中編5
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平凡な日常

 雨が降る。冬の冷たい雨は傘から流れ落ちて肩を濡らす。仕事帰りの疲れ切った体は寒さに震え、傘の柄を握る左手は赤く悴む。

 駅に近づくと電車がホームに到着するのが見えた。慌てて走ってみれば、電車が走り出す音が轟き、駅構内の電光掲示板には次の電車の時刻案内が流れる。時計は二十三時を少し越えていた。

 次の電車まで十分弱。私は電車から降りてきた人混みに紛れて駅を出る。寒い中をホームでただ待つのを止め、近くの喫煙場で時間を潰す事にした。

 再び傘を差し屋外の喫煙場に向かう。週末の為か、顔を赤らめた会社員が大勢いた。大声で笑う者も居れば。船を漕ぐかのように体を前後に揺らしているものもいる。

「何を食べようかな」echoという安煙草を咥えてオイルライターで火を付けると、口の中に酸味が広がった。「作るのも面倒だし。弁当でも買って帰るかな」

 私は空いた手をコートのポケットに入れて、咥え煙草で当たりをぼんやりと眺めてた。

 タクシーは連なり、大通りには車が走る。多くの店が閉店し、飲み屋の看板だけが煌めく商店街のアーケード内にはストリートミュージシャンが高らかに歌い、彼等の前を疎らの歩行者が過ぎ去っていった。

 何時もと変わらない平凡な私の日常。

 折角温まった右手をポケットからだ出し、煙草を持つ。向こうの通りに傘も差さずに俯きながら歩く人影が見えた。私は一瞥しながら奇妙な鳥の形をあしらった灰皿に煙草の火を揉み消しように押しつけて捨てた。

「面倒臭いな」腕時計を見つめながら私は再び駅に向かった。

 終電間近もあり、乗った電車は人で溢れかえっていた。乗って数分、湿度で眼鏡が曇る。気分が憂鬱になる。元から人混みが苦手だった。大抵こういった人混みには紛れこんでいるからだ。

 ぼやけた視界で窓を見た。電車内は駅の案内アナウンスが流れる。自分が降りる駅まであと四駅だった。ふとハッキリと鮮明な者が見える。

 夜で鏡と為った窓越しに私を見ている男が居る。丁度私の後ろ。ぼやけたOLの肩越しから顔を覗かせていた。あまりにも凄い眼力に目を逸らしたくなった。だが、私は目を逸らす事はせずにぼんやりとした視界で窓を見続けた。

「早く帰って寝たい……」

 こういった事は是までに何度かあった。いや数え切れないほど経験した。金縛りなんて日常茶飯事。首を絞められた事がある。酷い時は耳鳴りが三日間続く事もあった。坊主に憑かれた事もあった。

 目的の駅に着く。扉が開いた瞬間に降りる乗客は我先へと押し合いながら出て行く。私はそれに巻き込まれるようにして電車を降りた。

 体が重い。仕事の疲れもあるが、それよりも未だ感じる視線がひしひしと背中に感じる。少し離れた二十四時間営業のスーパーに行くのも面倒臭くなる。駅前にあるファーストフードに寄ってテイクアウトする事にした。

 ハンバーガーが入った紙袋が濡れないように抱えて傘を差す。一人、雨音だけが響く夜道をとぼとぼと歩いた。いや、二人といった方が正しいのかも知れない。背後からは奇妙な気配がついてきた。

 電球が切れかかった街灯の下を歩く。ちかちかと不規則に点滅する街灯。

「昔は怖かったのにな」白い息と共に懐かしむ愚痴が出た。

 今は都会の一人暮らし。故郷は片田舎だった。実家の自室からは墓が見えた。近所自体に墓が多かった。よく「石を蹴れば寺に当たる」と言われるほど寺もまた多かった。

 田舎故に街灯があっても二十一時を過ぎれば家の明かりは消えて静かな闇が包む。幼少期、そんな町が怖かった。そして愛犬の散歩するのが怖かった。何時も何かと出遭う。不気味に光る目が狸だったこともあれば、時折噂される武者だったりもする。

 

 発情期の猫の声が暗闇から聞こえる。まるで赤ん坊が泣いて自分を闇の中へ誘うかのようで怖かった。

 何時からだろう。平然と感じるようになったのは。

 暗闇の風でざわめく山の木々も怖くなくなり、道で這い回る黒い影も怖くなくなっていた。擦れ違う通行人の足下に上半身だけの女が憑いていても、まるで埃がついているぐらいにしか感じなくなった。

 夜中、得体の知れない苦しさから目を覚ませば知らぬ人間が複数天井の隅から覗き込んでいる事もあった。

 布団の上に乗られて異様な圧迫感で起きる事もあった。

 時には縄張りを巡回している野良猫が実家の屋根を上り、二階の私の部屋の前を通りかかった際にこの世為らざる者と対峙して不気味な声で威嚇し始めた為に起きる事もしばしばあった。

 何時からだろう。怖さよりも私の安眠を妨害する事が許せないと感じる様になったのは。

 帰宅する。ワンルーム、ユニットバス付きの暗い部屋。手探りで電気を付ける。同時に耳鳴りがし始めた。振り返れば私より頭二つ高い人影が玄関の磨り硝子に映る。

「……あのさ、私に何で憑いてくるのさ。私は何も出来ないけど」紙袋を取りあえず部屋中央にあるテーブルに置く。「供養されたいんなら、寺に行ってくれない?」

 影は未だに玄関の扉の向こうにいた。だが、腹も減ったし、疲れていた。何よりセットで買った温かい珈琲を口にしたかった。

 買ってきた物をテーブルの上に出す為に、暇潰しで書いている下手糞なんちゃって小説の資料を整理する。

「まあ、こんな物があるから憑かれるのかな」私は溜め息を吐きながら経典やオカルト関連、さらには鳥山石燕の図画百鬼夜行をテーブルの下に積み重ねる。

 温かい珈琲にミルクを入れて胃袋に流し込む。体の奥からぽかぽか温かくなるのが実感できた。ハンバーガーを食べる前に灰皿を手元に寄せて、一服吸う。

 手首に鳥肌が立っていた。頬杖をして斜め向かいに置かれたスタンドミラー見る。見つめている、いや睨んでいる男が映っている。

 「……面倒臭いな。嗚呼、そうだ」私はまだ吸ったばかりの煙草を揉み消すと、棚の引き出しを上げる。先日、経典を買った際に試供品で貰った線香を箱から一本取り出す。そして色の禿げた百円均一で売られていた小さい亀型の香立ても手に取る。

「……香の煙は幽かなれども天に通じて、天下らせ給へ、ってか」オイルライターで線香に火を付ける。白糸のような細い煙が立ち上り白檀の香りが広がる。そして香立てに線香を立てた。

 ハンバーガーを食べ終わる頃にはいつの間にか線香は燃え尽きた。腹も満足した事だし、明日は休み、お風呂は朝にでも入ればいいかと着替えてベッドへと潜り込む。

 未だずっと感じる視線。見られている息苦しさ、嫌悪感が拭いきれない。だが、そういった感覚よりもそれよりも睡魔が強かった。

 何時からだろう。普通に無視して寝られるようになったのは。

 眼鏡を枕元に置く。眼を擦る。薄目だが男の顔が顔間近で見えた。眉間に皺を寄せた中年の男。

 そんな事より、眠い。金縛りを掛けようが、首を絞めようが何時もの事。お休みなさい。

 何時もの事だから何も感じない。

 それが良くある日常。

 私にとって平凡な日常。ほんの些細な出来事。

怖い話投稿:ホラーテラー なすがぱぱんさん  

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2021
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この麻痺は怖いです。