23年03月怖話アワード受賞作品
中編5
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笑い女

話を始める前に。

途中、甚だビロウな描写があることをお詫びしておく。

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俺は東京で一人暮らしをしている、三十代独身の、ごく普通の会社員なのだが、休日に車で全国を旅行することを趣味にしている。

特に、山奥の『秘湯』と呼ばれる場所を訪ねるのが好きで、その時も、わざわざ四国まで足を伸ばしていた。

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季節は秋。

ちょうど紅葉(こうよう)も見頃の時期で、紅葉狩りがてら、俺は車で目的地を目指した。

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事前に調べたところでは、そこは河原に脱衣場と露天風呂があるだけという造りだそうで、男女混浴ということだった。

もっとも、そういう山奥の露天風呂で女性を見かけることなど、経験上、まずない。

なので、いくら彼女のいない俺でも、旅先での素敵な出逢いなんてものは、小指の先くらいしか期待しないでいたのである。

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昼過ぎ、車は目的地に到着した。

山の麓にある、公衆トイレしかない小さな駐車場である。

ここから目指す露天風呂までは、山道を小一時間ほど行かなければならない。

そんな酔狂なことをしたがる人間はそういないらしく、駐車場には俺の車以外、影も形もなかった。

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俺はさっそく出発した。ぐずぐずしていると、秋の日はすぐに暮れてしまう。

山道は舗装こそされていないものの、整備はきちんとされており、歩きにくいということはなかった。

並行する渓流のせせらぎと、木々のざわめきを聞きながら順調に歩を進めていった。

ところが――。

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三十分ほど経った頃だろうか。俺は不意に、強い腹痛に襲われた。

あっという間に下腹部は黒雲に覆われ、ゴロゴロと怪しげな音をたて始めた。

紅葉の隙間から覗く頭上の秋空は、のんびり鱗雲を浮かべて実に晴れやかだというのに、俺の下っ腹は今にも巨大ハリケーン襲来、という有り様だった。

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額から脂汗が流れる。

こんなことなら、駐車場の公衆トイレに行っておけばよかった。

しかし、後悔先に立たず。今から引き返そうにも間に合わない。

逆に、急いで露天風呂を目指したところで、そこにトイレが併設されているかどうかはわからない。

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そもそも、もう一歩踏み出すのですらツラい状況だった。

進退極まった俺は、苦渋の選択をせざるを得なかった。

すなわち、野外で用を足す、という選択である。

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俺は下腹部の爆弾に刺激を与えないよう、ソロソロと歩いて山道を外れると、すぐそばに見つけた茂みの陰に、下着をずらしてしゃがみこんだ。

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こんな山奥、通り掛かる者なんか誰もいないと思いながらも、人目に触れない場所でないと安心して用も足せないのだから、人間というのは不思議なものである。

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しばし後、俺の腹は平穏を取り戻した。

腹痛さえ治まってしまえば、こっちのものだ。

いっそ、大自然の中で、誰に気兼ねするもことなく下半身を露出させていることに、ある種の倒錯的な解放感を感じ始めていた、その時だった――。

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俺は、自分が今来た方角を臨む形でしゃがんでいた。

その俺の視界に、なにか白いものが映った。

茂みの向こう。木々と木々の間。

そこにチラチラと、なにか白いものが動いているのが見えたのである。

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一難去ってまた一難、登山者だ。

俺は再び緊張した。

今のこの格好を、誰かに見られるわけにはいかない。

慌ててパンツをずり上げようと思ったものの、タイミングの悪いことに、いったん治まっていたはずの腹痛が再発し、俺の手を止めた。

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こうなっては致し方ない。

俺の姿は、茂みに隠れて山道からは見えないはずだ。そう信じて、俺はしゃがんだまま、相手をやり過ごすことにした。

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ザク、ザク。 

ズル、ズル……。

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降り積もった落ち葉を踏みしめる音とともに、なにかを引きずるような音が、徐々にこちらに近付いてくる。

木漏れ日の射す、穏やかな午後の山奥である。

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顔も知らない登山者にしても、もちろん俺にしても、この場での出逢いは、お互いに不幸しかもたらさない。

どうかそのまま、俺に気付かず平穏な登山を続けてください。

俺は茂みの陰で、そう強く念じていた。

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不意に、すっと陽射しが陰った。

森の中が薄暗くなる。

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ザク、ザク。

ズル、ズル……。

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音が近付いて、すぐ側の木立の陰から、登ってきたものの姿が見えた。

瞬間、俺は、喉から漏れそうになる声を必死に抑え込んだ。

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異様な光景だった。

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女だ。

長い、ボサボサの髪を顔の前に垂らして、うつむいたまま、女がひとり、登ってくる。 

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何より異様だったのは、その格好だった。

女は純白のウェディングドレスを纏っていた。

改めて言うまでもないが、ここは結婚式場ではない。人里離れた山奥である。

そんな場所を、白いドレス姿の花嫁が行く。

ズルズルと引きずられたスカートのすそは、土にまみれ、黒く汚れていた。

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先ほどまでとは別種の脂汗が流れた。

できれば、すぐさまこの場を離れたいが、下半身を露出している今の格好では、それもかなわない。

俺はただただ息をひそめて、奇妙な花嫁が通り過ぎるのを待つしかなかった。

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ザク、ザク。

ズル、ズル……。

ザク、ザク。

ズル、ズル、ズル……。

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女は重々しい足取りで、俺が隠れている茂みの脇を通り過ぎ、さらに山道を進んでいった。

振り返ることも、身体の向きを変えることもできず、ただ耳だけをすまして、女が去っていく音を聞いていた。

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どのくらいそうしていただろう。

五分? 

十分? 

実際はもっと短い時間だっただろうか。

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女の足音が完全に聞こえなくなってから、俺は立ち上がった。

山道の先を見上げると、木立の向こうに白いドレスがチラチラと動いていくのが見えた。

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雲が晴れたのだろう。森の中に光が射した。

俺はそこでようやく、深いため息をついた。

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いったいなんだったのだろう、あれは。

あれが、生きている人間なのか、死んでいる人間なのか、それすらもよくわからない。

ただひとつ確かなのは、どちらにせよ関わらない方がいい、ということだった。

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俺は露天風呂に入ることはあきらめて、早々に引き上げることにした。

あんなものがうろついている場所に、もう一秒だって長居したくなかった。

俺が足を踏み出した、その時――。

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「きゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

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女が立ち去った方角から、不意にけたたましい笑い声が聞こえてきた。

聞くものの心臓を凍らせるような、不穏な狂笑。

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あいつだ。

あの女が笑ってるんだ。

俺は転げるように、その場を逃げ出した。

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全速力で山道を駆けて、なんとか駐車場に帰りついた俺は、停めてあった自分の車を見て息を飲んだ。

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車のフロントガラスには、熟れた木の実か腐った肉か。

判然としないものが、ベッタリと――。

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そう、ベッタリと擦(なす)り付けられていたのだった。

【続く】

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