長編11
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旬秋狐譚

 空が高い。

 仰向けに転がったまま見上げる空は夕暮れに染まり、水を張った水田から蛙の鳴く声がする。抜けるような空なのに、どういうわけか細い雨が降ってきて頬を濡らした。

 虹が見える。茜色の空に映えて、息を呑むほど美しかった。

 顔を横にすると、畦道に転がる自分の単車が燃えている。

 手足が痺れていて、頭の奥が滲むように痛む。

 目の端から、涙が溢れた。

 最期の力で空を見やると、傍に誰かが立った。

 紫陽花の彩られた着物。

 女性の腕のなかで、何かが死んでいる。

 誰だろう。

 その問いが脳裏で浮かんで弾け、意識が落ちるように沈んでいった。

   ⚪︎

 目が覚めると、秋の匂いがした。

 格子柄の見知らぬ天井に、少し混乱しながら辺りを見渡すと、どうやら座敷に敷かれた布団に寝ているらしい。顔を右へ向けようとすると、鈍い痛みが首の根元に走った。仕方がないので、体ごと右へ傾けると開かれた障子の向こうに日本庭園風の中庭が見えた。生垣の向こうは竹林になっているようだ。

 ここは何処だ。

 見知らぬ場所で目を覚ましたことに驚きながらも、体が思うように動かない。何度も立ち上がろうとしたが、腕も足も痺れてうまく動かせないのだ。

 起きるのは諦めて、座敷の中へ視線を巡らしてみても、やたら広い座敷だということ以外には手掛かりになりそうなものは何もない。

 そうだ。助けを呼ぼう。そう思って声をあげようとして、思わず咽せてしまった。喉の奥が酷く乾いていて、うまく言葉が出ない。

 不意に廊下から足音が近づいてくる。

 現れたのは若く美しい着物姿の女性で、俺の顔を見ると驚いたように笑い、急いで傍に正座した。

「目が覚めたようですね。どこか痛む場所はありませんか?」

 あちこち痛い、そう言おうとしたが言葉が出てこない。喉が喋ることを忘れてしまったみたいだった。

「無理をなさらないで下さい。あなたは一ヶ月近く眠っていらしたのです。喉は勿論、あちこちの筋肉が衰えてらっしゃいます」

 一ヶ月という言葉に我が耳を疑った。とっくに休暇は終わっている。仕事先にも連絡をしないといけない。いや、そもそも此処は何処なのだろう。病院のようには見えない。

 俺の言いたいことを察したのだろう。女性は薄く微笑んだ。

「ここは私の屋敷です。元は私が支えていた主のものでしたが。何も心配はいりません。医師が往診に参りますから。ここでゆっくりと養生なさって下さいまし」

 ここは何処なのだろう。

 どうして、病院ではなくこの人の屋敷にいるのだろうか。疑問が次々と浮かぶが、声が出てこないのでどうしようもない。筆談ならできるかもしれない、そう思って手を動かそうとしたが、腕が視界の中に現れなかった。

「暫くの間は、お身体を動かすことは叶わない、と医師も申しておりました。少しずつ身体が目を覚ましてくれば、自ずと元に戻れるでしょう」

 女性はそう優しく諭すように言う。

「わたくしのことはどうぞ、葛葉とお呼び下さいまし。女の独り暮らしですから、手の届かぬ所もあるかと思いますが、ご養生なさいますよう」

 必死に声をあげようと喉に力を込めると、酷くかすれた声が漏れた。とても声にはならない。

「心配はいりませんよ。必ず治癒できますとも。さあ、目を閉じて」

 葛葉さんが瞼に触れた途端、急に意識が遠退いていった。

「お眠りなさい」

 ふつ、と糸が途切れるように意識が闇の中に沈んでいった。

   ⚪︎

 夢を見た。

 奇妙な夢だ。

 玄関の戸が開き、囁き合うような声が聞こえる。

 屋敷に数人の客がやってきたらしい。

 葛葉さんは留守なのか、応対に出ない。

 痺れを切らしたのか、余程親しい仲なのか。訪問客たちは無言で屋敷にあがり、廊下をぎしぎしと歩いてくる。障子の向こうに影が映ると、それらが歩みを止めた。

 障子に映る影は、どれも異形で、人の形を成していない。

 蛇のように捻れて蠢く者、角を持つ者、袴姿の牛、どれもこれもが化け物に視える。

『匂う。匂うぞ』

『ああ、人の匂いだ』

『何処から匂う? 若い男の匂いだぞ』

『美味そうな匂いだ。年寄りは硬くてつまらん』

『全くだ。帯刀の奴なぞは、味は酷いものだったが、あれを喰ろうたお陰で命が延びた』

『私はずっと彼奴の眼を欲しておったのに、誰ぞかに先を越されてしもうて。口惜しい』

 獣の頭をした異形の手が、障子に伸びる。

 思わず、叫びだしそうな私の思いとは裏腹に、その障子の戸は微動だにしない。

『ここも開かぬ。ええい、口惜しい。どこもかしこも閉じられて、帯刀の封は死して尚も健在か。忌々しい主人殿よな』

『口惜しいのう』

 口惜しい、口惜しいとのたまいながら、それらの影は溶けるように薄くなり、やがて消えた。

 なんだか酷く恐ろしかった。

 

  ⚪︎

 葛葉さんは毎朝、陽が昇る頃に起こしに座敷の戸を開く。

 縁側は中庭に面していて、その向こうに風に揺れる深い竹林が見えた。

 葛葉さんの用意してくれた粥を朝餉で頂き、身体を拭いて貰う。そして、誠に恥ずかしい限りだが、尿瓶を取って貰わねばならない。まるで介護されているようだが、実際今の身体の有様はそういう状態であった。

 私は何度も葛葉さんに頭を下げ、かすれた声で「ありがとうございます」と告げた。その度に葛葉さんは「すぐに快方に向かいますよ」と励ましてくれた。

 リハビリは想像していたよりも辛く、過酷なものだった。

 ようやく動くのは首くらいのもので、そこから下はまるで土塊のように重く、冷たかった。どうやら脊椎を傷つけてしまったのだろう、と自分を冷静に観察することができたのは、ひとえに自分の置かれた環境のお陰だと思う。

 時折、奇妙な夢を見ることはあったが、それだけだった。

 それから何日経ったのか、よく覚えていない。

 漸く、満足に言葉が使えるようになり、腕を動かせる程には回復した。補助があれば、身体を起こすこともできるようになった。

 その頃にはすっかり葛葉さんとも打ち解けて、自分のことをよく話した。故郷のこと、幼くして死別した父親のこと。一番嬉しかったのは、直接感謝の言葉を彼女に伝えらるようになったことだ。

 その日は、珍しく葛葉さんのことを問うことにした。いつも上手くはぐらかされてしまうのだが、今日はいつもと違っていた。

 布団の横、傍で裁縫をしていた葛葉さんに、私は問うた。

「葛葉さん。どうして私を助けてくれたのですか? バイクで事故を起こしたのは分かります。でも、それは横転して燃えている自分のバイクを見ていたからです。どういう事故だったのか。まるで思い出せません。病院ではなく、こちらでお世話になるだけの何か理由があるのではありませんか?」

 葛葉さんは裁縫の手を休め、子供の問いに答えるように少し思案してから、薄く微笑う。

「そうですね。強いて言えば、頼まれたからでしょうか」

「頼まれた?」

「託されたと言った方が宜しいかもしれませんね」

 よく分からない。葛葉さんは困ったように苦笑して、針と糸へ意識を戻した。

 私はそれ以上なにも言えず、話題を変えることにした。しかし、他の話題が浮かばない。咄嗟に、こちらに来てみるようになった夢の話をすることにした。

「夢を見るんです」

「夢」

「はい。似たような夢をずっと」

「どのような夢でしょうか」

「昼間、葛葉さんのいない内に誰かが屋敷にやってくる夢です。呼び鈴を押しても対応できずにいると、のしのしと上がり込んでくる。見つけられないか、いつも恐ろしい思いをするのですが、結局ここには入れずに口惜しいと言いながら去っていくのです」

 不意に、葛葉さんの指が止まる。目だけが針と糸を見つめ、表情はよく見えない。

「それらの姿を見ましたか?」

「いいえ。ただ、障子に影が映るのです。角があったり、蛇のような形をした化け物が。口惜しい、口惜しいと嘆いて去っていきます」

 葛葉さんが裁縫道具を脇へ寄せ、まっすぐにこちらを視る。

 光の加減か、葛葉さんの瞳の色が変じ、金色に輝いているように見えた。

「それらがあなたを探している間は、決して声を上げてはなりませんよ。今のあなたには護るものが何もいない状態です。あれらに見つかれば、あなたは喰われてしまうでしょう」

「いえ、あのこれは夢の話なんです」

「それは夢ではありませんよ。もしもあれらの前で一声でも上げていれば、たちまち喰われてしまっていたでしょう。まったく目敏い連中だこと」

 葛葉さんが裾を払って立ち上がる。

「わたくしはこれから出かけて参ります。日が暮れる頃に、あなたを訪ねてやってくる者がおりますから、その方とお話をなさって下さい。必ずあなたの役に立つでしょう」

「どういうことですか?」

「明日の朝、必ずお話致します。時間がないのです」

「話が見えません。私はどうしたらいいのですか? 同席してください」

「お許しください。わたくしは、あの方と同席するわけにはいかないのです」

 どこか怯えた様子でそう答えると、葛葉さんが立ち上がり、そそくさと座敷を出て行く。

 そうして、あっという間に屋敷を出て行ってしまった。

   ⚪︎

 山の稜線に陽が沈む頃、身動きのとれない私は呆然としていた。

 風が冷たさを増し、背筋がぞわりと震える。

 痛む腕でどうにか布団を被り、胸の奥で澱のように沈積した不安を無視しようとした。

 毎夜見ていたあれらは、夢ではなかったのだ。

 人ではない、何かが私を掴まえようとしている。そう思うと、歯の根が噛み合わないほど震えてくる。こんなに恐ろしいことはない。

 じゃり、と中庭の方から砂利を噛む音がした。

 いつからそこに立っていたのか。

 若い、女性が立ってこちらを見ている。一瞬、男性のようにも見えたが、よくよく見ると顔立ちの整った女性だった。肩からカーディガンを羽織っており、胸に抱くようにして小さな木箱をかかえている。

「こんばんは」

 落ち着いた、中性的な声だった。

 私は布団から顔を出し、こんばんは、と返した。

「随分と酷い有様じゃないか。しかし、あれだけの事故に遭いながらよくも無事でいられたものだ」

 葛葉さんの言っていた客というのは彼女のことなのだろう。

「あの、葛葉さんのお知り合いですか?」

「知り合い、か。まあ、知り合いではある。昔馴染みという奴だろうね。あれは何処に?」

「それが、あの、出かけてしまっていて」

 彼女は微笑して、それから木箱を私の前に置いた。

「君はうちのモノどもに人気がある。引く手数多だ。狐を象る物は多いが、君を護っていたものは随分と古く、力のあるものだったらしい」

 木箱の紐を解くと、樟脳の匂いがした。

 蓋を取ると、中には小さな鈴が真綿に包まれるようにして転がっていた。金色の小さな鈴には跳ぶ狐が、渦を巻くように彫られている。

「これは私のものです。昔、祖母からもらって紐に通して携帯電話にいつも、」

 ぶらさげていた、そう言おうとして違和感に気付く。

「違う。渦の向きが反対だ。これは私のじゃありません」

「よく気付いたね。そうだよ。これは君のものではない。でも、今から君のものだ」

「え?」

「私は夜行堂という骨董店の主をしている。うちの店にはこういう曰く付きのものが流れ着いて、自らの持ち主を待ち続けている。君はこの鈴に選ばれたのだよ。姉妹鈴、といってね。こちらは君のお婆さんの姉にあたる人物が持っていたものだ。どちらも家を守り、繁栄に導くものだ」

 祖母の姉にあたる人物は、大阪の大空襲で亡くなったと聞かされたことがある。

「あの、」

 その瞬間、呼び鈴が鳴った。

「どうやら来たようだ。君は今から一言も発してはいけない。いいね?」

 いうなり、彼女は鈴を箱ごと縁側に置いて、音もなく障子を閉めてしまった。それから怯える私の傍で、じぃ、と障子の向こうを見ている。その様子がなんだか酷く邪悪なものに見えて、なんだか恐ろしい気がした。

 ぎし、ぎし、と毎夜の悪夢がやってくる。

 異形の化け物がここへやってくるのだ。そう思った刹那、障子の向こうで鈴の音が鳴った。

 それはまるで影絵のように滑らかに、息を呑むほど大きな獣となった。障子が間になければ、悲鳴をあげていたに違いない。

 巨大な狐、その口に亀裂が走るように割れる。鋭利な牙の影が生々しく障子に映った。

 獰猛な影は、音もなく飛びかかる。

 けたたましい獣の悲鳴があがった。幾つもの悲鳴が轟き、床や天井を叩いた。薄い障子の向こう側で恐ろしいことが起きているのだと思っている内に、やがて物音ひとつしなくなった。

 腕で這うようにして障子を開け、外へ顔を出すと、目の前に小さな鈴が落ちて転がった。

 呆然と廊下を見渡すと、大小様々な獣が血塗れで事切れていた。

「これは君のものだ。これからは、この鈴が君とその子供たちを守るだろう」

「あの、前の鈴は何処にいったか知りませんか」

「君の身代わりに死んだ。悲しむことはない。元々、あれはそういうものだ。だが、感謝すべきだな。あれが身代わりにならなければ、君は間違いなく死んでいただろうからね」

 不意に、事故を起こした自分の傍に葛葉さんが立っていたのを思い出す。

「そういえば、彼女は何かの死骸を抱いているように見えました。酷く悲しんでいるように見えたんだ」

「あれも同じ眷属だ。だからこそ、君のことをこうして守っていたのだろう。だが、もう目覚めるべきだ。ここは、いつまでも生きた人間がいていい場所ではない」

 触れてもいないのに、鈴がちりん、と鳴った。

 その瞬間、意識が溶けるようにして闇に落ちた。

 浮遊した瞬間、反射的に鈴を掴む。

 手の中の小さな鈴、その感触だけが仄かに暖かかった。

   ⚪︎

 闇から浮かび上がるようにして意識が戻ると、真っ白い天井が見えた。

 目ヤニが酷く、何度も瞬きして、ようやく視界が開けると、どうやら病院の一室で横になっているようだった。酸素マスクが顔についていて、なんだか体のあちらこちらから管やテープなどが伸びていて身動きが取れない。機械に繋がれているのか、鼓動の音に合わせて電子音が小刻みに鳴っている。

 首を動かしてみると、左側で突っ伏して寝ている姉の姿があった。

 痺れる左手で小突いてやると、まるでバネがおかしくなったみたいに立ち上がるやいなや、涙でぐしゃぐしゃになった顔で母親の名前を呼びながら病室を出て行ってしまった。

 葛葉さんの屋敷にいた筈なのに。

 どうして、自分は病院にいるのだろうか。

 それからすぐに半狂乱の母と姉が戻ってきて、医師が看護師たちと大勢でやってきた。なにか話したい気分だったが、喉が渇ききっていて言葉がまるで出てこなかった。

 医師が体の様子を調べ、幾つか私に質問をしてきたので、私はその全てに正しく答えた。

「驚きました。あなたは交通事故に遭い、ほぼ脳死に近い非常に危険な状態でした。脳に深い傷もありましたし、脊椎にも損傷が見られました。それがたったひと月で回復するなんて。しかも指まで動いている」

 本当は腕も動くのだが、そうすることはしなかった。

 右腕、その手のひらの中には小さな鈴が眠るようにして転がっている。

 仄かに熱を帯び、それは小さく鼓動を刻んでいた。

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珍味さん

いつも有難うございます。
葛葉狐は実在したとされる慈愛深い妖狐ですから、きっと喜んで招き入れてくれるでしょう。

都牟刈さん

感想有難うございます。
惜しい、とだけお答えしましょう。
惜しいのです。とても、惜しい。

希さん
こちらこそ読んで下さり、誠に有難うございます。
これからも宜しくお願い致します。

嗣人さん
初めてましてかもしれません
凄く面白かったです!
情景も目に浮かびますし、夜行堂…気になりすぎます((((;゚Д゚)))))))
他の方のコメントでシリーズものということを知りました
他の作品も楽しみに読まさせていただきます!

嗣人様
初めまして。
全作品拝読してます。
久しぶりの作品に嬉しく、ワクワクしながら読み始め、しっかり引き込まれてしまいました。
次作も楽しみにしております(#^.^#)

初めてコメントします!

過去作まで全て読ませて頂いてます(。-_-。)
とても文章構造がうまく毎作品引き込まれてます!

次回作も書かれるようでしたら首を長くして待ってます(。-_-。)

幻の作品、やっと見つけて読みに来る事が出来ました( ̄^ ̄)ゞ
昨日メール機能で通知が来るも作品が見当たらず削除されたのかと^^;
一月日付がズレている様子、バグですかな( ー`дー´)
嗣人殿の作品は幾つか読み逃げしておりました。
アワードの数がその作品の素晴らしさを物語っておりますな♪
自分の様に嗣人殿の作品に気付いて居られない残念な読者もまだいるかもしれませんな。
コメントで気付いて貰える様にネタバレは敢えて押しませんぞ。
これからも是非よろしくお願い致しますぞ(*´︶`*)ノ"

夜行堂のお名前が出るだけで、全身が総毛立つ…
麻薬のようです。(もちろん、良い意味ですが…)
お知らせメール機能のお陰で、拝読することができました。
また、楽しみに待ってます。
素敵なお話しをありがとうございました。

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相変わらず人を惹き付ける作品ですね(*´ω`*)

ファンとしては堪らんです(*´Д`)

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新作ありがとうございました("⌒∇⌒")