(二)
哲史には毎週木曜日に行かなくてはならない場所があった。それは彼が通う大学の中にある。すぐに発たなくては。しかし、昨夜のうちに起きる時間は九時だと決めておいたにも関わらず、それからしばらくは寝付けもしないのにあと少し眠ってみようと努力した。やけに頭が重い。体もだ。ならばこの温もりを手放す必要はあるだろうか。彼にはどうしても重要なものに思われた。行かなくてもいい、まだ十分休まっていないのだから。そうして、ついに布団から彼が這い出てきたのは真昼のことだった。時計の針は既に十二時を通り過ぎてしまった——その用事は十三時に足されなければならなかった。
大学まで一時間はかかるだろう。ああ、遅刻だ、と彼は漏らした。しかし直後に顔を横にやって、まあ、いいか、とつけ加えた。こんなことは珍しくも何ともない。彼のお決まりの日常の中のどこにでも見つけ出すことができるだろう。もっとも、そこにはやつれた怠惰こそ組み込まれていたが、彼はそれを気にしないようにしていた。
彼にしてみれば、一日の始まりを告げるのがこのような怠け心などとは、到底認められなかった。紛れもなく彼の日常を開始してくれるのは、音楽——彼はクラシックとロックを愛している——であった。くしゃくしゃの毛布のそばにひっくり返っているリモコンを掴むやいなや、軽快な手つきでCDラジカセの電源を入れて、次いで再生ボタンを押した。少ししてオープニングが聴こえてくると、それをさも愛おしげに迎えながら、こんなにシアトリカルな始まり方があるだろうか!と、ひとり褒めそやした。
だがここで、本来ならギターのアルペジオが聞こえてくるはずだったので、あるいはディスクを取り替えようかと考えた。特にお気に入りの一曲が、この二枚組のCDのうち二枚目に収められていたのだ。それだけでも聴かねばなるまい。そのまましばらくは六番の上にとまっている親指をくねらせていたのだが、とはいえこれはコンセプト・アルバムなのだからやはり一から聴くのが筋だと思い直して、それから更に一時間半ほど寝そべっていることにした。
こうして彼の日常が始まった。用事は、彼の責任とともにとり残された。
「検査結果をお伝えしましょう。」男がそう切り出す。
「まず、IQは138。ほう、なかなか・・・平均以上ですね。高いといえるでしょう。」
「非常に強い孤独感を抱えているのでは、と分析されています。」
「検査の得点から、特別気になるところは見受けられませんね。ただ・・・。」
「一つだけ、妙に点数の低いところがありました。台詞のない絵を、時系列に並び替えるテストがあったでしょう。そう、あれです。それがどうもほとんど答えられなかったようです。」
哲史は耳を澄ましていたが、その顔はぼんやりとしていた。ああ、あのテストか。確かに、あれには何をしているのかよくわからない絵が描かれていた。そんなものを矢継ぎ早に五枚も六枚も渡されて物語を予想しなさいなどと言われても、せいぜいとりとめのない話を二、三披露してこっ恥ずかしくなるのがおちというものだ。見ようによっては滑稽な一幕だと言い張ることもできないではない。実際、哲史には悲喜こもごもの一幕が見えていたのだが。しかしそれを言うまい。もう言えまい。言っても仕方がないのだ。あの景色は存在しなかったも同然だった!忘れてしまえ——彼とていずれは失くしてしまうのだから。
「今後、診察を続けて様子を見ていくことにしましょう。」
ええ、わかりました、という類の返事をした。
「薬が必要な症状も表れています。ですがここでは薬を処方できないので、そのときは大学病院に移ってもらいます。」
はい、と応じた。
「まずは薬で気持ちを楽にしてみるという方法もありますよ。ただご本人が不要だというならそれも良いでしょう。まあ、ゆっくり考えてみて下さい。」
「それでは、お大事に。」
彼は立ち上がって男に一礼した。戸に寄りかかってぐいと引く。途中で受付の女が何か言ったような気がしたが、ともかく出口へ急いだ。通りには燦然とした太陽が待ち受けていた。隈無く目を光らせている陽光が、彼の肌をそれ見つけたぞと焦がしたが、どこからともなく立ち寄ってきた風がその熱を奪ってしまった。いまや太陽は光でしかなかった。
(続)
作者哲史
一話ごとには怖くありませんが、通読して怖さを楽しめるように書きたいと思っています。
最後までお付き合いいただければ幸いです。