中編5
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黄昏に佇むもの

その女(ひと)は、雨上がりの夕暮れ、皆が傘を畳んで家路を急ぐ人ごみの中、駅前の交差点に佇んでいた。

赤い傘をさし、赤い服、赤い靴を履き、ぼんやりと歩みを止めていた。

歩者分離型の信号はすでに点滅を始めており、俺は思わず声をかけていた。

「信号、変わりますよ。」

彼女がこちらを振り向くと、黄昏は傘を通して彼女を赤く包み、一瞬姿が揺らめいたような気がした。

黄昏、「誰そ彼」と尋ねる由来を見たような気がした。

人であろうか。

そう思うほどに、その女は浮世離れして美しかった。

「すみません、ぼんやりしていました。」

そう微笑んで、女は歩み始めた。

渡りきったあとも、まだ傘をさしていたので、俺は、

「雨、止んでますよ。」

と彼女に告げると、微笑を返すだけで、彼女は傘を畳まなかった。

「私、日に焼けると、肌が傷むんです。そういう皮膚の疾患を抱えてて。」

余計なお世話だった。俺が無礼を詫びると、いいんですよと彼女は微笑んだ。

一目惚れだった。俺は、迷わず、彼女の名前と、連絡先を聞いた。

俺だけが感じたのかもしれないが、これは運命だと思ったのだ。

正直こんなあからさまなナンパが通用するとは思わなかったが、なんとあっさりと彼女は俺に教えてくれた。

俺は、帰りの道すがら、ガッツポーズを禁じえなかった。

半年前、無職になった俺は、職とともに長年付き合った彼女も失った。

そりゃそうだな。長年付き合って、そろそろ結婚という時期に来てのいきなりの無職だ。

そんな前途多難な結婚より、目先の幸せに飛びつくのは当たり前だ。

今では彼女は、俺の同僚だった男と幸せに暮らしている。

そんなしがない無職の俺は、職探しの帰り道であった。

無職の男に、女がなびくはずもない。

ずっとそんな諦めの生活の中で、俺は職探しにやっきになっていた。

恋愛どころではなかったはずだ。しかし、彼女は俺を惹きつけて止まない何かを持っていた。

魔性。見た目の派手さは無いけど、そう感じた。

俺はその日を境に、彼女と連絡を取り合い、逢瀬を重ねた。

日に当たると、いけないので、もっぱら待ち合わせはどこか室内であった。

喫茶店だったり、ショッピングモールであったり。はたまた映画館であったり。

自然と、逢瀬を重ねるにつれて、俺たちは男女の関係へとなった。

ホテルの部屋で、俺は隣に横たわる彼女の髪を撫でた。

「俺たちって付き合ってるんだよね?」

そう言うと彼女はいつもあやふやな笑顔だけを返してきた。

そして俺はある日、見てしまった。

彼女が俺以外の男と歩いているところを。

俺は、彼女に会って問いただした。

「私の夫よ。」

こともなげに、彼女はそう言った。

「旦那が居るなんて言わなかった。」

そう彼女を責めると、ごめんなさいと悲しそうに目を伏せた。

俺は腹が立っていたけど、彼女をそれ以上責めることができなかった。

彼女の口からは、一言も俺と付き合っている、愛しているなどという言葉は聞かれなかったからだ。

「俺とは、遊びだったの?」

そんなありきたりな、陳腐なセリフしか俺の口からは出なかった。

その言葉は彼女を責め傷つけることしか出来ないことを知りながら。

彼女は涙を流し始めた。普段の俺なら、女の涙なんて技もんだと高をくくるのだけど、俺の胸はしめつけられていた。

「契約しているの。私は、あの人の言うことには何でも従わなくてはならないの。」

「契約?結婚ではなくて?」

「理由あって。とにかく、私は、あの人に自分を一生愛するようにと契約を交わされたの。」

「ご主人を、愛していないの?」

そう問うと、彼女はうなずいた。

理由を聞かせてはもらえなかったが、きっと彼女は、夫に弱みを握られていて、やむなく結婚をしたのだ。

許せない。その日から、俺を怒りが支配した。

そして、今日、俺はその怒りを彼女の夫にぶつけて、執行した。

彼女の家に侵入して、彼女の夫が帰るのを待ち伏せていた。

玄関脇のコート掛け用のクローゼットに潜み、機をうかがっていた。

夫のただいまという声とともに、クローゼットを飛び出し、男の胸に刃をつきたてていた。

物音に彼女が、奥の部屋から出てきた。

その歩みは驚くほど冷静であった。

「あなたなら、やってくれると思っていたの。」

そう彼女は微笑んだ。

やはり。彼女は、この男に酷い目に遭わされていて、常々別れたいと思っていたに違いない。

俺は、この男から彼女を救ったのだ。

彼女はポケットからおもむろに、携帯電話を取り出した。

「もしもし!はい、事件です!家に男が侵入してきて!いきなり主人を刺したんです。」

そう言うと、彼女は泣き崩れた。

俺は信じられない面持ちで彼女を見た。彼女が俺を売った。

電話を切ると、彼女は驚くほど冷淡な目で俺を見下ろした。

「早く逃げたほうがいいんじゃない?警察がすぐ来るわよ。」

彼女がせせら笑った。

「最初から、俺をはめるつもりだったのか?」

「はあ?何言っているの?あなたが全て自分で勝手にやったことでしょう?

何、責任転嫁してんの?」

彼女は悪魔のように笑った。

「ちくしょう、この悪魔め。」

そう罵ると、彼女は真顔になった。

「なんで知ってるの?そうよ、私は魔物。主人とも逢魔時に出逢ったわ。

私が見える人はごく一部の人間よ。私の実体は無いわ。

だから、あなたは実体の無い女とデートをし、実体の無い女を抱いた。

私が大人しく、主人に従っていたのは、彼が私に影の無いことに気付いてしまったからよ。

魔物が影のないことに気付かれたら、その人間の言うことを一生聞かなければならないの。

だから、あなたを魅入らせたのよ。私が魅入らせなければ、人には私が見えない。

魔物が人を魅入らせることの出来る時間帯は、逢魔時しか無いの。

あなたがこの男を殺してくれたおかげで、私の契約は解けたわ。ありがとう。」

この女は何を言っているのだろう。

意味も理解できずに立ちすくんでいる俺の耳にサイレンの音が遠くから聞こえる。

我に返り、脱兎のごとく、玄関を後にして黄昏に走る。

振り返ると、彼女の姿は、黄昏に揺らめき、ゆらゆらと形を成さなくなって消えてしまった。

ただ、そこには血にまみれた一人の男が倒れているだけだった。

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