数年前まで、人と関わることの多い仕事をしていた。
当時は11月の終わりともなると、手帳の翌月の欄は飲み会の予定でびっしりと埋まったものだった。
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大晦日が差し迫った数年前のあの日も、連日のように飲み会が続く中の一日に過ぎなかった筈だ。
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きっと私は疲れを溜め込んでいたのかもしれない。
しかし、あの日私が見たものは疲れや酔いが見せた幻ではなかった。
幾度も記憶を辿ったため、未だにあの日の深夜の事はありありと思い出せる。
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あの日、飲み会を終え家路に向かう私が乗り込んだのは、沢山の人で犇き合う最終電車だった。
家の最寄り駅までは約40分。
3分の1ほど進んだところで、私は運良く席に座る事ができた。
酔いと疲れで、すぐに私はうつらうつらと居眠りを始めていた。
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目が覚めたのは、鼻を突く酷い臭いがした為だった。
生ものを放り込んだ三角コーナー、それを夏場に何ヶ月も放置したものを嗅がされている様な、凄まじい悪臭。
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起きた私の目に入ったのは、目の前に立つ男の薄汚れたスラックスと、黒ずんだ長期間洗っていないような白いシャツだった。
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あまりの悪臭に困惑しながら、窓の景色から現在地を確認しようとする。
振り返り様におかしな事に気が付いた。
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あんなに混んでいた車内のどこにも、人の姿がないのだ。
いるのは私と、目の前に立つ男だけ。
降りる駅を通り過ぎてしまったのではないかという不安より、目の前の男に対する不安の方がずっと強かった。
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私は恐る恐る顔を上げ、男の表情を覗き見ようとした。
が、顔は見えなかった。
男の手が、私の顔に覆い被さるようにして伸びてきていたからだ。
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青白い手は、肉が崩れ腐敗しているようだった。
その手が私の顔に迫ってくる。
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私は反射的に顔を引き、後ろの窓ガラスにドンッと頭部をぶつけた音と衝撃で、再び目が覚めた。
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車内の案内板を見ると、降りる駅までまだ5駅ほどある。
なんだ夢かと私は胸を撫で下ろした。
しかし、あの臭いだけは鼻の奥に残っていた。
周囲を見回してみたが、あの薄汚れた男の姿はなかった。
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やっと臭いが消えたのは、電車を降りて身を切るような寒さの中、家路を歩いている頃だった。
駅から多くの人が向かう住宅街、その反対方向に当時私が住んでいたマンションがあった。
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人がまばらな大きめの通りを行き、路地に入る。
私の住むマンションは戸建て住宅が犇く、その路地の先にあった。
大通りを通っても帰れるのだが、路地を通った方が圧倒的に早かった。
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遅い時間ともなると、路地に人の姿は殆どない。
街灯の数も心もとなく、さして若くないとはいえ、女の私が歩くには不用心な道だった。
しばらく歩くと、私の後方を誰かが歩く音がした。
私は無意識のうちに歩くスピードを上げていく。
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だが、足音の大きさは変わらなかった。
私の歩調に合わせ、向こうもスピードを上げたようだ。
背中に総毛立つような感覚が走り、恐怖にかられた。
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ふいに、あの嫌な臭いが周囲に漂っているような気がした。
私は振り返る事も出来ず、駆け出していた。
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その日はよりによって、普段はあまり履かないヒールの高いブーツを履いていた。
前につんのめりそうになりながら、角を2回曲がり、マンションへと急ぐ。
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足音はどんどん近付いてきているようだった。
マンションの入り口には、オートロックのドアがある。
鞄をかき回し、鍵を探しながら走り続けた。
足音はすぐ後ろにまで迫っていた。
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鍵穴に乱暴に鍵を突っ込み、ドアを開け倒れ込むようにして中に入った。
ロックがかかる機械音がした。
振り返ると、去って行く男の足だけが見えた。
夢の中の男が履いていたのと同じスラックス。
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私の頭は酷く混乱していた。
あの臭いと服。
なぜ夢の中の男がいるのか。
訳が分からない。
気を動転させながらエレベーターで9階に上がり、部屋へと急いだ。
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部屋の鍵を開け、玄関に入る。
後ろ手にドアを閉めようとすると、ガチャリと音が鳴らず、ズンと鈍い音がした。
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振り向くと、扉とドア枠の間に青白い手が挟まっていた。
私は思わず叫んでいた。
それでもドアの取手は離さなかった。
扉の上部にもう一つ手があり、扉をこじ開けようとしている。
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物凄い力だ。
とても持ち堪えられそうになく、半狂乱になりながら近くにあった物を掴み、それで手を殴りつけた。
一瞬力が緩んだ隙にほんの少しだけドアを開け、力一杯扉を閉めた。
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ドアノブを通して指が潰れるような不気味な感触がした。
何度か繰り返すうちに青白い指は扉から外れ、
私は慌ててドアを閉めて鍵とチェーンをかけた。
生臭く、鼻が曲がりそうな悪臭が充満する玄関で、私はへたり込んでいた。
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黒い血のような痕がついたドアのヘリを見つめながら、私は後ずさりをするようにしてリビングへと向かった。
玄関の向こうに男がいる気がして、扉から目を離す事ができない。
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警察に電話をかけ、男に追われ玄関まで来られた事を伝えた。
すぐに来てくれるという。
急いで部屋中の鍵を確認して回り、包丁を握り締め、玄関を凝視する。
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しばらくすると、玄関の扉を叩く音と声のようなものが聞こえた。
安堵し、包丁を床に置いて鍵を開けようとしたところで気が付いた。
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どうやってオートロックを入ったのだろう。
こんな時間に受付に管理人がいる筈もない。
その一方で、ちょうど帰ってきた人がいて、警察官も一緒に入った可能性もあると思った。
覗き穴から向こうを覗く。
誰もいない。
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「警察の方ですか?」
覗いたまま声をかけたが、返事はない。
突如、あの臭いがした。
今までで一番強い臭いだった。
ミシッと床をひずむ音が聞こえた。
後ろからだった。
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震えながら振り返ると、開かれた青白い手が私の目の前にあった。
恐怖のあまり目を瞑り、叫び声を上げた。
青白い手が私の口に突っ込まれる。
身体をくの字に折り曲げている筈なのに、手はズルズルと私の体内に侵入してくる。
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喉を通り胃の奥にまで侵入され、そこで手が崩れ落ちるような恐ろしい感覚がした。
そこで、私は気を失った。
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「大丈夫ですか!」
声が聞こえた。
気がつくと、私は玄関扉に寄り掛かるようにして倒れていた。
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私の体は嘔吐物で汚れ、酷い臭いがした。
ドアの隙間から、警察官と管理人の心配している顔が見えた。
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警察官は、マンション入口のインターフォンで私の部屋番号を押しても誰も出ないので、大家に来てもらい、中に入ったと話した。
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私はありのままを全て警察官に伝え、部屋の中を調べてもらった。
しかし、部屋の中に何者かが侵入した形跡は見つからなかった。
玄関に取り付けられている防犯カメラも調べられたが、映っていたのは逃げ惑う私の姿だけだった。
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エレベーターや一階付近のカメラにも、不審な人物の姿はなかったという。
残っていたのはドアに垂れた黒い液体と、あの臭いだけだった。
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液体は拭い取れた。
しかし、洗浄剤や消臭剤を何本使っても臭いだけは取れなかった。
私は液を吹きかけた雑巾で、狂った様に玄関中を擦り付けた。
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臭いの元は玄関ではなく、私自身である事に気付くまで、あまり時間はかからなかった。
鼻や毛穴、私の全身からあの臭いが染み出してくるのだ。
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身体を洗い、歯を磨いてもあの臭いはすぐに染み出してきた。
数時間もすると自分の臭いにえづき、吐いてしまう有様だ。
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一番仲の良い同僚に、恐る恐る臭いの事を打ち明けた。
しかし、何の臭いもしないという。
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正月に帰省した際、母に聞いても同じ事を言った。
医者に診てもらっても、どこにも異常はないという。
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皆そう言いながら、私を嘲笑っていると思った。
誰の言葉も信じられなかった。
現実に私は自分が放つ悪臭を感じていて、その臭いに吐き続ける毎日なのだ。
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引っ越しても何も変わらなかった。
どこにいても汚物にまみれているような臭いが付き纏い、決して慣れる事はなかった。
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外に出る時は数時間おきに香水を振り、口臭ケアの錠剤を大量に口に放り込んだ。
通りすがりに嫌な顔をする人がいたり「くさい」というフレーズが耳に入ると気が狂いそうになった。
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その度にトイレへ駆け込み、制汗液が染み込んだ臭いのきついペーパータオルで全身を何度も何度も擦った。
乾燥し抵抗力を失った肌は、様々な感染症にかかり膿を内包した吹き出物だらけになった。
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膿は更に酷い悪臭を発するので、吹き出物が出来ては潰し、そこに消臭剤を塗り込んだ。
化学物質を塗り込まれた吹き出物の痕は爛れていき、いつしか鏡に写る自分を正視できなくなった。
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すれ違う人々の口から「気持ち悪い」「化け物」という言葉が聞こえるようになり、人の多いところでは度々意識が飛んだ。
人に会うことはおろか、外に出る事すら怖くなり仕事を辞めた。
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精神科医の処方する薬を飲むことが欠かせなくなり、人と接触する事のない生活を送るようになった。
肌は無様な引き攣り痕を残し次第に良くなったが、臭いだけはそのままだった。
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臭いが消えない限り、外に出ても同じ繰り返しになるので、今も家から出ることは殆どない。
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以前の私は人と話す事が大好きで、仕事は生き甲斐だった。
結婚や出産、仕事でやりたかったこと、手の届くところにあった現実的な目標は、もはやおとぎ話に過ぎないものとなった。
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不思議とあの男の存在について考えることはあまりない。
考えるのは、あの時こうしていればという後悔ばかりだ。
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あの路地を通らなければ…
もっと早く帰ってれば…
飲みに行かなければ…
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何度あの日を反芻したか分からない。
いくらでも遡る事ができるので、後悔は無限に広がる。
異なる選択をしていたら、今の状況を回避できたという確証があるわけではない。
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むしろ、こうなる運命だったのではないかという気さえする。
そうだとすれば、後悔など無価値だ。
それでも後悔する事を辞められないのは、それが苦しいだけの現実から私を逃避させてくれる、唯一の手段となってしまったからだ。
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茶毘にされ、灰になったら臭いは消えるだろうか…。
ふと気がつくと、そんな事を考えてる自分がいる。
作者Deadly Claris