長編9
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溜め池

今から10年ほど前になるだろう。大学を卒業した俺は日本海側の地方都市にある伯父の不動産会社に就職した。

実家のある山合いの町からは車で30分ほどの距離だが、一人暮らしをしたかった俺は会社で管理しているアパートの1室を、大家に交渉して少々家賃を負けて貰い暮らしていた。

そして働き出して1年ほど経った頃、残っていた雪もすべて解けた3月の下旬に俺は初めてT兄と出会ったのだ。

「こんにちは、アパートの見学をお願いしていました者ですけど・・・。」

「あ、○○さん(T兄の苗字)ですね、お待ちしておりました。どうぞお掛け下さい。」

全国的なハウスメーカーに勤務しているT兄は1週間ほど前に転勤の辞令が出たため、ネット経由でうちの会社のアパートに問い合わせをしてきたのだ。

今日は市内にある赴任先の事務所に挨拶がてら、引越し先の住まいを決めるためアパート見学の約束を入れていた。

お茶を出しながら、問い合わせのアパートや希望条件に合いそうな物件をいくつか紹介し、3件のアパートを案内することとなった。

社用車など無いので俺の車の助手席にT兄を乗せて1件目のアパートへ向かう。ちなみに任意保険と一定のガソリン代は会社で負担してくれている。

「○○さんは出身はどちらですか?」

「生まれは神奈川なんですけど、小学生のときから卒業するまでは隣のB県です。油断すると方言が出ちゃうんですよね。」

「じゃあ雪は大丈夫ですね。慣れてないと雪かきや冬の運転は苦労しますからね~。」

世間話からT兄は俺の2コ上なことが分かった。ほかに趣味が俺と同じ釣りということで、打ち解けるまでそう時間はかからなかった。

1件目のアパート見学が終了し、2件目に向かう。実はここは俺の住んでいるアパートで、つい先日大学生が卒業したため空室となっている部屋があったのだ。大家に家賃をサービスしてもらっている手前、できれば早めに客付けしたいと考えたからだ。

アパートに到着し部屋へ案内しようとするが、車を降りたT兄はアパートとは反対の方向へ視線を向けたまま立ち尽くしている。その表情からは何の感情も読み取れない。

どうしたのだろうと声を掛けようと思った瞬間、ふとT兄は右手を上げとある方向へ指を差す。そして気持ち硬い声で俺に問いかけてきた。

「Sさん、向こうには何があるんですか?」

「えっ、あっちは田んぼや畑ですね。まあ民家もパラパラとはありますけど・・・。」

実際、特筆するようなものは無かったはずだ。この市は海に注ぐ川を真ん中に平地があり、ちょっと外れるとすぐ山に入っていく地形である。

アパートはその平地の端にぎりぎり位置していて、駅や街中からは少々遠い。近所にちっぽけな大学があるので学生向けにアパートが10件ほど建っていて近くにコンビニもあるが、ただこれより奥は山を2つ3つ越えたところに小さな集落がある位だ。

「あ~、いや何でもありません、それじゃお部屋を見せて頂けますか?」

T兄は先ほどまでの穏やかな調子にもどり俺をアパートの方に促した。少々気になったが仕事モードに切り替えて中へ案内する。

空室は東側の角部屋101号室だ。南にはちょっとした庭があり、その前は田んぼなので日当たりも大変良い。お風呂は追い炊きではないが、独立洗面台があるのをT兄は気に入っていた。

そして次の物件に向かおうと車に乗り込み

「実は自分もこのアパートに住んでいるんですよ。もしここに決めて頂いたら、2階の角204号室に居ますから何かあればいつでも声掛けて下さい。」

わずかな時間の間に俺はT兄の人柄や雰囲気を気にいっており、友人付き合い出来たら良いなと思ってそう言った。

「本当に?じゃあここに決めますよ。Sさんと会ったのも何かの縁かもしれないし。」

T兄は笑いながら右手を差し出してくれたので俺もその手を堅く握る。そう、俺にとってこの出会いは人生の中で決して忘れられないものとなるのだった。

それから2週間ほどが経ち、T兄が入居する日がやってきた。事務所で鍵受け渡しの準備を終え、アパートの周辺でめぼしいお店などの場所を住宅地図からコピーを取っていた時あるものに目が留まった。

それはアパートから直線距離で300mほど先だろうか、溜め池があることに初めて気が付いたのだ。不動産会社なので地図はしょっちゅう開いているのだが、アパートの載っているページは溜め池のページと異なっているため見落としていた。

「これってアパート案内したときに○○さんが気にしていた方向だよな・・・。」

T兄とは現地で13時に待ち合わせの予定だ。今すぐ出発すれば30分くらい余裕がある。俺はT兄が到着した際にこの事を報告できるように池を見に行くことにした。

現地付近に差し掛かり、地図に載っている道路から池に向かう小さな道のところで車を停める。車でも何とか入っていけそうだったが、Uターン出来ないと面倒だと考え徒歩で池へ向かう。なるほど道路からだと池との間に林があるため今まで気が付かなかったんだなと一人で納得する。

舗装などされていない畦道を少し広くしたような道は、前述の林の脇を回り込むように進んでいく。最近まで雪が残っていた為かほどんど人が通っていた気配を感じない。

程なく溜め池が視界に入ってきた。周囲は150mほどだろうか、見た限り池の周りは護岸などされておらず、枯れ藪のためどこから水辺なのか判り難い。風もなく水面は鏡のようにひっそりとしている。

しかし何だろう先ほどから身に纏わり付くこの感覚は・・・。4月の上旬で天候も晴れ、気温も低くなくのんびりとした情景であるはずなのに・・・。

そうだこれは焦燥感だ。何かが俺の心に「■■シナケレバイケナイ」と盛んに訴えている。ただ何をすれば良いのかが分らない。どうして「■■シナケレバイケナイ」のかが判らない。

気持ちばかりが焦り、じっとしていることが出来ない。うろうろと池のほとりを歩き廻る。

「ヒィッ!!」

その時右足首を冷たい手に掴まれた。

いや、実は右足を水に突っ込んでしまっていただけだった。枯れ草のせいで岸だと思っていたところまで水がきていたことに気が付かず、踝の上まで水に浸かってしまっていた。

底は泥状なのだろう、ゆっくりとだが足がズブズブと沈んでいく。

「あちゃあ、酷い目にあったな。自分の部屋に戻って着替えなきゃ。○○さんまだ着いてないと良いけど。」

先ほど情けない悲鳴を上げてしまった自分自身に照れながら、足場のしっかりしている左足に重心を乗せ、右足を泥から引く抜こうとする。靴にまで泥水が入り込んでいるので足が重く、すぐには抜けない。

姿勢を低くし、地面に手をつけながらもう一度足を抜こうと・・・

「っっ!?」

そして、今度こそ間違いなく、誰かに足を掴まれた。

声が出ない!

足を引っ張られている!?抜けない!

さっきは踝までだったのに、膝下まで足が入ってしまってる!

足首が痛い!誰かが引きずり込もうとしているんだ!

助けを呼ばなきゃ!

声が出ない!ちくしょう何で!?

痛えな!離せよこのガキ!

そうだ携帯!誰かに助けを・・・

駄目だ、片手じゃ引きずり込まれる!

誰か助けてくれ!誰か!誰か!

オカアサン助ケテ!!約束ヤブッテゴメンナサイ!!

沈ンジャウ!!オカアサン苦シイヨ!!

助ケテ!!オカアサン!!オカアサン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「プルルルルルルル」

その瞬間、胸ポケットの携帯が鳴り出したと同時に引きずり込もうとする力が消え、俺はもんどりうって反対の草むらに一回転しながら突っ込んでいた。

しばらく動けずにいたが携帯は鳴り続けている。さっきひっくり返った際に携帯はポケットから飛び出してしまったようだ。這いずりながら着信音を頼りに携帯を探し出し、画面を見ると表示はT兄からとなっている。

通話ボタンを押そうと思っていると誰かがこちらに向かってくる音に気づいた。林の方に視線を向けると携帯を耳にあてながら全力で走ってくるT兄の姿が目に入った。安堵から涙が零れた。

アパートに戻り泥だらけの服を脱ぎ捨て風呂に入った。空の浴槽に体育座りしながらお湯の溜まるのを待った。人心地つくまで一時間は風呂に浸かっていただろう。

風呂を出て会社に電話し、午後休みをもらった。恐怖感よりも疲労困憊で動く気力が無かったのだ。

しばらく何も考えず布団にくるまっているとノックの音ともにT兄が声を掛けてきてくれた。

「今とりあえず引越し終わったよ。Sさん気分はどう?」

「少し落ち着きました。しかし何が何だか分らなくて・・・。そういえば○○さん、なんでさっき池の方に俺がいること気付いたんですか?ってあれ池のことなんで知ってたんですか?」

部屋に上がってもらいコーヒーの用意をしながら話していてようやく気が付いた。なんでさっきあの場所にT兄が来ることが出来たのだろう?

「実は引越し業者と一緒にアパート向かってたんだけど、曲がる箇所間違えて行き過ぎちゃったんだ。そうしたら道端にSさんと同じような車が停まっているの見かけたんだよね。それから一旦アパートに戻ったんだけどSさん来ないし、それに嫌な雰囲気感じてもしかしたらと思ったんだ。」

「やっぱり最初に来たとき何か感じてたんですね・・・。」

「うん、変なヤツと思われるの避けたかったから言わなかったけど、救いを求めるような感情が向こうの方角からね・・・。」

「池があること俺知りませんでした。今日地図見ていて初めて気が付いたんです。時間に余裕があったから○○さん着く前にちょっと見てみようと思って。」

「そうか僕が余計なことしちゃったからSさん関わらせてしまったんだね。本当に申し訳ない。」

T兄はばつの悪い顔をしてそれから俺に頭を下げた。

「そんなことないですよ!○○さんが電話くれなかったら俺引きずり込まれてましたから!携帯がなった瞬間にふっと引きずり込む力が消えて助かったんです。」

「タイミング良かったんだね、外部からの刺激で霊との繋がりがその時途切れたんだ。それで霊はやっぱり男の子だった?」

「そこまで分るんですか。そうです、小学生くらいの。いや見てないんですけど。あれ、何で男の子だと感じたんだろ?」

「霊と精神的につながると、その思念が流れ込んでくるんだ。それに想いが強いほど身体も影響を受ける。たぶん物理的に引っ張り込まれたんじゃなく、自己暗示っていうのかな、自分で体をそう動かしてしまっている事が多いんだ。」

自己暗示うんぬんはにわかに信じがたかったが、確かに自分のものとは思えない感情があった。

「あの子、ずっと母親を呼んでいました・・・。助けてお母さん、ごめんなさいお母さんって。」

そうかあの焦燥感はきっとあの男の子の気持ちで、

オカアサンニ

アヤマラナケレバイケナイ

だったのだろう。

先に後日談となるが、伯父に溜め池のことを聞いたところ3年ほど前に小学生の男の子が亡くなる水難事故があったそうだ。当時俺は県外の大学にいたため知らなかった。

夏休みに自転車で虫取りに出かけていた男の子は「一人で川や池に行ってはいけない」という母親との約束を破ってしまった。俺が池にはまった場所の近くで発見されたという。

両親は事故のあと1年ほどして引っ越してしまったそうだ。池は私有地内のため市による柵の配置などはなされていない。だが数年後とある人物の(私的理由による)尽力により埋め立てられる事となる。

話を戻すがその後T兄からいくつかアドバイスをもらった。

溜め池のほうには一人で行かないこと(近くに行かなければ大丈夫との事)。

同情心は持たないこと(体を明け渡すことになる)。

お祓いを受けた方が良いこと(一度受信してしまっているので他の霊の影響を受けやすくなる)。

彼女をさっさと見つけること(部屋が汚いと言われた)。

「そうそう忘れてた。これ。」

T兄は手提げの紙袋から包みを取り出し、笑いながら俺にこう言った。

「本日101号室に引っ越して参りました○○と申します。今後ともよろしくお願いいたします(笑)」

「これはご丁寧に恐縮でございます。私Sと申しますので今後とも末長~くお付き合い下さい(笑)」

俺が○○さんのことをT兄と呼ぶ仲になるまで、さほど時間は必要なかった。

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