「最近、冷えますな…。」
いつものように六花にココアを飲みに来ていた木菟が、掌を擦り合わせながらため息をついた。
「そうですわね。水仕事が辛くなりましたわ。」
おかげで手が荒れて仕方なくて、と、美子は困ったように指をさすった。
「どれ、ちょっと見せてください。」
木菟は立ち上がり、さっと美子の手をとった。
「あ、ちょっと先生…。」
美子の手を包み込んだ、木菟の手の冷たさは、火照った体温を隠すのに丁度良かった。
「本当だ、痛そうですねぇ…。」
木菟は美子の指に走ったひび割れを一撫でしてから、そうだ、と手を打った。
「この間経凛々さんに貰った絆創膏がありました。これ、あげます。」
懐から何枚か連なった絆創膏を取り出し、木菟は微笑んだ。
「まあ…。」
美子は溜息にも似た声を漏らした。
「あ、私貼りますよ。手、出してください。」
「え?」
言われるがまま手を差し出した美子。
その指に、中腰の木菟が絆創膏を巻いていく。
(なんか、この体勢…。結婚式の指輪交換みたいじゃない。)
意識し始めると、美子は妙に気恥ずかしくなってしまうのであった。
「あ、あの」
美子はそんな甘酸っぱい気持ちを誤魔化すように尋ねた。
「この絆創膏、経凛々さんからもらったって仰っていましたけれど、確か彼と喧嘩をしていませんでした?仲直りはなさったの?」
「え、ああ。はい。なんとか許してもらえました。」
女郎蜘蛛の時の話である。
美子は店に通うようになった深山から、事件の事を聞いたのだ。
「…気の毒だったわね、経凛々さん。」
「…。」
木菟の表情が曇った。
「許してもらえたのはいいのですが、彼は大分塞ぎ込んでしまいましてね。風邪をひいたのもありますが、寝込んでいるんです。」
木菟は神妙な顔をして、溜息をついた。
「…あの、私。呼んでいただければいつでも行きますわよ。経凛々さんが家の事できないなら、先生どうなってしまうか分かりませんもの。」
わざと戯けて言ってみせた美子であったが、経凛々の傷心は実際痛い程よく分かった。
お似合いの2人だと思っていた。
ミルクティーを美味しそうに飲む芦田を、嬉しそうに眺める彼。
仲睦まじい様子は、見ているこちらも幸せになってしまうようなものだったのに。
「さて、手当てが終わりましたよ。」
ぽん、と優しく美子の手を叩き、木菟は微笑んだ。
「助かりましたわ。これで当分大丈夫。」
美子は服の袖を捲り、小さくガッツポーズをして笑った。
「お役に立てたようで良かった。」
木菟は席に戻ると、残っていたココアを飲み干した。
「この寒さですぐに飲み物が冷めてしまうのですから、参ったものです。」
それでは、と木菟は立ち上がり、ココアの代金を払って美子に背を向けた。
「あら、もうお帰りになるの?」
「ええ。風邪っぴきの経凛々さんを1人にしておく訳にはいきませんから。」
店を出て行く木菟の後ろ姿を見送って、美子はため息をついた。
「先生たら…。」
呟き、いじらしく店の戸を見つめる。
経凛々のことがあってから、不安でたまらないのだ。
何というか…。
言葉にできない不安が、心の奥に生まれたような気がする。
「お困りのようね?」
突然かけられた声にはっとして顔を上げると、いつの間に来たのか目の前の席に薄紫のベールを被った女が座っていた。
「あら、いつの間に…。気が付きませんで、ごめんなさい。」
「いいのよ。」
女は笑った。
その妖しげな雰囲気に、美子は少し身構えた。
「何をお飲みになりますか?」
「そうねぇ…。任せるわ。」
美子は会釈して、女にコーヒーを淹れた。
「当店オリジナルブレンドですわ。どうぞ。」
「ありがと。」
コーヒーにミルクと砂糖を溶き、美味しそうに啜る女を見て、美子は言った。
「あの、失礼ですけど、占い師さんか何かでいらっしゃいますの?」
女は上目遣いにこちらを見上げた。
「…ふふ、残念。まあ、あながち間違ってもいないかしら…。」
「あら…。それじゃ、何をしていらっしゃるの?」
女は焦らすように笑って、カウンターから身を乗り出した。
「私は恋煩いの乙女に救いの手を差し伸べる、美しきまじない師よ…。」
美子は首を傾げた。
「まじない師?それって、子供がやったりするおまじないの?」
「あら、おまじないをするのは子供だけじゃないわ。」
女は懐から小さな本を取り出した。
「本格的なものは実践に十分使えるのよ。ほら…。」
本をぱらぱらとめくってみせ、女は言った。
なるほど、いかにも信憑性のある本だ。随分古びて、所々破れている。
「それで、あの…。」
美子は口籠りながら、気になっていた事を尋ねた。
「恋煩いの乙女って…。」
待ってましたとばかりに、女は顔を上げた。
「そう、私の専門分野は恋まじない。どこかの鈍感な彼を必ず振り向かせる方法を、私は知っているのよ。」
鈍感な彼…。
美子の脳裏を、木菟の横顔が過る。
「知りたいでしょう?」
「…え、違っ、そんなんじゃ、」
自分の考えを読まれたようで、美子は慌てた。
「あらぁ、隠さなくていいのよ?私には、ちゃーんと分かるから。」
女は美子の目を覗き込むようにして言った。
「…それ、どんなおまじないですの?」
恋煩いの乙女の為のまじない、鈍感な彼、必ず振り向かせる…。
美子の脳内をそれらの言葉がぐるぐると回る。
そのせいか、女がベールの下でほくそ笑んだのには全く気付いていないようだった。
ー
閉店した六花のカウンター。
手に小さな布の人形を持った美子が、放心したように肘をついていた。
『いいこと、このメモに書いてある事は絶対に守ることよ。あなたの恋を成就させたいなら、ね。』
脳裏に焼きついた女の言葉を反芻しながら、彼女はポケットから小さく折りたたまれた紙を取り出した。
ゆっくりとした手つきで紙を開き、昼間読んだ内容をもう一度読んでみる。
「恋慕の女神…。」
使い方は単純。
恋慕の女神の腹部に、想い人の髪を数本赤い糸で括り付け、肌身離さず持っておく。すぐに彼はあなたにぞっこんに。
セット内容は女神本体と赤い糸、首から下げられるミニ巾着。
締めて1万5千円也。
改めて金額を見つめ直す。
ぼったくりかしら、と、ふと思った。
「…でも、効果がなければお金は返してくれるって言ってたし。」
女の言葉を素直に信じ、美子は人形をぐっと握り締めた。
ー
1週間後、待ちかねた日曜日。
木菟がのっそりと店に入ってきた。
「…こんにちは。」
「あら先生、いらっしゃい!」
美子はとびきりの笑顔で彼を迎え、いつもの席に座らせた。
「寒かったでしょう、すぐココアお淹れしますわ。」
「はい、お願いします。」
木菟は揃えた膝に手を乗せて、ちょっと笑った。
オリジナルブレンドのココアを作りながら、美子はそっと彼の方を窺った。
どうやって髪を貰おうかしら…。
こんな時だけ、髪切りを召喚して使いたいと思う彼女であった。
火にかけたやかんが湯気を吹き上げたその時、彼女は閃いた。
「先生、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
木菟が頭を下げたとき、美子はあっと声を上げた。
「先生、若白髪が。抜いて差し上げますわ。」
「え?」
彼が頭を上げるより前に、美子は素早く2、3本の髪を引き抜いた。
「痛っ…。」
「ごめんなさい、でもちゃんと抜けましたわ。」
予め用意しておいた紙に木菟の髪の毛を包んでポケットに滑り込ませ、美子は微笑んだ。
「それにしても、白髪が生えるとは。身体は正直ですな。」
「何かありましたの?」
小さな嘘の罪悪感を打ち消そうと、美子は溜息をついた木菟に顔を寄せた。
立ち上ったココアの香りが鼻先をくすぐる。
「いや、どうもいいテーマが浮かびませんで。最近あまりよく眠れていないのです。」
「そうでしたの…。」
美子は深く頷いた。
「寝る前には、ホットミルクがいいんですのよ。」
「そうなんですか?」
木菟は美子の顔を見上げた。
美子は微笑んで続ける。
「ええ。夜、眠れないときは呼んでくださいな。いつでも淹れに行きますわ。」
「はい。ありがとうございます。」
木菟も嬉しそうに笑った。
暫くココアを楽しんでから、木菟は帰っていった。
「よし…。」
その後ろ姿を見送り、美子はいつもより早く店を閉めた。
ー
「使い方は単純…。」
自室に戻った美子は恋慕の女神を手にとり、先ほど手に入れた木菟の黒く太い髪の毛を押し付けた。
「想い人の髪を赤い糸で括り付ける…だったかしら。」
裁縫箱から縫い針を取り出し、赤い糸を通す。
そして、恋慕の女神の腹部に針を刺し、木菟の髪をぎゅっと括った。
「‼︎」
美子は思わず人形を取り落としそうになった。
人形が手の中で、身を捩ったように感じたからだ。
「…気のせいよね」
何となく水鏡の時とのデジャヴを感じながら、美子は巾着に人形を入れて首にかけた。
「それにしても、本当に効くのかしら?」
首を傾げる美子。
そんな彼女を、窓の外から女が覗いていた。
口元に、不敵な笑みを浮かべて。
ー
その少し前、木菟宅。
彼は新作の執筆に勤しんでいた。
ふとペンを置いて、経凛々の部屋を覗く。
彼はもぞりと動いて、光の差し込んだ方を見た。
「おや、起こしてしまいましたかね。」
「いえ…。眠れなくて。」
彼は微かに微笑み、身体を起こした。
「私に何かご用ですか?」
「いや、風邪はどうかと思いましてね。」
ふふっ、と暗い部屋に経凛々の笑い声が響く。
次いで、皮肉げな声がした。
「木菟先生、私は経凛々ですよ?」
「それでも風邪はひくでしょう?」
「…ふん」
経凛々は再び布団を被った。
「やれやれ、私は少し嫌われてしまったようですね。」
木菟は頭を掻いて、経凛々の部屋から顔を引っ込めた。
…っくしゅ。
閉まった襖の向こう側から聞こえた小さなくしゃみに、木菟は思わず顔を綻ばせた。
安心したのか、大きく身体を伸ばして欠伸をする。
「…何だか急にホットミルクが飲みたくなってきたなぁ。」
スマートフォンに手を伸ばしかけ、やめた。
「流石に美子さん、寝てるかな?」
しかし、諦めようにも妙に美子の事が気になる。
…いや、気になるどころの話ではない。今すぐ会いたい。
逸る気持ちを抑えつつ、美子の番号をダイヤルする。
ワンコール、ツーコール。
『…っ、はい?』
驚いた様子の美子が出た。
「も、もしもしっ、美子さんですかっ⁉︎」
電話口に食らいつくようにして、声をかける。
「い…。今から来られますか、どうしてもあなたのホットミルクが飲みたくて…。」
『わ、分かりましたわ。すぐ。』
電話を切った木菟は、落ち着かない様子で居間をうろついていた。
「…ちっ」
苛立ちが治まらないのか、眉間に皺を深く刻み込んで玄関を睨みつけた。
黙って玄関へと足を運び、座り込む。
そんな彼の後ろ姿を、部屋から半分ほど顔を覗かせた経凛々が怪訝そうに見つめていた。
ー
「ごめんなさい先生、遅くなってしまって…。」
美子が木菟宅の戸を開いたその瞬間、彼女の腕は中から伸びてきた腕にがしっと掴まれた。
「遅いです」
「…えっ」
そのまま暗い家の中に引きずり込まれ、彼女の身体は後ろから何者かに抱きとめられた。
「…遅いですよ、美子さん。」
耳許で囁かれた声は、確かに木菟のもの。
「先生…?」
美子の頰は暗闇でも分かるほどに赤くなった。
暗闇に流れる沈黙を破って、美子が口を開いた。
「そ、そうですわ、私ホットミルクを淹れに来たのに。」
「いえ、そうじゃなくて…。」
美子を抱く木菟の力が、少し強まる。
「ホットミルクなんてのはただの言い訳というか…。」
「く、苦しいですわ先生。」
「あ、すみません…。」
美子の肩に回していた手を下に下ろし、木菟は言った。
「いえ、最初は本当にホットミルクが飲みたいだけだったのですが、考えていたら美子さんに会いたくなってきてしまって。そんな気持ちが抑えきれなくなって、あなたを呼んだ次第です。」
「まぁ…。」
美子は思わず首から下げた巾着を握りしめた。
効果覿面。凄い、これ…。
「そうなんですの、先生。…嬉しいですわ。」
「…嬉しいんですか?」
「ええ…。」
美子は夢心地で答えた。
「そうですか…。」
木菟の華奢な手が、少し伸びた美子の黒髪を撫でる。
「ずっとこうしていたいです。」
「そうね…。」
「…ずっと一緒にいてくれますか?」
「喜んで…。」
「……そうですか」
木菟の声が少し低くなった、その瞬間。
「…いやっ⁉︎」
美子の手首に鋭い痛みが走った。
どうやら後ろに捻られたようだと気付いた時には、縄によって彼女の身体の自由は奪われていた。
ふっと辺りが明るくなった。
「先生…?」
後ろを振り向くと、美子の手首を縛り上げた縄の先を握った木菟がいた。
その目はどこか虚ろで、焦点が定まらない。
抑揚のない声で、彼は言った。
「承諾を頂けたようで何よりです。それではすぐに私と契りを交わしましょう。」
「えっ⁉︎」
美子は慌てた。
待って、そんなに急に⁉︎
まだ私、そこまでは望んでないのに!
木菟は美子を引き摺って階段へ行き、手すりに縄の先を縛りつけた。
「逃げないでくださいね。」
薄っすらと微笑んだ木菟が、何とも不気味に見えた。
「え、ちょ…。先生、冗談…。」
「シャワー浴びてきます。そこ、動いちゃ駄目ですからね。」
木菟は踵を返し、風呂場へと歩いていった。
1人残された美子は、深いため息をついた。
どうしましょう…。先生がおかしくなってしまって。私ったら、また同じ過ちを。
項垂れていると、階段のすぐ傍の扉が少し開き、心配そうな瞳が覗いた。
「…経凛々さん?」
美子が声をかけると、彼は眉を顰めて唇に人差し指を当てた。
そして彼女の腕を縛り上げた縄に目を走らせ、言った。
「すぐ縄を解きます。」
まず美子の手首の縄を解きにかかるが、予想以上に強い力で縛られていて外れない。
仕方なく手すりの縄に挑むが、これもまたどういう訳か外れない。
そのうち、風呂場から物音がし始めた。
「…まずいな」
経凛々は少し考えてから、台所へ向かった。美子には見えなかったが、手に何か持ったようだ。
彼が風呂場に消えて間もなくして、鈍い音と軽い呻き声がした。
「な、何をなさったの?」
風呂場から出てきた経凛々に美子が尋ねると、彼はフライパンを持った右手を上げた。
「この間から一発おみまいしてやりたかったんです。」
「あら、そう…。」
美子は苦笑した。
ー
経凛々は病み上がりの身体を引きずって、深山のいる警察署へと走っていた。
道順は木菟の誤認逮捕騒ぎの時に覚えている。そんなに複雑な道順ではない。
署に着くと、丁度深山がパトカーに凭れて煙草を吸っていた。
同僚らしい男が隣におり、何やかやと声をかけているが深山は意に介していない。
「深山さん!…でしたよね?」
彼が声をかけると、深山は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたがすぐにいつもの軽い調子を取り戻して言った。
「よぉ、言の葉か。どうかしたか?」
「ええ、美子さんがちょっと大変なことに…。」
「何?どうしたんだ。」
「はい、何と言ったら良いか…。木菟先生が美子さんを縄で縛って、階段に括り付けているんです。」
「な…何だと⁉︎」
深山の咥えていた煙草がぽろりと落ちた。
「先生は今気絶していますが…。目を覚ましたら大変です。」
「変態め…。とうとう本性を現したな!」
落ちた煙草を踏みつけ、深山は経凛々に向かって顎をしゃくった。
「乗れ。パトカーを出す。」
すると、先ほどから彼の隣にいたガタイの良い若い男がえっと声を上げた。
「リュウさん、アルコール入ってるじゃないですか!駄目ですよ、警察官が飲酒運転しちゃあ。」
「まあまあ、固てぇ事言うなよ。」
「駄・目・で・す‼︎僕が許しませんからね。上に報告したらリュウさん始末書確定ですよ。…大体ですね、リュウさんまだ仕事残ってるじゃないですか。こんなとこで油売ってる場合じゃないでしょう。そもそも勤務中の飲酒はですねぇ…。」
マシンガン並みの速度で飛んでくる小言に、うっと深山が呻く。
その様子を首を傾げて見ていた経凛々は尋ねた。
「…あの、彼は?」
「…ああ、お前初対面か。ジョー、自己紹介しとけ。」
男は経凛々の方を振り向くと、頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。九条です、よろしくお願いします。」
爽やかな笑顔を浮かべ、九条は経凛々の手をがっしり掴んでぶんぶんと振った。
「あ、はい、よろしくお願いします、痛たた…。」
…って、こんな事してる場合じゃない。
「あの、九条さん。友人が困っているんです、どうにか深山さんを貸していただけないでしょうか?」
九条は困ったように眉を下げた。
「困りましたね、酔ってるリュウさんに運転させる訳にはいかないし。」
「ジョー、お前運転しろよ。そうすりゃ問題ねぇだろ。」
考え込んでいた九条に、深山が提案した。
「え、僕はまだ捜査資料のまとめが…。」
「ごちゃごちゃ言うな、早く!」
痺れを切らした深山がやっと九条を車に押し込み、彼らは木菟宅へと車を飛ばした。
ー
経凛々の呼んでくる助けを待つ間、美子は何とか縄から抜け出そうと必死にもがいていた。
いつもなら木菟から逃げるなんて考えもしないが、今日は状況が違う。
手首を色々な方向に捻くっていると、玄関の戸がそっと開いた。
経凛々かと期待したが、入ってきたのは恋慕の女神を売りつけてきた女だった。
「こんばんは、楽しんでる?」
「あっ、丁度良かったわ。まじない師さん、助けて!」
どうやら効果があったようね、と女は美子に歩み寄ってきた。
「なんかちょっと効き過ぎちゃったみたいなの、何とかならないかしら?」
「勿論。」
美子がほっとしたのも束の間、女は懐から銀色の小さな鋏を取り出した。
「恋慕の女神の効果を消すには、この絶縁の鋏で糸を切る事よ。」
「え…?それってまさか、」
「勿論別料金よ。2万円カッコ税別…。」
ひどいわ、と美子は女を睨みつけた。
「暴利よ、そんな鋏が2万円だなんて!大体おまじないの人形だって高すぎるわ!」
今更、と女は笑った。
「あらぁ、愛しの彼との縁結びを願ったのは誰?叶ってるんだから詐欺じゃないわよ?」
美子は言い返せなかった。女の言う通りだからだ。
その時、風呂場から物音が聞こえた。木菟が目を覚ましたらしい。
「あら、もう時間切れみたい。それじゃ、愛しの彼との時間をせいぜい楽しむことね。」
女は踵を返し、その場を去った。
美子はしょんぼりと項垂れた。
今の先生は本当の先生じゃない。
まじないに操られた操り人形なのに。
違う、そうじゃなくて…。
私が一緒に居たいのは…。
「美子さん」
身が竦み上がった。
恐る恐る見上げると、目の前に浴衣一枚の木菟が立っていた。帯はしていない。
彼は手すりの縄をナイフで切り、端を持った。
「部屋へ移動しましょうか。」
「…。」
美子は立ち上がる気力もなかった。
「…この期に及んで逆らいますか」
先生はこんな事言わないわ。
「男に女が従うのは日本の風習です」
先生は絶対にこんな考え方しない。
「………。」
木菟は無言で縄を強く引いた。
「…嫌です」
「何?」
美子は鋭く木菟を睨みつけた。
「私はよく知りもしない人間に身体を預けたりしませんわ。」
「…。」
美子の服の襟ぐりを掴んで引き上げ、木菟は言った。
「俺に口答えするんじゃねぇよ」
目が完全に据わっていた。
美子は自分が情けなくて仕方なかった。
恋に盲目になって、想い人を狂わせた自分が憎らしかった。
「…人間じゃないわ」
呟くように言った美子に向かって、木菟が手を振り上げたその時。
玄関の戸が勢いよく開いて、2つの人影が飛び込んできた。
「先生、あんたの本性存分に見せてもらったぜ!」
木菟に海老固めをかけて笑っているのは深山だ。
一方、美子を抱き起こして手首の縄を解こうとしているのは経凛々である。
「良かった、間に合って…。」
不思議な事に、あれほど解けなかった縄はすぐに解けた。
「経凛々さん…。」
安心と後悔とが一度に押し寄せてきて、美子は経凛々に抱きとめられて泣いた。
「もう安心です。警察の方に来ていただきましたから。」
玄関戸の向こうに、点滅するパトランプが見えた。
深山に目をやると、放心状態の木菟を蹴飛ばして歩かせ、パトカーへ運んでいる。
「ほらっ、キリキリ歩けぃ!この変態が!…てかあんた、下着つけてねぇじゃんか!ったく、どうしたんだー⁉︎」
深山も木菟の様子がおかしい事には気付いているようだ。
「あの、刑事さん?」
美子は深山に声をかけた。
「…ん、奥さんか。何だ、手続きとかの質問なら後にしてくれよ。」
「あ、違うんですのよ。誤解なんです、先生は悪くなくて…。」
美子はこうなるに至った経緯を全て話した。
「…ふうん、自称まじない師の女、ね。」
深山は眉間に縦皺を刻んで唸った。
「でも、そういったものは法廷で通用しなくてな。もしかしたら先生が自分の意思でやった可能性もなくはないだろう?」
「…。」
ふと、美子の手に巾着が当たった。
「…そうですわ」
彼女は床に落ちていた木菟のナイフを拾い上げ、言った。
「今から証明してみせますわ。先生の無実と私の非…。」
巾着を開き、人形に括られた赤い糸にナイフを引っ掛ける。
大丈夫、あんなぼったくり鋏じゃなくても…。
ぷつり、と音がして糸は切れ、木菟の髪は人形から離れた。
同時に、木菟も糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「先生、しっかりなさって!」
その身体を美子が揺すると、木菟はゆっくりと身体を起こした。
そして目を擦り、辺りを見回した。
「…あれ、美子さん?深山刑事まで。経凛々さん、寝てなくていいんですか?」
「良かった、いつもの先生!」
美子は木菟に寄り添った。
「何だか体の関節が痛いです。それに寒い…。」
木菟はそこで初めて自分の格好に気付いたらしく、そそくさと風呂場へ引っ込んでいった。
「刑事さん、これは事件になりますの?」
不安げに尋ねた美子に、深山は親指を立てた。
「大丈夫だ。なったとして痴話喧嘩扱いかね。」
美子はほっと胸を撫で下ろした。
外から九条の声が聞こえる。
「リュウさん、まだですか?」
「いけね、相棒待たせてたんだ。」
詐欺女だけ指名手配だな、などと呟きながら彼は去った。
残された美子と経凛々は、遠ざかっていくパトランプを見送っていた。
「…美子さん」
経凛々が口を開く。
「今回の事は先生には適当に誤魔化しておきましょう。しかし…。」
一瞬躊躇して、彼は言った。
「こんなことをしなくても、先生はきっと美子さんの気持ちには気付いてくれます。先生だって、あなたを慕っていますから。」
「え?」
美子の頰に赤みが差した。
「まじないというのは、漢字で『呪い』と書きます。つまり、それなりの効果もありますがリスクもあるというわけです。」
美子は絶句した。
経凛々は尚も続ける。
「美子さん、先生を信じてください。まともな恋のできない私が恋を語るのは、おこがましい事かもしれませんが…。」
彼は微かに表情を翳らせた。
「だからこそ、お二人には普通に幸せになって欲しいのです。」
上から目線ですみません。
彼は最後にそう締めくくった。
「いえ…。」
普通の幸せから遠い分、逆にそれがよく分かるのだろう。
彼から教わる事は沢山あるような気がしてならない。
木菟より幾らか翳りのあるその横顔が何を考えているのかも、今の美子には分からなかった。
ー
今日はもう遅いからと、美子は木菟の家に泊まらされた。
借りた布団の中で彼女は決心した。
もうまじない…呪いには頼らない。
自分と木菟の縁を、信じてみようと。
作者コノハズク
恋は人を狂わせる、というやつです。
丁度バレンタイン前でタイムリーかな、と。
今回は美子さんも木菟も暴走しております。
経凛々は少しぐれた気がします。