これは私がある出版社で働いていたときの話。
学生時代、小さな出版社でアルバイトをしていたことがある。
そこでの私の仕事は主に雑用で、コピーやお茶汲み、備品の買出しなどをしていた。
それからときどき、作家さんの家まで原稿を取りにいくような“お使い”もしていた。
普通は作家ひとりひとりに担当が付いていて、原稿もその作家の担当者が取りにいくのだが、小さな会社だったので人手が足りず、私のようなバイトが取りにいくこともあった。
その日も私は、ある作家の家までお使いを頼まれた。
「この先生はもう2回も連載を飛ばしてるんだ。もしかして居留守を使うかもしれないけど、強引にでも家に入って、なんとしても原稿を取ってきてね」
「はぁ…」
バイトの自分にそんなこと頼むなよと内心愚痴ったが、とにかく私はその作家の家に向かった。
作家と言っても文芸同人誌の、部数も限られた雑誌の作家だ。
原稿料もたいして高くないから、そういう作家は他にも仕事をしている場合が多い。
そういう作家の中には、本業のほうが忙しくなって連載がままならなくなる人がいる。
たぶんこの作家もそうなんだろうと私は想像した。
その作家の家は、詳しくは書けないが、東京にある出版車から1時間ほどの場所にある。
40分ほど電車に揺られ、さらに最寄駅から20分ほど歩くと、どこにでもあるような住宅街にたどり着いた。
予めネットで住所を詳しく調べてきたにも関わらず、私はその家にたどり着くまでかなり迷った。
私が方向音痴だったからではなく、その家がかなり特殊の場所に建っていたからだ。
建物の位置はわかっているのだが、その家にはなかなか近づけない、
何故なら、その家は四方を他の家で囲まれていたのだ。
だから表の道からその家はほとんど見えなかった。
まるで他の住宅がその家を隠すように建っていた。
私はその家の近辺をぐるぐる回って、やっとその家へ繋がる小道を見つけた。
その狭い小道を抜けると、やっと目的の、作家の家にたどり着いた。
木造でかなり古そうだが、西洋風でなかなかモダンな家だった。
窓はカーテンが敷かれていて、人が居るのかどうかはわからなかった。
私はとりあえずインターフォンを鳴らした。
しばらく待っても返事は無かった。
家に居ないのか、それとも居留守を使われているのか…。
ここでおめおめと帰るわけにもいかないので、私はまた何度もインターフォンを押した。
それでも、結果は同じだった。
「○○先生、いらっしゃいますか~?△△社の者ですが!」
そう言いながらドアを強くノックした。
インターフォンよりノックのほうが効果があるということを経験上知っていた。
ところが、私がノックした拍子に玄関のドアがきぃっと内側に開いた。
鍵が掛かっていなかったのだ。
私は少し躊躇したが、『なんとしても原稿を取ってこい』という上司の言葉を思い出して、遠慮がちに家の中に足を踏み入れた。
「○○先生!△△社の者ですが入りますよ!!」
大声で主張しながら靴を脱いで、玄関から上がらせてもらう。
これは不法侵入になるのでは?と内心ドキドキしていた。
四方を他の家に囲まれているにも関わらず、家の中は明るかった。
天窓のせいだろう。
ざっと見渡して、良い家だと思った。
将来、出来たらこんな家に住んでみたいと思う。
家具もアンティークのものを置いて、いつも綺麗に掃除して―――。
そこまで考えて、私は本来の目的を思い出した。
「先生、いらっしゃいますか~」
やはり返事は無かった。
物音一つしない。
本当に居ないみたいだ。
それにしても鍵も掛けずに出かけるなんて物騒だ。
もしかしたら近所に買い物に行っているだけかもしれない。
それなら待っている間に帰ってくる可能性もある。
作家が帰ってくるまで上がって待たせてもらおうと思った。
ちょっと図々しいけど、家主が帰ってきたら事情を説明すればいいだろう。
「お邪魔しま~す」
リビングルームに入って直ぐにテーブルの上の原稿用紙が目に入った。
近づいてその原稿用紙を手に取る。
びっしりと字で埋まっているが、放置されて長いのか、かなり日に焼けていた。
『 ――――やはりこの家はおかしい 』
その一文が目に入った。
そうして改めてテーブルの上を見回すと、原稿用紙のほかに、洋館に関する資料が置かれていた。
その中にはこの家の写真も混ざっている。
どうやら、この作家は自分の住んでいる家について調べて、それについての文章を書いていたようだ。
私はまた原稿用紙に視線を戻した。
『やはりこの家はおかしい、最初はかなり気に入って買った物件だったが、住んでいるうちに妙な違和感を覚え始めた。これも、この家で起こったあの事件のせいなのだろうか――。なんとも忌まわしいあの事件。犯人はまだ捕まっていない』
事件?なんのことだろう?
私はさらに原稿を読み進める。
『ただならぬ気配を感じながらも、私はこの家を手放せずにいる。明日こそ出て行こうと思うのに、何度となくそれを先延ばしにしてきた。これもこの家の魅力――いや魔力なのか…』
確かに魅力的な家だと思った。
私も一目でこの家を気に入っていた。
『しかし、今日こそはこの家を出て行こうと決心している。この家はやはり呪われている。邪悪ななにかが、この家に住む者を蝕み、そして呪い続けている。私はそれをひしひしと感じる。
今こうして一人で原稿を書いている間にも、背中に視線を感じる。何者かが後ろからじっと私のことを見ている。ほら、天窓から差し込んだ西日のせいで出来た私の影、その影から違う影がにゅっと出てきて――』
文書はそこで終わっていた。
インクが飛んだような、変な痕残っていた。
今も、ちょうど私の後ろの天窓から西日が入っていて、原稿用紙の上に私自身の影が出来ていた。
そこからにゅっと違う影が飛び出したのが見えた。
息を飲み、後ろを振り返った。
誰も居ない。
さっきと同じ静かな部屋だ。
見間違いだったのか?
だけど――――。
突然、言い知れない恐怖に襲われた。
ぞわぞわっと背筋が寒くなった。
なんで…私はこんな古ぼけた家が欲しいなんて思ったんだろう?
急に気分が悪くなって、私は作家の家を飛び出した。
住宅街を駅の方角に向かって走った。
原稿なんかどうでもよかった。
それでバイトをクビになっても構わない。
一刻も早く、あの家から離れたかった。
走っている最中に携帯電話が鳴った。
上司からだった。
立ち止まって息を整えて、電話に出た。
「どうだった?」
「あの……先生はご自宅にいらっしゃいませんでした」
「居留守に決まってんだろ。まさかそれで諦めたわけじゃないだろうな?」
静かだけど、どこか威圧するような強い口調。
この人はこんな話し方をする人だったか?
「………あの…」
「なんだ?」
「○○先生の担当の方は誰なんですか?」
「……俺だけど、それがどうした?」
電話でわざわざ状況を確認するほど大事な原稿なら、何故担当者のあんたが直接来ないのか?
「………あの…○○先生の家に入ったことはありますか?」
「………」
そこで電話は唐突に切れた。
電話が切れる寸前、電話の向こう側で舌打ちするのが聞こえた。
怖い話投稿:ホラーテラー snowさん
作者怖話