怪音は鳴り止まない。
アズキ大の豆粒を、手でつかんで撒いているような音。撒かれた粒が草庵の壁にあたって、
こつこつ…こつ、
と音を立てる様子を想像してみる。
右方から聞こえたと思うと、背後に突然音源が移動する。
目を開いても布によって視界は遮られているが、緊張のためか目をひん剥いて瞳だけをせわしなく動かし、草庵のまわりを徘徊する気配に神経をめぐらす。
しばらくすると、音の調子が変わる。声だ。
早口だからか、声が小さいからか、聞きとれない。壁に顔をよせ、ぼそぼそ呟いている感じだ。
キキキキ…カタカタッ、ガラガラッ…ガタ!!
突如、前触れなく左方の桐箱が崩れ落ちた。びくっ、と肩を揺らす。
前方から衣擦れの音がする。今井夫人に動きがあったようだ。
自分の呼吸が荒くなっている。汗がじっとりと浮いてきた。
耳鳴りがすごい。ジジジ…と、点滅する電灯のような音がする。
左肩を冷たい空気が撫でる。真横になにかいる。
それは俺をとおり過ぎると、今井夫人のほうへむかって行った。
恐怖で目をぎゅっとつむった。
パンッ
開手(ヒラテ)を打つような乾いた音。
さきほどまで蝋燭の光で仄暗かった部屋が完全な闇に包まれたのが、閉じた瞼越しにわかった。
前方でもぞもぞと人の動く気配がする。
どうせ目を開いても真っ暗だろうと瞼を持ち上げて後悔した。
…今井さんだ。
アゴが外れた状態の今井さんが、黒い眼球をこちらに向けゆらゆらと立っている。
もちろん夫人の姿は見えない。今井さんだけが、黒い背景にぼうっと白く浮かんでいるのだ。
今まで俺を覆っていた布はどこへ消えた
そう思いかすかに左手を動かすと、ざらざらしたものに触れた。確かに布はまだ俺を覆っている。
目の前の今井さんは、一体どうしてこんなにもはっきり。
視界の隅に白いものが映り反射的に見遣る。
女の子。
髪の毛が天井に向かって逆立っている。
真冬、下敷きで頭を擦って持ち上げると、静電気により髪の毛が下敷きにくっついてくる。あんな感じだ。
両眼はしっかり俺を捉えていて、アゴが外れている。
叫んでこの草庵を跳び出したい衝動に駆られるが懸命に抑える。
少女はその黒い眼球でじっとこちらを見つめると、ゆらっ、と後方に消えた。
前方の今井さんは身を翻し、こちらに背中を見せ桐箱をあさっている。
右斜め前には手足が異常に長い男が炎のようにゆらめき立っている。見知らぬ男だ。
骨と皮だけになった顔面は、頬骨がくっきりと浮き出ている。この男もアゴが外れ、ほら穴のような口を開けたまま桐箱の山を崩す。
猟奇的な目は手元ではなく、草庵の内部をくまなく舐めまわす。
― 頭上でカリカリと音がする。
当然見上げる勇気もなく、再び固く目を閉じる。もう二度と開けない、という誓いを立てて。
周囲からは、桐箱の山が崩れて床に落ちる音がそこかしこから聞こえる。ときおり背後や真横に冷たい気配を感じるものの、しばらく留まったあとは通り過ぎていった。
唸り声や呻き声。荒々しい鼻息。呪文のような呟き。天井や床を引っ掻き、這いずり回る音。
一体どれほどの人間が。
そう思わざるを得ないほど辺りが騒音でやかましい。
そのひとつひとつを一々感じ取っていたら、とても住職の言いつけなど守れない。
心中は嵐のように荒れ狂っていた。
住職との会話が途切れてからここまで、どれほどの時間も経っていない。せいぜい30分かそこらだろう。
朝まで気の遠くなるほどの時間がある。すぐに、朝になればこの脅威は去る、という希望に何の根拠もないことに気付き戦慄する。あとどれだけ耐え続ければ。
あっさりと誓いを破られたのは、それからしばらく経ったときだった。
騒音の嵐がぴたりと止み、静寂が下りてきた。その静けさを切り裂くように聞こえてきたのは、あの鋭利な音。
キキキキキキ…
被った布が、得体の知れぬ背後からの圧力によって音を立ててはためく。
生ぬるい風が吹いている。
このとき俺が意志に反して目を見開いていたのは、単純に逆らえなかったから。
背後から忍びよるものは、これまで感じたものとは比較にならないほどの凶悪な意志を滲ませていた。
その悪意は、俺が瞼を持ち上げようとする力にあらがうことを許さなかった。
視界の端から、風に髪をなびかせ
ぬうっ、と顔を覗かせたのは、女だった。特に異常なところもない、ごくごく普通の女だった。
目は死んでいるけど。
女は薄く笑みを浮かべながら、真赤な唇を細々と動かす。その姿は、平面から切りとったように立体感がない。実在感がない。
イシ、―シィィ…ノんダノ
目を丸くして問いかける。
ひとつひとつの音を、それぞれ別の場所から掻き集めてきたような声だった。機械音声のような。
声を出す気はさらさらなかったが、どうしてか妙にそうしたい気分になってくる。
女は俺に正対し、さらにまん丸になった右眼を中指と親指でつくった円で囲んだ。二指によって作られた覗き穴から歪んだ瞳をなげかけてくる。
…むうぅウッふふうふふ、
接した二指の腹をゆっくり離していく。その動作に呼応して、強引に口を開こうとする力がかかり始める。
筋肉が弛緩して力が入らない。開く。このままでは開いてしまう―
紐を強く引く。
…ヴィン!!! ンンン…―
弦を打つような音が闇をつらぬいた。女はその音に敏感に反応し、ぐるんっ、と背後を見遣る。
すると女の背中はすっと闇にとけこみ、再びあの喧騒が舞い戻ってきた。
反射的に目を閉じる。瞼にかかる力は消えていた。
視界をとざす瞬間、男の子の手を引く老婆がじっとりとこちらを睨み、前方に佇んでいるのをとらえた。
やはり二人ともアゴが外れ、眼球はあの黒石を埋め込まれたようだった。
緩い風と共に女が現れ、口を開こうとする度に紐を引く。
直後、四方から弦を打つ音が鳴り響き、女の気が逸れる。
再び喧騒が舞い戻る。
これを延々繰り返した。
自分を取り巻く一連の現象は、動画を再生するように毎回変わらない。
そこに敷かれているのは、無限ループする時間軸。
恐ろしいことだった。少なくともあの場にいた俺にとって。
身悶えするような悪夢を、何度も何度もみせつけられるような恐ろしさ。
自分に許されるのは「夢が終わるまで夢をみる」ことのみ。
夢ならまだいい。
たとえ幾度繰り返されるにしても、冒頭に戻るたび自分の精神状態もリセットされるのだから。
しかし現実は違った。
恐怖はリセットされることなく容赦なく蓄積し、俺の精神は危うい均衡をかろうじて保っていた。
時間の経過とともに布も体の一部となった。
再生動画のプロットが突如かきかえられたのは、草庵に朝の気配がたち籠めてきたころだった。
何者かが布を取り去り、腕を掴んだ。小さな悲鳴をあげたが、声を聞いて全身の力が抜けた。
「山をのぼる。ついてこい」
住職に手を引かれ勢いよく草庵を跳び出し、そのまま猛烈な勢いで山を駆け上がる。
背後では草庵に放たれた火がパチパチと音を立て、静かにその勢力を拡げようとしていた。
今井夫人は従者二人に支えられている。憔悴しきったような顔をしていたが、意識はしっかりしているようだ。
燃え上がる草庵。山火事になったりしないのだろうか、などと呑気なことを考えていたら、住職がそれを察したように言う。
「草木が乾く季節ではないし風もない。心配するな」
しばらくすると、二坪ほどの異空間が現れた。
季節でもないのに真赤に紅葉したモミジの下に、黒塗りの巨大な甕(カメ)がある。人ひとりならばすっぽり納まりそうだ。
従者のひとりが蓋をどけると、住職が俺の背中に手を当てながら言った。
「この甕のなかに石を吐き出せ。さあ早く」
言われた通りにした。こんなもロクでもないものを、いつまでも口に含んでいるわけにはいかない。
甕を覗きこむと、気味の悪い短刀が浮いていた。底のほうになにやらいろいろな影が見える。
ぽちゃん、と音を立てて石は甕の底に沈んでいった。それなりに密度は高いようだ。
「これで口をすすいで」
渡された水筒には冷たい水が入っていた。それを口に含み、吐き出す。
「もう大丈夫。…よく頑張った」
実感は湧かなかった。湧くはずもなかった。
なぜ呪われたのかも、なぜ助かったのかも分からないのだから。
住職は浮いた脇差を甕から取り出すと、しげしげとそれを眺めた。水が滴っている。
「これは呪いを浄化する甕。…特別なのは甕ではなく、なかに充たされている水だがな」
「あの女は、…大勢の人をみました」
「あの呪石に魂を囚われた者たちだろう。…この甕に入れておけば、長い年月を経て解放されるはず」
「…綺麗なモミジですね」
「そうか…俺はみていると悲しくなる」
そこで少し押し黙ると、脇差の表面を袖で拭い近くの従者に渡した。
「呪いがかけられた品は甕の底に沈むが、完全に浄化されれば水面に浮いてくる。理屈はわからない。
あの脇差は、おそらく数百年前のものだろう」
ふつう、刀が水に浮くだろうか。
鞘と一緒だからなかに空気が溜まっていて…と下らないことを考えてみたがすぐ止めた。
呪いがあれば沈み、濯(ソソ)がれれば浮いてくるのだ。
「夫人に感謝しなさい。彼女のおかげで、君はあの夜を乗り切ることができた」
今井夫人がキョトンとした顔をしている。
「体内から体外へ。そしてもう一度体外から体内へ。その過程を経て殺すことで魂を石に縛りつける。死霊の怨念で呪いの力は高まってゆく。
それを防ぐために、あえて口内に石を留めた」
第三者が聞いたら訳のわからない言葉だろうが、俺にはよくわかった。
ぞっとした。
今井さんの胃袋のなかで見つかった黒石。
あれは、捻じ込まれたのだ。あの女によって、口から胃袋まで。そうやって殺されたのだ。
怒りより、嘆きより、悲しみより、そこに純粋な恐怖を見出した。
一体今井さんはどれほどの恐怖を抱いて死んだのだろう。あの草庵でみた少女や老婆、男の子、痩せ細った男も、同じように。
他にも大勢の人間が、あの石の餌食となった。
「夫人がいたおかげで、術者以外は切り抜けることができた。もとよりあの黒布だけでは不十分だった。石に囚われた死霊をごまかすために、彼女は不可欠だった」
長い沈黙。
夫人と目が合って、彼女から微笑みかけてくれた。
深く頭を下げた。とうてい言葉では表現しきれなかった。
まさに命を拾った気持ちだった。
「桃を食っていくか」
「…え」
「桃が美味い季節だ。食っていくか」
「…いいんですか」
「夫人も。…桃はな、仙木と呼ばれる。呪いを退ける力があるからだ」
豪快に笑う住職を見ていると、不思議と暗欝な気分が晴れていった。
炎に包まれた草庵と、燃えるモミジが、閉じられた視界のなかで重なる。
括られた紐を静かにほどいた。
怖い話投稿:ホラーテラー 1100さん
作者怖話