでかつての出来事を話すと彼は興味を示した。そしてある文献について話し始めた。
彼が言うには文献「界隈俗話抄」はある老人が古書店で入手した品だった。だが老人には全ての内容が分からなかった。そこで知人であった彼の担当教授に解読を依頼した。彼は一通りの解読を手伝ったらしく、内容もある程度覚えていた。特に好きな妖怪の箇所は殆ど覚えていた。
私の話で「狗陀狸」を思い出し、後日書かれている箇所の文献のコピーを貸してくれた。
今はコピーを返す為に喫茶店で友人と待ち合わせをした。
「いいのかい。どうせコピーのコピーだしあげるよ」彼は珈琲を口にしながらコピーを受け取る。「まあ印刷が黒過ぎるし、本文の間に現代訳を殴り書きをしたから読み辛いけど」
「ううん、読みやすかったよ。だけど返すよ」私は答える。「この狗陀狸って妖怪はどんな妖怪なのかな。肝心な事が書かれていないのが残念」
私は太腿を擦る。今でも幽かに歯形のような跡が残っていた。見る度にあの獣は一体何だったのか考えさせられる。悪い妖怪ではないと思っていた。もし、あの時私が立ち位置にいたらどうなっていたのか解らない。高温になった電球により火傷を負っていたかもしれない。または頭を打っていたかもしれない、最悪の場合……
「これは俺の考えだけどね」彼はコピーを私に向ける。「悪い妖怪ではないのは確かだね」
「如何して?」
彼は文献の「狗陀狸」の「陀」の字を指さす。
「陀は梵字の音を表した漢字なんだ。仏陀に曼陀羅《まんだら》、陀羅尼《だらに》と仏教用語等に使われているだろう」彼は胸ポケットから煙草を一本取り出した。「ただの人を襲うような畜生のような妖怪にそんな字を使うとは思えないだよね。だから仏のような慈悲のある妖怪と考えられる」
彼は煙草に火を着けた。そして白い一筋の煙を吐き出す。
「山には危険な場所が多い。崖や、熊などの猛獣……もしかしたらそういった危険を人に知らせていたんじゃないのかな。ほら君の場合も危険な目から助けているんだしさ。だから人々は噂した。あの獣は自分たちを危険から守って下さる妖怪、まるで仏のようだとね。現に坊さんや神主とかは憑いているって判らなかったんだろう。それは憑いたんじゃなくて君を救おうとしていたからかもね」
私は思い返す。あの鳴き声は私の未来を知って悲しんだ声だったのではと考えた。
「まあ、出逢わない事に越した事は無い妖怪だね」」
「えっ?」」
「出逢ったらこの先危険が待ち受けているという意味だろう。なら出逢わないのが一番」
私は彼の言葉が妙に納得した。同時に狗陀狸に逢わなかったら今頃私はどうなっていたのか考える。背筋に嫌な寒気が走った。
狗陀狸……仏の字を持った物の怪は今日も何処かで人を見つめ悲しく鳴いている。
怖い話投稿:ホラーテラー オレンジペコーさん
作者怖話