『人が社会の中で起きた出来事を、さも自分自身のこととして扱わないのは、それは自己防衛のためである』
これは、むかしむかーし、どこかで生きてたらしいとあるお偉いさんが残したありがたーいお言葉である。その通り。その通りだと思う。いやその通りなんだよ実際。
だってそうだろう? きょうび頻繁に起こる殺人事件や事故。今朝未明、何々県の誰それさんが亡くなりました。交通事故にあいました。暴行を受けました。バッグをひったくられました。いちいち自分のこととして悲しんでお涙流したりしてちゃ、水分がいくらあっても足りないよ。
だから、そう。今日、家の外でパトカーのうるさいサイレンが鳴っていても、まるで気にも留めなかった。自分には0.000000001パーセントも関係のないことだと思っていたんだ。なにせちょっと遠くの他人にはまるで関心のない日本人の一員なんだしさ。当然だろう?
だもんでさ、その目出し帽を鼻までかぶった男が運悪く鍵の掛かっていなかった玄関のドアを開いて、目の前にいた哀れな子ヒツジに向かって不細工な黒い塊を突き付け、「静かにしろ!」 と怒鳴った時にも、まるで警戒感0のまま、廊下にあるトイレのドアの前で余計な時間をさくためにベルトを外したズボンのチャックを片手で半分おろしながら、トイレのドアノブにもう片方の手をかけてた……、まさにそんな状態だったんだよね。
全世界全歴史見渡しても千年に一度有るか無いか……いや無いな、って状況だよ。状況を把握して覆面の奴あんぐり口あけてやがんの。まあ、お口あんぐりはあちらだけじゃなくて、正直にもちろん二人共だったけどさ。
あんまりびっくりしたんで尿意も引っ込んでたよ。無言のにらめっこ。けど正気に戻るのが早かったのはこっちの方だよ。それは言える。
で、はっとわれに返って、まずしなくちゃいけなかったことは、勿論チャックを閉めてズボンを直すことだったのさ。向こうがいくら知恵がなさそうに見えても、この状態じゃどう頑張ってもこっちの方が野蛮人だからね。
でもその瞬間、覆面はこう叫びやがったんだ。
「う、動くな!」
その声は近所の動物園にいるゴリラのラー君が客のカメラの強烈なフラッシュに驚いた時の叫び声とそっくりだったね。いやホント。
あんまりそっくりだったもんで、ズボンを直そうとしていた手も止まっちゃった。
しかしだよ、「動くな!」 っておい。普通は、「そんな趣味の悪いピンクパンツ覗かせてんじゃねえ! さっさとしまえ!」 となるんじゃないか? 普通はさ。まあ、普通じゃないんだけどなこの状況。
「動くな、動くんじゃねえぞ……」
あいつは、そう言って、その手に持ったこじんまりした銃を改めてこっちに向けた。もう一方の手には、これまた小さな黒いバッグが大事そうに抱えられていて、自分は銃よりそっちの中身の方が気になったんだけど。仕方なくゆっくりと両手を挙げた。完全に、まいりました、のポーズだよ。ラー君が興奮した時に良くやるポーズだよ。しかもやつの命令通り黙ったまま。こんな夏日に黒いジャンバー黒いジャージ黒い目だし帽ってやつの言うことを聞くのはどうにも癪だったけどね。
……お口のチャックは閉めたんだからさ。下のチャックも閉めてもいい?
とすら言えなかったのは、「動くな」 って言葉が示す範囲にこの口が含まれているかどうかが微妙だったからで。まあ、今にらめっこしてるあのリボルバーは、どうもモデルガンに見えなくもなかったんだけど。今じゃ日本っていったって銃なんぞ珍しくないだろ? ヤマかけて、抵抗してズドンで死んじゃアホだなあって思ったのさ。それに、さっきから少しズボンが重力の力に屈服して下方にずり落ちてきていてね。この状態じゃまともに動けるかどうかすこぶる怪しかったんだ。
覆面野郎は、ずかずかと家の中に入ってきた。靴のままでさ。それ見たらさすがに、「あ」 って声が出たね。外人じゃあるまいし、あ、いや外人かもしれないけどさ。いやさっきの声からすると猿人って可能性もあるな。ラー君の親戚かな。無駄に黒いしさ。
「後ろを向け!」
……はいはい。そんなに怒鳴らなくてもちゃんと聞こえるよ。耳は付いてんだ、ほら見えるだろ。全く馬鹿だね。覆面のセンスも悪いしよ。
「さっさと、はやくしろっ!」
イライラしてるな。心の声だったのに、どうやらちゃんと伝わったみたいだ。
とかなんとか思っていたら覆面野郎はどこから出したのか何に使ってたのか、ガムテープを取り出して、後ろに回したこちら両手を背後からぐるぐる巻きにしやがった。口は巻かれなかったからよかったけど、「声を出したら殺すぞ」 と言われていたので、「できればズボンもずり上げてからにしてくれない?」 と頼むことは断念せざるを得なかった。無念だ。どうもその場に留まることを知らないのか、無情に徐々にずるずると下がってきている。というかだったら口にも張れよ、ガムテープ。
ところで、その辺りになってようやく、一体全体この男は何なんだ。という至極当然の疑問がふっとわいてきた。この全く不可思議な状況を、断片的な情報に憶測を十二分に交えて整理してみる。
おそらく、この覆面野郎はどこか、銀行とか郵便局とか金の在りそうな場所で、いわゆる強盗というやつをしてきたんだな。んで、途中までは成功したんだが、どこかでヘマをやらかした。警察を呼ばれてしまったんだな。急いで逃げようとしたけど、サイレンの音はもうすぐそこまで来ているし、逃走車も無い。これじゃあすぐに捕まってしまう。で、パニックになりかけたこいつの目に一軒のぼろい平屋のアパートが映った。そこが、自分の今現在の住み家、要するにココだったというわけだ。大体はこれで間違ってないと思う。
しかしハタ迷惑な話だよな。何でこのアパート? 何でこの部屋なの? 実際宝くじがの一等が当たるより低くね? 真昼間だし。犯行現場が近かったのかな。ということは襲われたのはあの近所の銀行だったのかも。あそこ、美人でボインな従業員さんがいるんだよね。……おい、何もしてねーだろうな、コラ。
両手をぐるぐる巻きにし終わると、覆面は、哀れな人質一名に居間の隅に座っているよう乱暴に指示した後、反対側の窓のある壁際で、こちらに銃を向けたまましきりにカーテンの隙間から外の様子を窺っていた。で、次にポケットから携帯電話を取り出して、誰かに電話を掛けているようだった。
「……もしもし、俺だ。やっちまった、やっちまったよ」
繋がった気配があった途端、覆面は、「やっちまった」 と早口で連呼する。まあその姿は落ち着きがないし、「なあ、助けてくれよ」 と哀願するその姿は大の大人としては実にみっともない。
「……は? な、なにい?」
その瞬間、言葉のトーンがとーんと上がった。いや、ギャグじゃなく、ホントにそんな感じだったんだよ。
「ちょ、ちょっとまて……、おい? ……おいっ!」
どうやら、頼りにしていた人物から見捨てられたらしい。がくりと肩を落とすと、覆面はその場に崩れ落ちるようにして腰を落とした。
チャンスだ。
そう思ったね。チャンス。この状況を打開する絶好のチャンスだと。言わば、幸運の女神が前髪振り乱して来たってやつだ。だから、意を決して、
「あー、ちょっと……」
……このズボンをさ、ちょっと直そうと思うんだけど、いい?
そう言おうとしたんだ。
「うるせえっ、黙ってろ!」
バン、
意外に間抜けな音がして。右耳から約五センチ右の壁が一部分吹き飛んだ。覆面の手の中の銃が火を噴いたらしい。で、今は煙を吐いているんだが。やはりあれは本物だった。やれやれ、日本も危ない国になったものだなあ。
「死にてえのか、このガキ!」
もう一発。銃声が鳴った。今度は頭上十センチ。うひゃ、アブね。ビビり過ぎて、なんか身体のどっかが、『キュン』ってなった。無論、誰かに恋した時の擬音では無い。
いや死にたくはないよ。本当だよ。マジ話。だけども、だけどでございますよ、わたくしはですね、人前でズボンずれててパンツ丸見えという、非文化人的な状態をこれ以上維持していたくもないわけでありまして。 『無人島に一つだけ持って行けるなら何にする?』という質問に『服』は含まれないのですよ。おわかり? 何が言いたいかというとですね、服は人間の象徴みたいなもので、だから、今この状態はわたくしにとっては非常に恥ずかしいわけなのですよはい。
「ああ、くそ!」
覆面は覆面をしているにもかかわらず表情がとても豊かだ。野郎は何を思ったかいきなりテーブルの上のリモコンをとり、テレビのスイッチを入れた。そして出てきた画面を片っ端から変える。一体何がしたいのか、……あ、NH系はやめてね? 受信料払えって来た時に居留守使い辛くなるから。
「……っんでやってねえんだよっ!」
叫び声とともに、リモコンがこちらへと飛んでくる。今度は顔の左一センチをかすめ壁に当たって床に落ちた。しかしこいつは、さっきから当てるつもりなのにコントロールが下手なのか、それともうまく当たらないようにしてくれているのか。どうもよくわからん。
しかし何が、「やってねかった」 のだろう。もしかして自分が起こした事件がニュースでやっていないことに腹を立てているのだろうか。だとしたら可哀そうだ。いろいろな意味で。というか、穴とかへこました壁とか、後でちゃんと弁償しろよ。
覆面は、そのまましばらく項垂れていた。背中を丸め、後頭部にぽこんと突き出た、ああいう帽特有の小さな団子みたいな膨らみがどこか哀愁を感じさせる。まあそれっぽっちの哀愁を感じたとこで、どうということはないけどな。
「やっぱ、捕まるのかなあ……」
そんなこと、至極当然当たりマエダの缶コーヒーだろう。と心の中で唾を吐く。
「なあ……、お前は、どう思うよ?」
と、ここで何故か意見を求めれる。
「答えろよ」
そして、また銃を突きつけられる。しかしまあ、その態度が人にものを尋ねる態度かね。実際こいつの相手にはもうウンザリしていたのたが、仕方ないので正直な意見を言わせてもらうことにする。
「いやあ、そんなことより、このズボンをね……」
「うらあ!」
覆面が吠えた。腕を伸ばしたその銃口はまっすぐこちらを向いている。
そして、
カチリ、
と音がした。
また、カチリ。
すぐに、カチリ。
カチリ、カチリ。
「あ、あれ……?」
覆面が慌てふためいている。弾切れのようだ。馬鹿め、強盗先で何発か撃ったんだろう。
チャンス。
二度目のチャンスだ。今度はやれる。前髪しかないという幸運の女神は無情にもついさっき目の前を通り過ぎていったわけだが、あいにくこっちはそのつるっパゲた後頭部にくっつくための吸盤を隠しもっていたのだワハハハといったところか。
覆面をきっと睨みつけ、立ち上がった。後ろ手に縛られているが、奴は銃の弾が切れたことで慌てふためいている。今しかない。今しかないのだ。
ズボンを、いや、この恥ずかしい状態をどうにか元に戻すのだ!
だがしかし、正に丁度のその時だった。
ドドンッ、
という玄関のドアが蹴破られる重い音と共に、
……ズボンが、膝まで、落ちた。
いやいやいや違う。いや、違うことはないのだが、というかむしろこちらの方が重大な事態なのだが、ドアが開くとともに、大勢の警官が部屋の中になだれ込んできたのだ。これまた土足で。
そして、覆面男はあっという間に、あっけないほど簡単にその場に取り押さえられた。まあ僅かに抵抗はしていたのだが、なにせ銃に弾は入ってないし。文字通り無駄な抵抗だった。
「君、大丈夫か?」
覆面の怒号と警官達の罵声の中、その警官の内の一人がそう尋ねてきた。その声は存外心配そうで、理由はたぶん、というか確実に、情けなく膝まで落ちたこのズボンのせいだろう。……あれれ? 助かったはずなのに、何だか泣きたくなってきたぞ?
「ええ、だいじょうぶです」
しかし、これは当然のことなのですと、あくまでポーカーフェイスを気取る。だから、両腕からガムテープが外された後も、すぐにズボンを上げることはせず、堂々とそのままでいたんだ。その行動は、何も無かったんだよと強調したかったのか。それともここまで大勢に見られたなら、もうどうということは無いと開き直ろうとしたのか。はたまたアブノーマルな露出狂への道を一歩踏み出したのか。自分にも分からなかった。……いや最後のは違うけども。
警官は困惑していたのだろう。
「本当に大丈夫か、その……」
そんな困ってしまってワンワワンなおまわりさんを一旦無視して、サッと視線を廊下に向けた。そこには手錠をかけられ、警官たちに囲まれ、先程とは打って変って、背中を丸めて大人しく連行されて行くラー君、いや覆面野郎の姿があった。
「なあ」
そのみじめな背中に、ようやく、こう、問いかける。
「もう、ズボン上げてもいいかな?」
覆面は振り向かなかった。今後の自分の境遇を想像するのに夢中で、声自体届いていなかったのだろう。「どうして……、こんなに早く、どうして……」 とうわごとのように繰り返していたけどそりゃあんた、二発も銃声がすりゃあな。
そして覆面は、警官達が突入の際乱暴に開け放ったからか、微妙に曲がっているような気がする薄くてボロい玄関のドアからトボトボと出て行った。その行き先は刑務所という名の動物園か……。
しかし、やっとこさ言えたっていうのに、返答なしとは、いやあ、残念だ。
だから、
「いいですよね?」
行き場の失った質問を、目の前の警官にぶつけてみた。
もちろんその警官は、ハトが豆鉄砲くらって風穴開けられた自分のハト胸を眺めつつ、「……え、ウソ? ナニコレ?」 みたいな顔をして、
「い、いや? ……うん。履けば、いいんじゃないかな」
てな感じの、至極まっとうな回答をくれたところで、この真昼間の強盗&立てこもり事件はハッピーエンドでもって幕を閉じるわけだ。
ちゃんちゃん。
あ、ちなみに、後に知ったことだが、覆面が強盗に入ったのはやはり近所の銀行で、あのボインで美人なお姉さんは無事で、特に何もされてないとのこと。良かった良かった。
まあでも、それは当然だろうな。
なにせ、こんなに若くて可愛い女の子がパンツ丸見え状態でいたってのに、それに対して何の反応も見せなかったある意味失礼な野郎なんだからさ。
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作者怖話