私が昔住んでいた村には、神様がいると言い伝えられている池があった。
江戸時代後期の頃から「神池」と言われており、またいつの頃からか地元民からは「神様池」と呼ばれていたらしい。
水の透明度は高く、池に沈んだ倒木が水の底に横たわる姿がはっきりと見えるほどだ。
天候の良い日には日の光を反射して水面がキラキラと光り、神秘的な雰囲気を漂わせる。
その光景を見た者は、どんな悪人でも心が洗われ魂が清められるんだとか。
だがそんな美しい池にも関わらず、地元の人間は全く神様池には近づこうとしない。
なんでも「神様池は神聖な場所で、下手に人が入り込んで池が汚れてしまえば村が祟りに合う」んだそうだ。
かくいう私も小さい頃から池には行かないようにきつく注意されて育ち、周りに何もないその池には近くに寄る用事もなくほぼ無関心のまま育っていった。
しかし小学校高学年頃の年にもなるとそういった禁忌的な場所に強く興味を抱くのが極々自然な事ではなかろうか?
私が小学校6年生だった年の夏休み前7月頃も、当然のようにクラスで神様池の噂が流行った。
「神様池には白い龍が住んでいて時々池の上を飛んでいる」
「池の水を飲むと若返る。いっぱい飲むと不老不死になる」
「神様池には見たこともない珍しい魚がいて、釣りをすればビックリする位大きな魚が釣れる」
誰も行った事もないのをいい事に、それはそれは様々な噂話が飛び交ったものだ。
ただみんな好き勝手な噂話はするものの、実際に行ってみようとする奴は出てこなかった。
良い噂だけでなく「池に行った奴は村を追放される」だとか「二度と帰ってこなかった」とか悪い方の噂もいくつもあったからだ。
田舎特有のものかもしれないが、そういう迷信めいた悪い噂にはみんな絶対に手を出さない所があった。
当時の私を除いて・・・・・・
いや別に昔の私が手に負えないほどの悪ガキだったとかそういう訳ではない(はず・・・たぶん)
なんというか、興味を持ったらあまり細かい事を考えない子供だったというか、純真だったというか。
その時も確か「金色の魚を釣ってみたい!」とか変な理由で神様池に興味を持ったのだ。
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一学期が終了して学校が夏休みに入ると、私は宿題もせず夏休み初日から昼食後すぐに釣り道具を持って神様池へと向かった。
家から神様池までは子供の足でだいたい三十分位の距離があった。
だが釣竿を持った少年が神様池の方向に向かっている姿を見れば、まず間違いなく見かけた大人は引き止めようとする。
その為私はわざわざ東の山の方から池の裏側まで繋がっている林に遠回りしていき、おおよそ一時間程の大冒険の末に池まで辿り着く事となった。
正直鬱蒼と茂る木々の中をひたすら歩いている時は「来なければ良かった」とずっと思いながら唯々前に進み続けていたものだ。
しかしそんな鬱屈した思いも、目の前に巨匠の描いた絵画のような素晴らしい景色が現れた瞬間何処かに吹き飛んでしまった。
透き通る水面。
その中を優雅に泳ぐ魚の姿。
池の中央辺りには小島があり、注連縄が掛かっている一本の大きな木が見える。
とても静かで川の音と鳥のさえずりしか聞こえない。
まるでここだけ時間が止まっているかのような世界。
私はしばらくその場に立ち尽くしたまま身動き一つせず、その光景に見とれてしまった。
数分の後にハッと我に返り、当初の目的を思い出す。
見ればほんの1M手前の池の中を赤と黒の縞模様の見たこともない魚がスイスイ泳いでいる。
「凄い凄い!噂は本当だったんだ!凄いぞっ!」
興奮して震える手を抑えながら急いで良い魚が釣れそうなポイントを探して釣りを始めた。
ところがおかしな事に、これがまた一向に魚が掛かる気配がない。
何度か場所を変えて挑戦してみるものの全く釣れない。
すぐそこに何十匹という魚が見えているのにだ。
なんというか、目の前に人参をぶら下げられているのに食い付けない馬の気分だった。
因みにその後『目に見える魚ほど釣れない』という格言を私が知るのは随分先の話であるが、それはひとまずここでは置いておきたいと思う(つまりは当時の私が無知だっただけな訳だが)
楽勝で釣れると勘違いしていた小学生の気持ちが冷めるのにそれほど時間は掛からなかった。
持っていた釣竿を適当な場所に立て掛けると、服が汚れるのも気にせずその場に腰を下ろした。
(・・・・まぁ魚は釣れなかったけどこんな綺麗な場所が見れたから別にいいかぁ)
自分を慰めるように心の中で呟いていると、真後ろの茂みからガサガサと何かが動く音が聞こえた。
(しまった!誰かに見つかった!)
頭の中に思い浮かんだのは猛獣ではなく、ある意味それよりよっぽど恐ろしい大人達の怒り狂った顔だ。
慌てて立ち上がったものの後ろは池で逃げ場がない。
名前の入った釣り道具もその場に置きっぱなしである。
追い詰められた私に出来る事は、ただ目を閉じ体を縮こまらせて小動物のような顔をして許しを請う事しかなかった。
しかしいつまで経っても茂みの中の相手はこちらに近づいてこようとしない。
不信に思って薄らと目を開けると、そこには同い年位の子供が体半分を細い木に隠しながらこっちを見つめている姿があった。
「子供」と言ったのはそいつの顔が男なのか女なのか解らない位綺麗に整った顔立ちをしていたからだ。
肩まで伸びたおかっぱの髪に、紫に白い波のような模様の入った小袖の着物。
村では見た事がない奴だ。
「・・・・・・ねぇ」
急にそいつが話しかけてきた時、私は恥ずかしくも「ヘッ!?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。
「それ・・・・何してるの?」
相変わらず木に隠れながらそいつは聞いてきた。
少し高い声だが、どうやら相手は男のようだ。
「何って・・・・釣りだよ、釣り」
「・・・・・・釣り?」
「・・・・お前まさか釣り知らないの?」
そいつは惚けた顔をして首を横に傾けた。
「おいおいマジかよ・・・・・ちょっとこっち来い。俺が教えてやるよ」
緊張の解けた私は相手に敵意がない事が解るとすぐに調子に乗った。
そばに立て掛けていた釣竿を握り締め動作を交えながら簡単に説明する。
少年は少し戸惑いながらも、おずおずと木の傍から離れ近づいてきた。
何故この時こんなにも簡単に、知りもしない怪しい奴に一瞬で心を開いてしまったのかは未だに解らなかったりする。
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「って訳よ。で、魚が食いついた瞬間こうクイッ♪と引き上げる訳。解る?」
「・・・・・なんとなく」
「まぁやってればそのうちコツが解ってくるからよ。俺位になるともう狙った獲物は百発百中だから」
「・・・・・取った魚は何処にいるの?」
「・・・・・いや、まぁ、たぶん餌が悪かったんだろうなぁ~」
散々得意顔で初対面の少年に熱烈な指導を施した手前、都合が悪い事を聞かれると顔を逸らしてなんともテキトウな言い訳を言うしかなかった。
すると少年は懐から巾着袋のような物を取り出し、中から白くてまんまるいマシュマロのような物を取り出した。
「これ、食べるかな」
「おいおい、こんなお菓子みたいなもんじゃ魚は釣れないって。もっとこういうなぁ~」
長ったらしく能書きを垂れまくった後に「モノは試し」という事でマシュマロを付けて挑戦してみた所、5秒もしないうちに魚が食いついてしまった。
それからはまさに入れ食い状態だった。
仕掛けを放ればすぐに魚が食いつくというとんでもない状況だ。
気分を良くした私はお礼とばかりにそいつにも竿を貸して釣ってみる事を勧めた。
最初は遠慮していて私が強引に勧めてやっと渋々と釣竿を握る程度だったが、一匹釣り上げただけで簡単に釣りの魅力にハマってしまった。
それからは時間も忘れてひたすら釣りまくった。
まぁ残念ながら黄金の魚はいなかったし釣った魚を持ち帰ればここに来たのがバレるのでそのまま池にリリースする事になったが、そんな事は全く気にならない位楽しい時間を過ごした。
「いや~釣った釣った!釣りまくったなぁ~」
「・・・・・凄かったね」
「いや凄いのはお前のその餌だって!俺の餌じゃ魚が全然見向きもしなかったのに」
「・・・・・そうなの?」
「あ、いや・・・・実はそうなんだ、へへっ」
「・・・・・そっかぁ」
それから私達は「さっき釣った魚がどうだった」とか「爺ちゃんがこんなデカい魚を釣った事がある」とか色んな話で盛り上がった。
話をするのは基本私の方で、少年はただ楽しそうに私のする下らない話を聞き続けてくれていた。
場所のせいもあってか、なんだかその少年と話している時間は不思議と心地よい感覚に陥っていくような気分だったのを覚えている。
そうこうしているうちに、気がつけばいつの間にか日が暮れかけていた。
帰るのにも一時間掛かるというのを思い出し慌てて帰ろうとすると「待って!」と後ろから声を掛けられ思わず足を止めた。
「名前・・・・まだ聞いてない」
「・・・・あぁ、そう言えばそうだったな」
実を言うと私にはあまり人に自分の名前を教えたくない理由があった。
こちらが中々言うのを躊躇っていると先に少年の方が名前を教えてくれた。
「僕の名前・・・『シスイ』って言うんだ。君は?」
「『シスイ』!? おいおい変わった名前だな!変な名前!」
我ながら今思えば自分の事は棚に上げておいて酷いものだ。
「君は?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つくし」
「・・・・・ふふっ、変な名前だ」
「うるせっ!」
お互いなんだが気恥ずかしい感じがしてクスクスと笑い合った。
「・・・・つくし。今度は何時ここに来る?」
「えっ?・・・・今度?」
その時何と言っていいか解らず思わず言葉に詰まってしまった。
その日充分満足してしまった私はもう一度ここに来る事など考えていなかったからだ。
ただでさえ片道一時間もかかるような場所な上に、大人に見つかればどんな罰を受けるかも解らない。
正直そんなに何度も来れるような所ではないのだ。
なのだが・・・・
「そりゃ~明日も来るに決まってるだろ。こんな面白い場所なんだからよ!」
「本当に!?」
「あぁ、もちろん!」
気がつけば私は勢いでエラい事を口走ってしまっていた。
いや寂しそうにじっと見つめるシスイの顔を見ていたら「もう来ない」なんて口が裂けても言えるもんじゃないだろう。
結局それからシスイと明日も会う約束をすると、猛ダッシュで池の裏の林を抜けて家へと突っ走った。
家に着いた頃には時計の短針は7のちょい先を指し示していて母からこっぴどく叱られたが、その間も私の頭の中はずっと明日の事で一杯であった。
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それから私は何度も神様池に行くようになった。
遊ぶ内容はその日によって様々だ。
釣りをしたり。
虫を捕まえたり。
池の周りを散策したり。
時には家から持っていった玩具で遊んだりした。
シスイはどんな遊びでも興味心身といった様子で話を聞き、本当に楽しそうに遊んだ。
とても純真な彼といるとなんだか自分に弟が出来たようで嬉しかった。
その後も夏休み中は勿論の事、二学期に入ってからも休みの日には池へと足繁く通い続けた。
シスイはいつも私より先に池にいて満面の笑みで出迎えてくれた。
そしていつも私の方が先に帰ると言い出し、彼は笑顔で見送ってくれていた。
まぁそんなだから、何も言われなくてもなんとなく「そうなんだろうな」という気はしていたのだ。
だから中学に上がる頃に彼が「実は僕人間じゃないんだ」と言ってきた時も、別段驚く事もなくただ「へぇ~」とだけ言ってやった。
逆にシスイの方が驚いた顔をして「それだけ?」と聞いてきたもんだ。
「いやまぁ、なんとなく解ってたっていうか。そもそもお前色々おかしい所満載だから」
具体的に何処がと言うと数え上げたらキリがなさそうなので敢えて言わないでおいてやった。
「つくしは怖くないの?その・・・・僕の事が」
モジモジしながら恐る恐る聞いてくるその態度に私は思わず吹き出してしまった。
「いやいや何処がだよ。むしろどっちかっていうと『可愛い系』の生き物だろお前は」
口に出してから、男に「可愛い」なんて言うのは嫌味っぽいかなとも思ったが、シスイは気にしている様子もなくむしろなんだか嬉しそうにしていた。
「実は今日ね、お別れを言いに来たんだ。だから最後にちゃんと言っておこうと思って」
「・・・・・・・・・・・えっ!?」
先程の件は予想の範囲内だったのだが、今度のは完全に面食らってしまった。
「えっ!?お別れってなんだよ?もう会えないって事なのか?き、今日から?嘘だろっ?」
いくつもの質問を一瞬のうちに問いかけたがシスイはただ「ごめん」と一言だけ呟いた。
それからシスイはゆっくりと自分の事を話してくれた。
シスイはこの神様池(本当の名前はもっと長ったらしいものだとか)に昔からずっといる神様の一族なのだそうだ。
今までは育ての親である親父さんと一緒に暮らしていたが、つい一年程前にその親父さんが亡くなってしまったらしい。
その為これからはシスイがこの池の守り神にならなくてはならない。
だがまだ未熟なシスイはこれから立派な神様になる為の長い修行を始めなければいけないのだそうだ。
修行は短くても十年以上は掛かり、その間シスイは池の中から出る事が出来ないのだという。
シスイは私に説明をしてくれている間ずっと悲しそうな表情をしたままだった。
そんな顔を見せられては怒る事も出来ず、強がって「まぁ修行なら仕方ないよな」と笑って言うしかなかった。
それでもシスイの顔が晴れる事はなく「本当にごめん」と俯きながら答えていた。
私はその時の空気がとても我慢出来ず、しゃがみこんで下から俯いたシスイの顔を覗き込むと「おい、シスイ」と声を掛けた。
「俺達友達だよな?」
「・・・・うん」
「会えなくなっても俺達友達だよな?」
「・・・・・・・・・うん」
シスイは目に涙を浮かべていたが、その表情はさっきよりもずっと笑顔に近かった。
見続けていたら貰い泣きしてしまいそうだったのですぐに立ち上がって顔を逸らした。
するとシスイは懐からいつもの巾着袋を取り出してゴソゴソと何かを探し始めた。
「あった」という一言と共に巾着袋から出てきたのは、見たこともないほど綺麗なビー玉サイズの青碧の玉だった。
「つくしにあげる・・・・御守りになるから持ってて」
落としたら一大事と両手を水を掬うような形にして受け取る。
手の中に落とされたその玉は俺の両手を青緑色に塗り変えるほど輝いていた。
「いいのか?こんな貴重そうな物貰って。俺から変わりにあげられる物なんて何もないぞ」
「いいんだ・・・・つくしに持っておいて欲しいんだ」
「・・・・・・そっか。よし、解った!」
私は貰った青碧の玉を無くさないように慎重に胸ポケットの中へと入れた。
辺りを見回すといつの間にか日が落ちようとしていた。
「もう時間だね・・・・」
「あのさ・・・・一つだけ約束してくれないか?」
普段おちゃらけてばかりの私が珍しく真面目な顔をしていたせいか、シスイは黙ってゆっくりと首を縦に振った。
「お前が一人前の立派な神様になったらさ。また俺ここに来るから。そしたらまたここで会おうぜっ、なっ!」
シスイは一瞬困った顔をしたが、すぐに「解ったよ」と言って頷いてくれた。
私はそれがとても嬉しかった。
その後、シスイは私に何度も何度も別れの言葉を告げるとゆっくりと池の中に足を入れた。
さっき初めて知ったばかりの情報だが、シスイの家はこの池の深い深い場所にあるらしい。
徐々に池の底に消えていくシスイを私はずっと見守っていた。
しかし彼の足が池の底に沈むように消えていく時、気づけば大声を張り上げていた。
「シスイッ!また会えるよなっ!」
今まさに池の底に消えようとしている背中がゆっくりとこちらに振り向いた。
「約束だかんなっ!絶対守れよっ!」
シスイは少しの間こちらをただじっと見つめるだけだったが、しばらくして片手を上げてこちらに応えてくれた。
その様子を見て手をブンブンと振り返してやると、シスイはそのままゆっくりと池の底へと姿を消していった。
私は日が沈み切るまで特に何をするでもなく唯々その場に立ち尽くした。
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それから半年後。
中学一年の秋。
私は今年で八十歳になるというある老婆の家を訪ねていた。
あの日以降、何度か神様池に行ったのだがやはりシスイに会う事は出来なかった。
しかし居ても立っても居られなかった私は、村中を駆け巡り神様池に関する情報を集めてまわった。
そしてやっと有力な手掛かりになりそうな情報を掴んだ。
聞く所によるとその老婆は昔、池の神様に会った事があるというのだ。
それが本当ならもしかしたら何か役立つ話が聞けるかも知れない。
そう思っていた私の期待を老婆はいとも容易く打ち砕いてくれた。
「もう会えないってどういう事だよ!聞いてないぞそんな話!」
予想外の話に思わず声を荒げる。
老婆は私の知らない情報をいくつも教えてくれた。
あの池に住む神様はその昔この地で災害や飢饉が流行った際に、池に住む龍に捧げられた者の魂から生まれた存在である、とか。
池の神に性別はなく大人になった神様が寿命を迎え魂だけの存在になると、数年後にまた新たな命として赤ん坊に生まれ変わる、だとか。
その転生の際に災いを退ける効果のある宝珠と生み出す、だとか。
だがそんな情報は最後に教わった情報で全く意味を無くしてしまった。
「残念だけどねぇ、神様の姿をその目に映す事が出来るのは10歳か11歳位までの子供だけなんだよ。大人になって心が汚れていくにつれ姿が見えなくなっていくのさ」
私は老婆の話が信じられなかった。
いや、ただ信じたくなかっただけだろう。
寝耳に水。
それも池の水を全て一気に両耳に注がれたような気分だった。
希望を捨てきれず毎年夏になれば朝から神様池まで行き、日が落ちるまで待ち続けた。
しかし、体を木に隠しながらモジモジこっちを見つめていたちょっぴり恥ずかしがり屋な少年が私の前に姿を現す事は二度となかった。
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「パパ!早く早く!」
「こらっ!そんなに走ったらまた転んじゃうぞ!」
地元の田舎道を今年で8才になる娘は楽しげに走り回る。
その姿を追いかけながら故郷の空気の懐かしさに触れ、私はこれまでの自分の日々を思い出していた。
あれから随分長い年月が経った。
私は高校を出ると上京して東京の大学に進学した。
周りの人間に合わせるかのように、就職し、結婚し、子供ができ、今に至る。
至って普通な、30代男性の平均的な暮らしぶりだ。
別に今の生活に不満がある訳ではない。
けれど娘の首元にある小瓶のネックレスの中で淡く光る青碧の玉を見るたび、私の心は何処か寂しい気持ちに襲われる。
この村を出たのもそんな寂しさを忘れ去る為だったのかもしれない。
「ねぇパパ。神ちゃん池にはパパのお友達がいるんでしょ~」
「『神様池』な。そうだよ、パパの一番のお友達がそこでお池を守ってるんだ」
「じゃあ会ったらこれのお礼言わないとだね!」
そう言いながら娘はネックレスに付いている小瓶をつまんでフルフルとさせた。
中に入っている青碧の玉が小瓶に当たりカチンカチンと心地良い音を奏でる。
私とは対照的に娘は上機嫌のようだった。
シスイから貰った大事な贈り物を娘に預けたのも、半分程は彼の事を忘れる為だったと言える。
しかしもう半分は、今や自分の命よりも大切なものとなった娘の事を守ってほしいという願いからだ。
結局の所、私は今でも心の何処かで彼を信じているのだろう。
だからこんな年にもなって急に故郷に家族を連れて帰ってきたりしているのだ。
「パパァ~!もしかしてあれ~!」
娘が走り出したその先には見覚えのある風景があった。
数年前から観光客が増え出した為、池が荒らされないように人の手が入ったと聞いていたが思っていたよりも昔のままだった。
池の周りに高さ1M位の簡単な木の柵と「ゴミを捨てるべからず」といった注意書きの書かれた看板が立っている事以外はほぼ変わっていない。
透き通る水面。
その中を優雅に泳ぐ魚の姿。
池中央の小島に見える、注連縄が掛かっている一本の大きな木。
川の音と鳥のさえずり。
あの時感じたとおり、ここはあれから少しも時間が進んでいないようだ。
私はしばしその場でひとり心静かなる感銘に浸った。
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だが数分間童心に返った後に、やっとその静けさが異常であるという事に気づいた。
娘がいない。
考えてみればこんなに静かなはずがないのだ。
あの頃と違い今日はいつも無駄に元気な我が娘が一緒なのだから。
娘の名前を大声で呼びながら池の周りを探してみたが、声が返ってくる気配はない。
どうやら娘だけでなく他の観光客も今はいないようだ。
今この場所には私しかいない。
不意に私の心を不安が襲った。
急いで携帯を取り出してみたが、案の定圏外の表示が出ている。
(どうする、誰か呼びに行くか?いや待て、ここには俺しかいないんだぞ。娘が戻ってきたらどうする?)
今思えばその時の私の慌てぶりは少しおかしかった。
いつぞやの時のように「一人残されてしまう」といった状況に動揺してしまったのかもしれない。
その後はただ闇雲に探し回る事しか出来なかった。
辺りを数十分掛けて散々探し回った私は、やがて一つの可能性に気づいた。
(まさか池の中に入って溺れたんじゃ)
普通に考えればそんな事はまずありえない。
直前まで耳を澄ませてその場にいたのに、娘の叫び声は愚か池が波打つ音さえ聞いていないのだ。
しかしその時の私にはそんな冷静な考え方は出来なかった。
「待ってろ!すぐにパパが助けてやるからなっ!」
気の柵を乗り越え服を着ている事も気にせずそのまま池に飛び込もうかとした、その時だった。
「パパ!」
後頭部に聞き覚えのある声が届いた。
はっとしてすぐに振り返る。
「そんな怖い顔して飛び込んだら魚が怖がっちゃうよ」
娘だった。
私は震える足でなんとか柵をもう一度乗り越えると娘に抱きついた。
「・・・・良かった・・・・パパ心配したんだぞ・・・・急にいなくなるから」
「・・・・・・ごめんなさい」
娘は普段と違う私に最初少し戸惑っているようだったが、優しく頭を撫でてやると来る時見せてくれたのと同じ笑顔を向けてくれた。
「今まで何処に行ってたんだ?パパそこらじゅう探したんだぞ?」
私が聞くと娘はパッと目を輝かせて答えた。
「あのね、お池の中に行ってたの!」
「・・・・えっ?」
「こんな服来た男の子が連れていってくれてね。凄いんだよ、水の中なのに苦しくないの!」
娘は自分の体験した大冒険を嬉々として語ってくれたが、私はその「男の子」の事が気になってほとんど頭に入ってこなかった。
「も、もしかして・・・・その男の子は『シスイ』って言う名前じゃないか?」
「えっ?うん・・・・そう、そんな名前だったよ」
その言葉に思わず胸が高鳴った。
もしかしたらシスイは私が帰ってきた事を察して、私の代わりに娘に合っていたのではないか?
だとしたら何か伝言のようなものを伝えられているかもしれない。
「その、何かその男の子からパパに伝えてくれって言われた事とかないかな?」
「あっ、そうだ!忘れるとこだった!」
おもむろに肩にかけたポシェットを開くと中から何かを取り出して私に見せた。
それは淡く煌く見た事のあるビー玉だった。
「こら、駄目じゃないか。大切なものだからビンの中から出しちゃいけないって~」
そこまで言ってやっと気づいた。
娘の首元の小瓶にはしっかりと青緑色の球体が入っているのが見える。
だとしたらこっちのは・・・・
よく見れば娘の掌の上に置かれたその玉は青や緑というより紫色に近い輝きを放っていた。
私は中学の時に聞いたあの老婆の話を思い出した。
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-「神様が転生する時にあんたが持っているその玉みたいな『宝珠』を生み出すんだそうだ。それは一人残された子供を守ってくれる御守りになると共に、その者が生きた証になる。要は形見みたいなもんなんだよ」
-「なんでそんな大切な物を俺に?」
-「さぁ・・・・それはその子に聞いてみないと解らないだろうね」
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「なんで・・・・どうしてなんだよ・・・・・」
あまりの事に愕然とするしかなかった。
こんな結末になるなんて誰が予想出来ただろうか。
目にこみ上げてくるものを必死に抑えながら、私は唯々溢れ出しそうな感情を押さえつけた。
「あのね・・・・」
そんな私の様子を察してか、少し怯えながら娘が口を開いた。
「パパに渡してって言われたの」
「・・・・・・・・俺に」
「うん・・・なんか・・・約束なんだって」
「約・・・・束・・・・?」
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-「お前が一人前の立派な神様になったらさ。また俺ここに来るから。そしたらまたここで会おうぜっ、なっ!」
-「・・・・・・・・・解った」
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その瞬間、私は全てを理解した。
あの時からヒスイはこうなる事を全部解っていたのだ。
「・・・・馬鹿だなお前は・・・・・・本当に、馬鹿だよ」
私がよく考えもせずに頼んだこんな無茶な約束を彼は真剣に考え守ってくれたのだ。
「パパ・・・・」
「・・・・なんだい?」
「何か悲しい事があったの?」
娘の言葉に促され、手を目元に当てると大量の水が流れていた。
私が泣いているのをみて何か嫌な事があったのではと思ったようだ。
「違うよ・・・・パパは今ね、とっても嬉しいんだ・・・・」
本心だった。
おかしな話かもしれないが、こんな姿にまでなって二人でしたあの日の約束を守ってくれようとした「親友」の事が誇らしくあり、そして嬉しかった。
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その後、「日が暮れる前に早く帰ろう」と娘と二人で手を繋いで池を後にした。
途中娘は何度も名残惜しそうに池の方を見るものだから「また今度こよう」と約束した。
すると娘の機嫌は一瞬で良くなり、いつもの饒舌な少女がすぐ現れた。
「あのね~ヒスイ君ね~、最近お父さんがいなくなって一人で寂しかったんだって。だからね、紫音(しおん)「またすぐ来るね」って約束したんだよ」
そう言うと娘はとても嬉しそうな顔をして笑った。
「そっか。じゃあ、約束はちゃんと守らないとな」
私も負けずと笑顔を返した。
夕日が沈む帰り道。
私の胸は来た時と違い、何か満たされたような気分だった。
それはたぶん、胸ポケットに入れた紫色に淡く光る親友のおかげだったのだろう。
作者バケオ
以前にも書いたのですが、時々こういう「いい話」系のものが無性に書きたくなってくる時があります。
ただ残念な事にこの系統は凄く苦手なので、書くのに何倍も時間が掛かって大変だったり・・・
「書きたいけど書きたくない」というジレンマに襲われるのがつらいです。
本編中で書けなかった部分で、「何故シスイ君(漢字にすると『紫水』)が、つくしに親父さんの形見をあげたのか?」って部分が曖昧なままになってしまいました。
簡単に説明すると、
神様池の神様は転生して生まれ変わって数年の間はもう一人の神様に育てられて過ごします。
そしてある程度の年齢に達し一人でも大丈夫と判断されると役目を終えた大人の神様は、転生の為に玉を残して消えてしまいます。
しかし神様とはいえまだ幼い子供である彼らは大抵の場合、孤独に耐えられず池の周りに遊びに出てしまう事がほとんどです。
普通は池の近くにいる動物達と遊んだりするのですが、ごく稀に波長の合う子供が神様を見つける事があります。
つまり神様にとって一緒の目線で遊んでくれる人間の子供は実はとっても貴重な存在だったのです。
・・・・っていう設定です(オイ
まぁ要はシスイ君にとって、つくし君は普通の友達以上に大事な存在だったって事ですかね。