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営業職の俺は、その日、取引先の老舗物流会社を訪れていた。
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午後1時に6階の営業部にアポを取っていたので、会社近くで昼飯を食べ、時間に余裕を持って約束の場所に向かった。
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ところで知っての通り、俺は飯を食うとすぐにトイレに行きたくなる性格じゃないですか?
今日もいつも通り、下腹部がゴロゴロと不穏な音を立て始めた。
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俺は慌てず騒がず、6階のトイレに向かう。
優雅な足取り。
たとえ下腹部のイメージが大時化(おおしけ)の海であろうが、パラシュートを背負ったスカイダイバーが今まさに飛び降りようとしている場面であろうが、俺は熟練のダンサーのごとき足運びで歩を進める。
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6階の男性トイレの2つある個室は、どちらも扉が閉まっていた。
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これはまあ、よくあることだ。
時間は12時40分。この会社の社員だって昼休み。
午後からの業務の前に、トイレを済ましておきたくなる。
結果、トイレが混み合うのだ。
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しかし安心してください。
この会社の建物は地上8階建て。各階にひとつずつトイレが設置されている。
このカウントダウンが始まった腹を抱えて上の階を目指すのは酷だが、逆に1階ずつ階段を降りて、空いている個室を探せばよいのだ。
優雅さを忘れてはいけない。
白鳥は水面下で必死に水をかきながらも、水上では優雅さを漂わせるものなのだから。
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5階、満室。(ゴロゴロ……)
4階、満室。(ギュッギュッギュ……)
3階、満室。(グギュウウゥゥゥ……)
2階、満室。(『パトラッシュ…僕はもう疲れたよ…』)
1階、満室。(ズキュゥゥゥン!『俺は人間をやめるぞおおおおおおおお!』)
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……
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……こんな風に行く階行く階のトイレが埋まってる時ってさ、トイレの個室の中がエレベーターになってて、俺が階段降りてる間に先回りして下の階の個室を使用中にしてる、って妄想浮かばない?
俺だけか?ははっ……
ぐわわわ……!
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足取りは重く、ゾンビのごとく。
下腹部は地獄の亡者の呻きのような音を響かせている。
俺の肛門括約筋は、亡者たちの進撃を辛うじて食い止めている。
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だが……、安心してください。
まだこの建物には地下1階があることを俺は知っている。
物流の作業場と守衛室などがある、薄暗い空間。
用もないので進んで降りることはないが、そこにもトイレがある。
俺は暴発寸前の下腹部を抱えて地下に降りていく。
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トイレの前に立つと、俺は少し安堵した。
トイレの中が暗かったからだ。
この会社のトイレは自動照明になっていて、使用者がいると自動で照明が着く。
逆に使用者がいなければ、自動で照明が落ちるのだ。
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トイレが暗い。イコール使用者がいない。
俺はヨロヨロと個室に近づいていく。
と、ふたつあるうちのひとつの扉に『故障中』の張り紙。
そして、もうひとつの個室の扉は――、
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閉まっていた。
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――馬鹿な!
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いや、これも起こり得ることではあるのだ。
自動照明は室内の動くものに反応する。
個室内に使用者がいても、便座に座り込んでほとんど動かないと(力んでいる時に激しく動く人間は少ない)、センサーが使用者はいないものと判断して、照明を切ってしまうことがあるのだ。
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つまり、俺が入るまでトイレ内の照明は消えていたが使用者はいた、ということ。
俺は呆然となってその場に立ちすくんだ。
点灯した照明はそれでも切れかかっていて、パチパチと明滅を繰り返す。
薄暗いトイレ内。
俺は『もはやここまでか…』と覚悟を決めかけていた。
と、
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――カチャカチャ…
――カラカラ…
――ギッ
――ジャー……
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個室から物音が聞こえてきた。
――終わる?終わった…のか……?
俺はあきらめかけていた肛門括約筋にかすかな希望が戻るのを感じていた。
しかし、
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――フッ
照明が消えた。
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個室内の使用者はなかなか扉を開けようとしなかった。
それどころか、さきほどまで聞こえていた物音が、すっかりしなくなっていた。
俺はその場から動けないまま、個室を凝視している。
不意に、
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shake
――ドンドンドン!
shake
――ドンドンドンドン!
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個室の扉が内側から激しく叩かれた。
俺はビクリと肩を震わす。
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……あ、あ…ああああ…
……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……
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低く、昏い声が個室内から響く。
反応しない自動照明。
そこで俺は気が付いた。
トイレ内の雰囲気が、いや地下1階の雰囲気が、先ほどまでと明らかに変わっていることに。
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俺は、多少なりとも『視える』種類の人間だ。
その俺の直感が告げた。
――コイツ、この世の者じゃないんだ……。
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個室の扉は尚も激しく叩かれている。
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shake
――アケロ!アケロ!ココカラダセ!
shake
――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……
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俺の背筋にゾクリと悪寒が走る。
全身に鳥肌が立つ。
脂汗が額に流れる。
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コイツは出たがっているんだ。
閉じ込められたか、己で己を縛り付けているのか、それはわからないが、動けないでいるその場所から――。
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俺は――、
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……
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……
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……
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shake
「オイ!ふざけんなよ!こっちは切羽詰まってんだ!霊なら脱糞することもねえだろうが!なに個室占拠してやがる!ここを開けろ!出てこい!今すぐ出てこい!じゃねえと祓うぞ!散らすぞ!早くどけよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
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『…ひ……』
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――キィーーー……パタン。
個室の扉が静かに開いた。
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……
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……
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……
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「やあ、お世話になってます。おや?どうしたんですか?そんなに額に汗を浮かべて」
「いやあ、ちょっと地下のお手洗いをお借りしていたんですが、そのあとエレベーターが調整中とかでなかなか来なかったもので、ここまで階段を駆け上がってきまして……」
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「なんとまあ、そんなにお急ぎになることもなかったのに。
ところで弊社の地下のトイレって、薄暗くて気持ち悪くありませんでしたか?
……ここだけの話、『出る』って噂もあるんですよ…」
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「いや、なかなか出なかったんで、追い出してやりました」
作者綿貫一
こんな噺を。
半分実体験です(トイレが1~6階まで埋まってたところが)。