【夏風ノイズ】夏風ノイズ(終)

長編15
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【夏風ノイズ】夏風ノイズ(終)

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 夢を見た。俺は見覚えのある山の中を歩いている。

 不意に、何かが顔に引っ掛かった。蜘蛛の巣だ。田舎に住んでいれば慣れっこにもなりそうだが、俺は言うほど田舎に住んでいない。言うほど田舎ではなくとも蜘蛛の巣に引っ掛かることはあるが、なかなか気持ち悪いものだ。

 引き返そう。そう思った直後、何かに足を掴まれた。思わず下を見ると、足首には太い蜘蛛の糸が絡まっている。これはやばい。逃げようにも、やたら頑丈な糸で切れそうにない。

 そうこうしている内に、この糸を放った犯人が姿を現した。巨大な蜘蛛だった。今まで心霊現象には何度も出くわしたが、こんな化け物を見たのは初めてだ。まるで、妖怪・・・。

「そこまでだ、土蜘蛛!」

 唐突に聞こえてきたその声の主は、俺の頭上、木の上にいた。20代前半の男性だろうか。彼の周りを飛び交っているのは、ただの鳥ではなさそうだ。

「その気色悪い糸を千切れ!一の巻・旋風陣!」

 ピィー!と、男性の吹いた笛の音が山の空気を振動させる。それを皮切りに、飛び交っていた藍色の鳥達は一斉に動き出し、風とともに俺を縛っていた蜘蛛の糸を切り裂いた。

「さぁ、チェックメイトだ」

 木から飛び降りて見事に着地した男性が、腰に着けたポーチから風車を取り出した瞬間、木々の隙間を吹き抜けていた風が一斉に男性を取り囲み、風車を強く回転させ始めた。

「初段・突風の陣」

 男性の放った風車は大蜘蛛の胴体を貫き、禍々しい巨体は静かに消滅していった。

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 目が覚めた。

 何だか、不思議な夢を見ていた気がする。起きてしまうとその内容を思い出せないのは、いつものことだろう。時計を見ると、午前9時になる頃だった。8月16日、もうじきお盆も終わりか。どうせならば、夢の中で祖父にでも会いたかった。

 不意に、廊下を小走りで駆けてくるような足音が聞こえてくる。俺の部屋の襖が開けられ、少女が赤いリボンを揺らしながら微笑んだ。

「お兄ちゃん、休みだからって寝坊しすぎだよ。起きて!」

「おはよう、ひな」

 妹のひなだ。俺は高2でこの子は中1。もう一人いる妹も中1だが、養子なので血は繋がっていない。

「さぁ、もうお母さんと露ちゃんは先にご飯食べちゃったよ。私はお兄ちゃんのために待っててあげたんだから!」

 なぜか胸を張ってそう言う彼女に、俺は苦笑した。確かに、寝すぎた気はする。それにしても蒸し暑い。今年の夏は、やはり異常である。

 居間へ行くと、母親と露が俺達の朝食を準備していた。露とは、養子の妹のことだ。水色の長い髪で、少しお転婆なひなとは違い、落ち着きのある可愛らしい子だ。

「おはようしぐる。随分長く寝てたわね。昨日夜更かしでもしてたの?」

「おはよう。いや、わりと早く寝たはずだけど。っていうか昨日何してたっけ?」

 母親の問いで、改めて昨日のことを考えてみるが、よく覚えていない。

「兄さん・・・昨日は家族でお墓参り行ったあとに、街までお出掛けしたよ。お父さんだけ仕事だけど」

 露が半ば呆れた顔で教えてくれた。そうか、そういえば街のほうに行った記憶がある。何をしたのかはあまり覚えていないが、とりあえずソフトクリームを食べて暑さですぐ溶けてきたということだけが断片的に頭の中にある。

「ソフトクリームか」

「しぐる~、まだ夢の中かな?はい、ご飯できたから食べてね」

 ふと我に返った俺は、並べられた朝食の前に座り手を合わせた。元々、我を忘れていたわけではないが。

「いただきます」

 母の味は相も変わらず美味しいが、なぜか懐かしく思えてならなかった。

「お兄ちゃん、今日は何かやるの?」

 食後の歯磨きをしていると、ひながそう訊ねてきた。俺は咄嗟に「ちょっと出掛けてくる」と返す。特に用事があるわけでもなく、強いて言えば気分転換だろう。

「そっか、気を付けてね」

 ひなは笑顔で言うと、洗面所を出て行った。出掛ける前に、しっかり水分補給をしていこう。

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 最寄りのバス停からオレンジ色のバスに乗り、大手町で下車する。暑い、暑すぎる。夏休みということもあり、街の喧騒はいつもに増して騒々しい。さて、どこへ行こうかと考えていると、不意に視界の端で何か黒いものが動いた。

 昔からだ。俺は霊感がかなり強い方で、こんな街中でも見えなくていいものが見えてしまう。先程の黒いものは、明らかに人外の気配であった。霊ではない、妖怪の類である。しかし、何か懐かしさが込み上げてくるような気がするうえ、心なしかその気配は自分に似ている。

 無性に気になって仕方がない俺は、黒いものの後を追った。人通りの多い商店街を抜け、狭い道から更に裏路地へ入る。

「鬼灯堂・・・」

 そう書かれている看板の掲げられた、古ぼけた一軒の店。駄菓子屋のようだ。そこの前には、先程のものと思われる一匹の黒い蛇がいた。蛇は尾っぽから紫炎を揺らめかせ、じっとこちらを見ている。まるで、俺をここまで案内してきたかのようだ。

「よう、しぐる。気分はどうだ?」

 蛇が俺に向けて言ったと思われる言葉は、やけに馴れ馴れしく、妙な気分だ。というか、喋れるのかコイツ。

「お前、なんで俺の名前知ってるんだよ」

「そりゃあ、相棒の名前を忘れるわきゃねーだろ。てか、おかしいな・・・お前さんは忘れてねーはずだぜ?じゃなきゃ俺様みてーな得体の知れないあやかしに着いてこねーだろ」

 さっきからこの蛇は何を言っているんだ?おかしい、覚えのある声とこの妖気は何なのだろう。

「まぁ、入れよ」

 蛇に促され、鬼灯堂という店の中へ入ってみることにした。薄汚れたガラス戸を引いて店内を見ると、レジと思しきカウンターの奥に一人の少年が座っていた。少年は人のようだが、僅かながら妖気を醸し出している気がする。

「いらっしゃい。お久しぶりですね、しぐるさん」

「ゼロ・・・?」

 俺は今、彼の名を呼んだのか?そうだ、あの少年の名前は神原零。ゼロだ。そして、この蛇はサキ。

「ようやく思い出したか~!待ってたぜ相棒!」

 サキが俺の肩に飛び乗り、懐かしい重量を感じた。かつての世界で起きたことや、全ての仲間たちのこと、そして汚染を阻止して新世界を創造したことも全て思い出した。

「ゼロ!俺は、全部思い出したよ。だって、日向子さんや千堂さんに言われてたんだ。新世界では汚染と浄化に関する記憶は全て消えるって。ゼロはなんで覚えてるんだ?鈴那や右京さん達は?」

「覚えているのは、たぶん僕としぐるさんと、あと数人ほどです。僕は自分の妖力に干渉しすぎて影響を受けなかった。しぐるさんは、千堂さんの力を身体に宿したままですからね。思い出すのに時間はかかったみたいですけど。それに・・・」

 ゼロが俺の後ろを見て軽く頭を下げる。気になって俺も振り返ると、和服を着た中年の男性が店へ入ってきたところだった。

「長坂さん!?」

「しぐる、やっぱり覚えていたか」

「長坂さんは、たぶん過去に使った禁術が影響してるんでしょうね。まったく、平和な町になったんですから、もう妙な術は使わないでくださいね」

 ゼロの忠告に、長坂さんは苦笑して「わかっておる」と言った。

「どうせ神主は辞めるからな。喫茶店を始める約束は果たすぞ。しぐる、遊びに来てくれ」

「何気に、最初に聞いた時から楽しみにしてましたから。もちろんです!」

 何かを思い出すことがこんなにも嬉しく、切ない気持ちになるのは初めてかもしれない。気を抜くと、少し感傷的になってしまいそうだ。

「さて、サキさん長坂さん、ちょっと店番頼めますか?」

「任せなさい。というより、客も来ないだろう」

「だなぁ」

「そうですけど、そんなこと言うと日向子さんに叱られますよ。しぐるさん、ちょっと出掛けましょう」

 ゼロはそう言ってスマホと財布だけポケットにしまい、軽く伸びをした。俺達は長坂さんに見送られて店を出ると、そのまま商店街とは逆の方向へ歩いて行った。

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上土を出て通横町の交差点を過ぎ、最初のバス停を過ぎたところ辺りで、俺はゼロに気になっていたことを訊ねた。

「ゼロ、家族とはどうなってるんだ?記憶は?」

 俺の問いにゼロは動じることも無く、普通ですよと答えてから詳しく話し始めた。

「父も母も琴羽も、記憶はありません。けど、僕が色々話したんですよ。こちらの世界での昨日までの記憶が僕には無い。だから、会話に矛盾が生じるんです。思い切って伝えたら、最初は信じてもらえなくて・・・」

 それもそうだろう。世界が創りかえられたなんて突飛な話を突然されても、信じられるわけがない。

「でも、琴羽が言ったんです。強ち冗談でもないよねと。どうやら琴羽の能力で、過去に影世界が創造される前に予知していた記憶が残っていたらしいんです。まさかとは思い記録も残さなかったらしいんですが、断片的に覚えていてくれたおかげで僕の頭がおかしいだけじゃないってことぐらいは証明できました」

「予知って、新世界のことか?」

「そうです。影世界のことまでは予知できなかったらしいんですが、世界が創られることぐらいは何となく勘付いていたっぽいですね。なので、両親も少しは信じてくれました。僕はこれから、この世界でどう生きていくかを考えてみようと思います」

 ゼロは少しだけ嬉しそうに笑みを浮かべた。彼の話を聞いた俺も、少し嬉しくなる。それからも、夏の思い出や他愛もない話をしながら暫く歩いていると、気付けば港の通りまで出ていた。横断歩道を渡り、内港の横にある商業施設の建物の前まで行くと、そこに立っていたのは見知った顔の女性だった。

「来てくださってありがとうございます。市松さん」

「いいえ~、みんな無事でよかった。なんだか久しぶりね、しぐるくん」

 彼女はそう言って、肩に乗せたイズナを撫でながら微笑んだ。彼女まで記憶が残っていたとは驚きだ。

「お久しぶりです。市松さんは、どうして記憶が?」

「私はほら、狐憑きの家系だもん。朝起きて代わり映えしなかったし、浄化とか汚染とか夢だと思ったけど、右京さんに連絡してみたら昨日は全く別のことをしていたらしいので。それに、イズナ達も覚えていたから」

「妖怪や神様は、世界の変動に記憶が左右されない。だから、それらの力に干渉している僕達の記憶はそのままなんですよ。おかしなものです。友人達とは記憶が違うんですから」

 ゼロは苦笑しつつも、どこか寂しそうな表情を浮かべた。いや、ホッとしているようにも見える。

「さぁ、僕はここでお別れです。しぐるさん、市松さんとドライブにでも行ってこられては如何です?市松さんも色々話したいからって来てくれましたから」

「え、そうなんですか?」

 俺が市松さんの顔を見ると、彼女は以前見せたような笑顔で頷いている。ゼロと別れて施設の駐車場まで行くと、見覚えのある自動車が停められていた。市松さんはそれの運転席に乗り、俺は隣の助手席に座る。

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 港を出て、車は伊豆方面へ向かう。俺が霊力のことで悩んでいた頃、こうして市松さんが西伊豆のほうまでドライブに連れて行ってくれたことを思い出す。今日は、どこまで行くのだろうか。

 最後の戦いで、市松さんはどうしていたのか。俺がどうなったかなど、8月の最終戦争について語り合う。過ぎてしまえば思い出になるが、本当に壮絶な戦いだった。

 内浦に差し掛かった頃、俺はふと今日の行き先が気になったので、市松さんへ何処まで行くのかと訊ねた。

「う~ん、それはまだ秘密。でも、せっかくイズナ達が見付けてくれたからさ。これはしぐるくんを連れていかなきゃって思ってね」

 果たして、イズナが何を見付けたというのか。気にはなるが、秘密と言われたら詮索のしようがない。楽しみにしておこう。

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 懐かしい中学校前を通り、西浦の海と長閑な街並みが車窓の向こうで流れていく。以前通った狭い道路を再び通り、幾つかの海水浴場を通り過ぎた先の更に奥へ進むと、辿り着いたのは大瀬崎だった。

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「大瀬崎ですか。まさか、ビャクシン樹林でオバケが出たとかじゃないですよね?」

「違うわよ~、もっと大事なこと。でも、お盆だから妖怪土用波に注意しないとね~」

「土用波って妖怪なんですか・・・」

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 何気ない冗談を言いつつ、いい匂いを漂わせてくる海の家を背に、イズナの案内で神社のある方面へと歩いて行く。ダイビングショップが見えてきた頃、店の手前にある桟橋で、彼女は海を見ていた。

「鈴那・・・!」

 俺は思わず走り出すと、鈴那の後ろで立ち止まり声をかけた。覚えているかも分からない。突然話しかけたら迷惑だろうか?変なヤツにナンパされたとか思われてしまうかもしれない。それでも、俺は・・・。

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「鈴那・・・!さん、ですよね?」

 下手に緊張して変な訊ね方をしてしまった。彼女はきょとんとした顔でこちらへ振り返ったが、俺と目が合った瞬間に表情を変えた。何か思い出したような、そんな顔だった。

「あの・・・!俺、君のことを!」

「あたし・・・あなたと、どこかで」

 彼女の目から涙が溢れ出す。気が付けば、俺も泣いていた。

「雨宮・・・しぐる。それが俺の名前だよ!覚えてないか・・・?」

「・・・しぐる、さん。しぐ、そうだよね?たぶん」

「そうだ!しぐって呼ばれてたんだよ俺。他に何か覚えてるか?」

 俺の問いに、彼女は首を傾げながらも何かを思い出そうとしていたが、それ以上は覚えていないらしい。

「でもね、しぐ」

「うん?」

「あたし、あなたとは大切な思い出が沢山あった気がするんだ。ちょっと思い出せないけどね。だから、あたし・・・しぐと友達になりたいな!」

 俺は流れる涙を拭い、そして笑った。

「こちらこそ。あれだな、俺からすればだけど・・・2度目の初めまして、かな」

「うん、初めまして!よろしく!」

 彼女の見せた笑顔は、いつも通りのあの笑顔だった。

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 大瀬崎には鈴那の母親である夏陽さんと一緒に来ていたようで、俺と鈴那が向かい合って泣いているところも見られていた。夏陽さんは御神体の加護のようなものがあってか、魂だけは既に光の世界へ在ったのだという。そのため、彼女は俺の夢に出てきた時の記憶まで鮮明に覚えていた。今は旦那さんとは離婚して、沼津へ移住してきたらしい。と、新世界ではそういうことになっている。

 鈴那は、夢の内容をぼんやり覚えている程度の記憶しか残っていないらしく、俺と付き合っていたこともほとんど忘れてしまっているとのことだ。大丈夫、また彼女との日々を創っていこう。そしていつか、今度は俺の方から告白しよう。

 家に着いてから再びひなの顔を見た時、俺は泣きじゃくりながらひなを抱きしめた。ひなはやはり記憶が無いようで、気味悪がっていた。

「お兄ちゃんみたいな人のこと、シスコンっていうんだよね。ちょっとキモいな」

「シスコンだろうが何だろうが!好きによんでくれぇ!ひなあああ!」

「お母さーん!お兄ちゃんがおかしくなっちゃった!病院つれてく?」

「暑さで頭やられちゃったんでしょ。ここまでくると狂気だけどね。寝かせとこ」

「兄さん・・・すごく、気持ち悪いね」

 無事、俺は母親と妹達から罵倒され果てた挙句に自室で寝かされた。

 次の日からは、また変わらない日常が続いた。残りの夏休み、課題も終わってしまい除霊の仕事も無い。暇すぎてどう過ごせばいいのかわからないまま日々が過ぎ去り、気が付けば2学期が始まっていた。

「ひ、ひなちゃん、ちゃんと下に着ないと透けちゃうよ!」

「え~だって暑いじゃん!別に気にしないからいいよ。ね、お兄ちゃん!」

「ひな、頼むから着てくれ」

「ひなちゃん、セーラー服似合うねぇ・・・」

 会話の最後、ここに居てはいけない者の声が聞こえた。

「おいサキ、お前いつのまに俺んち住み着いてんだよ」

「いいじゃねーか!3年間同居した仲だろ。また露ちゃんの用心棒でもやってやるわ。暇だし」

「兄さん、その蛇さん昨日から居るけどなに?除霊しないの?」

「あ、コイツは・・・俺の使役してる妖怪。サキって名前」

 俺は咄嗟にそう言ってしまったが、サキは案外普通に頷いた。そういうことでいいらしい。

「ふーん、そうなんだ。サキさん用心棒してくれるんですか?最近は物騒だもんね。じゃあ、よろしくお願いしますね」

「あ、受け入れてもらえた。まじか」

 サキは拍子抜けしたのか、呆けた顔のまま露たちの後をついて行った。

「学校まで着いてくるのはやめてください!」

 数秒後、露の怒った声とほぼ同時にサキが戻ってきた。

「あー、なんか露ちゃん前よりキツくなってねえか?」

「ツンデレなんだよきっと。さて、俺も行くわ。じゃあサキは留守番よろしくな。行ってきます」

「おう、気を付けてな」

「露ちゃんに着てきなさいって言われちゃった」

 俺が出ようとすると、ひなが苦笑しながら戻ってきた。

 家を出て、バス停でバスを待つ。残暑の中では、まだ生き残った蝉達の声が熱を揺らしている。

「ありゃ、しぐちゃん。学校か」

 不意に声をかけられ、誰かと思って見てみると、右京さんが何やら大きな荷物を持って立っていた。

「右京さん、おはようございます。どうしたんですか?」

「ああ、ちょっと仕事で色々あってさ。蛍の人形が壊れちゃったんだよ。これから修理に持ってくところ」

 右京さんは以前と変わらず、明るい笑顔でそう言った。

「え、ということはこの近くで何かあったんですか?」

「海のほうでちょっとな~、まあ解決したけど。そんなわけだから気を付けて、いってらっしゃい!」

「行ってきます!」

 彼も前の世界での記憶は無いが、夏休み中にゼロから再び紹介してもらい、新しい怪異調査事務所を創設するとかの関係でまた色々と話すようになったのだ。調査員候補には、以前のT支部メンバーや春原もいる。

 暫くすると、見慣れた色のバスが目の前に停車した。それに乗車し、駅まで向かう。そこから更に歩けば、俺達の通う高校があるのだ。始業の日はやけに懐かしく感じたが、数日通ってしまえばまた慣れるものだ。

 放課後、俺はゼロに呼びだされて1年の教室がある階へ来ていた。少しすると教室からゼロが出てきて、俺を見ると軽く会釈してきたので、俺もつられて少し頭を下げた。

「どうです?この世界には慣れましたか?」

「この世界も何も、あんまり変わってないから何とかやっていけるよ。それに・・・ひなも母さんも、父さんも居るから」

「そうですか。よかったです」

 かつての記憶は無くても、大切な家族が生きている。それだけで、俺には十分すぎた。

「それで、答えは出せましたか?調査員になるかどうか」

 本題はこれだ。怪異探偵事務所を立ち上げるにあたり、一週間前から俺も声を掛けられていたのだ。

「確かに、俺には強い霊力がある。今はなるべく力を抑えてるけど、除霊には役に立てると思う。ただ・・・」

「ただ、なんですか?」

 ずっと迷っていた。これから俺がすべきことは何なのか。何がしたいのか。そして、少しずつだが目標みたいなものは見えてきた気がする。

「やめとくよ。なんか、たまに手伝うぐらいならいいけど、他にしたいことがあるんだ」

「・・・そうなんですね。わかりました!では、どうしようもない時にはお願いするかもです」

 ゼロははにかみながら言った。これでいい。もしも、またこの町を脅かすほどの悪意が現れたら、その時はやってやる。

「小学校の先生になろうと思ってさ。何度も見てきた・・・痛いほど見てきた非情な現実が繰り返されないように、教育者の立場として子供達に生き方を教えていけたらって」

「素敵ですね。しぐるさんなら、きっといい先生になれますよ。応援してます!」

「ありがとう。あと、小説を書こうと思うんだ。あの夏に、向こうの世界で起こったこと、この世界になるまでの・・・俺達の物語を」

 というか、もう既に書き始めている。俺の拙い文章力では、上手く表現できないのが最初の悩みではあるが。

「ふーん、しぐ小説書くんだ!」

「鈴那!いつの間に!?」

 気付かないうちに後ろで俺の話を聞いていたらしい鈴那が、ニヤニヤしながら顔を覗き込んできた。

「いいと思うよ。しぐの小説、楽しみにしてるね!」

「ですね。それで、タイトルとかはもう決まってるんですか?」

 タイトルは、きっとこの物語が始まった時から決まっている。あの日、あの時、イヤホンを超えて聞こえる蝉時雨が教えてくれた全ての始まりが、この物語のタイトルだ。

「夏風ノイズ、かな」

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【エピローグ】

 日曜の朝、小説を書いている。街を行き交う人々の声も、熱された空気を揺らす蝉達の合唱も、3年前の夏の温度も、全てを綴るには、俺の文章力が足りないようだ。

 ただ、あの夏の全てが、まるで3分前のことのように思えてならない。それほど鮮明で、消えることのない事実であったのだ。

 窓の向こう、夏が終わった空を見る。ラジオから流れてくる音楽は、一昔前に流行ったアーティストの夏曲だ。曲名はわからないが、漠然とした懐かしさが込み上げてきて感傷的になってしまう。

 どうか、あのまま夏が続いてほしい。そんなことを願ってしまうくらいなら、物語に描いてしまえよ。心の奥で、誰かがそう叫んでいる。だから俺は、消えないようにあの夏を模倣するのだ。

 この夏の出会いと、あの夏の別れを、忘れないように。

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