「髪切ったら?」
普段あまり外見に文句を言わない妻も、伸び放題の私の頭をみてそう助言した。
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髪を切っていなかったのには理由がありました。
「次の場所が決まったら連絡するよ、自分の店を持つことも考えてるんだよね」
馴染みの美容師から、今勤めているところを辞めて他に移ると聞いていたのです。
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彼には学生時代から世話になっていました。
髪を切ってもらいながら、それぞれの当時の彼女の話しや、あそこの風俗は良かったといったゲスな話し、そして互いの結婚話しなど、本当に友達というか、歳の近い兄弟みたいな関係でした。
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彼が次に何処に勤めるか分かりませんが、多少離れても彼に切ってもらうつもりでいた私は、彼からの連絡を待っていたのです。
「ん~、じゃあ聞いてみる」
私は妻に渋々そう返しました。
連絡がないということは、次の勤務先探しに難儀している可能性もあり、多少こちらから聞くのは気が引けましたが、プライベートの連絡先も知っている関係だったので聞いてみることにしました。
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私「あ、もしもし田中さんですか?」
田中さん(美容師)「あ、はい。」
私「ご無沙汰してます、○○です。次の店決まりましたか?」
田中さん「・・・あ、はい。決まりました。○○駅です。東口。」
私「あ、また○○駅なんですね!店の名前はなんですか?調べて電話しますよ。」
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田中さん「今は受付とかも自分でやってるんで、この電話で大丈夫です。東口のドトール分かりますか?あそこの4階。」
私「え、そうなんですか!自分の店ですか!?ドトールは・・・ちょっとよく分からないです。店名教えてくれたら探しますよ!」
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田中さん「○○通りありますよね?そこを右に~(行き方詳細なので省略)」
私「・・・分かりました。ちょっと地図で確認してみます。予約は~(予約日時やり取りなので省略)。で、一応店名聞いてもいいですか?」
田中さん「では、○日○時にお待ちしております。」
私「あ、はい・・・お願いします。」
そんな流れで、予約を済ましたものの、違和感がありありでした。
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自分の店なのかといった質問に答えてくれなかったり、店名を教えてくれなかったり、普段タメ口なのに丁寧語だったり・・・
丁寧語なのは新しい店の方針とかもあるのかもしれませんが、店名は教えてくれても良さそうなものです。
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正直何か嫌な予感がしました。
ただ、やはり彼に切ってもらいたいという想いが勝っていたので行くことにしました。
予約当日、ドトールが入った雑居ビルを見上げて4階を確認しても、ブラインドが全ての窓に掛かっていて営業している感は皆無でした。
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ビルに入ると、各テナント用の郵便受けがありました。ポストに貼られたシールからして7階は美容室のようでしたが、4階のポストには何も貼られていません。
「本当に4階なのか・・・?」
不安は益々大きくなります。
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7階の間違えじゃないかとも思いましたが、田中さんのことなので開店前の自分の店舗で切ってくれるとか、そんなサプライズもある気がして先ずは4階を確認することにしました。
4階についてエレベーターのドアが開くと、頼りない蛍光灯が階段の踊り場を照らしていました。
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その踊り場の左手に1つの店舗がありました。扉のガラス部分にハワイアンっぽいフォントでHairCutとだけ書かれたフィルムが貼ってあり、その横に店名が入りそうなスペースがありました。
店舗は真っ暗でした。
いえ、正確には真っ暗というより真っ黒に感じました。墨汁で満たしたような漆黒の空間でした。
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ブラインドの隙間が外の明かりで微かに光っているのですが、その光が全く店内に入っていないように見えました。
何かおかしい。そう感じた時に、少し頭がボーッとして立ちくらみのような感覚に襲われました。
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田中さん「○○君」
急に背後から声を掛けられ、私は「ひっ」というような情けない声をあげてしまいました。
振り返ると田中さんがいました。
いつの間に来たんだ?という疑問は感じましたが、直前に少しボーッとしていた自覚もあったのでその瞬間に深く疑うような思考にはなりませんでした。
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私「も~ビックリしたじゃないですか!今来たんですか?この店、田中さんの店ですか!?」
ビックリ直後で少し高いテンションで質問する私をよそに田中さんは静かに「扉押して中に入って」と促しました。
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扉に鍵は掛かっていませんでした。
電気は付けてくれるんだろうと思いつつ、私は店の中央に歩を進めました。
歩を進めてもやはり店内は真っ黒で、無意識にすり足で足元に注意して進んでいるような状態でした。
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その空間の特異さにやはり何かおかしいと感じると同時に、背中に今まで経験したことない勢いで鳥肌が立ちました。
動けない。そう思った時に、背後から田中さんの声が聞こえました。
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「○○君、ゴメンね。俺、死んじゃったんだ。」
凄く穏やかで優しい口調でした。
ただ、背中の鳥肌がその一言の意味の真実味を確かなものに感じさせました。
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次の瞬間に弾かれるように動けるようになり、背後を振り向いたのですが、田中さんはいませんでした。
いつの間にか真っ黒だった店内に光が差し込んで、普通の暗い空間になっていました。
そうなってはじめて、洗髪の為の台や各種機材があることが視認できました。
もう今すぐ開店できそうな雰囲気でした。
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背中の鳥肌はいつまでも収まりません。「田中さん・・・?」と、弱々しく一言発し、返事がないことを確認した後は混乱しつつも足早にその場を去りました。
ビルを出て、落ち着いてきた頃に田中さんの携帯に電話をしました。
「この電話は現在使われておりません。」
「この電話は現在使われておりません。」
無機質な案内を繰り返し聞きながら、私は彼の死が事実であると感じとり、それ以降は彼に連絡をしていません。
作者十万石饅頭-2