中編4
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とらないで

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私が中学に入学して間もない頃、我が家に一台のピアノが来た。

私は幼稚園のときから、隣町の個人経営のピアノ教室に通っていた。しかし、肝心の自宅にピアノはなく、当時の我が家にもわざわざ個人用のピアノを買うほど経済的な余裕はなかったので、長らく不便な環境が続いていた。

だが、つい最近になって、父がピアノを一台、取り寄せて来たのだ。いわく、「ネット通販で格安で売られていた」とのこと。

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品番はずいぶん昔のモデルのようで、さすがは中古品ということもあり、黒い塗装は剥げ、表面に塗られたニスも、褪せてツヤを失っていた。しかし父は、「ちょっとボロいけど、品質は問題ないよ」とご満悦のようす。

「試しに弾いてみろ」と促され、私はピアノの蓋を開け、白鍵を人差し指で軽く叩いた。

ポローン・・・と澄んだ音色が出た。変色して黄ばんだ白鍵からは予想もつかないような、深みのある音色だった。

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私は嬉しくなった。わざわざ教室に行かなければ触れなかったピアノが、これからは自宅で練習できるのだ。

私以外の家族はだれもピアノを弾かない。だから父は私に言ってくれた。

「これはお前のピアノだぞ。好きに使っていいんだ」と。

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その後、ピアノ設置のための大規模な模様替えが我が家の中で決行され、ピアノはリビングの壁際に設置された。家族がリビングでテレビを観ているときなどはさすがに遠慮したが、彼らが外出した日などは、水を得た魚のように、思う存分ピアノを堪能することができた。

でも、私にはひとつ気がかりなことがあった。

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朝、私は起きるとすぐに、ピアノのところに行って蓋を開ける。と、白鍵の表面に、黒いススのようなものが付着している。昨日までは無かった痕跡である。その楕円形をしたススの跡に、私はどこか見覚えがあった。

私は自分の人差し指の先を注視する。そう、このススの形は、人の指紋によく似ている。

私以外に、誰かがピアノを触った痕跡がある。それも、ススがべったりと付着した、汚い手で。

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しかし、考えてみれば妙である。先ほども言ったが、私以外の家族は誰もピアノを弾かない。私は一人っ子で、歳の離れた兄弟もいないので、私を除く家族の誰かがピアノにイタズラをするとは考えにくい。では、いったい誰がピアノを触るのか・・・?

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最初は少し不思議に思った程度で、ススの跡をふき取ってからいつものように練習していた。でも、指紋のような黒い跡は、翌朝になるとまた現れている。それどころか、心なしか数が日増しに増えているように思える。

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どうも気味が悪くなった私は、両親にこのことを相談したが、どちらもピアノには指一本たりとも触っていないと言う。どころか、「ちゃんと手を洗ってから弾きなさい」と逆に注意される始末。この頃から私は、あまりピアノを弾かなくなった。

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そうこうしているうちに数か月が経ち、やがてピアノの調律師の人たちが来た。

ピアノは放置していると音が濁ってくるので、ピアノの内部構造を軽くいじって、濁った音をもとに戻すのが調律師さんの仕事である。

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私は調律師さんの点検に立ち会った。彼らは一音一音、鍵盤を押しながら点検を続ける。やがて彼らはピアノの天板を開き、内部構造の点検を始めた。中のハンマーや弦に異常があると、音が出なくなることがあるからだ。

しばらくは何事もなく、私は調律師さんたちの作業を見守っていた。

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が、しばらくすると、片方の若い調律師さんが「はっ!」と短く叫んで、床に尻餅をついた。

「どうした!」と、もう一人の年配の調律師さん。私も「大丈夫ですか!」と驚いて、若い調律師さんに駆け寄った。彼は引きつった表情を浮かべ、私の顔を見て、一言。

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「お客さん・・・よくこんなピアノ使えましたね・・・」

私は彼の言っていることが理解できなかった。彼は小刻みに震える指で、開けっぱなしになったピアノの天板のあたりを指さした。

私は言われるがまま、おそるおそる天板の中を上から覗き込んだ。そして、悲鳴を上げた。

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ピアノの内側の表面を覆い尽くすように、びっしりと、

とらないでわたしのぴあのとらないでわたしのぴあのとらないでわたしのぴあのとらないでわたしのぴあのとらないでわたしのぴあのとらないでわたしのぴあの

糸のようにか細い字で、ひたすら書き殴ったように――――――

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それからしばらくして、父はこの事実を知るなり、ピアノを再びネット通販で売り払った。「新しい新品のやつを買ってやる」と父は言ってくれたが、このことがトラウマとなって私はピアノが弾けなくなり、通っていたピアノ教室もやめてしまった。

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あのピアノの前の所有者に、いったい何があったのだろうか。

あの鍵盤に付着したススの跡と、何か関係があるのだろうか。

今あのピアノはどこにあるのだろうか。不幸にも次の所有者の手に渡ってしまっているのだろうか。今となっては知る由もない。

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