彼は夏という季節がやってくると、決まって夜釣りに出かける。
なぜ夏なのか、といえば他の季節だと夜釣りは難しいからだ。冬は寒くて釣りどころではないし、春はいまいち魚が湧かない。夏は昼間は暑くてとても釣りをする気にはなれないが、夜となれば海風が心地よい。
仕事を終え、車で近場の漁港へ向かい、適当な釣り場を見つけて竿を投げる。釣れる日もあれば、釣れない日もある。しかし、趣味でしていることなので、釣れないところでどうということはない。ただ、静かな海で釣りをするのが好きなのだ。
港には火力発電所があるのだが、こういう工場という場所は夜景に映える。巨大な人工物が港にうずくまり、白煙をあげるという光景は悪くない。
彼は煙草を口に咥え、ネクタイを緩めて、竿を投げてはぼんやりと佇む。魚が釣れれば竿につけた鈴が鳴り、魚がかかっていることを教えてくれる。投げ釣りはもっぱら待っている時間の方が長い。
携帯の電源も切ってあるので誰の邪魔も入らない。足下を波がちゃぷちゃぷちんぶつかっては砕け、白い泡となって岩壁に付着した。深く息を吸うと、生臭い磯の香りがする。
しばらくぼんやりとしていると、なんだか今日はやけに釣り人が少ないな、と気がついた。今日は大潮で潮目もいい。いつもなら大勢の釣り人でにぎやかなくらいだ。特に対岸の船着き場には、昼間から釣りに来ている常連たちでびっしりと埋まっている筈なのだ。
怪訝に思って携帯を開くと、その理由に気がついた。
「ああ、そうか。もう盆なのか」
もうそんな季節になっていたのか。もう彼は実家に何年も帰省していない。結婚して所帯でも持てばそういう行事にも近しいだろうが、独身の彼には盆も何もない。おまけに仕事も盆休みなどないのだから、そんなことなどすっかり忘れていた。
こんなに人の少ない夜も珍しいな、と彼は思った。
どうせ誰も来ないだろう、と思い、竿を五つほど新たに投げ込んだ。人が多いと、あんまりこういう数に頼むような真似はできないが、今日は誰も文句を言う者もいない。
全ての竿を投げ終え、彼はもう一本、と胸元のポケットから煙草を取り出そうとして、隣の電灯の下に誰かが立っているのに気がついた。
思わず会釈すると、向こうもぼんやりと頭を下げた。
釣り人かな、とも思ったが、なにも持っていない。海をこうして眺めにくる人も少なくはないから、彼は特に気にせずに新しい煙草を口に咥えた。
それからしばらく経ったが、魚が釣れる気配は一向にない。いつもなら雑魚の一匹でも釣れている頃合いなのだが、今日はどうにも調子が悪い。
仕掛けの餌をつけなおそう、そう思って彼が立ち上がると、電灯の下に立っていた男がほんの少しこちらに近づいていた。表情を伺おうとしたが、逆光で表情が読めない。作業服を着ている、ということだけは分かった。よくみれば、件の火力発電所の職員が着ている制服だ。
「お盆もお仕事ですか。大変ですね」
男が気さくに声をかけると、相手はゆっくりと頷いてみせた。
「いえ。もう休みに入っています」
初老の男性特有の、少しゆっくりとした落ち着いた口調だった。
「こちらには帰省で帰ってきていましてね」
「ああ、ご出身がこちらですか」
ええ、と相手は頷いた。
彼は相づちを打ちながら、リールを巻いて仕掛けを回収した。餌はついていなかった。雑魚に喰われたのだろう。
「故郷の海です。いつも此処に帰って来てしまう。子供の時分には、もう飽きる程眺めていたというのに。不思議なものです」
「自分は他所の人間ですが、海はいいですね」
「そうですね。ですが、海は恐ろしくもありますよ」
「へえ。例えば?」
「私がまだ幼かった頃の話ですが、そこの山で大きな炭鉱事故がありました。それはもう大勢の犠牲者が出たのですが、彼らは炎で咽喉を焼かれておったんですな。地上へ運び出された彼らは、水に飢えていました。しかし、とても全員には真水は行き渡らない。彼らは飲めないと分かりながらも、この海に次々と身を投げて海水を飲み、そのまま溺れて死にました」
淡々とした声に、彼はぞっとなった。
「今でもようく覚えていますよ。肌色というよりは、白いぶよぶよとした遺体が幾つもそこに浮かんでおりました。まるでブイのようにね。私はどうしてもその光景は忘れられず、それからしばらくは海に来るのが恐ろしかったものです」
餌を釣り針に通しながら、彼はなんだか寒々しいものを感じ、いつのまにか辺りが静まり返っていることに気がついた。さっきまで五月蝿いほどだった虫の音色もしん、としている。静寂が耳に痛いほどだった。
「事故があって以来、この海では大勢の死人が出ました。俗にいう入水自殺ですな。年齢も性別も様々で、兎にも角にも人が死んだ。子供も大人も無関係に。あまりにも多くの人間が死ぬので、とうとう慰霊碑が建てられました。鎮魂の為にね。以来、ここで人が死ぬことはめっきり少なくなりました」
「じゃあ、もう大丈夫っていうことですね。いやあ、怖かった。お話をするのが、お上手ですね。肝が冷えました」
ははは、と笑ってみせた彼とは反対に、光を背にして立つ男は黙り込んだ。
足下で波が押し寄せては砕け、その度に強い潮の香りを感じた。
「地元の人間は、この時期にこの港にはやってきません。お盆というのは、死んだ人間が帰ってくる季節ですから。海に近寄ってはならない、袖を引かれるぞ、そう親たちから習うのですな」
ほうら、もう帰っていきますよ、そう男が指さした先、対岸の船着き場に誰かが立っているのが見えた。電灯の下、人影がぼんやりと立っている。
彼が見ている目の前で、人影が身を投げた。前のめりに倒れるように。水面に水しぶきがあがり、それきり浮かんでこない。
「人が! 落ちましたよ!」
慌てて立ち上がろうとした彼の視線の先、そこには対岸を埋め尽くすように並んだ黒い人影が立っていた。そうして、後に続けとばかりに黒々とした海へと身を投じていく。
呆然と彼が立ち尽くす中、急に仕掛けていた釣り竿の鈴がけたたましく鳴った。
見てみれば、全ての竿が折れんばかりに曲がり、しゃんしゃんと鈴を鳴らしている。とても魚とは思えないような引きの強さに、彼は青ざめた。
いったい何が糸の先にかかっているのか。
「悪いことは言わない。帰りなさい」
ばしゃん、と彼の目の前で男が落ちた。大きな水しぶきが上がり、黒々とした水面の下、男の姿が深い場所へとゆっくりと沈降していった。
仰向けに沈んでゆく男の口が薄く微笑んだのを、彼はしっかりと見た。
彼は釣り糸を断ち切り、竿も回収しないまま、車に乗り込み、逃げるようにして港を後にした。
以来、彼は釣りを辞めた。
夜の海へ行くことも二度とないという。
作者退会会員
友人からのリクエストで書きました。
故郷が舞台の短編です。