怪奇かつ奇妙な数々の謎を残したまま、この事件は今もなお、解明不可能な集団失踪事件として、半ば都市伝説と化し、世界で語り継がれています。
事件の当事者はすでにいない今、事件の真相が明かされる日は、これからも訪れないことでしょう。
[メアリー・セレスト号]の存在は、謎の無人船として都市伝説の中で永遠に語り継がれて行くのかもしれません。
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…ところが、新たな事実が発見されました。
いえ。それは『新たな』ものではありません。
事件発生当初から確認されていた事実であったのですが、
その事実は、この事件の真相を推測させるには充分なものでした。
これから語る仮説は、その事実に基づき構成されています。
怪談でも、
都市伝説でも、
フィクションでもありません。
…そして、この真相への探求は、私に新たな新たな恐怖を発見させました…。
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1872年12月5日。
無規則な帆走で海を漂う[メアリー・セレスト号]を発見した[デイ・クラシア号]船長のモアハウスは、[メアリー・セレスト号]船長ブリッグズの友人でした。
二人が出港前に会食をしている姿も目撃されており、この二名が親密な間柄であったことが伺えます。
この事実のせいで、[メアリー・セレスト号]消失事件は、二人の船長が船に積まれた積荷や海難救助料をせしめる為の共謀だったのではないかという疑惑が生まれました。
その結果、モアハウス船長は詐欺罪で裁判にかけられます。
ですが、モアハウスへの容疑は、『ブリッグス船長は高潔な人物であり詐欺に加担するような人間ではない』という証言と、『船の積荷の売却益のほうが海難救助料を上回る事』などから、無事に晴れることになりました。
そして、幸か不幸か、この裁判の結果、裁判資料として[メアリー・セレスト号]消失事件についての多くの文書が後世に残されることになりました。
裁判用に集められた資料の信憑性には高い信頼度があります。
故に、この資料の内容は非常に精度の高いものであると考えられます。
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この裁判資料を読み解いた時です。
裁判資料と、都市伝説で語られてる奇妙な事象を比べた時に、
幾つかの相違点がありました。
その相違点とは、
①二隻の『救命ボート』が無かった
(都市伝説では、『救命ボートが使われている痕跡はなかった』となっている)
②『作りかけの朝食』は存在しなかった
(都市伝説では、発見時に湯気の立つかのよな食事があった』となっている)
③航海日誌は11月24日までしかなかった
(都市伝説では、『12月4日(※発見前日)まで日誌が書いてあった』となっている)
です。
この事実を加味すると、[メアリー・セレスト号]消失事件の奇妙な部分の殆どが消失します。
『救命ボートが無かった』ということは、船の乗船員は、何かしらの理由で船からボートを使って離れた(避難した)という事です。
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おそらく、11月24日。
[メアリー・セレスト号]に、船から避難しなければならないような、何かしらの事故が発生しました。
この事故が、サイクロンのような災害なのか、他のトラブルなのかは解りません。
有名な推論では、
『清教徒であり酒類の知識が不足していたブリッグス船長が、積荷にあったアルコール樽の破損を発見し、爆破の危険があると判断した船長が避難命令を出し、救命ボートを用いて逃げ出した。
そして12月4日、無人になった船を、モアハウス船長が発見した。
10日間近く彷徨っていた整備されない船は、嵐などで水浸しであり、当然作りかけの食事などなかった』
という説があります。
この推論は、『船から慌ただしく逃げ出した』『船が航行可能な状態であった』『積荷樽の幾つかが破損していた』という疑問に答えており、説得力があります。
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『救命ボート』『航海日誌』『作りかけの朝食』といった、矛盾的な要素が排除されるだけで、この事件の真相は、比較的単純に解明できるものとなりました。
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なぜ、このような事実が後世に素直に伝わらず、
曲解された事項がクローズアップされる形で伝わってしまったのでしょうか?
この事件に興味をもった当時のゴシップ好きな報道陣が、事実を曲解して伝えたのか、
後々の人物が、話題欲しさで噂に尾ひれ背びれを負荷したのか、
近代に生きる人達が、都市伝説として語り継ぐために話を助長し続けたのか、
今となっては解りません。
少なくとも世間は、この集団失踪事件を事実から曲解した内容で語り継いできました。
理由は、解ります。
そのほうが、『面白い』からです。
ただ、船から船員が『逃げ出した事件』より、
奇妙な事象を残して船員が『消え去った事件』が、
話として、面白いからです。
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事実が曲解されて、真相が不明瞭になっていた。
それが、この事件の、真実の姿なのです。
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ですが、その真実が、この事件に隠された…、いや、触れてこなかった本当の恐怖を、私に気付かせました。
[メアリー・セレスト号]に乗船していた、
ブリッグス船長。
その妻サラ。その娘ソフィア。
船員6名。
計10名。
船から逃げ出し、小さなボートで水平線広がる蒼く暗い海を『漂流』する10名。
その人達は、
今だ、
発見されていないのです。
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漂流…。
そう、[メアリー・セレスト号]乗員10名は、誰にも発見されることなく、
生存が確認されることなく、
当ても希望のない浩々たる海原を彷徨い、
漂流の果て、
恐らく、死んだのです。
その漂流という状況に、私に、ある凄惨な、そして不幸な海難事故を思い出させます。
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[ミニョネット事件]をご存知でしょうか?
漂流の結果、船員が飢えを凌ぐために、ある禁忌の行為を行い、その正否を求め裁判になった事件です。
『1884年7月5日、イギリスからオーストラリアに向けて航行中に難破したミニョネット号。
船長、船員2人、給仕の少年の合計4人の乗組員は救命艇で脱出に成功したが、食料や水がほとんど搭載されておらず、漂流18日目には完全に底をついた。
19日目。「人を食べる」提案がのぼる。
20日目、船員の中で家族もなく年少者であった給仕のリチャード・パーカー(17歳)が渇きのあまり海水を飲んで虚脱状態に陥った。船長は彼を殺害、血で渇きを癒し、死体を残った3人の食料にしたのである。』
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このような、不幸な事件は、これだけではありません。
日本の船でも、起きたのです。
これより先、あまりに凄惨な内容なので、苦手な方は閲覧を控えて下さい。
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[良栄丸船遭難事故]
『漁業従事中にエンジンが故障、北太平洋をおよそ11ヶ月間漂流した。
その間に乗組員は全員死亡したが、船体は北アメリカ大陸西岸に漂着した。
海難事故で生存者がいなかった場合は、一般にその遭難の原因や経過を知ることが困難な場合がほとんどだが、当事故においては船体が沈没せず、克明に記された航海日誌が残されており、その漂流の経過が判明している。』
以下は、船員が残した航海日誌の内容です。
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1926年(大正15年)
12月 5日、神奈川県の三崎漁港を出港。
銚子の沖合いを目指すつもりが天候が悪く銚子港を目指す。
12月 6日、銚子港へ一時入港。
12月 7日、銚子港を出港。以後銚子沖で漁に励む。
12月12日、突如機関クランクシャフトが折れ、航行不能に。
そこに西からの強い季節風が追い討ちをかけ、船は沖へ沖へと流される。
「12月27日、沖の大海へ出ると波も風も何も無い。
もう外国と日本の中ほどにまで流されたのではないかと不安が募る。」
「12月27日。カツオ10本つる」
「1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした」
「2月17日。いよいよ食料少なし」
「3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた」
「3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、「ひとめ見たい・・・日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする」
「3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す」
「3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し」
「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える・・・・。」などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い」
「3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ」
「4月4日。三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。これもみな、餓鬼畜生となせる業か」
「4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡」
「4月14日。沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり」
「4月19日。富山和男、沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡」
「5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし」
「5月11日。曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや・・・・」
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日記はここで切れている。
だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。
「とうさんのいうことを、ヨクヨク聞きなされ。もし、大きくなっても、ケッシテリョウシニナッテハナラヌ・・・・。私は、シアワセノワルイコトデス・・・ふたりの子どもたのみます。カナラズカナラズ、リョウシニダケハサセヌヨウニ、タノミマス。いつまで書いてもおなじこと・・・・でも私の好きなのは、ソウメンとモチガシでしたが・・・・帰レナクナッテ、モウシワケナイ・・・ユルシテクダサイ・・・・」
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不幸にも。
そう。本当に不幸な事ですが、
このような出来事が、[メアリー・セレスト号]の8名の乗員と、一人の女性、一人の幼子の身に、
降りかかっていないとは、限らないのです。
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1873年始めの頃。
スペイン沿岸に、救命ボートが流れ着きました。
そのボートには、アメリカ合衆国国旗と、
『6名』の遺体があったそうです。
これが、[メアリー・セレスト号]に関連するものなのかの調査は行われず、
真実は、
今だ、
解明されていません。
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凄惨な、そして不幸な事故に巻き込まれ、命を失った方々…恐らく犠牲になられた方々の中には、女性や幼子も含まれるのでしょう…への、ご冥福をお祈り申し上げます。
作者yuki
書き上げた時、海の無い私の故郷に、震度6の地震が起きました。