知人から聞いた話です。
工務店に勤務のTさんは、勤務先に出社後、いつも通り当日のスケジュールを確認した。
・10:00 x邸 n市xx
・13:00 y邸 n市xx
・16:00 z邸 n市xx
その日の担当住宅は3軒。
いずれも同県同市内の為、移動に時間はかからない。
Tさんの仕事は物件購入後、数年毎に実施される住宅の定期点検だ。
外壁、内装、水回りに床下、住まいのありとあらゆる箇所を点検し、気になる点を居住者からヒアリングする。
後日、点検の際に撮影した写真と点検結果をまとめ、売主である不動産会社と居住者に提出するのが一連の業務の流れとなる。
スケジュールを確認後、社用車に作業道具を詰め込み、会社を後にした。
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9:40。
Tさんはx邸に程近いコンビニの駐車場で携帯を取り出した。
掛け先は1軒目のx邸だ。
「はい。xです」
数コール後、気の良さそうな女性が電話に出た。
Tさんは予定通り10:00に伺う事を告げ、電話を切った。
事前の電話は住居者に合わせた行動をする為の必要タスクになっていた。
過去に定期点検の日である事をすっかり忘れていた人もいたそうだ。
普段から部屋が片付いてる人にとっては何の問題も無いが、そうでは無い場合は問題となるケースが多い。
勿論、定期点検を覚えていても、当日焦って部屋を片付ける人はいるだろう。
「そんなの聞いてない」
「時間を少し遅らせて欲しい」
「別の日に変更して欲しい」
となってしまう事も少なくない。
そういったやりとりを少しでも減らすため、前日と当日の事前電話確認を実施している。
Tさんはコンビニで購入したウーロン茶とおにぎりを食べ終えると、x邸に向かった。
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「本日はお休みのところ、お時間いただき申し訳ありませんでした。では、失礼します」
時計の針は11:30を指していた。
いつも通り、問題無くスムーズに終える事ができた。
家の間取りにもよるが、定期点検の所要時間は平均すると1時間~1時間半前後だ。
もう少し早く終わると予想していたが、xさんの世間話にだいぶ付き合わされてしまった。
それでも2軒目のy邸に伺うまでまだ時間に余裕があった為、y邸に近いファミレスで昼食をとる事にした。
ハヤシライスを注文し、待っている間は新聞を読んだ。
ふと、テーブルの上に置かれた携帯電話が小刻みに揺れる。
発信元はTさんの勤める工務店からだった。
2軒目のyさんから本日キャンセルの連絡が入ったとのこと。
駄目元で、3軒目のzさんに前倒しで伺っても問題無いか確認の電話を入れたが、コール音だけが耳に残った。
3軒目まで時間が空いてしまうが、工務店には戻らずに、そのままファミレスで時間をつぶす事にした。
道路の渋滞状況が読めない為、2軒目→工務店→3軒目の移動にリスクがあると判断したからだ。
Tさんはハヤシライスを食べながら、再び新聞に目を落とした。
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15:40。
Tさんはz邸に程近いコンビニの駐車場で携帯を取り出した。
掛け先は3軒目のz邸だ。
しかし、何度かけてもzさんが電話に出る事は無かった。
仕方なくTさんは事前連絡が取れないまま、z邸に向かった。
前日の事前連絡も取れていなかった為、内心心配していたTさんだったが、z邸の前に着くとその心配は払拭された。
玄関先で一人の女性、zさんがほうきとちりとりを手に掃除していた。
見た目は三十代半ばといったところだろうか。
zさんはTさんと目が合うなり、掃除道具を玄関の傍らに置き、歩み寄ってきた。
Tさんは社用車から降りるとzさんと挨拶を交わし、名刺を渡した。
「まずは外壁、外装から確認しますので、終わり次第お声がけします」
デジカメとメモ帳を持ち、z邸の外周をぐるりと回る。
z邸の裏手にある公園から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
アイボリー色の外壁は多少の色褪せはあるものの、ひび割れも無く、何の問題も無かった。
z邸の外周を一回りし、点検結果報告書用の写真をデジカメで数枚撮影した。
「すみませ~ん!外回りの点検終わりましたので、室内を見させていただきます」
「…」
開いたままの玄関ドアから呼びかけてみるも、何の返事も無かった。
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z邸の間取りは4LDK。
玄関の左手にトイレ、その先には2階へと続く階段、2階には子供部屋が2部屋と寝室が1部屋。
バルコニーには寝室と子供部屋から出入りが出来るようになっている。
玄関正面にあるドアを開けるとリビングがあり、リビングの右手に客間が1部屋。
リビングの左手ドアの先には洗面台と浴室がある。
Tさんは事前に不動産会社から受け取った間取り図を確認していた為、z邸の間取りは大体把握していた。
靴を脱ぎ、玄関にあがり、再び呼びかけてみる。
「すみませ~ん!」
「…」
返事は無い。
Tさんは目の前のドアを開けた。
まだ外は明るいが、全ての窓はシャッターもしくはカーテンにより、陽の光は完全に遮断されている。
20畳近くあるリビングの中央、真っ白い四人掛けのダイニングテーブルだけが視界にはっきりと映る。
ダイニングテーブルの中央には蝋燭が置かれ、玄関先で掃除をしていたzさんらしき女性が背を向けて座っていた。
玄関から見て左手前の席に髪の長いzさん、その右隣に小学生くらいの背丈の女の子、おそらく娘だろう。
向かいの席には黒のタンクトップを着たがたいのいい男性が二人、ダイニングテーブルに突っ伏している。
「あの~。すみません」
「…」
真後ろから呼びかけてみるも、返事は無い。
かすかに息遣いだけが聞こえている。
「2階から点検しますので、終わり次第また声をかけさせていただきます」
気まずい雰囲気であった為、そう声をかけるとTさんはリビングから出てドアを閉めた。
2階へと続く階段を数段上がった時、リビングの方から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
余程の人見知りなのだろうか。
理由も判らないまま無視され続けたTさんは少し苛立っていた。
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2階はどの部屋も手入れが行き届いており、外れていた網戸を取り付け直しただけで、外回り点検と同様に問題無く終わった。
階段を下り、再び1階に向かった。
リビングからは楽しそうな話し声、笑い声が聞こえてくる。
最初にリビングに入った時の、まるで御葬式のような雰囲気は全く感じられなかった。
廊下を進み、再びリビングのドアを開ける。
「…」
予想外の光景にTさんは自身の目と耳を疑った。
誰もいない。
リビングに入る直前までは確かに話し声も笑い声も聞こえていた。
しかし、今は何も聞こえない。
「すみませ~ん!2階の点検終わりましたので、1階を点検させていただきます」
「…」
やはり、誰からも返事は無かった。
Tさんはリビングの電気をつけ、1階の点検に着手した。
外は暗くなり始めており、室内時計は17時を指していた。
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スムーズに開け閉め出来ないシャッターが一箇所あった事を除けば、Tさんが足を滑らせて転ぶまでは何の問題も無いはずだった。
手入れが行き届いたフローリングの床に足を滑らせ、Tさんは転倒してしまった。
真っ白な天井が視界に入った。
その時だった。
「え…」
Tさんは自身の耳を再び疑った。
床下から、話し声が聞こえてくる。
聞き間違えかと思ったTさんはフローリングの床に耳を近づけた。
空耳や幻聴かと思ったが、確かに話し声が聞こえる。
話し声の合間合間には楽しそうな笑い声も聞こえる。
z邸の間取り図上、リビングの下に地下室は無い。
何も聞かなかった事にしてそのまま帰りたい気持ちはあったが、Tさんの立場上、それは叶わなかった。
定期点検における最後の仕事、床下点検が残っていたからだ。
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社用車に戻ったTさんは、床下点検用の作業着に着替えた。
懐中電灯が正常に点く事を確認し、その他備品も問題無い事を再確認し、Tさんは再びz邸に入った。
「すみませ~ん!最後に床下を点検しますので、終わり次第お声掛けさせていただきます!」
Tさんは自身の恐怖心を隠す為、とにかく大声で話しかけた。
もちろん返事は無かったが、きっと家族で買い物にでも行っているんだろうと自身に言い聞かせた。
z邸の床下には、浴室手前、床下収納の底板を外して入る必要があった。
床下収納にはお米二袋と新聞紙の束が入っていた。
底板を外し、Tさんは床下へと潜って行った。
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床下には地下室も無ければ、誰もいなかった。
鼻炎持ちだったTさんの鼻をすする音だけが聞こえた。
さっきの話し声や笑い声はきっと他の家から聞こえてきたんだろうと思った。
何事も無く安心したTさんは、床下点検に着手した。
床下点検ではシロアリ等の害虫がいないか、コンクリートや木材の状態に問題が無いかを目視で確認しつつデジカメで撮影する。
建坪が広いz邸の床下を端から端までチェックするのには時間がかかった。
「よし。終わった。戻るか…」
床下収納から一番離れたリビング奥の客間までの点検を終え、1階に戻ろうと床下収納に向かおうとした時。
『どさっ…』
1階の床下収納から何かが滑り込むように落ちてきた。
はっきりとは見えなかったが、髪の長い女性のようだった。
次の瞬間、床下収納の入り口が塞がれ、1階から差し込んでいた明かりが消えた。
「え?え?」
今までに体験した事の無い状況にTさんはパニックになった。
一度だけ、床下点検中に子供がふざけて入り口を閉めてしまった事があったが、今回は状況が違う。
おそらく閉じ込められた上に、床下収納の真下に誰かが倒れている。
Tさんの位置から距離にして10メートルくらいだろうか。
「大丈夫ですか?!」
懐中電灯を照らしながら、Tさんが呼びかけるも女性は微動だにしない。
心配になったTさんが近づこうとした時だった。
「アナタ、アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ…」
まるで機械音声かのように、同じ台詞が繰り返される。
倒れていた女性が突然動き出した。
ほふく前進をするようにTさんに向かって近づいてくる。
懐中電灯に照らし出された女性の姿に、Tさんは腰が抜けてしまった。
ほふく前進をする際は床に顎がつくような態勢になるはずだ。
しかし、目の前の女性は違った。
床に頭のてっぺんがついていた。
首がねじれ、頭が180度反対を向いていた。
「アナタ、アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ…」
ゆっくりと近づいてくる女性。
Tさんは動揺のあまり、身体を動かす事が出来なかった。
「あ!」
突然、手に持っていた懐中電灯の灯りが消えた。
懐中電灯の電源スイッチを何度押しても灯りは点かない。
「アナタ、アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ…」
真っ暗闇の中、首のねじれた女性の声と這いずる音だけが聞こえてくる。
身体を動かす事が出来ないTさんはただただ目を瞑る事しかできなかった。
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数分後。
物音も女性の声も何も聞こえなくなった。
身体も動く。
安堵したTさんは早く床下から出ようと、再び懐中電灯の電源スイッチを押したが、何度試しても灯りは点かない。
「あ…」
その時、Tさんは思いついた。
デジカメのフラッシュを使えば良かったと。
床下の入り口があるであろう方向に向かって、デジカメの電源を入れた。
「ひっ…!?」
明るくなった床下、Tさんの目と鼻の先に首がねじれた女性がいた。
ねじれた首元からは血がしたたり落ち、白目を剥き、腐敗した顔面は所々が剥がれ、内側の白い骨が見え隠れした。
これまでに嗅いだ事の無い異臭にTさんは吐き気を覚えた。
「アナタ…アイタカッタ…」
何本かの指先が欠損した女性の両手がTさんの顔を覆った。
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「…ごめ、かぁごめぇ、かぁごのなぁかの、とぉりぃいはぁ…」
聞いた事のある歌が聞こえてくる。
確かに先程まで床下にいたはずだが、目を覚ますとTさんはz邸の裏手にある小さな公園にいた。
「いぃつぅ、いぃつぅ、でぇやぁるぅ…」
姿勢良く正座した状態で、Tさんは金縛りになっていた。
視界にはTさんを中央にぐるぐると円を描きながら歌い歩く、裸足の子供達の足元が見えた。
「よぉあぁ、けぇのぉ、ばぁんにぃ…」
Tさんは視線を上げる。
手を繋ぎながらTさんの周りを子供達がぐるぐると周っている。
「つぅると、かぁめが、すぅべったぁ…」
更に視線を上げる。
「…」
Tさんは目を瞑った。
これ以上、見てはいけないと直感的に判断したからだ。
Tさんを取り囲む子供たちは、身体は正面を向いていたが、顔は真後ろを向いていた。
床下の女性と同じように、頭部が180度反対にねじれている。
ねじれた首元からは真っ赤なチョーカーをしているかのように血が流れ出ている。
「うしぃろぉのぉ、しょぉめぇん、だぁあれぇ…」
公園内を静寂が包み込む。
子供たちの歩みと歌が止まった。
Tさんは何も言えず、更に強く目を瞑った。
「だぁあれぇ…、だぁあれぇ…、だぁあれぇ…、だぁあれぇ…」
答えなければならないのは判ってはいるが、Tさんを取り囲む子供の名前など知らない。
ましてや、全員顔が反対を向いている為、顔すらも判らない。
「だぁあれぇ…、だぁあれぇ…、だぁあれぇ…、だぁあれぇ…」
一歩ずつ、子供たちが前に歩みだした。
Tさんを取り囲む子供たちの円が徐々に小さくなる。
「アナタ…アイタカッタ…」
Tさんの背後から聞き覚えのある声と共に、何者かが抱きついてきた。
痩せこけ、腐敗の進んだ腕。
凄まじい異臭。
床下の女性である事は間違いなかった。
「アナタ…アイタカッタ…」
会いたかった?私に?
Tさんは全く身に覚えが無かった。
「ワタシハ…ダァアレェ?」
分からない。
そう言いたかったが、声は出なかった。
「ニドト…ハナサナイ…ニドト…ハナサナイ…」
床下の女性はTさんの太ももの上に置かれた両手の間に腐敗した手のひらを重ねてきた。
次の瞬間、Tさんと床下の女性を取り囲む子供たちが一斉にしゃがみこんだ。
Tさんの目の前の子供がポケットから何かを取り出した。
裁縫針だ。
真っ赤な糸が通された裁縫針をTさんの指と爪の付け根に突き刺す。
その後もTさんの全ての指を裁縫針が何度も上下から突き刺された。
そして、床下の女性と重なった両手の全ての指が縫い付けられた。
不思議と痛みは感じなかった。
きっともう自分は死んでいるに違いないとTさんは悟った。
これなら二度と離れられない。
「うん。ずっと一緒だよ」
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「あの~大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
耳元で誰かの声が聞こえる。
気がつくとTさんの周りには人だかりができていた。
公園の砂場で倒れているところを近隣住民が発見してくれたそうだ。
「うぅ…」
「どこか痛みますか?救急車呼びますか?」
「あ…大丈夫です。少し休めば大丈夫だと思います。ご迷惑をお掛けし申し訳ありませんでした」
Tさんは近隣住民に御礼を言うと、公園のベンチに深く腰を下ろした。
両手を広げ、手のひらを見た。
泥で汚れてはいたが、何処も怪我はしていない。
安堵したTさんはベンチで横になり、ゆっくりと目を閉じた。
『~♪~~♪♪~♪~♪』
まどろみかけたその時、携帯の着信音が鳴り響いた。
発信元は工務店の同僚からだった。
時刻は20時を過ぎていた。
定期点検の完了報告が無かった為、心配して電話をかけてきてくれたそうだ。
「今日はこのまま直帰します。お疲れ様でした」
Tさんはそう告げると電話を切り、社用車に向かった。
床下点検用の汚れた作業着を脱ぎ、ワイシャツとスラックスに着替えると、z邸のチャイムを鳴らした。
『ピンポーン。ピンポーン』
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『はい。どなたですか』
男性の声がした。
「すみません。○○工務店のTです。定期点検が完了しましたので完了確認のサインをお願いします」
玄関ドアが開き、顔を出したのはひげ面の男性だった。
リビングに居た、がたいのいい男性でないのはすぐにわかった。
「本日の点検結果は特に問題ありませんでした。点検結果の詳細につきましては後日郵送させていただきます。最後にこちらにサインをお願いします」
「あ、はい…」
ひげ面の男性はサインをすると、Tさんにボールペンと書類を受け渡した。
「本日はお忙しいところ、お時間いただきありがとうございました。奥様にもよろしくお伝えください。それでは失礼します」
ひげ面の男性はTさんを睨みつけると、勢いよく玄関ドアを閉めた。
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「やっと帰れる…今日は本当に疲れた」
社用車の中で煙草に火を点けると、Tさんは帰路についた。
z邸からTさんの自宅までは車で20~30分程度の距離だった。
とにかく早く帰って眠りたい。
頭痛が酷くなってきたTさんの願いはただそれだけだった。
赤信号。
ブレーキを踏み、停止線で止まる。
横断歩道の左右から人が行き交う。
「え…」
行き交う人の中に混じって、二人組の男性がTさんの社用車の前で立ち止まり、Tさんの方を向いた。
見たことの無い顔だったが、服装と体系には見覚えがあった。
z邸でダイニングテーブルに座っていた男性に違いなかった。
二人組の男性の足元には、いつの間にか女の子が座っていた。
一人の男性がおもむろに女の子の髪の毛を引っ張る。
熟れた果実のように柔らかい頭皮と顔面の皮膚がずるずると剥がれ、見る見るうちに首から上は赤黒い肉の塊と化した。
もう一人の男性がその赤黒い肉の塊を両手で掴むと、一気にひねり、引きちぎった。
頭を失った小さな身体は、その場に崩れ落ちることなく、ふらふらと立ち続ける。
「あ…あ"ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!」
Tさんの社用車の中から絶叫が聞こえた。
振り向くと、後部座席に色白い女性が座っていた。
おそらく横断歩道で起こった惨たらしい殺人を見てしまったのだろう。
現実離れした光景を目の当たりにした直後であった為、いつから女性がTさんの社用車に乗っていたのかは気にならなかった。
再び横断歩道に目をやる。
「え?」
二人組の男性も女の子の死体も何も無かった。
横断歩道には行き交う人々の姿だけだった。
「あなたがあの時、もっと早く帰っていれば、コンナコトニハ…」
再び振り返り後部座席に目をやる。
後部座席の中央に恐ろしい形相をした色白の若い女性、その両隣に先程の二人組の男性が座っていた。
若い女性は両方の手のひらをTさんに向けていた。
次の瞬間。
両隣に座っていた二人組の男性が、ニッパーのようなもので、若い女性の指を切り落とす。
Tさんは目を背け、目を閉じた。
静寂の後、再び後部座席に目をやると、そこには誰も居なかった。
『プァン!』
後続車のクラクション音にTさんは我に返った。
青信号になったのに気がつかず、後続車を待たせてしまったと思ったTさんは、すぐさまアクセルを踏み込んだ。
『ガシャーーン!!!!!!!!!』
十字路の左右から行き交う車の中にTさんの社用車は突っ込んでいった。
信号は赤かった。
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真っ白い天井。
目が覚めるとTさんは病院にいた。
身体が全く動かせない。
「すみませ~ん!すみませ~ん!誰かいますか!」
通りすがりの女性が病室に入ってきた。
Tさんを見るなり、すぐに病室から出て行った。
数分後、病院の医師らしき初老の男性を連れて戻ってきた。
「気がつきましたね。Tさん。大丈夫ですか。これから少しずつ、今の状況を説明しますので…」
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Tさんはあの十字路で交通事故に遭った。
乗用車3台を巻き込む事故だったが、幸いにも死者は出なかった。
事情聴取の際、事故当日に何があったかTさんは覚えている限り証言したが、内容が支離滅裂としていた為、誰もTさんの話を信じようとはしなかった。
z邸での出来事をありのままに話したせいで、精神状態も疑われた。
また、工務店のスケジュール管理担当者が把握していた事故当日のTさんのスケジュールにz邸は無かった。
Tさんはそんなはずは無いと反論したが、z邸はそもそも定期点検の依頼は出しておらず、工務店とは何の接点も無かった。
でも確かに、作業完了の確認書にサインをもらっている。
その事を伝えると警察官は苦笑いした。
「z邸の旦那さんも精神状態がよろしくなくてね、Tさんが来た時も何が何だかよくわからなかったが、とりあえずサインをしたそうだ。それより…」
警察官の目が鋭くなった。
「何故、奥さんにもよろしくなんて言ったんだ?嫌がらせのつもりか?」
「え?定期点検に伺った際にお会いしたんですけど、帰りに見かけなかったから…」
警察官は一枚の写真をTさんに見せた。
「あなたが会った奥さんはこの人?」
写真にはあの日、玄関先で掃除をしていた女性が写っていた。
「そうです。その人です」
Tさんがそう答えると、警察官は呆れた顔でため息をついた。
「おい…やっぱり記憶が錯乱してるな…」
警察官同士で何やら小声で話し始めた。
Tさんが怪訝な顔をすると、再び警察官が口を開いた。
「この女性。この病院の看護師だったんですよ。数年前に亡くなってましてね」
「この病院?看護師………あっ!」
Tさんは思い出した。
十年程前、現場で作業中に脚を骨折して一週間程、入院した事があった。
その時にTさんの病室を担当していた女性に違いなかった。
「何か、病気で亡くなったんですか?」
気になったTさんは警察官にzさんが何故亡くなったのか興味本位で聞いてみた。
「いえ、殺人事件の被害者です」
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zさん夫婦は長女が一人いる三人家族だった。
平日のある日の日中、z邸に押し入った二人組に無残にも妻と長女が殺害された。
あまりにも惨たらしい殺され方をしていた為、怨恨の線も浮上したが、二人組とzさんに接点は無く、強盗ついでの快楽殺人だった。
夫は仕事中であった為、無事だったが、妻子を失った事が原因で鬱病を発症、現在に至るまで自宅療養中だ。
犯人の二人組は無期懲役で服役していたが、服役先の刑務所で二人とも病死したそうだ。
警察官の話を聞き終わると同時に、吐き気を我慢できなかったTさんはその場で嘔吐した。
事故当日、目の当たりにした凄惨な出来事がフラッシュバックしたからだ。
それから二ヵ月後。
Tさんは無事退院した。
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交通事故の後遺症で両脚が不自由になり、両手も複雑骨折で親指以外は動かせなくなったTさんはリハビリの為、通院を繰り返していた時のこと。
「Tさん…こんにちは」
見知らぬ女性が話しかけてきたが、Tさんは誰だか分からず困惑した。
「覚えてないですよね…Tさんが目を覚ました時に先生を呼びに行った…」
「あ、あの時はどうも!」
この出会いがきっかけでTさんとその女性は交際する事になり、数年前に結婚した。
傍から見ても幸せそのものであったが、つい最近Tさんは離婚を決意し、私の知人に相談した。
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「ここ数日、夜中に床下から話し声や笑い声が聞こえるんだ。もちろん、うちに地下室なんて無いし、床下に人間を住まわせているなんて事も無い。それに嫁が…」
Tさんは口ごもった。
「夢遊病みたいなんだ。それで…」
数分の静寂の後、Tさんは力強く目を瞑ると、口を開いた。
「アナタ、アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ。アイタカッタ。アナタ…」
嫁が夜中に白目を剥きながら、Tさんの両手を握り、耳元でそう囁くそうだ。
床下の女性と全く同じ声で。
作者さとる
怖話アワード2013年12月受賞作品に選ばれました。
読んで下さった方々、ありがとうございました。
次回作は2月頃に投稿予定となります。