四国の山奥での恐怖体験から一週間、俺はずっと体調を崩していた。
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身体が重い。
微熱が治まらない。
耳には、あの女の狂った笑い声が、こびりついたまま離れなかった。
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それでもなんとか毎朝起きて仕事に行き、日中なんとかやり過ごし、夜にはぐったりして一人の部屋に帰ってくる。
その繰り返しだった。
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金曜日の夜だった。
長かった一週間がようやく終わる。
この週末はどこにも出掛けず、酒でも呑んで、部屋で大人しくしていよう。
そう思っていた。
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マンションに帰りつくと、一階のエントランスで、初老の男性がコンクリートの床をモップでこすっていた。
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「……ったく、汚ねぇなあ。
あ、こんばんは。お帰りなさい」
見覚えのある顔だった。このマンションの管理をしている男性だった。
「どうも、こんばんは。
どうしたんですか? こんな時間に」
俺の問いかけに、男性は不機嫌な表情を浮かべた。
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「いえね、住人の方から連絡がありまして。
エントランスの床が汚れてるからなんとかしてくれ、ってね。
それじゃあってんで来てみれば、確かに何かドロドロしたものが散らばってまして。
それでこうして、夜に掃除なんかしているわけなんですよ」
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話を聞きながら俺は、大方呑みすぎた奴が気分が悪くなって吐いたりしたんだろう、と想像していた。
なんともご苦労なことだ。
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適当に会話を切り上げ、男性に挨拶をして、エレベーターに向かう。
俺の部屋は、七階建てマンションの五階の角だった。
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老朽化したエレベーターの薄暗い箱に乗り込むと、行き先階ボタンを押して、そのまま壁にもたれかかかる。
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疲れた。
とにかく疲れた。
身体が重い。
まるで、誰かに背中からのし掛かられているかのようだった。
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目を閉じ、深いため息をつく。
それでも、ようやくウチに帰ってきた。
休もう。リラックスしよう。
ここはもう、あの四国の山奥じゃない。
勝手知ったる我が町、安らげる我が家なのだ。
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今も、異常な光景はまぶたの裏側に、おぞましい笑い声は鼓膜の内側に、まるで澱(おり)のように凝(こご)っていたが、それもいずれ時間が癒してくれるはずだ。
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しばらく秘湯巡りには行く気にならないだろうが、近場の賑やかな銭湯くらいなら、行ってみてもいいかもしれない。
のんびり湯にでも浸かれば、身体に染み付いたこの恐怖も、デトックスされるかもしれない。
ぼんやり、そんなことを考えていた。
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エレベーターのドアがゆっくり閉まる。
と、完全に閉まりきる前に、誰かが小走りで入ってきた。
そいつは、入り口近くに立っていた俺の横を通り過ぎ、まっすぐ箱の奥へと進んだ。
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ちらりと見えた限りでは、地味な格好をした、髪の毛の長い女のようだった。
うつむいていて、顔ははっきりとは見えなかった。
手には、近所のコンビニの買い物袋を提げていた。
エレベーターが上昇を始める。
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「何階ですか?」
操作パネルを見つめたまま、俺は背後の女に声をかける。
返事はなかった。
変な奴だ、と俺は思った。
いったい、どこに行くつもりなんだろうか。
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改めて、横目で女を覗き見る。
女はやはりうつむいたまま、うっそりと立っていた。
なぜか、女の周囲だけが薄暗い気がした。
照明が古いせいだろうか。
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不意に、悪寒が走った。
耳鳴りがする。視界がぐらぐら揺れた。
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俺はおかしい、と思い始めた。
そう、これはおかしい――異常だ。
そしてごく最近、この異常な感覚を味わったことがあることに気がついた。
あの、四国の山奥で。
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「――けひっ」
不意に女が、小さく甲高い声を出した。
ぞくりと、肌が粟立つ。
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「きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
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狭いエレベーターの内部が、女の狂った笑い声で満たされる。
俺は逃げ場のない密室の中、たとえ一ミリでも女から離れたくて、両手で耳を塞いだまま、ドアに背中を押し付け後ずさった。
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こいつは、あの女だ。
山の中にいた、純白のウェディングドレスの、あの女。
今は地味な服装をしているが、間違いなかった。
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なぜ?
どうしてだ?
四国と東京。
遠く離れた場所で、なぜ再び、この女と出会う羽目になったのか。
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考えなくてもわかる。
追いかけてきたのだ。
誰を?
俺を、だ。
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『エントランスの床が汚れてるからなんとかしてくれ、ってね――』
『確かに何かドロドロしたものが散らばってまして――』
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男性が言っていたのは、先日俺が見たアレのことではなかったのか。
山奥の駐車場で、俺の車のフロントガラスに擦り付けられていた、ドロドロした何か。
熟した果実か腐った肉か、判別できなかった何か。
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目印――。
あれは、この女の狙った獲物に付けられる、目印の刻印だったのか。
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女が一歩、こちらに近付いてくる。
顔を上げる。
両目は流れ落ちる長い前髪に隠れて見えなかったが、大きく開かれた真っ赤な口が覗いた。
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笑い声。
笑い声。
俺は、いつの間にか自分も声を出して笑っていることに気がついた。
笑いたくなんかないのに。
恐怖で、涙さえ流しているというのに。
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軽い振動。
振り返ると、エレベーターは五階に到着していた。
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開、開、開、開、開、開!
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俺は操作パネルのボタンを連打する。
じれったいほどゆっくりと、ドアが開いた。
外に転(まろ)び出る。
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背後では、女が笑いながらドアに手をかけ、こちらに出てこようとしていた。
力の入らない手足をなんとか鼓舞して、立ち上がる。
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とっさに廊下の奥の自分の部屋へ足を向けなかったのは、我ながらファインプレーだったと思う。
俺の部屋がどこか、女に知られるわけにはいかなかったからだ。
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俺は階段を一気に駆け降りると、そのまま駅に向かって全速力で走った。
荒い息を吐き出す口元は、まだ笑った形のままだった。
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その日は結局、隣町の適当なビジネスホテルに泊まり、眠れない夜を過ごした。
そして翌日、昼近くになってからマンションに戻ると、マンションの入り口は大勢の住人で騒然としていた。
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「あの……どうしたんですか?」
人混みの中に昨日の管理人の男性の姿を見つけて、俺はおそるおそる尋ねた。
「ああ、昨日の。
いや、実はですね、ゆうべ私が掃除してた床のドロドロ、今度は部屋のドアに塗りたくられてたんですよ。
朝から大騒ぎで」
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アイツだ。
あの女がやったに違いなかった。
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「ええと……。ちなみに、どちらの部屋のドアだったんですか……?」
俺の部屋は、あの女に見つかってしまっただろうか。
いや、さすがに部屋までは割り出せるはずがないと信じたかった。
それが……、と言って、男性は口ごもった。
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「五階フロア、全部の部屋のドアに、なんですよ。
まったく……非常識な奴もいたもんです。
後始末するもんの身にもなってほしいですよ。
ねぇ?」
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俺はなんとか、はぁ……、とだけ応えた。
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すぐにあの部屋を引き払って実家に戻ろう、と思った。
車もお祓いをするか、売るかしてしまおう。
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ここはこれから、きっと良くないことが起こる。
アイツに、印を付けられてしまったのだから。
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俺は耳の奥に、女の狂った笑い声の幻聴を聞きながら、そう確信したのだった。
〈了〉
作者綿貫一
こんな噺を。
前作『笑い女』
https://kowabana.jp/stories/36713