通筋町を南北に流れる、近衛湖疎水を歩いていた時のことだ。
その日は朝から針のように細い雨が降っていた。
私は雨の日は必ず午前中の講義を休む。そして、ぼんやりと疎水を沿って歩いて散歩を楽しむ。それが無趣味な私の数少ない楽しみだった。
そうしてぼんやりと傘をさして雨道を歩いていると、不意に疎水の中を泳ぐ何かが見えた。立ち止まり、目を凝らすと、水中を蛇のような銀色の鱗を光らせる細長い何かが泳いでいるのが見えた。
私は雨が降っているのも忘れて、降りられる場所を探した。そうして、なんとか疎水へと降りられる場所を見つけると、傘も放り出して疎水へと降りた。
雨で増水した疎水の水嵩は私の太ももほどもあり、気を抜くと足を取られて押し流されてしまいそうな勢いだったが、懸命に堪えて目を凝らした。
ああ、いた。
それは私が今まで見たこともない生き物で、蛇に似ていたが、蛇とは違うようだった。頭には枝分かれした角があり、体のあちこちから髭のようなものが揺らめいている。
私は泳いでくる生き物を見ながら、その神々しいまでの存在感に昂揚した。
恐ろしいとは全く思わなかった。
おいで、そう思いながら手を伸ばすと、それはこちらの意志を感じ取ったように、身をくねらせ、私の指先へと近づいた。
「おい! そんなところで何をしている!」
頭上から怒声が飛んできた瞬間、それは驚いたように身を激しく揺らして、巣穴に逃げ込むように、私の指先に入り込んできた。
生々しい痛みが指先、手首、腕、肩へと走り、私は呆然となった。
あたりをいくら見渡しても、あの生き物の姿は見えなかった。
声をかけてきたのは巡回中の警察官で、私は財布を落としてしまったのだと嘘をつき、今後は疎水に降りたりしないようにきつく言いつけられた。
家路の途中、何気なく痛みの走った左手を見ると、肘の内側に奇妙な痣があるのを見つけた。それはなんだか蛇のような形で、あの生き物によく似ていた。
すると、痣は身をくねらせて、私の視線から逃れるように皮膚の上を優雅に泳ぎ、肘の裏へと逃れた。驚いて肘の裏を見ると、するすると泳いで肩の方へと逃れていった。
私は呆然となりながらも、ようやく自分の置かれた状況を理解した。
どうやら、私は取り憑かれたらしかった。
○
あの不思議な生き物が私の体に棲みついて以来、身の回りに不思議なことが起きるようになった。
部屋で寝ていると、窓から差し込んだ月明かりに照らされた壁にあの生き物が泳ぐ影が映る。それは心地よさそうに部屋の壁や床を泳ぎまわるので、私はそれをいつもぼんやりと眺めた。それは私が声をかけると、嬉しげに身をくねらせ、くるくるとよく泳いだ。
風呂に入っているときなどはこうだ。湯船に浸かって一息ついていると、私自身は身動きひとつしていないのに、湯船のお湯が波立ち、お湯も足していないのに湯量が少しずつ増えていく。なにをしているわけでもないのに、滾々と水が湧いてくるのであっという間にお湯がぬるくなってしまって困る。
特に変わったことと言えば、私はすっかり雨男になってしまった。
どういうわけか。あれ以来、私の周囲には常に雨が降っていて、外出すれば必ず雨風が吹いて仕方がない。もう梅雨もとっくに明けていて、余所の町では日照り続きで水不足に喘いでいるのに、私の暮らす町はもう二週間近くずっと雨が降り続けていた。このままでは水害になり兼ねない勢いだった。
さすがに少し恐ろしくなり、実験も兼ねて大学を休み、電車に揺られて遠出することにした。一時間ほど離れた駅で降りてみると、やはり雨が降っていて、逆に私の暮らす町は久しぶりの快晴となっていた。なので、私は時折、家を離れて日照りの続く町で宿泊して、水不足の解消に人知れず働いた。
「お前、最近えらいあちこちに泊まりに行くけど、どうかしたの?」
そう友人に聞かれたが、人助けだとも言えず、自分探しだと適当に答えた。
どうやら私に取り憑いたのは、雨風を呼ぶものらしかった。
さりとて、私個人の暮らしが変化する訳でもなく、私は普段通りの生活を過ごしていた。自堕落な大学生らしい生活を送り、たまにアルバイトに出て生活費を稼ぐ。変わったことと言えば、ほんの少し身の回りに不思議なことが起きるくらいだ。
私は自分の身に起きたことを友人知人には一切話さなかった。何故話さなかったのかと聞かれれば、訊かれなかったからだ、と答えるしかない。ともかく私は我が身に巣食う生き物について誰にも他言しなかった。
しかし、どういうわけか。私を訪ねてくる者が現れた。
その日、私はいつものようにアルバイトへ出かけた。ちなみに私のアルバイト先は高級日本料理店で、私はそこで雑用係として低賃金でこき使われていた。
そしていつものようにバイトをしていると、店長が青い顔をして私を呼びに来た。
「お客様がお前を御呼びだ」
私は意味がわからず、小首を傾げるしかなかった。私はあくまで裏方の雑用係であって、接客は一切していない。野菜の下処理や、洗い物をするくらいだ。
「相手はうちで一番の上客だ。くれぐれも粗相のないようにしろ」
「待ってください。何故、自分なのですか。意味がわからない」
「そんなことを俺が知るか。ともかくお前を名指して呼んでいらっしゃるんだ。つべこべ言わずに行け」
私は皆目見当がつかないまま、その客が待つ個室へと向かった。
個室は敷地内の外れに離れとして作ってある。店で一番高価なコースを注文する常連客しか借りることのできない特別な個室だった。事実、アルバイトの私はここへ近づいたことが一度もなかった。
障子の前に座り、中へ声をかけると、中から澄んだ若い女性の声が返ってきた。
「どうぞ」
私は障子を静かに開け、室内へ入った。個室は私が想像していたよりもずっと広く、そして高価な調度品で飾られていた。部屋の上座には藍色の浴衣を着た若く、美しい女性が肘掛けに体重を預けるようにして座っていた。年齢は私よりも幾分か上だろうか。
「まぁ、随分とお若いのね」
彼女は微笑んで、螺鈿細工の長い煙管を咥えて、甘い煙をふぅっと吐いた。
「今日は蒸します。嫌になりますね」
「はあ」
「貴方、とても面白いものを飼っていらっしゃるのね。さぞかし雨続きで大変でしょう?」
心臓が跳ね上がった。
なにも答えられず、どうしていいか分からない。
「それは本来、雨雲を泳いでいるのだけれど、たまに雷と共に地上に落ちてきてしまうことがあるの。しかし、それは水気のない場所では生きていくことが出来ません。水の中でないところでは乾いて死んでしまうのです。近衛湖の疎水で拾ったとか。よほど貴方の体の中というのは居心地がよいのでしょうね」
手を見せて頂けないかしら、と彼女は囁くように言った。
「手、ですか」
「ええ。右手よ。そこにいるのでしょう?」
私は観念して、彼女の前に右手を伸ばした。するすると影が優雅に泳いで指先へ向かう。
「これは、竜なのではないでしょうか」
「ええ。でも、正確にはまだ成獣になっていないのです。まだ子供の竜ということになりますね」
「親がいるのですか?」
「面白いことを言うのね。親がなくてどうやって生まれてくるというのです?それにこの子の母親はずぅっとこの町の空に留まっていますよ」
「ああ、だから雨が降り続いているのか」
「竜は風と雨の化身ですから。しかし、いくら恵みの雨と言っても、限度というものがあります。このままにしておくわけにはいきません」
「どうしたらいいのでしょう」
「親の元へ帰すしかありません。いくら貴方の中が心地よいからといって、そのままにしておけばいずれ貴方にも害が及ぶ。水に酔って死んでしまうでしょう」
どうやったら帰せるのですか、そう問うべきだったというのに、私の口からは違う言葉が出てきた。
「貴女は、いったい何者なのですか」
彼女は答えず、微笑を浮かべたまま煙管を吸い、それから仙女のような妖しい瞳を私へ向けた。
「明日、近衛湖で落ち合いましょう。この子を返してあげないと」
それで、その日の邂逅は終わった。
○
翌日も雨だった。
朝からテレビ番組でどこそこで土砂崩れだの、河川の増水だのと物騒な話題が多く、私は朝から陰鬱な気分になった。
シャワーを浴びていると、体中のあちこちを痣の姿をした竜が泳ぎ回る。そういえば少し痣が大きくなったような気がするけれど、気のせいかもしれない。
今日でこれとも別れるのかと思うと、少し寂しい気持ちになったが、このままでは人死にが出かねない。直接的ではないにせよ、誰かの生き死にに干渉したくはない。
朝食を食べながらぼんやりと窓の外を眺めると、雷が私を急かすように走る。遠くから響く雷の轟音に私は背中を叩かれているような気がしてならなかった。
身支度を済ませ、お気に入りの傘をさして、私は部屋を後にした。
電車でいけば近衛湖まではそう遠くはない。しかし、私は特に急いでいるわけでもなかったので、ぼんやりと雨に煙る町を歩いた。途中、疎水を通ったけれど、迷子の竜を見つけたりはしなかった。
頭上には分厚い雲が覆いかぶさるようにして浮かんでいて、いつ雷が落ちてくるとも知れず、気が気ではない。竜が雷と共に地上へ来るというのなら、竜の親が子供を迎えに来たなら、私は間違いなく死ぬだろう。
湖へ近づいていくにつれ、腕や足の表面をせわしくなく痣が泳ぎ回った。痛みはないが、むずむずと痒い。
湖畔にたどり着くと、件の女性が波打ち際に立ち、小さな傘をさしていた。私を見つけると、彼女はこっちへいらっしゃいと手招いた。
「具合は如何?」
「なんだか体中がむず痒いです」
「興奮しているのです。大丈夫。すぐに終わります」
「死ぬのは御免ですが、手放すとなると惜しい気がします」
「本来、この子たちは人とは交わらないのです。忘れた方が互いの為なのですよ」
彼女はどこか寂しげにそういうと、水の中へ一歩踏み出した。しかし、彼女の体は水に沈むことなく、水面の上を静かに歩いてゆく。私は驚いて息をするのも忘れた。
「さぁ、湖の中へ」
彼女の後に続いた私は水の上を歩ける筈もなく、凍えるような水の中へとざぶざぶと突き進む。あまりの冷たさに思わず呻いた。
「どうして貴方だけが水の上を歩けるのですか。納得がいかない」
「さあ、どうしてでしょうね」
答えをはぐらかす彼女に怒りを覚えながら、寒さを堪えて奥歯をかみしめた。
不意に、頭上で腹に響くような雷鳴が唸り始めたので、思わず歩みが止まる。見上げると巨大な黒雲がもくもくと湧き上がるのが見えた。
「雷が落ちてきたら、自分は間違いなく死にます」
「落ちはしません。母親が我が子の帰りを待っているのです」
さぁ、進んで、と彼女は容赦がない。
そうして胸の辺りまで進むと、痣が右手の指先でぐるぐると回り始めた。指先が次第に燃えるように熱くなってゆく。
「手を空へ掲げてください」
「それだけですか?」
「それだけです。水の中からは空へ昇れません。さぁ、手を」
一瞬、寂しさを感じたけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
私が右手を空へ掲げた瞬間、目の前が真っ白になった。
なにもかもが白い光に呑みこまれたようだった。
雷が落ちたのではない。雷が、昇っていった。
指先から、熱さが放たれるようにして消え、遅れてやってきた轟音が私の全身を叩きのめした。意識が遠のき、私は膝から水中へと没した。
○
気が付くと、私は納涼床でだらしなく横になっていた。よほど長い時間が経ったのか、頬にはくっきりと畳の目がはりついている。空を仰ぐと、雲ひとつない青空が広がっていた。
右手を見ると、手首から手の甲へかけて赤く蚯蚓腫れように、酷く腫れ上がっていた。不思議と痛みはなく、その巻きつくような姿が、あの楽しげに泳ぎ回る痣のことを思い出させて、少し胸が痛んだ。
「目が覚めましたか」
振り返ると、湖面を歩いていた彼女が木柵に腰かけて涼んでいた。こんな時期に納涼床を出しているような店があるとは珍しい。
「ここは私の知り合いの店です。どこか痛む場所はありませんか?」
私は彼女に腫れ上がった右手を見せた。
「痣になって残るでしょうね」
「構いません。良い置き土産になりました」
「美しい光景でした。あなたの指先から一筋の雷が、空へと疾っていく様はとても美しかった」
「おかげで死ぬような思いをしました」
彼女はくすくすと微笑し、懐から実に高そうな葉巻を取り出した。
「お祝いです。味わいましょう」
「自分は未成年ですが」
「祝杯にしましょうか? あなたが私と競えるほど呑めるのなら」
私は苦笑して、葉巻を受け取って口に咥え、火をつけてもらった。
「煙を肺に入れてはいけませんよ。咳き込んでしまいますからね」
煙を吸い込むと、甘く痺れるような味がした。舌先が痺れる。
「美味しいでしょう?」
私は正直に感想をいうことにした。
「雷のような味がします」
彼女は吹き出しそうになり、それから声をあげて楽しげに笑った。
紺碧の空、遠く山々の彼方に遠のいていく雷雲が見えた。
低く、腹の底に響くような遠雷に耳を澄ませた。
作者退会会員
嗣人です。
復会させて頂きました。
相変わらず怖くない話で申し訳ありません。
夜行堂奇譚の続きも執筆していくつもりです。
#gp2015