中編4
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オトナリサン

Nがこの街に引っ越してきて、二ヶ月が経った。引っ越しと言えど、生活に必要なものをその都度実家から持ってきただけで、引っ越のためにまとまった休みを取ったわけでも、数ヵ月前から予定を組んだわけでもない。

二ヶ月前、仕事が多忙を極めていたNは、その多忙さ故に、なかなか一人暮しを出来ずにいた。実家からでは、通勤の時間が無駄に思えてならず、そのために交通の便がいいところに越そうと前々から思っていたのだが、忙しさから先伸ばしになっていた。

そんな折り、ふと空いた時間ができた瞬間があった。

Nは、急遽できたその時間で不動産に行き、その流れで内見、果ては契約まで行った。時間にして三時間。その時を振り返り、「コンビニに行く気軽さで物件を契約してしまった」と言っている。

その、即決の決め手になったのは、安さだった。県内では有数の大きな街が最寄りで、駅から徒歩十分。東京まで乗り換え無しで快速だと十五分。なのにも関わらず、家賃は二万五千円。破格だった。

それだけだと、逆に怪しむところだが、(ましては時期ににして三月末であり、どう考えても売れ残り物件だった)即決を後押しするように、その安さには明確な理由があったのだ。

不動産曰く、築年数が六十年を越えており、防音もワット数も、現代の人には辛いものがある。アパートとという名前だし何戸も入ってはいるが、玄関が別々についた戸建ての一室と大差ない。

確かにボロという言葉がしっくりくる畳の部屋だったが、もともとが田舎暮らしであったNはさして気にせず、どうせ寝るだけであるし、むしろ若者が住みにくいというのはありがたいことだと、即決に踏み切った。大家が一階に住んでいるというのも決め手になった、と語っている。

かくして、唐突に物件が決まり、通勤がてら少しづつ、本当にに少しづつ荷物を運び、気づけば二ヶ月が経っていた。

なにも不便はなかったが、一つ、Nには気にしていることがあった。

それは、忙しさにかまけて、挨拶をしていない、ということだった。

Nは仕事柄、帰宅時間が遅く、木造のアパートは気を付けていても、音が響く。いつだったか、疲れはて、近隣に気を使うのも忘れ、ドタバタと風呂に入り布団に入ったときのこと。隣の壁の向こうから咳が聞こえてきたことがあったという。その音に我に返ったNは、「もしかして起こしてしまったのかも。うるさくしてごめんなさい」と心のなかで謝ったという。

そんなこともあり、次にまともな休みが取れたら、まずは菓子折り持って挨拶を、と考えていたらしい。

そして二ヶ月が経ち、尋常ではない多忙さが落ち着き、休みができるようになった。Nは早速、地元で有名なお菓子を買って、まずは大家へ挨拶へ行った。

言うことは決まっていた。挨拶が遅れたことに対する謝罪、仕事柄帰宅が遅くそのことで迷惑をかけるかもしれない。十分気を付けるつもりではいるが、うるさかったら遠慮なく言ってほしいということ、それからごみ出しの仕方についての確認。

大家は気の良さそうな老婆だった。Nが孫と同い年だとかで、いたく歓迎している風であったという。挨拶が遅れたことに対しても、気にしないでいいと、逆に気を使わせてすまないと、頭を下げられたそうだ。

そして、問題は、二番目に言おうとしていたことである。

あと、すいませんが、仕事柄、帰宅が深夜になるんです……。静かにするよう、気を付けてはいるんですが、もし、お隣さんからうるさいと指摘がありましたら、いってください。気を付けるようにしますので……。

恐縮そうにNがそう言うと、大家は笑顔で、「いいのよ気をつかわないで」と言った。

このアパート、住んでるのはわたしとあなただけで、あなたの部屋の下も横も誰もいないんだから音なんか気にしないでいいんだからね。

大家はそう言ったという。

え……でも、Nはいいよどむ。

大家は一般的に言う101号室で、Nは202号室だ。201は大家が倉庫に使っており、102は空室、それは契約の時点で確認していた。が、隣にあたる203は確か入居者がいたはず…。

Nは我慢できずに大家にきいた。

あの、不動産にきいたんですけど、お隣、いらっしゃいますよね。

大家は言う。

203は契約してるんだけど、今は誰も住んでないのよ。うち、家賃安いから、東京勤めの人が倉庫とか仕事が忙しいときにだけホテル替わりに使ってることがけっこうあるんだけど。203の人もその口でね。もう半年ぐらいきてないわよ203の人。自宅は栃木かどっかにあるのよたしか。次は上半期の決算のときにいくって半年ぐらい前に電話あったから。今は関西に長期出張なんですって。一応、次来たらお話しておくけど、いい?

大家のその言葉に生返事をして、Nは余ってしまった菓子折りを持って自室へ戻った。

忙しすぎたからこそ、帰って寝るだけだった。自宅滞在時間の殆どが睡眠だった。折角実家からより近くなったというのに、やっぱりねるだけかと、残念だったけれど、眠さには勝てなかった。

それで、よかったのかもしれない。

Nはそう言う。

お前のアパートもわかんねえよ。隣の物音さ、それ、ほんとに隣、すんでんの?

Nは笑いながらそう言った。

Nは今もそのアパートに住んでいる。

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