気がつけば、見知らぬ天井を眺めていた。天井には黒い染みのようなものが斑に浮かんでいて、ひどく気味が悪い。頭がぼんやりとして、それ以上のことはなにも感じなかった。
しばらくして、此処はどこだろうか、と思った。
顔を横に動かすと、窓の外には殺風景な景色が広がっていて、なんだかとても寒々しかった。視線を動かすと、傍らには箱形の機械があって、俺の脈拍や血圧を測っているらしかった。
ああ、ここは病院だ。
しかし、どうして病院なんかにいるのか。
「そうだ。帰省する途中だったんだ」
夏期休講を利用して帰省する予定だった。いや、帰省している途中だった。バイクで峠を越えようとしていた。でも、対向車が車線を越えて飛び出して来て……。
「もしかして、事故に遭ったのか」
ぶつかる、そう思った瞬間以降の記憶がない。でも、こうして生きているのだから運が良かった。
俺は改めて窓の外を見て、季節が変わってしまっていることを確認した。今が何月かは分からないが、もう冬になってしまっている。
俺は窓を開けようと立ち上がろうとして、バランスを崩してベッドから転がり落ちた。体中に繋がっていた色んなものが千切れ、あるいは弾け飛ぶ。しかし、まだ頭がぼんやりとしていたおかげで不思議と痛くない。でも、どうして転んだのか。
ベッドを掴んで立ち上がろうとして、俺は違和感を覚えた。右腕が現れない。いや、腕の感覚はある。しかし、視界の中に入ってこない。
恐る恐る、自分の腕を見下ろす。
そこには、あるはずの右腕がなかった。
◯
結果から言ってしまえば、俺は交通事故に遭い、バイクごと崖から転落。通りがかった地元の猟師が事故を通報した。
バイクは谷底へと落ちて木っ端みじんになったが、俺は運良く途中の枝に引っかかって助かった。ただ、鋭利な木の枝は俺の右腕を上腕筋から貫き、ほとんど引きちぎっていた。医者は人命を優先する為に右腕を切除したのだ。
「君は本当に運がよかった。崖下まで百メートル以上あったんだ。普通なら間違いなく死んでいたよ。それにたまたま通りがかった人にすぐ見つけてもらったのも運がよかった。今、こうして生きているのは奇跡的なことだよ」
医者はそういって俺を励ましたけれど、四肢の欠損というのは精神的にもかなり辛かった。俺は未だかつてない喪失感に苦しんだ。
腕の感覚は残っている。鮮明すぎる程に。ただ、俺にはすでに右腕はない。感覚だけが置いていかれてしまったようだった。実際、俺の右腕はまるで見えなくなってしまっただけかのように、肘を伸ばしたり、指を曲げたりすることができた。しかし、それは感覚だけの話で、幻の腕でものを掴もうとしても、どうすることもできなかった。
かけつけた両親は俺の姿を見て、泣きそうになりながらもなんとか平静を装うとした。命があるだけでよかった、と口を揃えて言ったが、二人は一度も俺の失くなった右腕を見ようとはしなかった。
「大丈夫よ。今は優秀な義手もあるんだから」
そう口では言っておきながら、現実には認めたくないのだろうな、と淡々とどこか冷めた心でそう思った。
両親の次に見舞いにやってきたのは、どういうわけか二人組の刑事だった。一人は禿げ頭の中年、もう一人はやけに背が高い若い男だ。禿げ頭の方の刑事は近藤と名乗った。
俺はベッドに横になったまま、提示された警察手帳を見てなんだかドラマみたいだな、と思ったりした。
「今回は大変痛ましいことになってしまいましたな。心中お察しします」
「警察が俺になんの用ですか」
「まぁまぁ。そう焦らずに。少し事故についての話をお伺いしたいんですよ。単独事故ではないことは鑑識が調べて分かっているんですが、問題の容疑者が見つかっておらんのですよ。それで、なにか覚えていらっしゃることはありませんかね。どんな些細なことでも構わんのです」
「犯人、捕まってないんですね」
それもそうか。交通量の少ない峠道だ。俺が発見されたのだって奇跡に近いだろう。
「いや、お恥ずかしい限りです。ただ、容疑はあなたの事件だけではないんですなあ」
「どういうことですか」
「あの日、あなたの救出活動をしている中、現場からそう離れていない場所で地元の警官が若い女性の遺体を発見しましてね。どうやら暴行を受けた末に強姦され、殺されたようでして」
「……自分じゃあないですよ」
もちろん、といって近藤は歯を見せて笑った。
「被害者の女性の膣の中には容疑者のものと思われる精液が残っていました。DNA鑑定は終わっています。あなたではない」
「そうですか。それはよかった。でも、俺はなにも見ていません。それに事故のときのこともよく覚えてないんです」
「運転手の顔はともかく、なんとか車種だけでも思い出してもらえんでしょうか」
「すいません。対向車線を越えてきた車を避けようとして、ガードレールに突っ込んだ所しか覚えてないんです」
きっと顔も車も見ている筈なのだが、まったく思い出せない。
「本当に? 何かひとつくらい覚えているだろう」
高圧的に言って来たのは、あの若い刑事の方だった。
「松浦。よさんか」
「しかし、」
「よせというんだ。いや、すいませんね。正直、期待しておったもので。他には目撃者もおらず、このままでは埒が明かない。そんな中で、被害者自身が目を覚ましたてくれた。これは運が回って来たと思ったんですわ」
「残念ですが、本当に思い出せないんです」
「事故のショックが大きかったのでしょうな。そんな中、無理をいって申し訳ない。もしも何か思い出したことがあったなら、近藤まで御一報ください。どんな些細なことでも構いません」
「わかりました」
夜、微睡んでいた俺は不意に自分の右腕に誰かが触れるのを感じた。
もちろん触れようにも、俺にはその右腕がないのだから気のせいだ。だが、今度はしっかりと手首を握られた。そういう生々しい感覚があった。
慌てて体を起こし、腕を見るけれど、そこには初めから右腕なんてありはしない。ただ、感覚だけがまだ残っているだけだ。
それなのに、幻の右腕は確かに誰かに握られている。細い指だ。感触からいって女の手だと思う。おもわず背筋が震えた。
「なんなんだよ、いったい」
呟くと、応えるように女の手が離れていった。指がひとつずつ離れていくリアルな感触があった。
結露した窓。そこに指で文字を書くように、なにかが描かれていく。もちろん誰もいない。この病室には俺しかいないのだから。
「み」
「つ」
「け」
「て」
結露した窓には「みつけて」と書かれていた。
恐怖に背筋が凍る。悪寒に鳥肌が立つ。
俺には霊感なんてない。そもそも幽霊なんて信じたこともなかった。
「なんなんだよ。これ!」
ナースコールを押そうと左手を伸ばす。しかし、ありもしない右腕を女の手が掴んできた。握り潰されるんじゃないかと思うほど強く。あまりの痛みに身を曲げる。
「いっ!」
思わず呻くと、ぱっと右手が解放された。
窓を睨みつける。
「み」
「つ」
「け」
「て」
窓を文字がなぞる。水滴が滴り落ちていく。
「見つけるってなにを。そもそも、お前はなんなんだよ」
幽霊だ。それ以外にない。
「あ」
「い」
あい。アイってなんだ。人名か? でも、知り合いにアイなんていない。
不意に脳裏を昼間の刑事たちのことがよぎった。山中での婦女暴行殺人事件。俺が見たかもしれないレイプ殺人犯。
そうだ。被害者の女性は死んでいる。
◯
「あなたのように失った四肢の感覚を、依然として存在するかのように感じることを幻肢。また、その幻肢が痛むのを幻肢痛といいます」
目覚めて三日目。朝の診察をした医者は俺にそう言った。
「その幻肢痛というのは治せないんですか」
「治療は可能です。『鏡の箱』を用いて行う治療法で、鏡に正常な左腕を映し出し、右腕があるかのように脳に錯覚させる。すると、脳が痛みを訴えるのを止めるというものです」
「でも、本当にまだここにあるみたいに感じるんです。指も、掌も、手首も、肘も、ぜんぶまだここにあるんだ」
「それは違います。そうあなたの脳が感じているだけで、実際にはもう腕はなくなっているのです。それを受け入れることが肝心です」
「感覚があるんだ。それに、昨日は誰かが俺の手を
掴んだんだ」
「幻肢痛の一種でしょう。そういう症例も少なくはないのです」
「先生。俺はもう退院できますか」
「しばらくは入院が必要ですね。リハビリもしないといけませんし。あなたは昏睡状態だった間に体力をずいぶんと失っています。出かけてもすぐに動けなくなってしまいますよ。それに片腕がなくなると、バランスも変わりますからね」
「出かけたいんです。気分転換がしたくて」
「中庭を散歩する分には構いませんよ。ただ、あまり体を冷やすのはよくありません。ロビーにはテレビもありますし、ゆっくり養生するほうがいいでしょう」
「わかりました。ありがとうございます」
「では、私はこれで。リハビリは明日から始めましょう。新学期までには復学しないといけませんからね」
そういって病室を医師が病室を出て行ったのを確認してから、俺は鞄に携帯電話、財布と薬を入れ、父親が忘れていった上着を羽織って病室を出た。財布の中には二万円と少ししか入っていないけれど、充分足りるだろう。
右腕を失って気づいたことだが、医師の言っていたように腕一本というものの重さは大きいもので、こうして歩いているだけでもバランスが取れなくなる。おまけに腕が振れないのでやたらと疲れる。
体力も落ちている為、階段を降りるだけでも一苦労だ。だが、それでも俺はゆっくりでもいいから一歩ずつ足を動かし、ようやくロビーへと降りることが出来た。しかし、正面玄関から出ると看護婦に見つかってしまうので、こっそりと非常口へと回る。
誰の目にも止まらず、病院を出ると、敷地内のタクシー乗り場を見つけた。コートを脱ぎ、失った右腕をあらわにする。すると、すぐに一台のタクシーがやってきてドアを開けた。
「お兄さん。大丈夫かい」
「はい。大丈夫です。あの、神谷町へ行きたいんですけど」
「また随分と遠くへ行くんだな。ほら、乗った乗った」
俺は後部座席へと乗り込むと、しっかりとシートベルトを締めた。運転手の名前を確認すると『日比谷』とある。猿のような顔をした中年の男だった。
「なんだか具合が悪そうだけれど、大丈夫かい?」
「はい。まだ病み上がりなもので」
「そうかい。大変だなあ」
「いえ。あの、日比谷さん」
「? なんで俺の名前を?」
「いや、ここに書いてあるので」
「ああ、そうだった。そうだった。はいはい。なんだい?」
「この辺りの治安はどうですか?」
「田舎だからね。物騒なことはなんもありゃしないよ。やってくるのは観光客ぐらいのものさ」
「観光客。ああ、連山目当ての登山客だよ。昔は登山客といったら男ばっかりだったけど、最近は若い人も増えてきたからね。商売繁盛だよ」
「女性も増えましたよね」
「ああ。山ガールっていうのかね。若い人も登りに来るようになったなあ」
「山登りか。してみたいけど、しばらくは無理そうだなあ」
「その腕、最近の怪我かい?」
「峠道で事故にあってしまって。バランスが悪くて困ります。体力も減ってしまって。病室から出るだけでもうクタクタになりました」
「そんな時に、どうしてまた外出を?」
「警察に行かないといけないんです」
「警察? なに、財布でも失くしたの?」
「いえ。ただ、どうしてもしておかないといけないことがあって」
「そうか」
「はい。日比谷さん。少し寝ますから、到着したら起こしてもらってもいいですか」
「ああ」
「お願いしますね。それじゃあ」
おやすみなさい、そういって座席に横になり、俺はすぐに眠りについた。
ガタゴト、と激しい揺れに目が覚めた。体を起こすと、どうやら山道を走っているらしかった。それもすごいスピードで。
「日比谷さん。あの、ここ何処ですか?」
日比谷さんは応えず、山道を蛇行しながら走り続けている。時計をみると一時間も寝ていたらしかった。
「ああ、また山ん中ですか。あなたも懲りない人だなあ。山ならバレないと思ってるんですか? でも、無理ですよ。レイプした時だってすぐにバレたじゃないですか」
バックミラー越しに日比谷が俺の顔を睨みつける。血走った目、荒い息。その表情は、まさに殺人者のそれだった。
「お前が、お前が悪いんだ。クソガキ。お前があんなところで飛び出して事故ったりしなけりゃあ、あの女が見つかることだってなかったんだ。それなのに、てめぇが大人しく死んでねぇからこんなことになるんだ」
やっぱりか。
「俺のせいじゃないですよ。俺はアンタに巻き添えにされただけ。でも、山登りに来た女の子を乗せて山でレイプした挙げ句、なにも殺さなくていいんじゃなかったんですか? 殺す必要なかったでしょ」
「顔を見られたんだよ。殺すしかねぇだろ」
「俺もアンタの顔を見てますけど」
「そうだよ。だから殺すんだよ。生かして返すわけねぇだろうが。その為に病院の前で張り込んでたんだよ。長いこと眠りかぶりやがって。あのまま死んでりゃよかったのによ」
「どうしてあの子だったんだよ。他にも女の子はいただろ」
ヒヒ、と笑う。
「いい女だったんだよ。こう胸がデカくてよ、男を知らねぇって顔しやがって。泣きながら暴れるもんだからよ、思わず首を絞めちまったんだよ。なんだよ、俺のせいじゃねぇだろ。暴れるから悪ぃんだよ」
「アンタさ。警察から逃げ切れると思ってたのかよ」
「逃げ切れるさあ。なんとでもなる。それに捕まったところで十五年もすりゃあ出てこられるんだ。飯も食えて、暖かい布団で寝られる。上等じゃねぇか」
「アンタみたいなクズがやりなおせて、アイがやり直せないのはおかしいだろ。アイは俺と同い年だったんだ。親父さんと山登りに行く途中で、お前みたいなクソ野郎に殺されちまった」
「……なんだよ。あの女の知り合いだったのか」
「いや、生前の彼女は知らねぇ。俺は教えてもらっただけだ。昨日の夜、夜通しで話し合っただけだ。アイの怨みを晴らす為にはどうしたらいいかってな、お互い被害者だからな。すぐに意気投合したよ」
「意味がわからねぇ。何を言っていやがる」
「わからねぇんなら、こっち見てみろよ」
バックミラーを覗き込んだ日比谷の顔色が一瞬で青白くなる。凄まじい悲鳴をあげて、急ブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴をあげて、ガードレールにぶつかって車が止まる。
日比谷には、俺の隣に座る血まみれの女が見えているのだろう。俺には見えない。ただ、右腕をアイが掴んでいるのは分かる。
「俺の右腕は死んだ。でも、感覚だけが幽霊みたいにまだ残ってる。幻肢っていうんだけどさ、この幻肢なら幽霊に触れられるんだわ。存在しない感覚は、存在しないものを感覚できるらしい」
俺の役割は、彼女をここへ連れてくること。
「ひぃいい! ひぃいいあああ!」
日比谷が運転席から転がり落ちるように外へ出る。俺もアイの手を掴んで車外に出た。
「人ひとりを殺しておいて、たった十五年やそこらで出てくるなんて間違ってんだろう。アイはもう死んじまったんだ。償えよ、おっさん」
混乱した日比谷がガードレールに腰をぶつけ、向こう側へと落ちた。
近づいて崖下を覗き込んでみると、数メートル下の岩にぶらさがって顔を青白くしている日比谷の姿が見えた。崖底までゆうに百メートルはあるだろう。もちろん俺は日比谷を救えるようなものは何一つ持っていない。
不意に、握っていたアイの手が離れた。まるで奴めがけて落ちるように。
今際の際、俺は見た。
日比谷の背中に後ろから抱きつく満面の笑顔を浮かべたアイの姿を。そこには何処までも清々しい笑顔があった。
日比谷が重さに堪え兼ねたのように、指が岩から滑り落ちる。
長い長い悲鳴が尾を引いて、やがて落ちて、潰れて消えた。
俺は携帯電話を取り出し、淡々と警察に通報した。
◯
警察に事情聴取を受け、俺はタクシーの運転手に攫われたこと。山中の道で事故を起こし、運転手は一人で逃げたと話した。
「目覚めて早々、こんな事件に巻き込まれるなんて運が悪いですなあ」
禿げた頭を撫でながら、近藤はそう言った。
俺は知らぬ存ぜぬと貫き通し、すぐに病院へと戻ることが出来た。
医師や両親にはこっぴどく叱られたが、後悔はしていない。
なぜなら、アイには日比谷を裁く権利があった。死者が加害者を殺すのだから、これ以上に公平な裁きはないだろう。
問題は、未だに右腕の幻肢は消えず、稀に死者が手を掴んでくるようになったことだ。
文字通り、俺は死者に手を貸している。
作者退会会員
新作になります。
どうぞ暖かい眼でご覧下さい。
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