祖父の遺品を整理していると、昔の日記帳の間に、大きさの違うノートが挟まっているのを見つけた。
ひと続きの文章が書いてあるようで、日付の記述はあるが、それはノートが書かれた日とは関係のないもので、日記ではないようだった。
筆跡は鉛筆で、そのためいつ書いたものなのかは分からない。
* * *
北白河村に、老いた夫婦とその息子夫婦が経営する、寂れた宿屋があった。
老夫婦の名は布田伝蔵、トミ。息子の名は仙蔵、その妻の名はハツであった。
以下は事件後の取り調べで仙蔵が語った内容をまとめて多少現代語に直したものだ。
明治七年十二月二十二日未の刻、大きな包みを持った客がやつて来た。
着ているものもどうも上等で気前もよい。
普段からわたしたちは金に困つていた。
小さな畑はあるが田圃が無いので米が無い。売れるようなものも無いし、村には貸すほど金のあるものも居ない。
その時分は暮れで尚更金に困つていたわたしと妻は、男を殺して荷物を奪う事を決意した。父と母にはこのことを伝えていなかつた。
夜中、寝静まつた男の胸を出刃包丁でひと突き。
男は声もあげずにこときれた。
わたしと妻は、すぐに男の死体を村のはずれの樺山の林に捨てに行つた。
家に戻ると、さつきまでの事が嘘のように、殺した筈の男が土間の甕から水を飲んでいる。
あまりのことに狼狽しながらも、わたしと妻は、男を包丁となたでめつた斬りにして殺した。
もつこ(土砂や大きな荷物を運ぶ道具)は、先程死体と一緒に林に置いて来てしまつた。そこで仕様が無く、腕と脚、首を斧で切り離し胴を鋸で二つに分け、風呂敷に包んでまた林に捨てに行つた。
家に戻つてようやく男の包みを開けると、其処にあつたのは先刻捨てた筈の、ばらばらの死体だつた。
すつかり肝を潰すが、訳がわからないまま包みを林に捨てに行く。
膝が抜けそうになりながらふらふらと家に戻るが、ふと気づくと妻がいない。
林にとつて返し妻の名を呼ぶがいつこうに見つからない。
そうこうしているうちに朝日が登り、隣村に行く常衛門に鉢合わせしてしまつた。
着物にべつたりと付いた返り血は薄明かりにも明らか。
それでわたしは捕まり、宿の客を殺して林に捨てた事を白状した。
警官に連れられて死体を捨てた樺山の林の奥に行くと、そこにあつたのは胸を刺された父の死体とずたずたに切り裂かれた母の死体と、首と手足と胴がばらばらになった妻の無残な死体だった。
* * *
これは明治初期の、栃木県のある村で起こった殺人事件の記録をうつしたものだ。
この時代の事件の記録は、罪人の名と罪状しか残されないことも多い。なぜ小さな村の殺人事件が詳細に記録されているのか、それには理由がある。
犯人の男が「スジ」の者だったためだ。この地方の慣習法では、「スジ」の者が罪を犯した場合には、刑を課さずに生涯幽閉し、その全財産を接収するものとされていた。
したがって、この事件の犯人の男は3人もの人間を殺害したにもかかわらず、死罪にはならず、この資料には記録が無いが、それ以後死ぬまで何処かに幽閉されていたものと思われる。
「スジ」の者というのは、それが何であるか確かな事はこの記録にはあらわれていない。ただ、「スジ」の者が罪を犯した場合の処理について過去の例と基本的な対応が記されているだけだ。
しかし、「スジ」として処理された他の幾つかの事件の犯人の名をみると、同じ苗字のものが幾組か見つけられ、これは単なる偶然ではないと思われる。特に青ノ木という苗字が目に付いた。
この地方の郷土史を研究するある民俗学者の論文によると、「スジ」とは現在或いは過去に霊媒を業としていた家系を指しているのだという。
彼の論文にはそれ以上の言及は特に無いのだが、これが事実であるとすれば、「スジの者」とは霊感に優れた血筋の者の意味という事になるのだろうか。
この時代の民間人の感覚からすれば、そのように霊力を持つ者の祟りを怖れて死刑を課さなかった事はもっともに思われる。ただ、仮に軽い罪でも終身幽閉されるとすれば、通常の村人より圧倒的に過酷な扱いを受けているというべきだと思うのだが。
話は戻るが、その地方の慣習法では、「スジ」の者が罪を犯した場合には、全財産を接収するとされている。これはなんなのか。
記録によると、この事件の犯人が住み、宿屋を営んでいた家屋は、もともと村の地主のものだったため、接収されるまでもなく地主のもとに戻ったのは当然だろうが、農具、牛1頭と山羊2頭、その他の家財も、地主に引き取られたと記されている。
これが公的な払い下げの結果だったのか、あるいは未だ明らかでない何らかの慣習法によって直接的に地主のものになったのか、不明である。
なお、その家の所在地は「北白河村二堂鵜澤前三十八番地」とある。北白河村とは、現在の栃木県予蘇市南部にあたるが、二堂鵜澤前という場所が何処なのかは、他に同じ地名が出てくる資料が無い。周辺には「二堂」も「一堂」も、「鵜澤」も無く、私が参照している資料にしか出てこない地名なのである。
ただ、死体の発見現場(北白河村の東部から南予蘇村の西部に広がる、現在も同じく樺山と呼ばれている丘陵地帯の雑木林)からそう遠くない場所であるだろう事が推測されるだけである。
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ノートのページはまだ大半が残っていたが、書いてあるのはここまでだった。まだ話の続きがあるのか私には想像がつかない。そもそも、祖父が何故こんな事を熱心に調べていたのかも分からない。
父に訊いても「爺さんの趣味なんだろ」と言われただけで何も分からなかった。
ただ、どうしても私はこのノートのことを忘れてしまえなかった。
この話には落ちが無い。宿に泊まった男は誰で、どこにいったのか最後まで分からないのが気になる。何故か祖父も全くそのことに触れていない。
それに、犯人の男の名が布田仙蔵であるということも気にかかった。私の遠い親戚に、布田重蔵というおじいさんがいたことを思い出したからだ(生きてるかどうかは知らないけど)。
おそらく私は何か知るべきでないことを調べようとしていると悟ったのは、遺品の中にあった古い住民票の写しで、祖父がうちの婿養子だと分かった時だった。
祖父の旧姓は、布田だったのだ。
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1 名前:Alist
投稿日2006/09/12(火)23:10:43.33 ID:hu56jqBzZ607jS(p2)
、とゆうよな事が姉貴のPCのなかに入ってた。
姉貴のPCは誰かにフォーマットされていたけど、ただのフォーマットだったから、その気になればデータは掘り起こせるしw姉貴が何を調べていたのかはよくわかんないけど、べつにそのせいで死んだのとも違うと思う。俺には多分どうせ関係のないようなことだし。でもなんか面白そうだったからとりあえずググってみたけど出なかったからここに貼っといて誰かが反応するのを待ってみようと思った次第です
よろすk
2 名前:没罠大使
投稿日2006/09/13(水)01:20:39.11 ID:ki70nhTxI802tR(p2)
筋狂北てか御前自分のDNAしらべろしクソワロタwww
作者SUU