長編16
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沼底の影【藍色妖奇譚】

 香吹山から帰宅すると、捜索に向かわせていた残り十六匹の折り紙犬たちが窓の外に集まっているのが見えた。飛燕は彼らの術を解き書斎に置かれた折り紙ケースの中へと仕舞う。

「それで、愛奈ちゃんが学びたい術っていうのは何かあるの?」

 居間へ戻ると開口一番そう訊ねた。

「私、今勉強してるのが組紐術っていう術なんですけど、折り紙術もやってみたいと思ってて」

 愛奈の言う組紐術とは絹糸を編んで作った組紐を使用した結界術の一種である。

「桜田さんが使ってた術ね~、書物はあるんだっけ?」

「はい。お父さんの遺品から出てきたものが・・・これです持ってきました」

 愛奈がバッグから取り出した本の表紙には『桜田流組紐術』と記されており、比較的新しいものに見えた。

「ちょっと読まして~」

 飛燕はその本を受け取るとページをパラパラと捲り始めた。本文は分かりにくい古文ではなく現代の言葉で書かれている。所々には挿絵らしきものも載っているが、正直そこまで上手くはない。

「これ桜田さんが書いたやつだよね。ってことは愛奈ちゃんが邪鬼祓いを目指したときのためにこれを残した・・・みたいな」

「筆跡からしてお父さんのもので間違いないですね。絵はアレですが、内容が分かるので覚えやすいです」

 飛燕は座卓の脚に寄りかけたリュックから折り紙の兎を取り出し、本を返すと同時に愛奈へ渡した。

「これが術に使う折り紙。まぁ組紐術は僕ぜんぜん知らないからそこは独学でやってもらうとして、折り紙術のほうは教えてあげるよ。あ、もし先に組紐学びたいとかだったら折り紙後回しでいいからね。高校の勉強もあるだろうし」

「ありがとうございます!組紐も折り紙も一緒に勉強しようと思ってます。繭子が教えてくれるので」

 愛奈が松毬の隣で立っている繭子を見て言った。

「組紐術にはあたしの糸を使います。お嬢様のお手伝いは任せてください」

「そっか繭子さん詳しいじゃないですか!よかった。じゃあ僕は折り紙術を教えるのに集中します」

 飛燕の言葉に愛奈は歓喜した。先程、彼女が弟子にしてほしいと言ってきたときには戸惑った飛燕だったが、真剣な想いを断るわけにはいかない。

「それでは!私のこと弟子にしてくださるんですね!」

「まぁ弟子・・・そうなるね。愛奈ちゃん真剣だからそれに応えなくちゃと思ってさ。僕もまだまだ経験が浅いかと思うけど、よろしくお願いします」

「飛燕さん・・・!こちらこそよろしくお願いします!師匠!」

 深々とお辞儀をした愛奈に驚いた飛燕は動揺しながらもすぐ頭を上げるように言った。

「ちょ、大丈夫だから大丈夫なんだけどその師匠って呼び方はしなくていいよ!普通にさっきまでの呼び方でいいから」

「え、そうなんですか?では飛燕さん、よろしくお願いします!」

「はい、こちらこそ」

 飛燕がそう言い終えるや否や、不意に携帯電話の着信音が鳴り出した。

「あら電話だ・・・もしもし織川ですー」

「あー飛燕くん?今電話しても大丈夫だった?」

 電話の向こうから聞こえてきたのは聞き覚えがある年配の男性の声だった。

「葛城さーん、電話大丈夫ですよ~何かあったんですか?」

「いやぁ、明日の件なんだけど磯村君が出られなくなっちゃってね。代わりに高瀬君がシフト空いてて出てくれるみたいだから、ちょっと飛燕君からも向こうに連絡しておいてくれないかな」

「そうでしたか~、了解です!ちなみに潮さんどうしたんですか?」

 飛燕が訊ねると葛城は苦笑しながらその理由を話した。

「実はねぇ、さっき大蟹の討伐に行ってくれた子がちょっと怪我しちゃったらしくて、明日磯村君が助っ人で入ることになったんだよ。相性いいのが彼ぐらいだもんでねぇ」

「大蟹!今年出たんですね~。わっかりました~弦斗さんには連絡入れときます。潮さんにはお気を付けてとお伝えください」

「はーい了解。ごめんねぇ、ではまた」

 飛燕は電話を切ってから松毬を見て言った。

「明日の水蜥蜴、潮さん行けなくなっちゃったからピンチヒッターで弦斗さん来てくれるって。大蟹も出てるみたいでさぁ、潮さんはそっちだってさ」

「大蟹が出ましたか。立て続けに大変ですね。弦斗さんにはご連絡されるんですか?」

「これからするよー。みんなシフトがパンパンになっちゃうねぇ」

「あのぉ」

 飛燕たちのやり取りを見ていた愛奈が口を開いた。

「オオガニとかミズトカゲって、何ですか?」

 頭の上に疑問符を浮かべる彼女に飛燕は内容の解説を始めた。

「今話してた大蟹や水蜥蜴の他にも、何年かに一度や何十年に一度の頻度で日本各地に出没する邪鬼っていうのがいるんだけど、奴らはかなり危険な存在でね。それらの出没情報は邪鬼祓いの会っていう僕達が所属してる会が管理していて、出没したら相性に応じてなるべく早く退治できるようシフトが組まれるんだ。それで、僕は明日水蜥蜴の討伐へ行くことになってるわけ」

 飛燕が話し終えるとそれを聞いていた愛奈は何か思い当たったかのような顔をした。

「そういえば!お父さんが何か言ってたのを聞いたことがあります。ねえ繭子、お父さんが過去に倒したそういう邪鬼って覚えてる?」

「はい、あたしが式になって初めに祓ったのが大蟻でした。あとは土蜘蛛やヤマノケ、飛雷鳥という邪鬼の討伐もされたことがありますよ」

 繭子がそう言うと愛奈も思い出したらしく、手をポンと叩いた。

「ヤマノケとかツチグモの話覚えてる!たしかツチグモっけかなり大きかったって思い出話してくれたなー、ごはん中に」

「ごはん中・・・そうそう、土蜘蛛の討伐は桜田さんが行ったんだよね。そのとき僕も見学させてもらってて、大迫力だったなぁ。そうだ!明日の水蜥蜴、愛奈ちゃん見学においでよ!」

 その言葉に愛奈は目を輝かせた。

「いいんですか!」

「弦斗さんがいいなら・・・と言うか弦斗さんがいればたぶん大丈夫だから!ちょっと今から明日の連絡ついでに確認取ってみるね」

 飛燕は携帯電話の電話帳を開くと、高瀬弦斗と表示された所を押した。四回目のコール音の後に電話の向こうから若い男性の声が聞こえた。

「もしもーし」

「あ、もしもし弦斗さん?すみません明日のことで連絡させて頂きました!」

「はいはーい大丈夫だよー!えっとー、明日の午前八時に現地集合でいいんだよね?」

「はいその時間で!あと一つお願いがあるんですけど、聞いてくれます?」

「うん、どうしたの?」

「実は僕の弟子に明日の水蜥蜴討伐を見学させてあげようと思ってるんですけど、弦斗さんそれでも大丈夫ですか?女の子なんですけど」

「おや!お弟子さんとったんだ!早いねぇさすが飛燕くん。ぜんぜんいいよー!ウェルカムウェルカムー」

「ありがとうございます!僕の弟子なのでナンパはしないでくださいね」

「しないってば~!じゃあとりあえず明日ね。また何かあったら連絡して!」

「はーい。それではまた!」

 そう言ってから電話を切り、愛奈へ向けて手でオッケーサインを出した。

「ありがとうございます!ちなみにナンパって何の話ですか?」

「あ~それは気にしなくて大丈夫~。それより朝早いけどいいかな?三枚沼って所に行くんだけど、たぶん二時間弱ぐらいかかるから午前六時頃に僕の家まで来てくれると助かる」

「大丈夫です!」

 飛燕の問いに愛奈は即答した。どうやら余程行きたいらしい。それから一時間ぐらい明日の打ち合わせや雑談などをしたのち、愛奈と繭子は仲良く家へと帰って行った。

 その日の夜、飛燕は水蜥蜴討伐に使用する折り紙の準備をしていた。座卓には藍色の折り紙鳥が並べられており、その近くには枝笛が置かれている。

「明日は空中からの攻撃で攻める。蛙は予算的に厳しいから、弦斗さんの術と合わせて水中から引きずり出したら一気に倒す」

 本来、折り紙術は水辺での使用に向かないが、強製紙と呼ばれる和紙を使えば水に強くなりどこでも使用することが可能になる。しかし常にそれを使うわけにもいかず、強製紙は通常の和紙に比べて更に値段が高いため滅多に使用できないのだ。。

「確かに、水蜥蜴はその方が効率的かもしれませんね」

 隣で座る松毬が納得した様子で言った。彼女自身も水蜥蜴討伐には居合わせたことがないので、話に聞いた水蜥蜴の特徴から色々と考えているのだろう。

「松毬、ありがとうね」

「へ?何がですか?」

「いやぁ色々。繭子さんの時に言ってくれたこともさ、僕の式になったこと絶対に後悔させないから」

 飛燕は松毬の目をまっすぐ見て言った。彼女はそれに優しく微笑むとこう返した。

「旦那様はご自分の好きなように生きればいいのですよ。私はどこまでもついていきます」

「うん、ありがとう・・・よし明日早いからそろそろ寝る!松毬もゆっくり休んでね」

「ありがとうございます。おやすみなさい、旦那様」

 座卓の折り紙を片付けた後、自室に向かい布団を敷いた。心の中では言葉以上に感謝しているが、敢えて口に出さないのは気持ちを知られたくないからではない。想いが大きすぎて声にできないだけなのだ。布団の中、飛燕はゆっくりと目を閉じながらそんな言い訳を考えていた。

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 次の日の朝、飛燕たちは三枚沼へと続く森の入り口に立っていた。まだ八時前なので弦斗は来ていないが、彼が来れば直ぐに向かえる状態である。

「あ、来た」

 飛燕の言葉に全員が足音のする方を向いた。デニムジャケットを着たバンドマン風の男が縦長の大きなバッグを肩に掛けてこちらへ歩いてきている。

「やあ、飛燕くん。その子がお弟子さん?って、繭子ちゃん!」

「おはようございます弦斗さん。そうなんですー桜田さんの娘さんですよ!可愛いからって手出しはNGです!」

 飛燕が男に向かって言った。この少しチャラ男っぽい男こそが水蜥蜴討伐の代理人を務める高瀬弦斗なのである。

「ぜんぜん、可愛くないですよ」

 愛奈を見ると少し俯いて顔を赤くしている。飛燕の何気ない言葉で照れてしまったようだ。

「大丈夫、可愛いから。僕は好きだよ弟子としてね」

「か、可愛いってそういう意味の可愛いだったんですかー!飛燕さーん!」

 愛奈は更に顔を赤くして若干落ち込み気味に言った。

「えへ、それじゃあ行きますか。弦斗さん、今日の作戦なんですけど・・・」

 飛燕が歩きながら作戦を話し始めると、後ろから繭子が愛奈へと何かを話しているのが聞こえてきた。

「お嬢様は女の子としても十分かわいいです。あたしはお嬢様のこと女の子として大好きです」

 飛燕は微笑ましいと思った。愛の形は人それぞれであり例えそれが人外とであっても、例えそれが女性同士であっても、本人たちにとって最高なら実るべき恋であると言えよう。ちなみに飛燕はお姉さん系の女性が好みだ。

「じゃあ、オレが弾き始めたら討伐作戦開始でいいんだね」

 不意に弦斗が言った。実際には不意でなく飛燕の作戦話へと返事をしただけだったのだが、飛燕は先程まで繭子と愛奈の会話に耳を傾けていたためこちらの話に集中できていなかったのだ。

「あ、え、ああはいそれでオッケーです!」

「飛燕くん、いま上の空だったっしょ!」

「そ、そんなことないっすよー!ああ、それより水蜥蜴って実際どんな見た目なんですか?弦斗さん、一回やったことありますよね?」

 飛燕が訊ねると弦斗はニコリと笑いながら頷いた。

「あるよ。データベースに載ってる通りの見た目かなぁ、そんな変わらない。そういえば今回の報酬聞いた?」

「なるほど~。聞きましたよぉ前回の水蜥蜴討伐より十万高いじゃないですか!ガッポリ稼げますぜ!邪鬼祓いの会もそんなことして経済的に大丈夫なんですかねぇ。ぶっちゃけ邪鬼が強くなって邪鬼祓いが減ってるという現状からすれば当然かもしれませんが、十万は高杉さんですよね~」

「そうだよねー、邪鬼祓いの数は確実に減ってる。オレも今年で二十八になるし、そろそろ弟子取ろうかなー」

「あの、水蜥蜴とかの邪鬼と他の妖怪ってどう違うんですか?」

 後ろを歩く愛奈の問いには弦斗が答えた。

「邪鬼も妖怪に分類されるって言うけど、連中は松毬ちゃんや繭子ちゃんみたいに話が通じる相手じゃなくて、思考能力はあっても低い。常に暴走状態って感じかな。中には頭のいいヤツもいるみたいだけどね」

「ただ、一番違うところは霊やあやかしと違って普通の人にも姿を見せることがある。松毬たちも見せようと思えば可能なんだけどね。あと土蜘蛛や水蜥蜴って名はあくまで人が付けた種の総称に過ぎなくて、本来の名は別にある。でも、人がその名を知ることは絶対に許されないんだ」

 飛燕が付け足すように言った。愛奈は一度納得してから次の質問を口にする。

「昨日も気になっていたんですけど、妖怪の本名を知ることってそんなに危ないんですか?」

「そうだねー、まぁ古くから禁忌とされてきたことだし詳しい理由なんて知らないけど、一番危険なのは力の強い神様や邪鬼の名前を知ってしまうこと。どのぐらい危険なのか分かりやすく例えると、某漫画に出てくる妖怪を名で縛る術の倍ぐらい。人に名を知られたヤツはその人を殺してでも名を取り返そうとするからね」

「なるほど、分かりやすいですね」

 飛燕の説明にはなぜか松毬が納得している。愛奈も理解したようでコクリと頷いた。

「ありがとうございます。名前って、やっぱり大切なものなんですね」

「メダル一個で妖怪と友達になれたら苦労しないねぇ。そうだ松毬、僕もアレ作るから本名教えて!」

「私のこと死ぬまで愛してくださるのなら教えてあげてもいいですけど?」

 松毬の瞳は闇を帯び、左手で刀を抜く仕草を見せている。それを見た飛燕は少し身震いした。

「こわっ、ヤンデレ発動させちゃった」

 そんな会話をしているうちに着いた場所は直径七メートルほどある沼だった。そこで飛燕はウエストポーチから折り紙の燕を八羽出して空中へ飛ばした。

「ここが三枚沼。情報だと水蜥蜴はまだ成長しきってなくてこの中にいるから、ちゃちゃっとお祓いしちゃいましょうか」

 飛燕の言葉に皆が頷き、弦斗は背負っていた大きなバッグから三味線を取り出した。

「三味線・・・?」

 愛奈はそれを不思議そうに見ている。確かに、これから邪鬼の討伐をするというのに楽器を持っているというのは可笑しな話かもしれない。

「オレはこの三味線で邪鬼祓いをするんだ。見てればどんな感じか分かるよ」

 弦斗が笑いながら言った。その通り、彼の得意とする術は音撃術といい楽器の演奏で邪鬼を祓う少し風変りなものである。

「音撃術はサポート向けの術だけど、曲の種類によっては凄い威力を出すのもあるから結構いい術だと思う。ちなみに僕の折り紙術も昨日見せたのはまだ序の口!愛奈ちゃんのために今日は実演するよ!」

 飛燕はそう言うと、先ほど折り紙と一緒に取り出していた枝笛を首にかけてみせた。この枝笛は飛燕が折り紙動物たちに指示を送るための物であり、折り紙術には欠かせないアイテムなのだ。

「そうだ繭子ちゃん、沼周辺の木に繭糸で結界作ってもらえる?音撃の効力をなるべく狭い範囲で留めたいから」

「どうしてあたしが弦斗さんの指示を受けなければならないのですか・・・」

 弦斗の頼みに繭子は嫌な顔をした。その表情はまるで不審者を見ている女子小学生のようである。

「ありゃ、オレじゃダメだった?」

 どうやら繭子は弦斗のことが少し苦手らしい。そうしていると今度は愛奈が口を開いた。

「繭子、結界張ってあげてくれる?」

「お嬢様、承知致しました!」

 繭子は結界を張りに沼の周囲を移動し始めた。

「ありがと、愛奈ちゃん」

「いえいえ、繭子が失礼なことを言っちゃってすみません。あの子に頼みがあるときは私を通せばやってくれると思うので」

 礼を言う弦斗に愛奈は頭を下げた。本来、妖怪は自分の主である人の指示しか聞かないのだが、松毬は飛燕の知り合いならば案外誰の指示でも受ける。繭子が嫌な顔をしたのは、ただ弦斗の醸し出すチャラ男風の雰囲気が気に入らなかっただけなのだろう。

「アハハ、ありがとう。愛奈ちゃんはしっかりしてるなぁ。ところで、繭子ちゃんは君の式なの?」

「いえ、あの子は用心棒です。私はまだ邪鬼祓いとして半人前なので、もっと実力を付けてから繭子には式になってもらう約束をしてるんです」

「そうなんだねー。だから飛燕くんに弟子入りしたってわけか」

「結界できました」

 弦斗と愛奈が仲良さそうに会話をしていると、そこへ作業を終えた繭子が割り込んできた。

「あ、ありがと~。じゃあ始めようか。繭子ちゃんと松毬ちゃんは結界の外に出てたほうがいいかも」

 音撃術は人外に影響を与えるものなので、討伐対象だけでなく式の力も多少弱めてしまう。弦斗が式を使役していない理由の一つがそれである。松毬たちが結界の外へ出ると、弦斗は早速右手に撥を持った。

「音撃・序曲。音撃第一曲・抑止」

 弦斗の演奏が始まり、周囲には三味線の音色が響き渡る。序曲は討伐の安全祈願を願う十五秒ほどの曲であり、第一曲・抑止は邪鬼の妖力を僅かに抑えるものだ。これにより力の変動を与えて挑発し、沼底から誘き出そうというわけである。

「あっ」

 演奏に聴き惚れていた愛奈が不意に声を上げ、一点を人差し指で示している。その方に目を移すと、沼から人の手がゆっくりと這い出てきていた。

「人・・・?いや、霊か」

「まさかなぁ。飛燕くん、こいつはヤバいかも」

 演奏中の弦斗が口を開いた。飛燕は首を傾げて彼の方を見る。

「どういうことですか?」

「最近、この周辺が密かな自殺のスポットになってるらしいんだ。たぶんあの女の子もここで死んだ自殺者の霊だな」

 飛燕はなぜか納得してしまった。大体、なぜ手首までしか出ていないものを見て女性だと思ったのか謎だが、弦斗の直感力や観察力は鋭いため手を見ただけでも性別ぐらい分かってしまうのだろう。

「ほら、やっぱり女の子だ」

 弦斗の言った通り、沼から這い出てきたのは汚れたシャツを着た女性であった。水で濡れた黒い髪は顔にへばり付き、表情は見えない。ただ、青白い手の色と不可解に折れ曲がった首は彼女が死者であることを裏付けるのに十分だった。

 その時、上半身を沼から出していた女性の霊が大きな水音を立てて沼の中に引き戻された。

「弦斗さん、今のって・・・」

「水蜥蜴だな。やっぱり霊を喰って成長してたか」

 飛燕たちは息を呑んだ。今まで女性の霊がいた場所には、黒く大きなトカゲの手に似たものがあった。水蜥蜴はこの沼周辺で自殺した人の霊を喰らい既に成長していたのである。

「いこう飛燕くん!音撃第六曲・舞陣」

 弦斗の演奏開始と同時に、飛燕も折り紙の燕たちへ笛の合図を出した。

「一の巻・旋風陣。ピィー!」

 枝笛の音に反応した宙を飛ぶ八羽の折り紙鳥は円形に舞って風を作り、沼の水ごと水蜥蜴を巻き上げようとした。弦斗の演奏効果で風の流れが出来ているのも手伝い、水中から引きずり出された水蜥蜴はその姿を現した。

「でかいな・・・飛燕くん、折り紙退避」

「はい。ピッ!」

 飛燕が枝笛を短く吹くと、折り紙鳥は旋風陣の型を崩して水蜥蜴から離れた。風の流れから解放された巨体は陸地へと放り出され、大きな音を立てながらもがいている。

「音撃第八曲・制圧」

 弦斗の次の演奏が始まった。制圧は抑止よりも更に妖力を弱める曲であり、力の強い邪鬼が相手であるときは初めからこれを演奏することがある。

「飛燕くん攻撃していいよ!」

「了解!六の巻・狂乱舞。ピッピッピィー!」

 笛の音を合図に散らばった鳥は再び集結し、黒い巨体を囲むと狂ったように舞い始めた。水蜥蜴は激しく抵抗して何羽かの折り紙鳥を地へ落としたが、風の勢いは尚も弱まることなく燕たちは飛び回っている。

「ピッ!」

 もう一度退避の合図で折り紙鳥たちが四方八方へと散らばり、弦斗の新しい演奏が開始する。

「音撃第十一曲・雷撃!止めだぁっ!」

 激しい三味線の音が雷の如く空気を切り裂き、水蜥蜴へ打撃を与える。空にはいつの間にか雷雲が出ており、そこから耳を劈く音と共に落雷が黒い巨体を直撃した。それを最後に水蜥蜴は消滅し、弦斗の演奏が終わると陽光を遮っていた雷雲は嘘のように消えて無くなった。

 討伐後、道具などを片付けてから沼の前に線香を供えた。マッチも線香も、偶然愛奈が持ってきていたのである。

「お父さんがよく持って行ったって繭子が言ってたので」

「そういえば桜田さん、死者に関わる仕事だからっていつも線香持ち歩いてたね」

 飛燕は当時のことを思い出しながら言った。確か土蜘蛛の時もそうだったのだ。

「ここで水蜥蜴に食べられてしまった自殺者の霊は、浄霊もされないまま消滅してしまった。でもまだこの場所に残っているのなら、僕達だけでも手を合わせよう」

 飛燕が沼へ向けて合掌すると、皆もそれに合わせて手を合わせた。十秒ほどそうしてからゆっくりと目を開け、もう一度沼を見る。

「成仏してくれなんて言うのは、生きてる人間のエゴかもしれない。でも自殺した人達だって死にたくて死んだわけじゃない。この世に留まりたいのか、消えたいのか、それすら僕たちには分からない」

 飛燕の言葉に繭子が首を傾げる。

「自ら命を絶った者が死にたくて死んだわけではないとは、どういうことなのですか?」

「本当は誰だって生きたい、生き物だもの。それでも自殺した人達は生きていることが辛くなってしまったんだ。苦しみから解き放たれるために死んだ。だから、せめて安らかに眠らせてあげたい」

「・・・?よく分かりません。ですが、辛い気持ちは理解できる気がします」

 そう言った彼女の頭を松毬が優しく撫でている。繭子同様、正直なところ飛燕もよく分かっていないままで口に出した言葉だった。父である誠が言っていたことをそのまま話したのだ。

「そうだね。さて、そろそろ帰ろうか。弦斗さん、葛城さんには僕が連絡しておきますね」

「オッケー、よろしくね。あー疲れたー!ねえ愛奈ちゃん、オレの演奏どうだった?」

「すごくかっこよかったです!三味線であんなことができるんですね!」

「へへ、やったぜ」

 自慢げに笑う弦斗を見て繭子は不満そうな表情でこう言った。

「調子に乗らないで」

「すいません」

 太陽が高く昇り始めた頃、飛燕たちは木々の間をすり抜ける優しい風に吹かれながら帰路へ着いた。

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