近所に有名なお寺がある。
長い石段があって、中程で一旦平地が広がっており、左手に境内とお寺がある。
なお石段を進んでいくと頂上に御堂があって、ここは前述のお寺とは雰囲気がまるで違って厳かだ。
御堂に至るまでの石段を駆け上がって足腰を鍛えた。小学生だったからか、高い段差に太股が悲鳴をあげた。
野球クラブに入っていたためだ。
昼間までは白球を追いかけ、日が落ち始めたら石段を上る。
幅は10mほどで、段と段の間隔は5mほど。両脇には杉の木がずらっと並んでいて、すごく背が高い。
しっとりと落ち着いた空気と、瑞々しく香る緑、さわさわと枝葉がゆれる音。
ヒイラギの古木とイチョウの大木があって、秋になるとキンモクセイの華やかで甘い香りが風に乗ってやってくる。
日が暮れると、この世のものとは思えない神聖な空気がより一層強くなるんだ。神様がいると本気で思ってる。
春になると、杉の木のてっぺんに花が咲く。小さな白い花。名を石斛(セッコク)といい、木の皮に根を張るらしい。あまりにも杉の背が高いから地上で確認することはできないけど、いい香りがするようだ。
これは、石斛が咲き始める春のころの話。
いつものように、息を切らせて石段を駆け上がっていた。
両隣で僕と並行して走るのは、同じクラブの山西と、小田。
少し前を先輩たちが喋りながらカタマリになって走ってる。もう慣れているようで、表情にも余裕が窺える。
そんな先輩の横顔を見ると、余計に疲れる。
もう言葉を発する気力もない。これまで十往復はしただろうか、腰に鉛をつけているようだ。山西に至っては滝のように汗を流し、顔も真っ青で尋常じゃなかった。
苔むした石段を無心で眺め、苦しい呼吸に耳を澄ます。
長距離を走っているときの独特の心境。先が見えず、黒いモヤモヤしたもので胸がいっぱいになる。体力じゃなくて、気力の勝負になってくる。
俯いて苔をひたすら観賞するのにも飽きてきて、顔をあげてみる。まだお寺は顔を出さず、見えるのは高く積まれた石段だけ。空には赤く染まった雲の群れが、杉の並木に挟まれて優雅に泳いでいる。ふと、甘い香りがした。
視界の端になにかが映った。
顔だった。前方15mほど、杉の木のてっぺんに顔がある。杉の葉をまとったミノムシみたいだった。
ひょっこり覗く顔。回りこんだら木にしがみついているはずの体も見えるのだろう、そう思ってやや速度をあげる。しかし、僕の動きに合わせてその顔も移動した。常に、杉の木を挟んでいて体が見えない。それで十分だった。
なにをしているのだろう、という素っ頓狂な疑問は吹き飛んだ。
代わりに、あれはなんだ、という疑問で頭がいっぱいになった。
その場で脚を止め、樹上を凝視する。口を「ほ」の字にすぼめていて、目は狐のように切れ長で真っ黒だ。眉は無く、短髪。男の人だろうか。
「おろろろろろろ…ろろろろろろ…」
ぶわっと粟立った。人の声とは思えなかった。即座に仲間の方を向くと、小田も突っ立ったまま別の木のてっぺんを見上げている。本当は別の何かを見ていたのかもしれない。だけど、このときそれ以外の可能性を考える余裕などなかった。
山西はうずくまってすすり泣いてる。
素早く樹上に顔を戻すと、既に何もなかった。どっと息を吐き仲間の元へ走り寄る。
「なにみてんの」
小田「…あれ」
小田の指差す方向には何もない。彼にしか見えないのかもしれない。
「なんもないけど」
小田「ふざけんなよ…あ、消えた」
二人で顔を見合わせ、山西のほうを見ると、いつの間にか直立していた。どこか遠くを眺めていた。
「や、山西…おい…」
直後、先輩たちが必死の形相で石段を駆け降りてくる。ものすごいスピードで脇目もふらず通り過ぎていった。反対に、山西は御堂の方向へ歩きだす。
小田「監督んトコ戻ろう。早く…おい山西なにしてんだ!!」
二人で山西を連れ戻そうと腕を引っ掴むも、信じられない力で前に進む。僕たちは涙目になって懸命に呼びかけた。
山西「…しゃっ…しゃっ…しゃっ…」
奇声を発する友。頭をぐるんぐるん振り乱す。このままでは首がもげてしまうと本気で思うほどだった。
唾液が飛び散り、足運びもどんどん激しくなる。
もはや二人では抑えきれなかった。スキップするように腿を高く上げ飛び跳ねる。
辺りが妙に騒がしい。何を喋っているのかは分からないけれど、たくさんの人の声がする。完全にパニックになり、山西はニワトリのように首を動かして
山西「…おろ、おろ、おろ…」
とかワケの分からないことを言ってる。小田を見てさらに唖然とした。
山西を指差し、腹を抱えて笑ってる。なにかが弾けたようだった。
その異様な光景に、ただ恐ろしくて吐いた。その場に吐いた。
体を反らせて絶叫している山西の腕は僕の手をすり抜けて自由になったものの、すぐに駆けつけた監督やコーチに取り抑えられた。
小田は卒倒していたから、父兄の方に抱えられていった。
僕はグラウンドに戻ってすぐ、大人たちに事情を説明した。するとすぐに小田の父が携帯電話を取り出して誰かと話し始めた。
小田父『おう、おまえ、セッコク摘んだろ。…はあ!?全部だと!今すぐこっち来い。倅が大変なことになってるぞ』
どうやら山西の父と話をしていたようだった。
詳しいことは明かされないまま、その日は自宅に帰された。両親にそのことを話したら、父が暗い顔でつぶやいた。
父「あの花はなあ、春になるとご先祖様が寄ってくるんだ。そりゃあ綺麗でいい匂いのする花だから、摘んでいく人間はいる。高い所に咲くから、梯子や高所作業車を使う人間もいる。…でも、節度は守らないといけない。種をのこして、また花が咲くように、全部摘まないようにするのが常識。もしかしたら、ご先祖様を怒らせてしまったのかもしれない。倅が無事だといいが…」
翌日、山西は学校に来なかった。先生は高熱が出て休んでいる、と言っていた。
いよいよ心配になって、放課後小田と一緒に山西の家を訪れた。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、中から返事がない。
小田「いないのかな」
「熱出してるんだろ。家に居るよな普通」
少し考え込んだ後、玄関の戸に手をかけてみたら、すんなり開いた。二人同時に息を呑んだ。
戸を開けてすぐのところに山西の母親が立っていた。俯いて、ぶつぶつ言ってる。
小田「あの…山西は」
震える声で小田が問いかけるも、無反応だった。
小田「どうする、中に入るか」
「入るって…どうやって」
小田「決まってんだろ。ここ通ってだよ」
正直なところ、気が進まなかった。
横を通り過ぎる時いきなり襲いかかってきたらどうしよう。
しかし、母のこの様子をみると山西の容体が一層心配になった。数分声も出さず固まったあと、小田の
小田「いこう」
の一言で意を決した。
まずは小田が玄関に足を踏み入れる。真横の気配に神経をとがらせているのが見て取れた。しかし母親の様子は一切変わらず、なんなく通りぬける。
そのあとに続き、僕も無事通り抜けた。山西の母が、
山西母「まあ、きれいねぇ。ふふ…」
とか言ってるのが聞きとれたが、深く考えないようにした。
奥に進むと、居間に布団が敷かれていたがそこに山西の姿はなかった。電灯は点いておらず薄暗い室内は、淀んだ空気で充たされていた。窓を開けていないのだろうか。その直後、
すっと廊下を誰かが横切るのを視界の端に捉え、二人して素早く見遣る。
小田「…山西かな」
心臓が高鳴っていた。今すぐこの家から逃げ出したい。でも玄関には。
「そうだろ。いってみよう」
頷く小田。廊下に出ると、つきあたりのところに山西の背中があった。柱に顔をつけて何かを呟いている。首の辺りにどす黒い痣がある。
声をかけることができなかった。あれは確かに山西の背中だ。でも、振り向いたときそれが山西でなかったら。
「誰だ」
唐突に居間から声をかけられ反射的に身を縮めると、現れたのは山西の父だった。
山西父「ああ、おまえらか。息子の様子を見に来てくれたのか」
眼の下の隈がひどく、相当やつれていた。
「…山西は何をしてるんですか」
山西父「ああやって家中歩き回っては独り言を呟いてるんだ。…事情は知っているね」
小田「父さんが言ってました。セッコクを全部摘んじゃうのはいけないことだって」
山西父「……今夜お寺に来てくれるかい。もちろん親と一緒に」
「…僕たちの親はそのこと知ってるんですか」
山西父「ああ。…ご先祖様に謝らなくちゃいけない。迷惑をかけて済まないな…」
その夜、野球クラブに入団している子供たちと、その親、さらに監督とコーチが一堂に会した。
例のお寺の前には住職と思しき人がいて、片手に白い和紙をたくさん持っていた。
住職「この和紙で、鶴を折ってください。ひとり一つでけっこうです。その代わり、丹念に、心を込めて折っていただきたい。そして…」
もう片方の手には、真赤な和紙が握られていた。
住職「山西さんは、こちらの紙で鶴を折ってください。奥方と息子さんは折らなくてよろしい。三つ、あなた御一人で折ってください」
そう言って全員に紙を配る。山西と彼の母は、抱えられてここまで運ばれた。石斛を摘んだ当人は山西の父なのに、なぜ彼だけ正気を保っていられるのか理解できなかった。
住職「折鶴は石斛の花を模しています。実物をここに持ってくると、ご先祖の怒りがさらに増しますので、このような形にしました。折り方の分からないお子さんには、御両親が教えてくださると助かります。では、こちらへ」
住職に促され社殿に上がった。初めてだった。
住職「折り始めてください」
全員が黙々と鶴を折り始める。境内は不気味なほど静まり返っていた。社殿から漏れる光の向こうは真っ暗で何も見えない。不意に住職を見ると、御神体の方に向かって誰かと言葉を交わしている。
住職「…それは首がもがれるような思いだったでしょう…」
それだけ聞きとれた。
全員が折鶴を完成させるころには、住職も御神体の元を離れ、せっせと折鶴をカゴのなかに回収していった。
すると境内に下りて、闇のなかに消えていく。
父「じっとしていろ。心配するな」
しばらくすると、杉の並木があるほうから、ざわざわと人の声が聞こえてくる。かなり大勢だ。それを耳にし、社殿に腰をおろしていた皆もざわつき始める。
突如社殿に寝かされていた山西が飛び起きて、
山西「はっ!?」
と一言発し目を丸くしてキョロキョロしてる。同時に母親もキョトンとした顔をして山西とまったく同じ行動をとってる。
「大丈夫かおまえ」
山西「何がどうなってんだ…」
いつの間にか傍に山西の父と住職が並んで立っていた。カゴのなかの折鶴は消えていた。
住職「許してくださったようだ」
山西父「本当にありがとうございました。これからは肝に銘じてあのような行いはしません」
住職「過ちは誰でも犯す。そこから何を学ぶかが重要」
山西の首の痣はすっかり無くなっていた。彼の父はぼろぼろ涙を流していた。
改めて祖先崇拝、自然崇拝の念を強めさせられた。
事件がひと段落した後山西に話を聞くと、驚くべきことが分かった。
彼曰く、「飛んでいた」らしい。
山西「最初は真っ暗だったんだけど、いきなり体がすっげえ軽くなってさ。宙に浮いてんの。あの石段を高い所から見下ろしてるんだよ」
「嘘つけ」
山西「ほんとだって!!…そこからだんだん杉の木に近付いていって、真上で止まった。セッコクが咲いてた」
小田「信じられない…」
山西「俺だって信じらんないよ。…そりゃ怒るよな。ものすごく綺麗でいい匂いのする花だった。浮いている間はずっと首のあたりが熱くて、もげんじゃねーかってほど痛かったけど、だんだん痛みが引いて楽になってきた。そんなときに目が覚めた」
僕が思うに、首から上だけで彼は旅をしていたんだ。山西の家で僕らが見た彼は、首から上だけ異世界に飛ばされていた。
あのまま放っておいたら、空中遊泳したまま戻ってこなかったかもしれない。
山西の母親も、ただでは済まなかったかも。
父「…一番苦しいのは家族を失うことだから」
父の言葉が耳から離れなかった。
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