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3年ほど前に体験した話である。
当時私は、某ファッション誌のモデルをしていた。
その日は早朝から都内で撮影の仕事が入っていた。
正午過ぎには終わり、暫くモデル仲間との雑談を楽しみ、夕方頃には解散したと思う。
帰りの電車に乗る前に煙草を買おうと思い、足を止めた時の事である。
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ふいに6、7歳位の女の子が傍に駆け寄ってきたのだ。
「こんにちは」
私は変な子だなと思ったが、一応「こんにちは」と返した。
「何してるんですか」
「何って、煙草買おうとしてるんだけど」
妙に話しかけてくるその子に、つい私はそっけない態度で接していた。
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私が財布を出し煙草を買い終えるまで、その女の子は「いい天気ですね」「何年生ですか」と、話しかけ続けてきた。
私は適当に答えていた。
私がそこを離れようとすると、その子は「お母さんが呼んでるから来てください」と言って、私の手を引っ張り始めたのだ。
私はいよいよおかしいと感じた。
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…私に何か用があるとでも言うのだろうか。
何とか誤魔化して帰ろうとしたが、女の子は振り返りもせずに「呼んでますから」と言い続け、私を連れて行こうとするのだ。
私はその執念の様なものに引き摺られるかの様に、女の子の後に付いて行った。
もしかしたら本当に困っているのかもしれない、と思いもした。
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5分ほど歩くと、少し大きめの公園に到着した。
ブランコやジャングルジム、藤棚やベンチが見える。
夕暮れが近い為か、他に人影は見当たらなかった。
女の子は藤棚の方に私を連れて行った。
その公園の藤棚は、天井の他に側面の2面にも、藤が伸びるようになっていた。
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恐らく中にはベンチがあるのだろう。
女の子は「お母さん連れてきたよ」と、藤棚の中に向かって呼びかけた。
私からは角度が悪く、そのベンチは見えない。
中を覗きたかったのだが、私の手をしっかり握っている女の子を手を振り解く事は、何だか悪いような気がして出来なかった。
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「すいません、うちの娘が」
ふと、藤棚の向こうから声がした。
普通の何の変哲もない女の人の声だ。
しかし、その声を聞いた瞬間全身に鳥肌が立ち、何故かヤバいという気持ちになったのだ。
一刻も早く、そこから逃げ出したかった。
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「わたし、遊んでくる」
唐突に女の子が言い、藤棚のすぐ向こうにあるジャングルジムへ向かって行った。
私はハッと我に返った。
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「すいません、うちの娘が」
また、あの声がした。
なんの変哲もない声。
今度は鳥肌も立たない。
…気のせいだったのか?
私は意を決して、藤棚の向こう側のベンチが見える場所に、殆ど飛び出すような形で進んだ。
飛び込み様に、ハッとベンチを振り返る。
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…そこには、少し驚いたような顔をした女性が座っていた。
セミロング丈の黒髪の、30代後半くらいの女性だ。
「すいません、うちの娘が」
彼女は、今度は少し戸惑い気味にそう言った。
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…なんだ、普通の人じゃないか。
そう思うと急に恥ずかしくなり、私は「いや、いえ、まぁ」などと返すのが精一杯だった。
私はその後、その女の子の母親と軽く世間話をした。
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天気がどうだの、学校がどうだの…と、どうでも良い話なので省かせて頂く。
母親も言葉は少ないが、普通に話していた。
女の子は藤棚のすぐ隣、私の背後にあるジャングルジムで遊んでいる。
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そろそろ、日も沈もうかという頃だ。
公園はオレンジ色に染まりつつあった。
私はふと、当初の目的を思い出した。
何故私はここに連れてこられたのか、だ。
そこで「あの、どうして私をここへ…?」と問いかける。
その瞬間だった。
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「ミノリッ(仮名)!!」
物凄い声で母親が叫んだ。
恐らく、あの女の子の名前だろう。
私はバッと、背後のジャングルジムを振り返る。
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すると目の前に何かが落ちてきて、鈍い音と何かの砕ける音が足下でした。
ゆっくりと足下に視線を向けると、あの女の子、ミノリという女の子が奇妙に捻じくれて倒れていた。
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身体は俯せなのに、顔は空を向いている。
見開いた目は動かない。
オレンジ色の地面に赤い血がじわじわ広がっていくのを、私は呆然と見ていた。
警察、救急車、電話…などの単語が頭の中を飛び交ったが、身体が動かなかったのだ。
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その時、女の子がピクリと動き何か呟いた。
まだ生きてる!と私は駆け寄り、女の子の声を聞き取ろうとした。
「…かあ…さ…」
お母さんと言ってるのか…?
私は藤棚を振り返る。
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…が、彼女の母親の姿はそこにはなかった。
そういえば、最初に叫んだ時から母親はここへ駆け寄ってもこない。
助けを呼びに行ったのだろうか。
「お…かあ…」
再び女の子が呟いたので、私はそちらの方を向いた。
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「大丈夫だから。お母さんが助けを呼んでくれるから」と、そんなことを女の子に言ったような気もする。
しかし、気休めだ。
どう見ても首が折れているようにしか見えなかった。
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私は、今ここにいない彼女の母親に怒りを覚えた。
「おか…さんが……よんで…か…」
女の子はまだ呟く。
…おかあさんが呼んでるから?
私は上の、ジャングルジムを見上げた。
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そこには、さっきの母親がぶら下がっていた。
濁った目、突き出た舌…あまり書きたくない。
死人の顔だ。
そして、母親の外れた顎がぐりっと動き
「すいません。うちの娘が」
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その後の事は覚えていない。
きっと気を失ったのだと思う。
私は気付くと夜の公園で呆けていた。
そのジャングルジムは、その後取り壊されたと記憶している。
作者Deadly Claris