長編30
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異世界との扉

階段の上から見た駅構内は、無数の人間が蠢き、一つの大きなうねりのように見えた。

 帰宅ラッシュと人身事故が重なって、ホームはごった返している。大音量の洋楽ロックがイヤホンを通して私の聴覚を支配する他は、視界にある人混みと、両肩にのしかかるリュックの重みと、練習後の倦怠感があった。

 いつもより30分遅れて来た下り電車が人を吐き出すのを見計らって、流れに身を任せ車内に呑み込まれていく。電車の中は案の定鮨詰め状態だったが、いつも通りの車両には、いつも通りの乗客がいる。

 女子バスケの強豪校でとてつもない練習量をこなしていると、何も考えずにその時に集中していられる。そのお陰で全身鉛になったような重い足取りに加え、片道30分の満員電車。それでも父や周りの人の意見に流されずに、自分で決めた高校には満足していた。

「....くな....頼む....」

 いつもの定位置である車内の入り口に陣取った私の目の前には、よく見かける男が立っている。

 ひょろりと背の高いその男は、瞼を硬く閉じ何かをぶつぶつと呟いているが、音楽を聴いている私の耳には届かない。しかし気になって見ていると、無精髭に塗れた男の口が同じような動きをしていることを微かに理解できた。

(開くな....頼むから....)

 私は無意識に、男の口の動きに合わせて心の中で言葉にしていた。それと同時に、頭のおかしな人で、関わったらろくな目に遭わないだろうという強い警戒心を感じた。

 高速道路沿いにある自宅のマンションは、改修工事をしている。外壁塗装が終わったばかりで、次はエレベーターの点検が行われている。

『本日エレベーターの点検を行っております。ご迷惑をおかけしますがご協力を宜しくお願い申し上げます』

 エレベーターの入り口の張り紙を見て私はため息をつき、自宅が8階であることを恨めしく思いながら、階段を登り始めた。

 やっとの思いで自宅に着き扉を開けると、暗闇が広がっている。最近は父親が仕事で遅くなることにも慣れて、一人の時間を満喫できることに喜びを感じている。電気をつけ、リュックから汚れたユニホームとタオルを取り出し、洗濯機へ投げ込む。リビングの冷蔵庫を開けると、やっと帰って来たと言う安堵感が漂う。

 テレビを流しながら、昨日の残りのカレーライスで空腹を満たしていく。

『昨年から、全世界で失踪者が増加しており、一昨年と比較しても1.5倍となっています。本日は専門家の方をお呼びして....』

 テレビには夕方のニュースが映り、失踪者が異常に増えていることが取り沙汰されていた。ニュースの話題からか、テレビ台の端に飾られた母親の笑った写真に目がいく。

 ある日、なんの前触れもなく母が忽然と姿を消した。私が小学3年生だった頃、学校から帰ると家の鍵が閉まっていた。いつもなら母親が家でテレビを見ているため、部屋を間違えたのかと何度も表札を確認していると、隣のおばさんが声をかけてくれた。

 胸の鼓動は徐々に速くなり、不安で押しつぶされそうになりながら、無表情で涙を流し続けていたことを覚えている。私はおばさんが学校や父親に連絡するなど、奔走する側で立ち尽くし、父親が駆けつけ警察が来る様子を滲んだ視界から眺めていた。

 母は1週間経っても見つからなかった。警察とのやり取りにも拉致が開かない様子の父は、探偵事務所に依頼をした。背の高い女の人が担当になり、定期的に手がかりについて聞かれたり、捜索状況について報告してくれた。

 女の人の調査によると、母の失踪と同時期に、マンションに来ていた運送業者の男の人も姿を消している。二人とも同じエレベーターに乗っていたことが、監視カメラの映像で確認されていた。二人の間に接点は特になかった。

 あれから8年が経ち、今でも時々探偵の女の人は簡単な状況確認で家を訪ねて来るが、新たな情報や解決への進展はみられていない。

 私はカレーライスを2杯完食し、シャワーを浴びて寝支度を整えると、自室のベットに埋もれる様に眠りについた。

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「ねぇ、昨日のニュースみた? 車と電車が衝突だって! 」

 教室に着いてすぐに隣の席の友達が声をかけて来た。私は車と電車が衝突するという聞き慣れないニュースに興味を惹かれた。

「ほら、これ見て! 現場の写真」

「わっ! ちょっとこれ.... どうしたの? 」

友達が見せてきたスマートフォンの画面には、電車とグレーのセダンタイプの車が文字通り真っ直ぐに衝突した画像が写っている。車は、車体の前半分がひしゃげて、電車にめり込んでいる様にも見える。

「すごくない? 地元の先輩が現場に丁度居合せてさ、さらにヤバいのが.... 」

 友達がスマートフォンの画面の一部を拡大していく。半分以上塞った運転席側の窓から、赤い手が飛び出しているのが見える。

「やめて! 」

 私は思わず目を逸らし、スマートフォンを持つ友達の腕を押し退けた。赤い手だと思ったのは血液に染まった前腕だった。

「.... ごめん。地元ではかなり盛り上がったから.... 少し悪ノリし過ぎたわ」

「こっちこそ。ちょっと生々し過ぎて」

「あ、そうだ! 亡くなった人もネットニュースに出てたよ。50代の女の人だって」

 そうなんだと言いながら、私は自分のスマートフォンで事故の詳細を確認する。

 

 10日午後4時40分ごろ、〇〇市〇〇区の〇〇線〇〇駅で、同区の女性会社員(50)が乗った乗用車が〇〇行き特急電車と衝突し、死亡した。〇〇電鉄によると、上下線計58本が一時運転を見合わせ、約2万8千人に影響した。

 私は言い知れぬ心のざわめきを感じていた。

 部活が終わり、いつもの男を目の前にした満員電車に乗る。男は目を開けて、また何か呟き時々ニヤニヤと嗤っていた。私は薄気味悪さを感じ、目を閉じてイヤホンから流れる音楽に集中した。

 鉛のような身体で自宅マンションに着いて、自分の部屋の郵便受けからいつものように広告を回収していると、1通の手紙が入っていた。達筆な字のその手紙が私宛であることを確認すると、封を切りたい欲求を抑えながらエレベーターに乗る。

 自宅の扉を開けると、すぐに自室に駆け込みリュックを置き机に着く。手紙を手に取ると、封筒の裏には探偵事務所の女の人の名前が書いてあった。ネットニュースで見た電車と車の衝突事故が頭をよぎる。50代女性、グレーのセダンタイプの車は彼女の特徴でもあった。

 私はその様なありふれた特徴に心を揺さぶられまいと2回、3回と首を横に振り、自嘲しながら手紙の封を切る。封筒には便箋と一枚の写真が同封されていた。

『こんにちは。先週会ったばかりで、お手紙なんか送ってごめんなさいね。あなたが郵便受けを確認しているのをわかって手紙を送らせてもらいました。お父様ではなくあなたに、どうしても伝えたいことがあったから。

 先週会った時私があなたに言ったこと覚えているかしら? 

 私はもうあなたの前には現れない。その意味はもう少ししたらわかるわ。

 この言葉の真意を手紙という形で伝えます。正確には手紙という形でないと伝えられないのだけれど。

 私がこの8年間、あなたのお母様の捜索に専念していたのは、この失踪事件はこれまで私が担当してきたどの依頼とも違う、何か異質なものを感じたからなの。

 最初はお父様やあなたへ報告していたように、手がかりは全くと言っていいほど無かった。でも去年ある男の存在に辿り着いて、その男をずっと監視していたの。お母様の失踪当時、居合せたのはお母様と運送業者の2人だけだと思われていたけど、もう一人の男が存在していた。

 当時大学生だった男は、お母様と運送業者の乗るエレベーターに同乗した。そこで何かがあったのだけど、その男だけ失踪しなかった。

 失踪当時8階でお母様がエレベーターに乗った後、その男は6階で同じエレベーターに乗っている。その後運送業者が4階で乗る姿までが、各階に設置されている監視カメラで警察が確認している。エレベーターの中は3人の人間がいたと考えるのが自然だけれど、一人だけ失踪しなかった男は取り調べで『エレベーターには自分一人だけだった』と証言したの。

 当然警察は男が怪しいと踏んでしつこく調べた。でも監視カメラの映像以外は何の証拠も出なかった。男は失踪事件の後すぐに引っ越して、自宅に篭っていた。警察は警戒を解かず継続して監視対象とした。それにもかかわらず、この男も引っ越して間もなく消息を断ったの。

 私は3人がエレベーターに乗っていた時に必ず何かが起こったと考えて、ずっと男の行方を探していた。何の確証もないのにね。こんな仕事の仕方、今までしたことなかった。私もおかしくなってしまったのかもしれない。

 そして去年、男をやっと見つけたの。いえ、突如として現れたというのが正確かもしれない。私はその男にごく自然に近づいた。でも、男はとてもじゃないけど普通に話せる状態じゃなかったの。目の焦点が合わず、うわ言のように同じ言葉を繰り返していた。

「開くな。頼むから」

 私では男の言葉の意味はわからなかった。そもそも意味なんてないのかもしれないけど。

 男と接触した後から、誰かに見られている感覚を感じ始めて、ここ数週間では誰かにつけられたり四六時中監視されている感覚が強くなっているの。

 いくら振り切ろうとしても、正体を暴こうとしても姿をみせないの。でも唯一写真にとらえることができた。

 こんな表現の仕方は私は嫌いだけど、何となく感じるの。

 ああ、もうすぐ終わりなんだと。

 何の根拠も無く論理性のかけらも無いけど、そんな感覚が日に日に強まるの。だからあなたには伝えておきたい。

 同封した写真の男を見たら逃げて。あなたには私のようになってほしくないから。あなたやお父様には申し訳ないけれど、この失踪事件は闇に葬るべきなの。決して関わってはいけない』

 私は手紙を読み終えると、同封されていた写真を見る。作業用の青いキャップを目深に被り、青い作業着の男性らしき人物の上半身の写真。

 手紙の意味は半分も理解できず、人物を判別すらできない写真を何度も見返したが、新しい発見は無い。私はふと思いつき、スマートフォンを手に取り、電話をかけた。

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 自宅マンションのエレベーターを目の前にして、初夏の陽気と高速道路の車の走行音の中、私は立ち尽くしていた。このまま8階のエレベーターの前に立っていても、学校に行く時間に間に合わなくなることは分かっていたが、体が動かない。昨日読んだ手紙、その後にかけた電話を何度も思い出し、考えている。

「おはよう。あれ? 下、降りないの? 」

 後ろから声をかけて来たのは、隣のおばさんだった。失踪事件の後も、果物やお菓子のお裾分けをしてくれるなど、よく面倒を見てくれた。

「あ、すみません。なんかぼーっとしてて。寝不足かな! 」

 私は戯けて誤魔化し、エレベーターの下の矢印ボタンを押した。今度はスムーズに体が動いた。

 エレベーターが到着して、私とおばさんが中に乗ると、ドアはすぐに閉まりゆっくりと降っていく。

 昨日の夜、手紙を読んだ後に私は探偵事務所に電話をした。探偵の女の人の安否を確認するため、電話に出た男の人へ彼女に電話を繋いで欲しいと伝えた。しかし、話が通じない。

 いくら説明しても、『そのような方は当探偵事務所には在籍しておりません』との返答だった。さらに母の失踪事件の担当者は、身に覚えのない人物にすげ変わっていた。

 私は怖くなった。まだ色々と確認できることがあったにもかかわらず、早々に電話を切る。もしかしたら探偵の女の人が、友達のスマートフォンに写っていた人身事故の当事者で、既に亡くなっているのでは無いかと予想していた。しかし、私の知る彼女の存在自体が無かったかのようにされている。

 誰に?何故?本当に?

 様々な疑問が頭を擡げる。(もたげる)考えれば考えるほど、行動すればするほど新たな疑問が生まれる。父に話すべきだろうか。ただ、女の人の手紙からは、私にしか伝えたくないという意図が感じられた。

 もともと私の性格では、難しいことや複雑なことは考えられない。目の前の事実だけを見据えて、余計な憶測は排除して来た。それに、やるべき事の答えは出ている。

 エレベーターが1階に着くと、私はおばさんに挨拶をして真っ直ぐ駅に向かった。

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 学校に着くと教室が騒然としていた。隣のクラスの人が教室を覗いていて、私の席の周りには人だかりが出来ている。

「おはよう! 」

「あ、おはよう! これから警察が来るんだって」

「警察? 何かあったの? 」

 人だかりの中にいたよく話す娘に声を掛け事情を質問すると、目を丸くして私を見た後答えてくれた。

「ちょっと、SNS見てないの? 相当噂になってるよ」

 自分のスマートフォンを見ると、昨日の夜に数件の通知が入っていた。通知を開くと、昨日話した隣の席の友達が行方不明になっているという内容だった。クラスのグループチャットではその話題で持ちきりになっている。

 人だかりは私の席ではなく隣の友達の席のものだった。私は、頭の中の考えを押し退けて様々な憶測が大きく膨らんでいく様な感覚を覚えた。

 昨日の朝、隣の席の友達は地元の先輩が撮ったという画像を見せてきた。電車と車が正面衝突し、車からは血だらけの腕がはみ出している画像。私はあの画像をもう一度確認して、探偵事務所の女の人の存在に関する何らかの情報を辿れないかと考えていた。

 存在ごと消し去られた女の人。その証拠を持っていた友達も同じように存在を抹消されてしまうのだろうか。

「ねえ。あんた顔色悪いよ? まあ仲良かったし無理もないけど」

「え? あ、うん。そう言えば、この娘地元の先輩の話良くしてたよね? その先輩のこと知らない? 」

「あー先輩ね。というか先輩と一緒にいなくなっちゃったのよこの娘。SNSでどっかに書いてあったんだけど。あれ? なくなってる。気のせいかな? おかしいなー? 」

「ありがとう! 十分十分! これから警察が来て色々調べるだろうから、きっとそれからわかるよ! 」

 私は強制的に会話を終わらせそそくさと自分の席についた。私の中で憶測が確信に変わりつつある。女の人が手紙に書いていた”誰か”にとって都合の悪い事実はことごとく消し去られていく。

 調べれば調べるほど抹消されていく事実や関係者、常に誰かに監視されている感覚、これらは女の人が手紙で警告したかったことだと考えられる。忘れるのが一番なのだろうか、ここまで知ってしまって忘れることや関わらないことが可能なのだろうか。

 私は芽生えてしまった疑問を必死に隠すように普段通りの行動に努めていた。

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 部活を終えて帰路に着くと、私は迷いを振り払うように頭の中を整理していた。だがいくら整理しても、行動を起こすかどうかで答えが出ない。私がやるべきこと。それは手紙に書いてあった男に会うこと。

 いつも電車で一緒になる男のうわ言は、女の人の手紙に書いてあったそれと一致する。その男なら女の人のことや友達のこと、もしかしたら母のことも知っているかもしれない。同時に、女の人の様に男に接触したことにより存在を消されるかもしれない危険性がある。考えれば考えるほど結論が出なかった。

 いつもの時刻、いつもの路線、いつもの車両に乗る。周りの音や声が聴こえる様に、イヤホンで音楽を聴くのは止めた。

 電車にはいつも目の前にいる男はいなかった。私は拍子抜けすると同時に、微かな焦燥感を覚え車内を見回す。やはり男は見当たらない。男の特徴は、毎日通学で嫌と言うほど視界に入ってきたため、熟知していた。180cm以上の長身に整えられていない癖の強い髪、無精髭、落ち窪んだ目元に加え、浮世離れしたような虚な眼差しは一目見ればわかる。

 電車はいつも降りる駅に停車したが、私はまだ諦めきれずにいた。ドアが閉まり、発車しても何かが起こることを期待して、身体は動こうとしない。その考えは次の駅に停車しても変わらず、寧ろ車窓から覗く目新しい街並みに胸が高鳴る感覚すらある。

 降りる駅を過ぎて3つ目の駅に停車しようとする時、線路沿いの歩道を電車の進行方向とは逆に歩く男に目が行った。外は陽が落ちかけて、青紫色の景色が徐々に濃くなっている。電車がすれ違う瞬間、男は私の方に顔を向けた。無表情で虚な瞳。間違いない、いつも電車で一緒になる男だ。

 停車した電車から飛び出し、位置を確認しながら、小走りで男がいた場所へ向かう。私に気づいていたのか、あるいは偶然か、いずれにせよ男は確かに私の方を見ていた。自分に気づいた男が待ち伏せて襲われたり、なんの収穫も得られない可能性を考えながらも、自然と足取りが早まる。

 駅を出る頃には陽は完全に落ちていたが、男はすぐに見つかった。線路沿いの歩道に立つ男を街灯が照らしている。私は鼓動が早まるのを感じながら、ゆっくりと男に近づいていく。数メートルの距離まで近づくと、男は何をするでもなく俯き、ただ街灯に照らされるまま立ち尽くしていた。

「あ、あのう。何しているんですか? 」

 何か声をかけようと迷う暇もなく、私の口から勝手に声が出た。俯いていた男は、ゆっくりと顔を上げるが、癖の強い髪のせいで瞳には影がかかり、無精髭の口元しか見えない。

「なにやってんだ! 」

 突如男は怒号と共に向かって来て、私の腕を掴み駅とは反対方向へ歩き始めた。

「え? え、ちょっと何なんですか! 」

「いいから来い」

 私が腕を振り解こうとしても微動だにしない。男の怒号には思わず身体が強張ったが、会話が通じることに驚き、それ以上抵抗をする気が失せてしまった。

 男は有無を言わさない雰囲気でズンズンと歩いていく。線路沿いの道は心許ない街灯が規則正しく並び、線路と対面する様に飲食店や製菓店、自転車屋などが軒を連ねている。どこも活気がなく静かだ。人影は遠くに疎らに見える。

 暫く線路沿いを真っ直ぐ歩くと、建物がテナントからマンション、戸建て住宅と景色が変わっていく。いつの間にか男の手が緩んでいたのがわかる。

「どこに向かっているのですか? 」

「.... ここ」

 男は住宅街の並びにある2階までの小さなアパートの前で立ち止まった。外観は所々ひび割れし、灰色に色褪せて元の色がわからなくなっている。

「こっち」

 私の腕から手を離した男はそう言うと、アパートの敷地内に入っていく。知らない男の後を追い、人影のない場所へ行く危険性よりも、探偵の女の人の手紙や母の失踪の手掛かりが、いつの間にか私の中で優先されていた。

 アパートの入り口は、錆び付いて辛うじて読める程の『入居者募集中』が傾いて設置され、部屋番号ごとに並んでいる郵便受けの殆どが壊れていた。雑草や瓦礫、ペットボトルなどのゴミを避けながら、男は黙々と一階の部屋の並びを奥へと進んでいく。

 不意に男は一つの部屋の扉を開け土足のまま中に入ると、部屋の奥で振り返り私が入って来るのを待っていた。私は男に導かれるまま廃墟の一室に足を踏み入れ、身体を強張らせながら何かを待っていた。

 部屋の中は外の闇と同化していたが、男が起動したデスクトップパソコンの液晶画面の光で青白く照らされている。机、パソコン、椅子、ソファーの他には何も無い空間。

「そこ。座って」

 パソコンに向いたまま男が独り言のように呟く。ソファに座れと言うことなのだろう。私が浅くソファに腰掛けると、男はパソコンから目を離しこちらへ向き直った。いざ目的の男と対峙すると、何から質問するべきか、それを知ってどうするのかをまったく考えていなかった自分に気づく。

「異世界ってあると思う? 」

 不意に男の方から質問があり、私は微かに安堵を覚えた。同時に、異世界というどこかチープなワードに、戸惑いと幻滅を感じた。オタク、怪しい作家、何かの勧誘など、様々な憶測が私の頭を駆け巡るのをよそに、男は話を続ける。

「君のお母さんは異世界にいる。まだ生きているよ」

「ちょっと待って下さい。あなたは何ですか? 」

 突拍子もない男の発言は、私の理解の範疇を超え、さらに話は先に進もうとしている。それを止めるためだとしても、我ながら意味のわからない質問だと思う。男は動じずに再び口を開いた。

「探偵さんからきいているでしょ。彼女は残念だったね。話が通じないフリをして何とかしようとしたけど、目をつけられてしまったんだね」

「人身事故と彼女は関係ありますか? 彼女は生きているのですか? 探偵事務所に連絡しても、存在しない人みたいになっています。母親はどこにいるのですか? あなたは敵ですか? 味方ですか? 」

 私が思いつくまま矢継ぎ早に質問をする間、男は真っ直ぐ私の目を見ていた。毎日電車で目にしていた虚な眼差しは、そこにはなかった。

「まず最後の質問から答えた方が良さそうだね。信じてくれるかは分からないけど、俺は味方だよ。去年戻ってきてから、向こうに行った人を何とかこっちに戻すために色々と準備していたんだ。アイツらの目を盗んで動くのに随分と時間がかかったよ」

「向こうって、さっき言ってた異世界ですか? それを信じる証拠はあるのですか? 」

「うーん.... 色々あるけど、わかりづらいからこれから直接見てもらうしかないと思う。そのためにここに連れてきたんだ」

 男は落ち着いていた。姿形が同じでも、仕草や態度だけで別人の様になるのかと驚いていると、彼はにっこりと笑い話を続けた。

「電車の中での俺は演技だよ。アイツらに目をつけられないためのね。探偵の彼女にも演技せざるを得なかった。見られてたからね。それじゃあ、まだ答えていない質問も踏まえて話すよ」

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 マンションの階段は長く、夏の夜の湿気を多く含んだ空気が体にまとわりつき、滲む汗がその不快感を増長させる。エレベーターの工事は終わっていたが、男の話を聞いた後では到底乗る気にはなれなかった。しかし、疲労と不快感が思考するのを奪ってくれるお陰で、まとまらない考えを永遠と続ける必要は無くなった。

 いつもより遅く帰った家に父はまだいない。朝に今日も遅くなると言っていたなとぼんやり思い出しながら、自分の部屋に荷物を置きベッドへ倒れ込む。このまま眠ってしまいたかったが、思考の整理がついていない私の頭は、それを許してくれない。瞼を閉じたまま男の話を思い返す。

 8年前、大学生だった男は、私の住むマンションの6階に住んでいた。ある日、コンビニで昼食を買いに行こうとエレベーターを待っていると、6階に降ってきたエレベーターには私の母が乗っていた。男が乗り込み、少しすると4階で運送屋の青年が乗ってきた。

 私の母、男、運送屋の青年は3人とも1階を目指していたが、エレベーターは唐突に3階と2階の間で止まってしまう。

 3人とも動揺を隠せず、顔を見合わせていると、再びエレベーターは動き出す。しかし降っていたはずのエレベーターは勝手に上り始め、7階で止まり扉が開いた。その時、私の母が率先してエレベーターの外に出て行った。

 不可解な動きをするエレベーターにこのまま乗っていても、今度は閉じ込められるかも知れないからだ。男と運送屋もその意見に賛同し、3人とも7階に降りることにした。

 私の母と運送屋の後ろについて行く様にして、男は7階の通路を進んだ。エレベーターを背にした通路は、右手にマンションの部屋が並んでいて、左手からは外の高速道路やビル群の景色が見える。勿論私の住む8階や男の住む6階と何ら遜色のない風景だ。しかし、男の視界には明らかに異質な光景が広がっていた。

 外がやけに暗い。空は鮮血の様に赤く、高速道路やビル群は、照らす光や自ら発する光を失い、巨大な黒い影と化していた。3人の足音以外は何も聴こえない。人をはじめとする生き物の存在を感じさせない、赤と黒だけの無音の世界。

 男は思わず立ち止まるが、私の母と運送屋の二人は意に介さず前を歩いている。後ろを振り返ると、エレベーターの扉は開いたままだ。中の灯りは白く灯っていて、男は何となくこのエレベーターに乗らないと戻れない気がした。

 通路に視線を戻すと、私の母と運送屋の2人の姿は無くなっていた。不意に扉が閉じようとしたため、男は慌ててエレベーターへ飛び込み1階のボタンを押した。今度はエレベーターは問題なく稼働し、1階に着く。

 恐る恐るエレベーターから降りると、晴天の日差しと真夏の熱気、蝉や樹々の葉擦れの音が押し寄せて来た。男は安堵すると同時に、私の母と運送屋が気にかかる。

 赤と黒の異様な世界のことは、何かの錯覚だと思う様に努め、暫く1階の階段の前で2人が降りてくることを祈り待つことにした。しかし祈りも虚しく、いくら待っても階段を降りてくる人はいなかった。

 恐怖心と罪悪感に支配された男は、その日を境に塞ぎ込む。エレベーターに乗ることが出来なくなり、人と話すのも儘ならないほど精神を病んだ。警察の事情聴取には素直に応じた。

 初めはかなり疑われて執拗な取り調べを受けたが、ありのままを供述し続けると、取調官の視線は奇異なものを見る目に変わる。男は重要参考人として引き続き警察の監視対象となった。

 男は現実から逃げる様に、マンションを引き払い、引っ越し先のアパートで引き篭もって生活をしていた。先のことは考えられず、夜勤のアルバイトで食い繋ぐ。そんな日々を送って1ヶ月ほど経った頃から、少しずつ誰かの視線が気になり始める。その誰かの存在を捉えた時、男は既にこの世界ではないところに連れて来られていた。

 作業用の青いキャップと作業着の男。赤と黒の世界で目覚める直前の記憶は、その人物にスプレーの様なものを吹きかけられたというものだった。男にしてみれば2度目の異世界だったが、1度目との違いは、エレベーターのような出口がないところだ。見覚えのない景色を呆然と眺めながら、ただ歩き続けた。

 そこまで話すと、時間だと言って男は私をアパートから追い立てた。

『俺は異世界を行き来できる。お母さんの所在は分かるけど、探偵さんはまだ分からない。気持ちに整理がついたらここに連絡してね』

 別れ際、男からメモ紙を手渡された。紙には電話番号と住所が書いてある。気持ちの整理とは、異世界とやらに行く決心を指すのだろう。男にはまだまだ聞きたいことがあったが、殆どの質問は男について行くことで解決する気がしていた。

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 刺す様な日差しに、私は辛うじて薄目を開けることしかできないでいた。連日の猛暑で、午前中は外を歩く人は疎らにしかいない。私服で歩くのはいつぶりだろうか。季節ごとに制服、部活のジャージ、部屋着のローテーションを組んでいる私には、私服での外出が違和感でしかない。

 いつもなら学校が休みの日は部活の練習に励んでいるが、今日は初めて仮病で休んだ。風邪のひとつも引いたことがない私のことをチームメイトや先輩、コーチや顧問までもが心配して連絡をしてきた。

 学校と部活の繰り返しは何も考えなくて良いが、今は部活に身が入らないほど、男の話とこれから何が起きるのかが頭の中を覆い尽くす。

 自宅から歩いて20分程の場所に着くと、メモ紙を何度も見返す。間違い無さそうだ。私は誰もいない森林公園の入り口にいた。メモ紙に書いてあるアドレスへはメールを出来ずに、直接住所の場所に来てしまった。

 小さな頃遊んでいたその公園は、木々に囲まれた湖と少しの遊具があるだけだ。公園の中に入り、湖を望むベンチに腰掛ける。

「こんにちは」

 声のした後ろを振り返ると、公園のトイレの前に男が立っていた。

「え? こ、こんにちは。何しているんですか? 」

「何って、君を待っていたんだよ。準備は出来たんでしょ」

 見透かした様な言い回しをする男に、私は無言で頷くことしか出来ない。正直、準備が出来たかどうかなんて分からなかったが、考えているだけでは答えが出ないことだけは分かっていた。

「よし! じゃあ行こう! 」

「あの、異世界? とはどうやって行くのですか」

 自分で言っておいて恥ずかしくなる。男は当然のように、目の前のトイレに向けて指をさした。

「ん? そこトイレですよ。以前のお話では、エレベーターではなかったですか? 」

「そうそう。悪いけど男の方から行くよ。幅と奥行が1,100mmで高さが2,300mm以内、四方が仕切られて外が見えない場所が条件なんだ」

 条件は理解できても、男子トイレには抵抗がある。悪びれない様子の男の態度に私の方が恥ずかしくなり、周囲を見渡す。休日の午前中は散歩やジョギングをする人、親子連れなどの人々がいる。そのはずだが、人が一人もいない。

 

「少しの間人が来ない様にしているから、周りの目は気にしなくていいよ」

 男はそう言うと、男子トイレの中に入っていった。この掴み所のない、何処か無機質な男の正体も、異世界へ行く過程で明るみになるのだろうか。ぼんやりとそう考えながらも、私は男に続いて公園のトイレの中に入った。

 ここでいいかなと呟き、男は私を一番奥の個室に入る様に促す。

「私一人ですか? 」

「そうだよ。二人だと狭いでしょ。俺は隣から行くから安心して。中に入ったら鍵を閉めてね。切り替わったら隣からノックするから」

 男に言われるがまま、私は個室に入り鍵をかける。切り替わるとは、こちらの世界から異世界へ切り替わることを指すのだろうか。半信半疑のまま個室の隅に寄りかかり、隣からのノックを待つ。

 公衆便所の独特な匂いは、夏の暑さと相まってより強烈に鼻をつく。蝉の鳴き声や、生温かい風が樹々を揺らす音を聴きながら、瞼を閉じる。額や背中から薄らと汗が滲み出て来るのを感じ、私は何をしているのだろうかと目を開けて天を仰いだ。

 暗闇。何度も瞬きをして、やっと視界のすべてを暗闇が覆っていることに気づいた。先程まで聴こえていた音も聴こえない。突然、視覚と聴覚を奪われた感覚に、立っているのか横たわっているのかも分からなくなり、手当たり次第周りの物に触れる。四方は壁で、足に当たるのは和式の便座だろう。ノックはまだ聴こえない。

「あの.... 切り替わりましたか? 」

 自分の声が虚しく響く以外は、無音のままだ。隣から人の気配もしない。このまま待つべきか、予定外のトラブルが起きたのなら外に出て状況を確認するべきか、暗闇の中混乱する頭を目まぐるしく思考が巡る。

 ふと、少し目が慣れてきたのか、トイレの扉の上にある隙間からぼんやりと天井が見えてきた。少なくともトイレの個室よりは、外の方が明るいのかもしれない。その可能性を信じて、私は手探りでトイレの扉を開けた。

 扉を開けた瞬間、トイレの中が薄く色づいていることがわかる。トイレに設置された小さい窓から差し込む夕陽は、室内を紅く照らしていた。明らかに普通の状態ではない。それはこの世界なのか、私自身なのか、答えの出ない問答を頭の中で繰り返しながら、私のいた個室の隣を見る。

 鍵の掛かっていないその扉をゆっくり押し開けると、金具の錆びついた可動音とともに、個室内が露わになった。誰もいない。男は何処に行ってしまったのか、あるいはこの世界に来てさえいないのか。何れにせよこのままここに居ても、元の世界に戻れる訳では無い。

 もしかしたら、既にトイレの外で待っているのかも知れないと考えて、私は出入口から頭を出し外の様子を伺った。

 赤と黒の世界。空は最初からそうだったかの様に真っ赤だ。その他の樹々や湖などはすべて黒というより、漆黒の影の様だった。

 トイレの窓から差していたのは、夕陽ではなく真っ赤な空の色だったのだ。思わず顔を引っ込めて呼吸を整える。生物の存在をすべて否定する無機質な景色を目の当たりにして、息が詰まる。

 遂に来てしまったと思った直後、来るべきでは無かったという後悔が押し寄せて来た。戦慄。正にこの言葉がぴたりと収まるような、言い知れぬ不安と緊張感に恐怖が覆い被さる感覚。誰かを探さなければ、誰かに縋ら(すがら)なければ、自分を保つことが出来ない。

「おい。誰かいるか? 」

 近くから囁くような、低い男の声が聴こえる。外からだ。私の知る、私をこの世界に導いた男とは違う声。

「そこに誰かいるな。怖がらなくて良い。中に入るぞ? 」

 私は元いたトイレの一番奥の個室まで後退り、いつでも中に避難できる様に身構えた。その人物は、ゆっくりとトイレの中に入って来る。青いキャップに作業着の男。

「ああ.... 良かった。まだ外に出ていないな。そこから動かなくていい。自分の話を聞いてくれるか? 」

 思い出した。探偵の女の人が手紙に同封していた作業着の男と外見が一致する。男も異世界に連れてこられる際、この作業着の男に襲われたと言っていた。

「ここは異世界なのですか? 貴方はここの番人か何かですか? 」

「番人? ああ、そうか。そう聞いているんだろ。見たら逃げろだとか」

 作業着の男は私の言葉に何か理解した様子だった。彼は入り口から動かず、距離を取ったまま、安心させる様な優しい口調で話して来る。私は混乱した。

 外見は探偵の女の人や男が語った、異世界を知った時点で脅威となる存在。しかし目の前の人物は、この無機質な世界で唯一の温かい、人間味のある存在にしか思えなかった。巧妙に警戒心を解こうとしているのだろうか。分からない。

「ここに来る前、貴方の様な外見が特徴の人に、監視や存在を消されたり、異世界に連行されたという話を聞きました。でもわからない。私からは貴方が普通の人間にしか見えないのです」

「ああ、そうだろうな。なんせ自分はただの運送屋だから。ほら、これ見てみな」

 男は作業着を脱ぎ、こちらに放って寄越した。足元の作業着を拾い上げると、胸元に『(株)〇〇運輸』と刺繍がある。業界大手の誰もが知る運送会社の社名だった。

「信じるかどうかの判断は、そっちに任せるよ。もう何人も来ているから疑われるのは慣れてる」

 今の私には、作業着の男を信じることしか出来ない。この無機質な世界で縋る(すがる)べき存在は、目の前にいる。全幅の信頼を寄せる訳にはいかないが、私を導いた男がいない以上、母親への手がかりや、元の世界に戻る方法は作業着の男に聞くしかない。

「話とは、何でしょうか? 」

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 歩きながら話そうと言う作業着の男の後に続いて、赤と黒の世界をゆっくりと歩く。作業着の男から渡された黒い雨ガッパの様なものは、私の全身を覆っている。

「移動しながらでないと、直ぐに奴らに見つかるんだ。それを着ている限り、そう簡単には見つからないけどな」

 先程見た運送会社の名前、作業着の男の年齢や顔立ち。私は作業着の男の正体に確信を持って質問をぶつけた。

「あの、もしかしたら8年前にマンションのエレベーターに乗りませんでしたか? 」

「ああ、乗ったよ。そしてここに来た。アンタ、遭難者の関係者か何かか? 」

 歳の頃は20代前半、中肉中背、運送会社の作業着を着ているありふれた特徴だったが、昔よくすれ違い挨拶をした覚えがある。

「遭難者? 」

「そっちからしたら失踪者だな。自分は遭難者と呼んでいるんだ」

「確かに私は遭難者ですね。8年前、貴方とエレベーターに乗った女性は、私の母親なのです。私は母を探してここに来ました」

「ああ、あの時の小学生の娘か。全然分からなかったよ。ここでは時間は意味を持たない。そっちで8年経とうが、こっちで歳は食わないし、この通り何も変わり映えしない景色が広がっているだけだ」

 男は大袈裟に両手を広げて見せた。無音の世界には私達の声だけが響き、ふとした沈黙にも耳鳴りがする程だった。

「元の世界に戻る方法はないのですか? 」

「勿論あるさ。ただ、"どちらか一人"しか戻れない。残念だが、アンタの母親や大学生の兄ちゃんはもうダメだ」

 

「....? 母はどうなったんですか? 」

「この世界の影になった。空の赤い光に長いこと晒されると、段々と肌の色が灰色になるんだ。それからその色は黒くなり、最後にはその辺にある影に同化してなくなってしまう」

 母が無事かもしれないという一縷の望みは、この世界に来てから半ば潰え(ついえ)ていた。こんなところで人が生きていけるはずがない。しかし、作業着の男から改めてはっきり聞かされると、ショックを隠しきれない。

「貴方はどうして無事なのですか? 」

 振り絞る様にして発した私の言葉に、作業着の男はほらと自らの頭を指差して答えた。

「帽子か何かで頭を覆っていると、いくらがましらしい。アンタが着ているものほど密閉されていれば、更に問題ないがな。これもたくさんの犠牲のもと分かったことだ」

「私の着ているこれは何なのですか? 」

 黒い雨ガッパの様なものだが、材質はビニールではなく、今まで触ったこともない素材で出来ている。

「奴らの監督みたいなのが来てたから、引っぺがしてやったんだ。詳しくは分からないが、それを使うと遭難者を上手く逃せるんだ」

「貴方が言う大学生の男の人に、私は連れて来られました。彼とは逸れて(はぐれて)しまったけれど、その男の人も奴らと言っていました」

 暫く沈黙が続く。地元の見慣れた街並みは、赤と黒だけに彩られて、何処に何があるのかさえ分からなくなっていた。男は無言で歩いていたが、不意に、奴らは人間じゃなかったと呟き、話を再開した。

「その男こそが奴らの一人だ。奴らは自在に姿形を変えて、言葉巧みにこの世界に誘い込むんだ。現に俺は大学生の男が影と同化する瞬間を見ているんだ」

 朧気に、自宅のマンションと思しき影が見えて来る。

「着いたぞ。それ、もう脱いで良いぞ」

 マンションのエレベーターの前まで来ると、上を向いた矢印ボタンを押しながら、作業着の男は再び口を開いた。エレベーターは最上階の8階に止まっていて、順番に階のランプを灯しながら降って来る。私は黒い雨ガッパを脱いで、作業着の男に渡した。

「これな、人間が着ていたんだ。他の影になった奴と同じ消え方をしたから間違いない。結局一番恐ろしいのは人間だよ。消したい人間を都合よくエラーにしてしまうんだから」

「どういう意味ですか? 」

 作業着の男は質問には答えず、私の目を見ながら口を開く。

「自分の役目はここまでだ。エレベーターが来たら7階のボタンを押すんだ。いいか、7階だぞ」

「貴方は一緒じゃないのですか? もっと詳しく聞きたいことが沢山あります。一緒に来て下さい」

 私が言い終える前に、男は作業着の右袖を捲り前腕を露にする。彼の前腕は、灰色に変色していた。

「程度の差はあっても、自分もいずれは影になった他の人らと同じ結果になる。何度も元の世界に帰ろうとしたが、こうなってしまうともう無理なんだ」

「そんな.... 」

「自分の役目は、遭難者を元の世界に送り届けること。運送屋らしいだろ? 自分はこんなクソみたいな世界で、影になる奴をこれ以上増やしたくないんだ」

 エレベーターが1階に到着し、扉が開いた。言葉が出ないまま、エレベーターの中に入る。母の失踪の結末が悲惨なものだったこと、目の前の男に何もしてやれない悔しさ、一刻も早くこの戦慄の世界から逃げ出したいという思いが錯綜し、涙が流れ落ちた。

「何人も遭難者を送り返した。アンタもその一人でしかない。だから気にするな。そして元の世界に戻ったら、口を閉ざすんだ。この世界のことは誰にも話すんじゃないぞ。いいな? 」

 扉が閉まる直前、作業着の男は小さく呟いた。

『幸運を』

 一呼吸置いて、私は迷わず7階のボタンを押した。

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 階段の上から見た駅構内は、無数の人間が蠢き、一つの大きなうねりのように見えた。

 私は無事に元の世界に戻ることが出来た。エレベーター内で、7階に上昇する際の重力を感じ始めたのを最後に、私の記憶は途切れていた。気がつくと自分の部屋のベットで目を覚ましていた。

 帰宅ラッシュの人混みで、ホームはごった返している。ここのところ部活にも集中できずに、サボりがちだ。部活仲間や友達からは、人が変わったみたいとか、きっと何処か悪いだろうから、医者にかかった方が良いとか、勝手なことを言われる。

 人が何故異世界に迷い込むのか、それを意図として操作する人間はいるのか、そうだとしてその目的は何か。作業着の男の言葉を反芻(はんすう)し、疑問が生まれ、その答えが浮かび上がっては消えるのを繰り返す。そこである仮説に辿り着いた。増えすぎた人口を抹消する方法があるとすれば、とても理にかなったシステムなのかもしれない。

 駅構内の人のうねりを目の当たりにすると、そんなシステムが必要な気さえしてくる。

 異世界との扉について、私の中でこれまでの断片的な情報が符合していく。しかしわかったことといえば、争う(あらがう)ことの出来ない運命、あるいは誰かが決めた摂理に翻弄されるしかないということだった。

 ランダムに人を選び、選ばれた人間は異世界へ飛ばされる。そして何の脈絡も無く、何の知識もない遭難者は赤い光を浴び、やがて黒い影となり抹消される。異世界の存在に気づく者、異世界から逃れようとする者もまた、執拗に追い込まれこちらの世界での死をもって抹消される。

 

『間もなく3番線に快速列車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい』

 ホームの喧騒に割り込む様に、列車の通過を知らせるアナウンスが響く。

 まただ。私は急に視線を感じ、あたりを見回す。元の世界に戻ってから時々視線を感じる。ねっとりと絡みつく様な視線。探偵の女の人も、同じ様な視線を感じていたのだろうか。

 通過列車が喧騒をかき消す様に通り過ぎ、夏の生暖かい風が私の髪の毛を乱した。

 列車が通り過ぎる間、塞いでいた視界が開けると、向かい側のホームに私が立っているのが見える。先程から感じていた視線の正体は私自身だった。正確には私に似た"何か"だ。作業着の男が話していた奴らという存在もこれに該当するのだろう。

 元の世界に戻ってから、視線と共に姿を表す私に似た"何か"。今のところ実害はないが、不快感を伴う視線を向けるそれは、私を抹消しようとする目的があることは間違いない。

 私は簡単に消されるわけにはいかない。生き残るために、出来る事は何でもするつもりだ。私は真っ直ぐその"何か"を見据え、宿命に争う決意を固めていた。

 

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