零、
『主文、被告人を死刑に処する』
静寂が辺りを支配し、殺意の眼差しは私へと突き刺さっていた。
呼吸は乱れ、脳が一気に熱く脈打ち始めるのが分かる。
『理由、被告人…』
全ての視線は私に注がれていたと思う。 怖くて顔を上げることなどできなかった。
言葉など聞こえなくても十分に理解出来たのだ 。
その瞳は皆、死刑で当然と言っているのが…
『1941年8月8日、北海道久無間内(クムマナイ)群、駒岡里(コマオカリ)村、字(アザ)白志田(ハッシダ)で出生し、地元の駒岡里小学校卒業後… 』
重い空気を噛み締め、今起きていることを必死に理解しようとする。
だが、もう私には考える余裕すらなかった。死刑という言葉を聞いた瞬間、全てが砕かれたのだ。 いや…何かが蘇ったと言ったほうがいいのかもしれない…
体からは汗が吹き出し、視界はぼやけ、息苦しさでその場に崩れ落ちる。遠くからは人の怒号のような声が聞こえ、床の冷たさが肌に伝わるのが感じられた。
それが最後の記憶…
その後、何が起きたのかは覚えてはいない。
どうしてこうなったのかも自分ではわからない。ただ一つ言えるのは私は神の意志に従っただけ。 母の教えを守っただけ…
昔からそうだった、それが一番大事だった。
私はそのために生きてきたのだ。
なぁ… そうだよな… 母さん。
:
壱、
異様な寒さと激しい頭痛、そして広がる視界が私を現実へと引き戻した。
眠っていたのだろうか? いや…それすらも判らない… 何も覚えてはいない…
ただ分かるのはこの部屋が異様に寒いということ… その冷えた空気が少しづつ意識だけを鮮明にさせるが、頭の中はまだ錯乱し、状況を把握できずにいた。
ゆっくりと視界がクリアになるにつれ、見覚えのないのっぺりとした壁が広がり、更に私を困惑させていく。
此処は何処なのだろうか? 焦る様に部屋を見回すが、何処なのか一向に検討もつかない。 取り敢えず落ち着いて、辺りにある物を一つ一つ確認し、それから答えを見つけようと、考えを巡らした。
まず、部屋の広さは全部で四畳くらいだろうか…
床には畳が三枚敷いてあり、四方の壁は飾り気の無いクリーム色。 正面の壁側には小さな机と棚が置かれている。 部屋の左奥には、洋式の便器と洗面台が畳一枚分のスペースに備え付けられており、その上には小さなはめ殺しの窓が付いているようだ。 その窓には目隠しバイザーがされ、外の様子を見ることができなくなっている。
反対側の壁には外に通じているであろう重厚な扉が、しっかりと部屋を塞いでいて、その横には小さな台があり、奥に開閉式の扉が付いていた。
そして、私の直ぐ後ろの壁には布団がたたまさって置かれていて、今まで此処で寝泊まりしていたことを窺わせている。
見上げると、天井にはスピーカーが付いていて、その直ぐ横には黒い丸い突起物が一個… 多分監視カメラか何かだろうか?…
意味が解らず悩んでいた。 本当に此処は何処なのだろうか… ——と。
よく見ても答えは出てこないし、何も覚えてはいなかった。 それとも突然開いた視界に、私の脳が追い付いていないだけなのだろうか?…
いくら考えても、判らないし、記憶もハッキリとしない…
自ら望んで此処に来たのか、誰かに入れられたのか、それすらも判らない…
ただ一つ言えるのは、この独特な部屋の造りが私に嫌な思いをどんどん募らせていくということ… 見れば見る程、此処はまるで刑務所の独房に思えてしまうのだ。
まさかと思い、焦るように自分の姿を確認するも、メリヤス編みの青いセーターに、下は厚手の白いスウェット。 至って普通の部屋着に取り敢えずは胸を撫で下ろした。
これは囚人服ではない… ということは此処は刑務所ではないようだ。
だが、それが分かっただけでは、何の解決にもなってはいない。
私はもう一度ゆっくりと部屋の中を見渡すと、絞り出すように記憶を辿っていた。
するとある光景が薄ぼんやりとではあるが脳裏に浮かび、私はそれを紐解くように頭の中で巡らした。
そこは何処だか判らない特殊な造りの広い部屋。 周りには沢山の人がいて。 私は大きな台に手をつき、恐怖で顔を上げることができず、ずっと下を向いている。
正面には法壇があり、中央上段に座ってる男が何かを話しているのだが、何を言っているかまでは解らない。
しかし、次に発せられた言葉だけはハッキリと脳へと突き刺さり、嫌でもその言葉の意味まで理解できた。 男は厳しい顔をこちらに向け、死刑と言っているのが…
…そうだ… そうだった… 私は死刑を言い渡されたのだ。 それが分かった途端体が震えだし、息が荒くなるのが分かった。
だが一体私は何をしたというのだろうか? それは全く覚えてはいない…
こんな所に入れられたのだから、何かとんでもないことをしでかしたという漠然とした思いだけが込み上げてきていた。
置かれている机に両肘をつき、頭を抱え考えるが、鼓動が早くなり息が苦しくなるばかりで何も思い出せない。 だが、一つだけハッキリさせることがあった。 それは、此処は刑務所なんかではでなく、拘置所であるということ…。 私は死刑囚として、死ぬ為に此処に入れられているのだ、——と。
だが、答えが分かっても問題を理解出来ない自分がそこにはいる。 何故死刑判決を下されたのか。 その記憶が曖昧で解らないことが多過ぎるのだ。
そういえば… 私は誰なのだ?… 名前は?… 何歳なのだ?… 今更ながらであるが、一番大切なことが私には欠如していることにようやく気付いた。
信じられないが、私には記憶の殆どが抜け落ちてしまっているらしく、何処で何をして、どうやって生きてきたかも何もわからない。 その絶望にも似た感覚が更に自分を苦しめ、頭を混乱させていった。
手や腕を見ればその蓄積されたシワと、乾ききった肌から高齢者だという事は容易に判るが、正確な名前や年齢、何者であるかまでは判断できない。
ハッキリ言って理解不能だった。 何度も頭を揺すり、記憶を辿るが、頭の中には闇が広がる一方で、光は見えてはこなかった。
手の平で頭を擦ったり、声に出して私が誰であるかを言おうとしたのだが、蘇ってくる記憶は断片的なものばかりで、真実かどうかも判らない。
それでも残っている記憶を頼りに、ようやく死刑判決で男が言っていた駒岡里という言葉を思い出すことができた。 それは自分が少年時代に過ごした故郷の名前。
瞼を閉じると懐かしい風景が蘇り、妙に心を落ち着かせてくれる。
十五歳まで家族で暮らした大切な思い出… そこはとても暖かく、愛情と安らぎに満ち溢れていた。
優しい母と働き者の兄と姉。私は確か三番目、末っ子だった。
戦後間もない時代。物不足と言われていたが、私の家はとても裕福だったのを覚えている。 食料や衣服、生活用品に嗜好品まで何一つ困ったことはない、家も広かった、と思う。
幸せな生活を送っていた頃の記憶。 なによりもかけがえのない思い出、それだけは忘れずに脳裏に焼きついていたらしい。
だが、それ以降の記憶は何故か殆ど失われていて、何も思い出すことはできない。 何処で何をして生活してきたのかも… 何故、私が死刑囚となり拘置所に入れられたのかも… 一切思い出せなかった。
私は何をしてしまったのだろうか? その思いだけがどんどん心を苦しめていく。
壁を見つめ自分に問いかけるが、返ってくるものは何もなく。 それどころか頭痛が酷くなるばかりで、今の自分さえ見失いそうになるだけだった。
その上気分も悪くなり、何度も吐き気を催し、口の中は嫌な酸っぱさに覆われる。
クソ、何がどうなっているんだ…
悪態をつき、その辺の物に八つ当たりをするが、虚しい時が過ぎ、苛立ちだけが募っていくだけだった。
そのまま何も思い出せず何分くらい途方に暮れていただろうか? 扉の向こうからはカツカツと靴音を響かせ誰かが近づいてくる気配を感じていた。
息を呑み、耳を澄ますと扉の向こうの世界に意識を集中する。
見回りか何かだろうか? そう考え、ジッと扉を見つめ、気配を窺った。
すると靴音は私の部屋の前で止まり。 なにやら壁の向こうからはガサゴソと何かを探すような音だけが聞こえてくる。
何だろう?… 不安が脳裏をよぎった。 いきなり扉を開けられ、死刑を告げられる自分を何故か想像してしまう。
やはり此処が拘置所で自分が死刑囚ということが、嫌でも不安を募らせているのだろう。 心臓は高鳴り、扉から目が離せなくなっている自分がそれを物語っていた。
だが心配とは裏腹に扉は開かず、代わりに直ぐ横にある小さな開閉式の扉が突然開かれると、箱が一つ台の上に投げ込まれた。
「注文したもので間違いないな? 一応確認しろ」
小さな扉の向こうから若い男の声が聞こえ、略帽をかぶった刑務官らしき青年が顔を覗かせている。 どうやら私が注文した物を届けに来てくれたらしいのだが、私は突然のことに呆気にとられてしまい、何も答えられず黙ってその光景を見つめることしかできなかった。
すると青年はそんな私を呆れ顔で一瞥すると、首を左右に振り、無言でそのまま扉を閉めようとした。
『まずい、このままでは…』 咄嗟にそう思った。 飛びつくように扉に近づくと夢中で叫び声を上げ、扉を閉められるのを手で防いだ。
「おねがいです! 教えてください! 私は何をしたのでしょうか? それと私は誰なんですか?お願いです…何も思い出せないんです。 教えて下さい」
必死という言葉がまさに当てはまっていたと思う。 気が付いたら小さな台に両手をつき、縋り付くように懇願していた。
しかし、私と青年の間にはかなりの温度差があったようで、彼は呆れ顔をグニャリと崩すと、馬鹿にするかのような笑みを浮かべ、私に信じられない言葉を吐き捨ててきた。
「どうした? 判決からまだ数日だというのに、もう拘禁症状が出始めたか?」
まるで揶揄うような口ぶりで私を罵る青年。 一瞬彼が何を言いたいのか解らなかったが、まともに相手されてないのだけはよく理解できた。
だが冗談ではない。 本当のことを言っているのに、この態度はないだろう…
それとも此処では囚人の話を、聞いてはいけないとでも教えられているのだろうか? それかこの青年の性格が、ただねじ曲がっているだけなのか…
それでも必死の思いで、私は頭を台に擦り付け何度も頼み込んだ。 きっと必死に訴えれば分かってくれる筈だと思ったのだ。
しかし現実はそんなに甘いものではなかった。 青年は面倒くさそうに大きな溜め息を一つ吐くと、軽い口調で「わかった、わかった。 取り敢えず注文したコーヒーでも休息の時に飲んで落ち着け。 それでもダメなら医務に言って、抗鬱剤でも持って来てやるから… 早く戻って座ってろ」と言うと、手でとっとと奥に行けとジェスチャーを送り、扉を閉めて去って行ってしまった。
あまりのことにしばらく愕然とするしかなかった。
このまま何も解らずに刑の執行を待てとでも言うのだろうか? 何とも言えぬ虚無感が私を支配する。
だが勿論納得など出来る訳がなかった。 我に帰り、閉められた扉を何度も叩くと、叫び声を上げ、本当に記憶が無いことを訴え続けた。 ——が、拘置所という所が更に私を闇へと叩き落とした。
再び小さな扉が開けられると、先ほどの刑務官が顔を覗かせ「いい加減にしろ、それ以上問題起こすと、懲罰ものにするぞ。 おとなしく座ってろ」と言い放ち、私を睨みつけ、思い切り扉が閉められたのだ…
もうどうしていいのか分からなかった。本当に此処では死を待つしかないのだろうか?… ——と思えてしまう。 でもそれではあんまりなのだ。 何も分からずに死ぬなんて… 考えただけでもゾッとする。
私は大きくため息を吐きながら、台に置かれた箱を手に取り、机の前に戻ると、崩れるように座った。
もう何も考えたくなかった。 しばらく呆然と壁を見つめ、廃人のようになっていたと思う。
しかし心だけはグチャグチャに掻き乱れていたのであろう。 いつの間にか私の顔からは涙と鼻水が溢れ、寒さも相まってか体がブルブルと震えていた。
その震えが増してくると嫌でも現実へと戻される。 とにかく異常な寒さだったようだ。 吐く息は真っ白で、体の震えも治まりそうにない。 この部屋の異様さを改めて実感させた。 全身がまるで氷の様に冷え固まり、 垂れている鼻水まで凍りそうになっている。
このままでは凍え死にそうだ。 何か温かい物を体に入れたいものだが…
そう思い、取り敢えず棚に置かれていたティッシュで顔を拭くと、ふと先程の刑務官の言葉を思い出していた。 そういえばコーヒーでも飲んで、落ち着けと言っていた、と。
私は渡された箱を手に取り確認すると、確かにスティックコーヒー・ブラック無糖と書かれているのが目に入った。
だがそこである妙な違和感を私は感じていた。 これは本当に自分で注文した物なのだろうか? ——と…
幼い頃と、断片的な記憶しか残ってはいないが、私はコーヒーが嫌いなような気がするのだ。 しかもブラックなんて… 苦くて飲めた物ではない、と思う。
なのに何でわざわざ… 色々考えても何も思い出すことはできず、違和感を拭い去ることはできなかったが、今はそんなことよりもこの寒さが耐え難い…
私は考えるのを辞め、部屋中を見回し、お湯を探すことにした。
しかしいくら目を凝らしても、この部屋には、ポットはおろか、お湯が出そうな所もない…
ではどうやってコーヒーを飲めというのだろうか? 何とも言えない疑問だけが残り、私はどうすることもできなくなっていた。
すると突然扉の向こうから『コーヒー、お茶を飲む者は報知器を押して、カップを食器口に用意』という声が掛けられ、ガラガラと何かを押す音が聞こえてくる。
それは休息時間を報せる号令…
私は成る程、そうゆうシステムかと納得し、棚の上に置いてあったカップにブラックコーヒーを入れ、声の発する方を確認した。
この部屋には外の世界と繋がっている所は二ヶ所しかなく、直ぐにあの小さな開閉式の扉が食器口だということが理解できる。
私は手前の台の上にカップを置き、直ぐ上に付いているボタンを押すと、少しでも寒さを紛らわす為に、ひたすら体を摩った。
多分このボタンが報知器なのだろう… 部屋の中には他に押せそうな所はない…
すると直ぐに食器口が開かれ、顔色の悪い係員がカップにお湯を注ぐと「熱いので気を付けて」と一声発し、そそくさと他の部屋へと向かって行った。
カップからは湯気が立ち上り、持つ手にはじんわりと温かさが伝わってくる。
久しぶりに温かい物に触れる気分だった。 それを恐る恐る口へと運ぶとコーヒー独特の酸っぱいような苦味が広がり、心を落ち着かせる。
それを到底美味いとは感じられなかったが、温かい物が体に入ってくるだけで大分気分は違うものだ。
視界が広がり、脳が正常に動き出した気持ちになる。
そのお蔭なのか、幾らか記憶が回復してきていた。 ——といっても拘置所のルールや一日のスケジュール、施設内の造りや名前、今日が十二月十五日だという程度なのだが… それでも思い出したということが嬉しく、妙に自分を安心させた。
やはり落ち着くのが一番大事なことなのかもしれないな。 ——と自分を納得させ、苦手なコーヒーを楽しむように体の中に入れていった。
それからはひたすら座り、寒さに耐えるしかなかった。
何か一つでも思い出せるものはないかと、頑張ってはみたが、結局何も思い出せず、気がつくと扉の向こうからは夕食の号令が掛けられていた。
慌てて食器口に食器を出し、配食されるのを待った。 その光景がまるで炊き出しに並ぶ浮浪者のように思え、妙に虚しく感じられる。
そして不味いであろう食事を口へと運び、空いてもいない腹を満たすほかなかった。 ただこのまま死ぬ訳にはいかない、という思いだけが今の私を動かしていた、と思う。 味など感じられないし、楽しさも感じられない。 食事というよりも作業に近い状態だった。
それでも何とか残さず完食させると、休む間もなく点呼と点検が始った。
扉が開けられ、刑務官が入ってくると、舐め回すかのように首を動す。
私は色々と聞きたいことがあったが、コーヒーを持ってきた刑務官の事を思い出し、何も聞かずにそのまま点検を終わらせることにした。
どうせ何を言っても無駄だろう、という考えが私の行動を抑圧していた。
例え何か訴えたところで、拘禁症状や延命の為と馬鹿にされてお終い、 諦めておとなしくしてる方が嫌な思いをしなくて済むだろう。
そう思い、黙ったまま刑務官達の動きを目で追うしかなかった。
刑務官達が出て行き、天井のスピーカーから仮就寝の十七時を知らせるラジオが流れ始めると、私は直ぐに布団を敷き、中に入った。
とにかく部屋の寒さが異常なのだ。 ブルブルと体を震わせ、少しでも温めようと体を猛烈に摩る。まるで雪山でキャンプしてるような感覚だ。
それでも数十分そうしていただろうか… ようやく少し布団が暖まると、若干ではあるが寒さが薄らいでいくのがわかった。
これで少しは落ち着けると思い、 スピーカーから流れる静かな音楽に耳を傾ける。
するといつの間にか拘置所内は静まり返り、外の音が自然と聞こえてきていることに気がついた。
耳を欹ててみると車の音や風の音、鉄道や飛行機の音など、壁の向こうからは生活音が鳴り響いてくる。
そんなのを聞いていると、辛い現実に涙が溢れ、小さな泣き声を上げていた。
いくら泣いても悪夢のような世界からは出られない。 そんなことは言わなくても分かっているのだが、涙を止めることはできなかった。
現実を受け入れるしかないと心に決め、涙を拭こうと机の上にあるティッシュへ腕を伸ばした時、不意に部屋の中から『アマル』という声が聞こえ、私は思わず布団の中で身構えた。
空耳だろうか? 誰かの名前を呼んでるように聞こえたが…
息を殺し辺りを見回すが、勿論そこには人の影はなく、声を発するような物も置かれてはいない。
気のせいと思うのがもっとも自然のことなのかもしれないが、何故か気になり、そのまま動くことができなくなっていた。
もし、刑務官や係員が声をかけるなら、部屋の中からではなく、まず外からだろうし、名前では呼ばないだろう。
ラジオか?… とも思ったが、天井のスピーカーからは、ジャズやフュージョンのようなインストゥールメンタルが流れていて、人の声は聞こえてはこない…
何処をどう見ても、人の名前を呼ぶような人や物があるとは思えないのである。
しかし念のため、しばらくそのまま固まり、辺りを窺っていた。
すると… 『アマル…なぁ、聞こえてるんだろ? アマル』と更に声が聞こえ、思わず布団と毛布を跳ね除け起き上がり、部屋中を確認した。
堪らなかった… 普通の寒さとは明らかに違う寒気を感じる。
何度首を回しても、こんな小さな部屋だ。 人影もなければ、中に隠れる場所もないのは一目瞭然だった。 全く何処から聞こえてきた声かも判らない。
『フフフ』…
しまいには笑い声が聞こえ、更に私を錯乱させていった。
自分のことが誰なのかも判らないだけで、限界に近い精神状態なのに… その上得体の知れない声まで聞こえるなんて…
一体私はどうなってしまったのだろうか? イヤ…どうなってしまうのだろうか?
言いようのない不安と恐怖に駆られ、体を掻き毟り布団の上でブルブルと震わせていた。
怖くてそのまま大人しく寝ることなどできなかったが、二十一時の減灯で仕方なく布団にもぐり込んだ…
声はもう聞こえなくなっていたが、どうにも落ち着かない。 施設内はほとんど無音になり、自分の息遣いだけが聞こえてきていた。
目を瞑ると嫌でも死という文字が頭に浮かび、恐怖で何度も目を開いてしまう… これからの事を考えると、余計に眠れなくなっていた。
考えるのはもう辞めよう、そう自分に言い聞かせると、記憶に残っている幼き日のあたたかな故郷の生活に思いを馳せた。
それは駒岡里での母との思い出… 私にはいつも優しく、時には叱り、とても深い愛で包んでくれた。
今でも覚えてる、母が私の為に作ってくれた詩。 誕生を祝い、よく詠ってくれた。 とても暖かく安心する母のぬくもり…
『さあ 覚めて 私の愛おしい子
貴方は木漏れ日に照らされて生まれてきたわ
とても嬉々たることで 全てが変わったの…』
(鮮明に覚えてる… 母さんの優しい詩。 これだけは絶対忘れないよ。 もうすぐそっちに逝きそうなんだ… そうしたらまた詠ってくれよ。 直接聞きたいんだ、母さんの声で… また思いっきり抱きしめてくれよ…)
:
弐、
自然と目が開いたのか、部屋の外から聞こえる辛そうな咳で、起こされたのかは判らないが、いつの間にか私は無心で天井を見つめていた。
ゴロンと横を向くと、窓に設置された目隠しバイザーの隙間から、日の光が部屋の中に射し込んできている。
朝か…
そう思い、そのまま起きて何かしようかとも思ったが、あまりの部屋の寒さに布団から出る勇気を失い、意気消沈してしまった。
十五歳まで北海道で暮らし、寒さには強いと思っていたが、此処の寒さはやはり異常だ。 耐えれる代物ではない。 これからずっとこんな寒さの中で生活を続けていけないと思うと正直色々な意味でゾッとする。
しかし何故十五歳までは記憶が残っているのだろうか? それが何故か妙に引っかかり、釈然としなかった。
それ以降の事は断片的にしか覚えていないし、相変わらず名前や年齢も蘇ってはこない… 漠然とした謎だけが伸し掛かり、私は朝から鬱々とした気分になってしまっていた。 本当に私は誰なのだ、と…
そんなスッキリしない朝を迎えていると天井のスピーカーからは、七時の起床を知らせる音楽が流れ始めた。
その音で、起きるか… と決心し身を起こすと、布団を畳み、洗面、歯磨き、部屋の掃除を一気に済まし、 朝の点呼・点検まで畳の中央に座りひたすら寒さに耐えた。
これから毎日同じ行動をするのだろうか? あと何日そんな朝を迎えるのか? そして迎えられるだろうか?
そんなことを考えてると、私の人生にはもう辛さしか残っていないのかもしれないと思えてしまう。
それでも生きていたいという欲求だけが、私を支配し落胆させていた。 こんな人生でも生きる理由が有るのだろうか、と思える程に…
朝の点呼・点検を終えると、何の楽しみもない朝食が待っていた。
味わうことをせず、配食された物を無心で口へ運ぶ。 病院のメシを二段階位悪くしたようなものか…
外来米と古米を混ぜた麦飯、キュウリの漬物と海苔の佃煮、あとキャベツの味噌汁。 食べられるだけマシかもしれないが、裏を返せばこれは死刑執行まで死刑囚達を生かすメシだ。
健康体で死んでもらわないと、後々面倒くさくなるというのだから、全くもって皮肉なものだと思えてしまう。 これでは生きる為に食べているのか、死刑を受ける為に食べさせられているのかも判らない。
それでも本能なのだろう、口へ物を運ぶと食べれてしまうのだから、生きていたいという欲求がまだ残っていることを窺わせる。 そんな自分があまりにも惨めに感じ、嫌になった。 こんな思いまでして、生きたいと思うのだから本当に情けない、と。
食事を済まし食器を片付けると、昨日と同じく机の前に座り、ひたすら寒さに耐えた。
許される行動は決まっている。 読書や書き物、あと願えば軽作業をして、僅かなお金を手に入れることもできるそうだが… 今の私にはどれも興味の無いことばかりだった。 しかし死刑囚となって、拘禁生活を虐げられてるというのに、この中でも金さえ払えばある程度の物が手に入るとは… つくづく世の中金だなと思えてしまう。 この隔たれた世界でも金を持たない者は、辛くひもじい生活を送らないといけないのだ。 全くもって世も末だ。
まだ寝足りないのか、大きな欠伸を一つすると、別に興味の無い観覧用の新聞をぼんやりと眺めていた。 時間を潰すのにはこれがなかなか丁度いいのだ。 無理に思い詰めても何も思い出せない、それは昨日一日で嫌というほど思い知らされた。 残された時間はそんなにないと分かっていても、たまにはこうやって息抜きをしないとやってられないのだろう。
一通り目を通したところで、廊下から『入浴準備』の号令がかけられ、慌てて立ち上がった。 今日は週に二回(夏場は三回)の入浴の日。 すっかり忘れていた。
拘置所内では全てが時間で動いてる為、それに合わせてキッチリと行動しなければいけない。
私は直ぐに新聞を戻すと棚からタオル、シャンプー、石鹸を持ち、シャツとパンツだけになって、扉が開くのを待った。
この時間が一番寒さが身に堪えるのだが、耐えるしかない。 全身ブルブル震え、歯はカチカチと音を立てている。 このまま数時間、黙ってこの格好でいたら、間違いなく私は凍死してるであろう。 どうせこの中で凍死しても、病死として片付けられるのだろうが…
極寒の中、二、三分待っていると、ようやく扉が開かれ、廊下から温い空気が入ってくるのが感じられた。 どうやら独房の外は空調が入っていて、温度調節がされているらしい。
囚人達だけが極寒の世界を耐えているのかと思うと自分達の立場というのが、身を持って知らされる。 生きたまま地獄を味わえという事なのだろう…
廊下に一歩出ると、刑務官達がズラリと並び、浴室までの道をしっかりと警備していた。 号令をかけられた裸同然の男達が、震えながら足並み揃え、歩を進める。 勿論私語は厳禁だ。 滑稽な姿だが我々には一切笑えない状況であるのは間違いない。
入浴は十五分間。 浴室に入ると直ぐに頭と体を適当に洗い、目の前にある鏡に自分の姿を映した。 そこには見覚えのない、年齢不詳の坊主頭の男が座っている。
これが私なのか…
顔には幾つものシワが刻まれ、げっそりと頬がこけている姿に思わず言葉を失っていた。 自分の手で顔を触り、その干からびた皮膚をゆっくりと確かめる。
もう少し若いと思っていただけに、若干の違和感と戸惑いを感じていた。 これが本当に私なのか? −と。
小さな溜め息を何度も漏らし、悲観に暮れていると、全身に恐ろしいまでの寒さが蘇ってくることに気がついた。
慌てて湯船に飛び込むと、そのしわがれた体に温かいお湯が包み込んでくるのが伝わってくる。 よく考えたら寒過ぎて体などゆっくり洗える状態ではないのだ。
この時期の入浴はただ体を温まるだけの時間で、湯を楽しむというものではない。 いやどの季節もそうかもしれない… 此処では楽しめるものなど何一つないのだろう… そんなことは分かっているが、風呂くらいは自由に入りたいと考えてしまう。 それが人間という生き物の習性ではないだろうか?…
ようやく震えがなくなってきた頃、終了時間を報せる号令がかかり、仕方なく湯船から出て、体を拭き、シャツとパンツを履いた。
芯まで冷え切った身体を温めるには十五分は全然足りないが、これが此処での決まりなのだ。 私は温かい湯船との別れを惜しみながら、そのまま極寒の独房へと戻らされた。
自分の部屋に入るや否や、直ぐにガタイの良い職員がやってきて、面会人が来ていることを告げてきた。
いきなりで面喰らったが、取り敢えず誰が面会に来たのかを聞くが、職員はそれには答えず、ただ会うか、会わないかをだけを聞いてくる。
これも此処のルールなのだろう… 少々理解するのは難しかったが、私はこの時、僅かな希望を感じていた。
確か面会に来れるのは親族と一部の関係者だけなのだ。 ——ということは、もしかしたらこれは自分を知るチャンスなのかもしれない… そう考えると自ずと答えは見えていた。
私は即座に会いますと答え、湯冷めをする前に手早く着替えた。
胸が高鳴る… 誰が面会に来てくれたかは判らないが、私の事を知っている人物であるのは間違いないだろう。 これでようやく自分が何者であるかを知る事ができる、筈だ。
扉が開くと、刑務官が二人迎えにきていた。 そのまま部屋を出されると、廊下で煩わしい点検を受ける。 これも決まり事なのかも知れないが、いちいち面倒くさいものだ。 我々はルールに雁字搦めにされたまま生かされているということをつくづく実感させられる。
刑務官の指示が出されると、付き添われゆっくりと歩き出した。
胸の鼓動が一歩歩く度に強くなり、期待と不安で押し潰されそうになる。 面会室の前に着いた時には、その緊張でいつの間にか手足が震えていた。
これで消えた過去を知ることができる… ——と同時に自分が犯した犯罪の重さと人間性を知る事にもなるだろう。
それが怖かった、だがそれ以上に、何があったのか知りたいという欲求が勝っている。
面会室の扉が開き、促され中に入ると、正面に透明の大きなアクリル板が広がっていた。 それを隔てて向こう側に一人の男が座っているのが見える。
部屋の広さは四畳半くらいだろうか… アクリル板の手前に台が付いていて、そこに椅子が一つ置いてある。 そして入ってきた扉の直ぐ横にも机と椅子が一組置いてあった。
私が正面の椅子に近ずくと一人の刑務官が廊下に残り、扉が閉められた。 もう一人の方は直ぐ横の椅子に腰掛けると、机の上にある書類にペンを走らせ始める。
そのまま椅子に座り正面を向くと、板の向こう側の男が軽く頭を下げ、調子はどうですか? ——と訪ねてきた。
歳の頃は四十前後だろうか?… 短髪で顎髭が有り、体付きはガッチリとしている。 服装は紺色のスーツで一見セールスマンといった感じだ。
私は相手に合わせ「調子は良くも悪くもないですよ」と適当に答えた。
本当は直ぐにでも自分の事を聞きたがったが、いきなり私は誰ですか? ——と聞かれては相手も困るだろう。 それに妙な事を口走って面会を中止になってしまっては自分のことを知るチャンスを失ってしまう。 それだけは絶対に避けなければと思ったのだ。
その選択が正解だったのか、失敗だったのかわからないが、男はフフフと笑い「今日は随分と機嫌が良いのですね」—とおかしな事を言ってきた。
私はイマイチどういう意味か理解できず変な顔をすると、男も私の様子を見るなり妙な顔を返してくる。
「どうされたのですか? 今日のあなたは何処かおかしい」
私は、はぁ…と生返事をすると男は妙な顔のまま更に続けてきた。
「いつもは誰の話も聞かず、高圧的な態度で持論をひたすら述べられるあなたが… 今日は随分とおとなしいですね」
そう言って不思議そうな顔で首を傾げると、ジッと私を凝視してくる。
「イ… イヤ… 実は…」
思わず口籠ってしまった。
普段の自分がどうゆう人物なのか判らなかったこともあるが、何と答えたらいいのか… それに何を喋ればいいのかわからず、頭の中はグチャグチャに掻き乱されていた。
「人は死刑判決を受けると、どんな人間でも何かしらの変化があるそうです。 …でもあなたは変わり過ぎだ…」
男は手を組み、台の上に乗せると、怪訝な表情で私を見つめてきた。
二人の間には変な空気が流れ、刑務官のペンを走らせる音だけが部屋には鳴り響いた。
面会の時間は大体三十分と、来る途中刑務官から聞かされている。 このまま何も自分のことを知らずに終わらせる訳にはいかないだろう… そう思い、まず相手が何者かを知る為に、私は口をゆっくりと開き、震える声を発した。
「あの…あなたは… どちら様… ですか?」
気の利いた言葉など何も思いつかない。 ストレートに疑問を投げかけるのが精一杯だった。
だが何が面白かったのか、男は失笑したらしく、プッと口の中の空気を吐き出すと、ますます私の顔を楽しそうに覗き込んできた。
「なるほど、今日はそうゆう作戦ですか」
男は何に納得したのか判らないが、スーツの内ポケットに手を突っ込むと、名刺入れから一枚の名刺を取り出し、アクリル板越しに見せてきた。 そして意味あり気な笑顔を見せると…
「どうも、僕はあなたの弁護士をさせてもらっている熊谷拓真と申します。 思い出していただけましたか?」
と言って私の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「弁護士さん?… ですか…」
「まさか本当に忘れたんじゃないでしょうね?…」
私の態度に心配になったのか、弁護士と名乗った男は身を乗り出し、訝し気に様子を窺っている。
その姿を見て少々戸惑ってしまったが、これがチャンスだと思い、今の自分の状況を話すことを決意した。 私から切り出さなければ、多分これ以上話は進まないだろう、と思ったのだ。
それに私の弁護士ならば、色々力になってくれるはずだ、——と何の根拠もない自信もあった。
一度ゆっくりと深呼吸をし気持ちを落ち着かせると、信用してもらえるように真剣な顔で口を動かし始めた。
「実は…… この拘置所に来る前の… 記憶が曖昧でして… 自分が何者で、何で此処に入れられているかも解らないんです…」
彼の顔をちらりと見ると、無言のまま、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を凝視している。
当然の反応なのかもしれない。 いきなり記憶がないんですよぉ、と言われて、普通に『そうですか』と返す人は少ないだろう。
それにしてもだ、彼のこの反応はある意味傑作かもしれない。 間抜けな顔のまま固まっている。
「嘘だろ…」
そう彼が一言言うと、落ち着かないのか、辺りをキョロキョロと見回し始め、足元に置いてあった鞄をおもむろに持ち上げると、目の前の台に置き、中から一冊の手帳を取り出してきた。
「確か、あなたは精神鑑定を受けてる筈ですが」
まいったなと言わんばかりに、頭をワシャワシャと掻き混ぜ、手帳に書かれた文面を目で追いながら、話を続けてくる。
「本当に記憶がないんですか? 判決の前に鑑定が行われ、刑事責任能力は有ると診断されています。 という事は、拘置所内で記憶を失ったという事でしょうか?」
私は首を傾げると「いつ記憶を失ったかは自分でも判りません。 気が付いたら独房の中で座ってました。 でも十五歳位までの生活は覚えています。 ですが他のことは曖昧なんです。 自分の名前や年齢も解らないんです」と答えた。
彼はジッと手帳を見つめながら私の言葉に頷くと「死刑判決の時の事も覚えてないのですか?」——と小声でボソリと呟いた。
「それは何となくですが覚えています。 裁判長の死刑という言葉が頭から離れません」
「そうですか… ですが…」
熊谷はそう言いかけると、しゃべるのを辞め、私の後ろで書き物をしている刑務官をチラリと見た。 そして小さな溜め息を一つすると鞄からペンを取り出し、また話を続けた。
「あなたが記憶を失ったのは、嘘ではありませんよね? ここで嘘を言ってもいずれはバレるので、今のうちに喋った方が楽ですよ」
「はい、嘘ではありません」
私の答えに頷きながら手帳に何かを書いている。
多分熊谷は私が虚偽の疾患を訴え、延命や刑の中止を目論んでると思ったのだろう。 しかし残念ながら記憶が無いのは本当の事だ、これが嘘ならばどれだけ救われることか… 少なくても自分が何で死刑になったのかを解った上で死ぬことができる。 何も解らず殺されるよりは全然マシだろう。
一通り書き終わったのか、熊谷はこちらに目線を戻すと、ゆっくりと話を続けた。
「記憶が無いというのは、いつ頃気付かれました?」
「昨日の昼過ぎ頃です。 気付くと記憶が無くて、何故拘置所にいるかも判らず、錯乱しました」
「そうですか… それと精神障害や心神喪失状態など、精神疾患を装って死刑の執行を延ばしたり、中止にしようというつもりではないというのですね?」
「ハイ…」
聞かれた質問に正直に答えた。
やはり熊谷は私を疑っているのだろう… 予想は当たっていた。
それか、精神疾患を訴える者、全員に質問することなのかは分からないが、熊谷の目を見れば少なくとも信用されていないことは簡単に分かる。
腕を組み、何かを考え始める熊谷。 暫くそのまま無言の時が流れた。
そして何かを納得するように大きく一度頷くと、両手を台の上に乗せ、こちらを見つめてきた。
「分かりました。 信用はできませんが… 取り敢えずはいいでしょう」
そう言うと、手帳をパラパラと捲り、真剣な面持ちで口を開いた。 やはり私の考えはビンゴだったのだろう。 今のところ私の信用度はゼロに近いのかもしれない。
「あなたの言うことが事実なら、まず精神科や神経内科などを受診してください。 拘置所内には専門の精神科医などもいる筈です。 記憶を失った理由が何か解るかもしれない」
「ハイ、分かりました」
なるほど、と思わず頷いていた。 普通なら考えつくことだったが、錯乱してた私には思いもよらなかった。 冷静にならなければといけないなと、改めて実感する。
「次にあなたのことを話しましょう… いいですね?」
ゴクリと息を呑み、黙って頷いた。 失われた過去を知る喜びと、不安で心臓が高鳴るのが伝わってくる。
「名前は萩内余… 年齢は七十五歳。 北海道久無間内群駒岡里村字白志田で生まれ、十五歳頃まで駒岡里に住んでいたようです」
ハギウチ… アマル… その名を聞いた瞬間、昨夜の事を思い出した。
確かあれは… 布団に横になっていた時だったと思う… アマルと呼ぶ声が聞こえたはずだ、と。 ということは、あれは私を呼ぶ声だったのか? でも一体誰が?…
「どうしました?… 何か思い出しましたか?」
私の表情を読み取ったのか、熊谷が心配そうな顔を覗かせていた。
焦るように見返すと「いえ… 大丈夫です。 続きお願いします」と言って冷静を装う。
いきなり独房の中で自分の名前を呼ぶ声が聞こえたと言われても、何のことだか解らないだろうし、本当にあぶない人だと思われるだけだろう。
それに七十五歳とは… 高齢だとは思ったが、正直そこまでいってるとは思わなかった… 正直ちょっとショックだ…
首を傾げながら「そうですか… 分かりました」と言って熊谷は話を続けた。
「では次に萩内さん、あなたの罪状についてです」
ついにきた… そう思うと、胸がドクンドクンと脈打ち息が止まりそうになる。
心の中で何があっても受け入れるしかないなと決意し、無言のままゆっくりと頷くと、 じっとりと汗ばむ両手に力を込め、覚悟を決めた。
「あなたは宗教家、人道光照を名乗り、宗教団体真輪光教会を設立。 信者などを騙し、殺人、死体遺棄、死体損壊、詐欺、他二十以上の罪で容疑をかけられ、第一審で死刑判決を受けました。 覚えてますか?」
「私が宗教家ですか?…」
ハッキリ言って、想像もしていなかった… ある程度の覚悟はしていたが… まさか殺人や詐欺、他二十以上の罪があるなんて… 誰が想像するだろうか…
正直聞かなかった方が良かったかもと思えてしまう… 何も知らずに刑を執行された方が幸せだったのかもしれないと…
「そうです。 あなたは教祖として信者からは先生と呼ばれる存在でした」
そう言って、熊谷は一枚の写真を見せてきた。
見るとそこには数十人の白装束の人間と私らしき人物が写っていた。 何かの儀式なのか私が手を掲げ、他の白装束の人達は床にひれ伏している。
「あの… 私は何故罪を犯したのでしょうか?…」
写真を見て、なんとなくだが宗教家だということは解った。 だが何故罪を犯したか… 何故宗教家などになったのか… そこが知りたかった。
熊谷は写真をしまうと、フゥーと深く息を吐き、またパラパラと手帳を捲り始めた。
「実はよく分かっていないのです。 あなたに聞いてもまともには答えてはくれませんでした。 ただ、私は神になる存在… 死んで逝った者達は神の為に死んだと言うだけでした。
そして、何故宗教家になったかも、よく分かっていません…
まず、あなたがいつ頃から宗教活動を行ってきたのかハッキリ判らないのです。 何故ならあなたと共に宗教活動をしてきた幹部と呼ばれる人達、また関係者がいずれもある事件で亡くなっているからです。
そしてあなたの奥さんもこの事件で亡くなっています」
「事件? 私に妻がいたのですか?」
思わず声を張り上げていた。
私に家族がいたなんて、想像もしなかった。 そんな記憶など微塵もなかったから…
「ええ… 真輪光教会の教団施設が火災に見舞われ、関係者の殆んどが亡くなりました。 その中に奥さんもいたそうです… そしてその原因は、集団自殺ではないのかと考えられています」
「集団自殺… ですか…」
「はい… 確証はありませんがこの事件の後、施設にいなかった幹部や信者まで次々に自殺し、命を落としているんですよ。 まるでこの火災が何かの合図だったかのようにね」
「では… 何故私は生きているのですか?… 信者達に自殺を促し、私だけ生き残ったと言うのですか?」
発せられた声は熊谷ではなく、自分の記憶に問い掛けていたのかもしれない。
覚えてないとはいえ、自分が許せなかった。 亡くなって逝った人達に本当に申し訳ないと心の底から感じる。
「そうかもしれませんね」
とどめを刺すかのように答える熊谷。
その言葉を聞き、私は自分への怒りにワナワナと打ち震えた。
「萩内さん、あなたは事件の時、火災のあった教団施設にはいました」
「では何故生きているのですか?… 私の体には火傷の跡すら残ってませんよ…」
「そうですね… あなたは施設内にはいました。 ですが、火災の及ばない特別な場所にいたのです。
そこはあなたしか入れない所。 火災現場から離れていて、防火や防音対策などしてあり、教団関係者からは神の間と呼ばれる所でした」
「神の間?」
「ええ… そこには教団の御神体が安置されていました。 あなた以外、奥さんでさえもその中には入れなかったと、生き残った信者から聞いています」
「御神体とは何ですか?」
私は訝しげに答えた。 その表情を真剣な顔で熊谷が見つめ返してくると、肩でゆっくりと息をして、言いずらそうに頭を掻いた。
「…御神体は… あなたのお母さんですよ… そこにはあなたのお母さん、萩内咲恵さんの木乃伊がありました」
「母さんの…… 木乃伊?……」
「ええ… あなたに木乃伊を作る技術や知識があったかは判りません。 ですが火災のあった時、その木乃伊に縋り付くように倒れている状態で、あなたは発見されたようです。 しかも、うわ言のように母さんと連呼してたそうですよ…」
「そんな… そんな訳が…」
肝が潰れるような思いで記憶を辿っていた…
確かに母は私にとって大切な存在だった… 戦後間もない混沌とした時代で家族を守り、進むべき道を照らしてくれたのは、他でもない母であった。
だが… 十五歳の時、母は忽然と私の前から姿を消した。 それだけではない、兄と姉も消えたのだ…
理由は解らない… もしかしたら原因は自分にあったのかもしれない… 私だけが駒岡里に残されたのだから…
家族が失踪した時、家の中や外、近所や知り合い、村中捜し回った。
でも見つからなかった、何処にもいなかったのだ…
そんな母が何故木乃伊となり、私が作った宗教の御神体として祀られているのだ?…
解らない… 何もかも解らない…… 母達が失踪してからの記憶は… 残されていない……
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
かなり動揺していたのだろう… 熊谷が心配そうな顔で私の様子を窺っている。
「すみません、大丈夫です」
そう言うと軽く口を噤み、頷くと「そうですか」と言って話を続けてきた。
「木乃伊が発見されただけでも騒ぎになりましたが、そり以上に大変な物が教団施設から見つかりました」
「大変な物?」
「ええ… 焼け残った施設の床下などに大量の人間の死体があったんです。 それで警察が本格的に捜査を始め、あなたを逮捕しました」
「死体…ですか…」
「そうです。 実は前々から色々噂はありました。近隣住民から異臭を訴える通報が何件もあったそうです。 死体でもあるんじゃないかってね…
ですが警察は本格的には動かなかった。 正確には動けなかったと言った方がいいかもしれませんね。 証拠がなかったんですからね」
熊谷の話を聞いていると、胸が苦しくなってくるのが分かった。
まさかここまでとは…
私は一体何が目的でこんな恐ろしいことを……
頭を抱え、台に両肘をつき、話続ける熊谷の声だけを聞いていた。
「真輪光教会は前身、水明源教の時代から噂は絶えませんでした。
被害者の会が発足された程です。 ですがこの被害者の会は… 何故でしょうね… いつの間にか解散しています」
「水明源教って?…」
顔だけを上げ、疑問をぶつける。
「嗚呼… あなたの宗教は一度改名しているんですよ。 元は水明源教と名乗っていました。
ちなみにこの時代に宗教法人として法人格を取得しています」
私は水明源教の名前を聞いた時、あることをぼんやりと思い出していた。
確か母も宗教家だったような気がする、いや… 宗教家だった。
家には毎日のように信者が集まり、儀式や母の話を熱心に聞いていた。 救いを求め、人が引っ切り無しに出入りしていたと思う。 私はそんなお客にお茶や茶菓子を用意していた筈だ。 母に褒められたい一心で…。
その母が行っていた宗教も、確か水明の名がついていたような気がする。
イヤ… それだけじゃない… 他のものにも… 何か大事なものにもついていたように思える。何だっただろうか?… 思い出せない…
それよりも私が水明の名が付いている宗教をやっていたということは、母の宗教を継いだということなのだろうか?…
でもおかしいのだ… 兄と姉は何処にいったのだ…?
本当は彼等が宗教を継ぐ予定だった… その為母は二人に一生懸命ノウハウを教えていたはずだ。 なのに何故私なのだ?… やはり二人は失踪したままなのだろうか? では何故母は木乃伊なんかに… 一緒に消えたと思っていたのに…
それとも消えたのは、兄と姉だけだったのだろうか?…
「あの、熊谷さん… 私の兄弟はどうなったのでしょうか? 確か兄と姉が一人づついた筈ですが…」
「お兄さんとお姉さん? 確か行方不明と聞いてますが」
突然聞かれた質問に、目を丸くして答える熊谷。
「六十年前のことみたいですからねぇ… 詳しくは何も分かりません。
そういえば、お母さん… 咲恵さんが亡くなったのも六十年位前みたいですよ…」
「そんなことも判ってるんですか?」
「ええ… 放射性炭素年代測定方法って言ったかな… なんか色々と木乃伊の年齢を調べる方法があるそうですよ。
それによると、大体六十年前、咲恵さんは五十七歳くらいで亡くなっているそうです。
その当時のあなたは十五歳。 お母さん高齢出産だったんですね…」
六十年前、それは私の記憶が途切れた時と同じ年…
その時に一体何があったのだろうか? 何故思い出せないのか… 何か母の死が関係してるいるとでもいうのだろうか?…
何も思い出せない… それとも思い出したくないだけなのか… 本当何も分からない。
「話を戻しましょう…」
そう言うと熊谷はまた自分の手帳に目線を戻していた。
「あなたは水明源教の時代から信者を騙し、効果の無い健康器具や食品を高額で売りつけたり、儀式といっては信者に薬物を使用し、判断力を低下させ、金銭や財産などを不当に奪取していました。
そして、教団にとって邪魔な人間を信者達に命令して、次々に殺害。
その一部の遺体を施設の床下などに隠し、処理していました」
体がワナワナと打ち震える。
熊谷の話を聞けば聞くほど、自分が恐ろしかった。 そんな非人道的な事をやっていたなんて… 信じられなかった。
イヤ信じたくないだけかもしれない… だが、これなら私が置かれてる立場が理解できる… 死刑判決を下されても全くおかしくはないだろう…
そんな鬼畜のような自分に頭が真っ白になっていた。 熊谷が続けて何かを言っていたが、私の耳にはもう何も入ってこない。
ただその時ある思いが漠然と生まれ、それに支配されていく自分がいた。
私の人生が知りたい… 一体何をやって、何をやりたかったのか…
いつからそんな人間になってしまったのか… 何故宗教家に、何故母を木乃伊なんかにしてしまったのか… 何故そんな宗教を作ってしまったのか…
そしてそれが本当に私で、その私が本当の萩内余なのか…
記憶を失った六十年の時間を知りたい、 消えてしまった過去を取り戻したい。
その思いが私の中から溢れ出し、自然と行動に移していた。
両手をドンと台に打ち付けると、鋭い眼光を熊谷に投げかける。
「熊谷さん」
「え? あ…ハイ… 何でしょう?」
何かを喋り続けている熊谷を制止させると、捲したてるように話し続けた。
「実感はないのですが、私がどうゆう人間だったのかは大体分かりました。
多分熊谷さんが仰ったことは事実なのでしょう。 それでなければこんな所に入っていませんからね。
でもですね、このままじゃ… 記憶がないままじゃ… 死んでも死に切れません…」
涙が込み上げてくる。 突然突き付けられた現実をどう処理していいのか、自分では分からない。 ただ漠然と、このまま終わりたくはないという気持ちに駆られ、打ち震えていた。
そんな思いを察してくれたのか、熊谷が小さな溜め息をつくと、穏やかに微笑み、優しい口調で返してきた。
「取り敢えず落ち着いてください。 僕も記憶を失ったまま死んではほしくないですよ。
兎に角まずは医師に診てもらってください。 記憶障害を立証させれば刑の執行を中止させることができるかもしれません。
それに僕は死刑制度はあまり好きじゃないんですよ…」
そう言うと手を組み、両肘を台に乗せて毅然とした眼差しを私に向ける。
「理由は色々ありますが… 一番は冤罪や一部冤罪の死刑執行ですね。
亡くなった後にあれは冤罪でしたと言ってももう遅い…
確かに死をもって償わないといけない罪があるかもしれません。 ですが死刑囚が何の反省も謝罪もなく、刑を執行されるなら、それはただの殺人じゃないでしょうか?。
被害者の遺族などからしたら、そんなの関係なく殺してやりたい存在かもしれません。 ですが死刑は合法的な殺人、敵討ちでしかないと僕は思っています。
だから萩内さん。 あなたには生きてる間にしっかり反省し罪を償ってもらいたい」
彼の訴えにも似た眼差しが痛いほど私に突き刺さってきた。
しかし、何も覚えていない私には何の反省のしようが無い。 それにもしかしたらこのまま記憶を取り戻せないのかもしれない… そう思うと非常に申し訳ない気持ちになってくる。
どちらにしても過去を知ることが今の自分には必要なのかもしれない…
「熊谷さん、一つお願いがあります」
自然と口が動いていた。
その言葉に微動だにせず「何でしょうか」と返す熊谷に、私は湧き出す気持ちを素直にぶつけた。
「私のこと… 萩内余の人生を調べてもらえないでしょうか?」
「どうゆう意味でですか?」
首を傾げる熊谷に、哀願的な口調で話続ける。
「はい… 死を迎えるにあたって、自分の人生を知ってから逝きたいんです。 記憶が蘇る保証も確証もないでしょう… このまま訳も分からず死ぬのだけは避けたいんです。 お願いします… 失った六十年を取り戻したいんです」
目を瞑り、腕を組むとそのまま押し黙る熊谷。 その姿をただ見つめるしかできなかった。 どういう答えを出すか分からないが、彼を頼るしかない。 自分ではどうすることもできないし、味方になってくれそうな人も他にはいないだろう…
彼はゆっくりと目を開くと一呼吸おき、真剣な面持ちで口を動かし始めた。
「 わかりました、調べてみましょう。 ですが、僕も結構忙しくてね、そんな時間はないかもしれない…
でも一人調べてくれそうな人を知っています」
そう言うとスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、先ほどと同じく一枚の名刺をアクリル板越しに見せてきた。
「一週間ほど前に僕の事務所に訪ねて来た男がいましてね。 人道光照について調べていると言っていました。 彼に聞けば色々教えてくれるかもしれませんし、分からないことがあれば、調べてくれるかもしれません」
名刺にはフリージャーナリスト・山村俊博と書かれている。
「ジャーナリストですか… 信用できるのですか? それに私には人を雇う金なんてありませんよ」
熊谷はフフフと意味あり気に笑うと、言葉を返してきた。
「僕もね、気になってちょっと調べてみたんですよ。
そしたら元新聞社に勤めていたことがわかりました。 フリーのジャーナリストにはよくあるパターンです。
専門は宗教関係だそうで、特にカルト的な宗教を追っているそうですよ。
それよりも僕は萩内余を調べる理由が気になってしまって… 彼に興味を持ちました。
何て言ったと思います?…
彼… 友人の病気を治す為に萩内余を調べてるって言ってきたんですよ」
「どういうことですか?」
「分かりません。 ただ彼は、仕事というよりは私的な目的で動いてるように見えました… 金よりも大事ものがあるのかもしれません。
それに金を要求してきたら香さんを頼ってみましょう」
「香さん?」
「あなたの娘さんです… あぁ、そうですよね… 覚えてないんですもね…」
正直ビックリしていた… でも妻がいたなら娘がいても何も不思議ではないだろう…
他にも家族はいたのだろうか? 非常に気になる…
「何故娘に頼るのですか? それに私には他に家族がいるのですか?」
「あなたには奥さんと娘さんが一人… 他はいないと思います。 そして香さんは僕の雇い主ですよ」
「え… 熊谷さんは国選弁護人じゃないんですか?」
熊谷はハハハと笑うと、難しい表情を浮かべながらも冷静に言葉を返してきた。
「どうやら記憶がないのは嘘ではないのかもしれませんね。 僕は国選弁護人じゃありません。 あなたの娘、白岩香さんに雇われた弁護士です。 初めて会った時、そう自己紹介してますよ」
「……」
余計解らなくなってくる… 普通これだけの犯罪を犯し、ほぼ確実に死刑が決まっている人間に… 例え親子でもわざわざ弁護士を付けるだろうか?…
いくら考えても理解できず、答えを求めた…
「あの… 何故娘は、死刑が決まっているような私に弁護士を付けたのですか? 結果は判っていたでしょう…」
「萩内さん、あなたは何も解っていない。 いや、覚えてないのだから仕方ないのか…」
そう言って首を軽く横に振り、諭す様に話を続けた。
「香さんは宗教家、萩内余にしっかりと罪を償わせる為に僕を雇いました。
被害者の証言、状況証拠、そして何よりあなたの自白。 どこから見ても極刑を免れることが難しいのは、香さんでもよく解っていました。
ですから死刑から救う為に僕を雇った訳ではありません」
「では何の為に?…」
「萩内余の中身を変える為ですよ…
極刑を変えることはできなくても、あなたの心を変えることは可能です。
死刑執行の時、せめて死ぬ時くらいはまともな人間として死を迎えてほしかったのでしょう。 僕はその手助けをする為に雇われた。
弁護士というのは法的な仕事だけをする訳じゃないんですよ」
「……」
涙が溢れてきていた。 申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで胸が張り裂けそうな思いだった。
そしてそれ以上に、そんな娘の記憶がないこと、顔さえ思い出せないのが本当に申し訳なく、辛くて仕様がなかった。
涙でグシャグシャになった私の顔を見てられなかったのか、おもむろに左手にしてある時計に目をやった熊谷が、裏返った声で「あああ」と小さな叫び声を上げ、キョロキョロと辺りを見回し、取り乱し始めた。
「どうしました?」
「まだ肝心な話をしていないのに、面会時間が終わってしまいます」
「肝心な話?」
「ええ… 萩内さん、取り敢えず控訴をしておきましょう。
今日はこの話をしにきたんですよ」
「控訴… ですか。 でも私の場合無駄なのではないでしょうか?」
熊谷は笑顔を見せると、プルプルと首を横に振って何かを訴えかけてきた。
だが私には彼が何を言いたいのかがイマイチ分からなく、思わず訝し気な顔をすると、首を横に傾げる。
記憶を失っていても控訴の意味くらいは知っている。 多分私の場合は、控訴しても棄却され終わってしまうだろう。
そんなことは法律を知らない素人でもわかりそうなものだ。 一体彼は何をしたいのだろうか? 率直にそう思った。
熊谷の顔に視線を向けると、彼はニッと歯を見せ、鞄から数枚の書類を出してきた。
「別に控訴して、勝とうなんて思ってませんよ、棄却されるのは目に見えてます。
でも時間が稼げるかもしれません。 刑の執行を遅らせることができるかもしれないんですよ」
そう言うと彼は出してきた書類にペンを走らせた。 多分控訴するのに必要な書類か何かなのだろう…
「あの… 控訴も何もしなければ、いつ私の刑は執行されるのですか?」
ふと思ったことを聞いた。 自分の人生が終わる時だ、やはり気になる。 特段知らない方がいいのかもしれないが、気持ちの整理くらいはできるだろうし、したいものだ。
「それは僕にも判りません。 法律では死刑確定から半年以内となっていますが、実際その期間に執行された人は少ない、極僅かでしょう 。
今も日本には百人以上の死刑囚がいて、冤罪などの問題のない人から順番に執行されているようです。 あとは法務省、法務大臣次第ですかね。
それに萩内さんの場合、高齢者です。 その歳での死刑判決はとても珍しいんですよ… ただ罪の内容が特殊だ、死刑を下さないと世論は黙っていなかったでしょう。
そしてこれはあくまで僕の考えなので期待はしないでくださいね。
もしかしたら死刑の執行はないかもしれません。 もうお歳だ… 寿命がくるまで生きれる、生かしてもらえると考えています。 何も確証はありませんけど…」
「そうですか…」
複雑な気持ちで話を聞いていた。 結局のところ、何も分からないということなのかもしれない。 死刑が確定したところで、ある程度の覚悟が必要なのだろう… 突然訪れる死刑執行の日… 考えただけでゾッとする…
「それに時間はあった方がいいじゃないですか?。
記憶が直ぐ戻るかは分からないし、記憶障害を立証するには、時間がかかるでしょう」
「…それも… そうですね…」
私の顔を心配するように見据え、淡々と語る熊谷…
その目の奥では何を考えているかは判らないが、彼の言うことは間違ってはいないだろう。 時間はあったほうがいい… 此処は拘置所だ、何か一つ手続きをするにしても時間がかかる。 無駄になるようなことではない。
私は頭を下げると、「お願いします」と言って、控訴手続きを熊谷にお願いした。
「判りました。 まだ間に合うと思いますから、任せてください」
「よろしくお願いします」
もう一度深々と頭を下げる。—と同時にあることが突然頭に浮かんできた。
それはずっと気になっていたことであり、疑問になっていたことでもあった…
ブラックコーヒーを買ったお金や、今着ている服が自分で持ってきたものなのかということだ。
話の流れからすると、娘からの差し入れだというのは大体見当はついたが、それでも気になり、確認せずにはいられなかった。
「あの…」 ——と声をかけ、ことの次第を伝えると「それらの物も香さんからですよ」との予想通りの言葉を返された。 そして…
「今回もお金や衣類、あとコーヒーを預かってきていたので、先ほど差し入れの手続きをしておきましたよ。 後で受け取ってください」と続けてきたのだが、一つだけ腑に落ちない点があった。
それはコーヒーの件だ… 私はあの独特の苦味が苦手だと自分で認識しているのに、何故こうもコーヒーを差し入れしてくるのだろうか? ——と考えていた。
それとも記憶を失う前の私はコーヒーというものを愛飲していたのだろうか?
「…ありがとうございます… でもコーヒーもですか?」
コーヒーが嫌いなことを熊谷に伝えると、彼は不思議そうな顔で首を傾げた。
「おかしいですね… あなたの好きなものだと言われたので… 香さん、勘違いでもしたのでしょうか?」
妙な違和感を感じる。 ただ今の私がコーヒーが嫌いだと思い込んでいるだけなのだろうか?
「多分記憶を失う前の私はコーヒーが好きだったのでしょうね。 昨日部屋にブラックコーヒーが届けられました。 どうやら自分で注文したみたいなんです。 おかしいですよね…」
そう言い、わざとらしく頭を掻くと… 少しの間、沈黙が二人を包んだ
こんなことを言われて困っているのだろう。 熊谷は顎に手を当て、妙な顔をしている。
「…そうなんですが… 実は今日あなたに会って、僕も思ったことがあるんですよ」
そう言って顎髭を指で軽く引っ張りながら自信なさ気に首を傾げた。
「今日のあなたと今までのあなたはまるで別人のようにしか見えないんですよ。
記憶が無いからかなとも思ったのですが… 仕草や言動、顔つきまでまるで別人のようです。 面会室に入ってきたあなたを見た時、一瞬違う人が入ってきたと思ったほどですよ」
なんとなくだが、それは自分でも思って… いや、感じていた。 記憶を失う前の私は別人ではないかと… 失った六十年は違う人の心と考えを持って生きてきたように感じる。 …と
いや… それも多分違うのだろう。 自分の馬鹿げた考えに自然と笑いがこぼれてしまっていた。 本当馬鹿げている。
映画や漫画の世界じゃあるまいし、そうそうそんなことがあってたまるか… きっと消し去りたい記憶だから、失われたのだろう… 別人だと思いたいから言動や好物まで違うものにしたのだろう。 人間とは都合のいい動物だ…
ただ単に私は別人となって生きたいと… そうやって気持ちだけでも紛らわそうと思ったにすぎない。 そう考えた方が自然だ。
今私がしなければいけないのは、現実を受け入れ非道な自分を思い出し、少しでも罪を償うことであって、別人だと追い込み、妄想の世界に逃避することではない。
「あの… 大丈夫ですか?」
不敵に笑う私が心配になったのか、声をかけ顔を覗き込む熊谷の姿がアクリル板越しに霞んで見えた。
疲れた…といえば大げさだが、真の自分に少々ショックを受け、その負担が目にきてるのかもしれない。 微かだが眼球がゴロゴロする。 部屋に戻ったら少し休めた方がいいのだろう…
熊谷の質問に黙って頷くと、目を擦り手の平を差し伸べ、続けてくれとジェスチャーを送った。
「わかりました。 では、もう一つ気になってることを…」
熊谷の姿を確認する為に何度も瞬きし、その表情をとらえる。 すると何か言いづらいのか、複雑な顔色を見せると、重たそうな口をゆっくりと開いた。
「もう一つだけあなたの記憶について教えてください…
萩内さん… あなたは何故記憶がないのに、そんなに落ち着き払っていられるのですか?」
顔色とは裏腹に至って淡々と質問をかぶせてくるが、その瞳はまるで見世物小屋の客のようにギラギラと怪しい光を放っていた。
無理もない、私は普通の人から見たら、頭のおかしい奇人にでも見えるのだろう。
その好奇な視線を避けるように俯向くと、拘置所での僅かな記憶を蘇らせ、順を追って説明した。
「我に返り、拘置所に居ると判った時は、流石に錯乱しましたよ。
ですが… なんでですかね… 死刑判決の記憶があったからかもしれません。
この先死刑が待っているっていうのは、否応無しに解りました。
不本意ながらそれなりの行いをしてきたのだろうと…
もし、そうでなければ、多分発狂していたでしょうね」
「なるほど… そうですか。 分かりました」
熊谷は納得するように深く頷くと、一呼吸おいてから書類などを鞄にしまい、手早に帰り支度をし始めた。
「すいません、もうそろそろ時間のようです。
取り敢えず萩内さんは精神科などを受診してください。 僕は控訴手続きをしておきます。
あと、ジャーナリストにも連絡をとってみますね」
「あの… 大丈夫ですか? 確か面会室で話した内容は外部に漏らしてはいけないんでしょ?」
「ええ… そうですよ。 だからあなたが記憶を失っていることは誰にも言いません。というか言えません。
ですからジャーナリストには僕が個人的に萩内余のことを知りたいからと言って連絡をとってみますよ」
「成る程… お願いします」
「お任せください」
深い紺色のコートを手にし立ち上がると、視線をこちらに向け軽く頭を下げた。
「また来ます。 今度来る時は良い情報を持ってこれるのを期待しててください。 僕もできるだけ調べてみますよ。
あと、もう一つ。 一度、香さんに手紙でも書いてみてはどうですか?
返事が来るかもしれませんよ。 そしたら何か思い出せるかもしれない」
「それもそうですね、今度書いてみます」
「それがいい。 では僕はこれで」
踵を返し、面会室から出て行く熊谷を、頭を下げ後ろ姿を見送った。
消えて行った扉が閉まると、私の後ろで書き物をしていた刑務官の号令で、部屋から出される。
「またあの極寒の独房に戻ると思うと憂鬱になるな…」
生温い空気が突き抜ける廊下で、刑務官に聞こえないように呟いた。
できれば戻りたくない。 だがもうあそこが私の帰るべき部屋なのだ。
情けないが認めるのも罪滅ぼしのうちに入るのかもしれない… そう自分に納得させ、これから続く独房生活に覚悟を決めた…
部屋に戻されると、早速二つのことを願箋に書き係員に渡した。
一つは娘に手紙を書く為の封筒と便箋、もう一つは記憶障害の診察願い。
無事受理されれば良いのだが… 診察願いの方は正直どうなるか判らない。
何と言っても此処は拘置所… ちょっとしたことでもかなりの時間を要するし、必ず受理される訳でもない。 それでも今はこれに頼るしかなかった。 他に自分を救う方法が見つからないのだ。 逆を言えば自分を救う方法も此処では制限されていると言っても過言ではない。 一度入れられてしまったらお終い、絶望しか待っていないということなのかもしれない。
:
昼食を済ませると、午後からは例の如く机の前に座り、物思いにふけっていた… 相変わらずこれといって思い出せることもなく、時間だけが怠惰に過ぎていき、氷のような部屋は少しずつ私の体に鳥肌を立たせ、肉体的に苦しめていった。 —が、気持ちだけは不思議と明るくなっていた、と思う。
独房に入れられた理由が解っただけでも気分は大分違うものだ。 変な緊張も焦りもなく、 今は落ち着いている。
熊谷という理解者が現れたのも大きな心の支えになっているのかもしれない。
私一人ではどうなっていたことか… きっと気が触れ、何も解らない内に廃人のようになっていたのではないだろうか? 考えるだけでも恐ろしいことだ…
物思いにふけっていると、三時の休息の前に差し入れのお金と厚手のフリース生地のパジャマのような物が係員から届けられた。
それを受け取ると、私は顔も分からない娘に感謝する。
この極寒の牢獄の中で衣類は本当に有難いのだ。 何枚重ね着しても震えがくるというのだから、部屋の中と言っても外の気温と大して変わらないのかもしれない。 まさに寒獄という言葉がピッタリと当てはまるだろう。
係員の話では、囚人の中に差し入れを受けられず支給される衣服のみでこの寒さに耐えている人もいるというのだから恐れ入る。
天井には通風口があり、そこから温風が流れてくる仕組みになっているらしいが暖かい風など感じたことは一度もない。
廊下は温度調節がされ、他の囚人達もこの寒さに耐えているというのだから、この部屋の空調が壊れているということでもないのだろう。
要するに囚人達は生きて地獄を味わえと言っているようなものだ。
ぐるりと辺りを見回すと本当に死ぬ為に入れられたのだなというのが、その殺風景な部屋から伝わってくる。 どこを見てものっぺりとした壁が迫り、精神的に不安にさせる。
我々は人間にさえ思われていないのかもしれない… 此処は肉体的にも精神的にも逃げ場のない獣の檻。 そんな狭き世界で途方に暮れる毎日しか残されていないのだ。
生きることも、死ぬことも許されず、ただ死刑執行の日を苦しみ抜いて待つばかり…
窓は密閉され、外が一切見えない孤独の空間。 草花や土、空の色。 虫や鳥、人の声。 季節の移ろいさえ感じない囲繞の闇。
此処は終の住処、終焉の地。 光も届かない現世の死地…
やめよう… 考えれば考えるほど辛くなってくる…
直ぐに死ぬ訳ではない… 今はどう生きるか考えよう… 熊谷も控訴の手続きをしてくれる筈だ、余命宣告された癌患者よりは生きられるだろう…
そう考えれば…… ダメだ… やっぱり死か… 怖い… な…
本能が死にたくないと訴えているのが分かった… 何故死ななくていけないのか…——と。 その考えは当たり前のことなのかもしれないが、こんな状況にでもならないかぎり思いもしないだろう。
私はその日、絶望に抱かれたまま床に着いた。 明日からも続く闇を払いのけれないまま…
漆黒に彩られた思考に苦しみ悶えながら… 夢の中でも光を求めいつまでも彷徨っていた。 終わりのない苦しみしか残っていないことを知りながらも…
:
参、
朝七時の起床の音楽。 それを夢の中で聞き、慌てて飛び起きた。
あまり寝た気がしない。 熟睡などできる訳がなかった。
嫌な思いを巡らせていると、夢まで酷いものを見るようで、私は魘され酷い汗をかいていた。 その度にシャツを取り替え、また絶望の世界で目を覚ましてしまったことを悔やみ、悲観に暮れては大きな溜め息をついた。
悪夢でもいいから、永遠に眠ってしまいたいとさえ思えてしまう現実が心を掻き乱し、更に酷い悪夢を見させる。 まさに悪循環だ。
そして最後の夢は一番最悪のものだった。
夢の中で見る死刑執行の刻。 私は目隠しをされ、処刑台に立たされていた。 執行官の合図と同時に流れ始めた起床の音楽に、私は飛び起きたのだ。
今日の目覚めは今までで一番最悪だったように思える。
重たい体を引きずり、いつもの朝の流れ作業(布団を畳み、洗面、歯磨き、部屋の掃除、点呼、点検、朝食)を済ますと、例の如く机の前に座り、ブツブツと声に出し自問自答していた。
他にすることがないわけではないが、今は記憶を取り戻すのが最優先だろうと思ったのだ。
言葉に発し、自分で聞くことで、思い出せるものはないかと考えたのだが、所詮は何の根拠もない思いつき、虚しくも時だけが過ぎ去るだけだった。
気がつくと、寒さと歯痒さで体は震え、情けなさと悔しさで涙と鼻水を垂れ流し、泣き噦る子供の様な酷い顔で、答えを返さない壁に向かい何かを聞き質そうとしていた。
今の私はもはや狂人なのだろう…
逃れようのない迫り来る執行の日が、一層狂気の世界に引きずり込んでいたのかもしれない…
死という文字が頭から離れることは決してなく、私をどんどん壊していった。
そのまましばらく呆然としていたと思う… 何分位そうしていたかは分からないが、突然ガチャリ… ——と何かが開かれる音が部屋に響き渡り、私は思わず体をビクつかせると、首だけを回しその音の方に視線をやる。 すると食器口から目つきの悪い職員が訝しげな顔でこちらを窺っていた。
私は慌ててダラダラになった顔を、ティッシュで拭き食器口に近づいて軽く一礼する。 ——とそれを見た職員がフン、と鼻で笑い返し「今日は教育的処遇日だ。 大事な人について作文を書き、今日中に提出しなさい」と言って四百字詰め原稿用紙一枚を入れ、そのままニヤついた顔で去っていった。
暫く原稿用紙を見つめ立ち尽くし、どうしたものか… ——と考えていた。
いきなりというのもあるのだが、大事な人と言われて、頭の中に浮かぶのは母の顔しかない… というよりは母以外の思い出がなかった。
しかし何故かは知らないがそれを不思議には思わなかった。 記憶がないからって訳でもないような気もする… きっと私にとってどうでもよかったのかことなのかもしれない… −というのが答えだった。 母以外に興味がなかった、と言ってしまえばただのマザコンのように聞こえるが、何故かそんな気がするのだ…
取り敢えず、所定の位置に戻ると、ある疑問がふと、頭をよぎった…
そういえば、私の父はどうしてたのだろうか… ——と。
父の記憶はなかった。 いたかどうかも覚えていない。
家族の中でも話をしなかった… いや… しなかったようにしてただけかもしれない…
我が家では父の存在は消され、それに触れることは許されなかった。 何故かは分からないが、それが決まり事だったように思える。
兄と姉もいたことは覚えてはいるのだが、顔が浮かんでこない… 歳が二十位離れていたせいだろうか… 遊んでもらった記憶もなければ、一緒に暮らしたこともあまり覚えてはいない。 同じ家で暮らしてた筈なのに…
いつも遊びは… そう、私一人だったような気がする。 友達がいたかどうかも覚えていない。
よくアヤメや菖蒲(ショウブ)が一面に咲く山野を駆けたり、近くの林で虫取りなどをして遊んでいた。 雨の日は、家の中でお手玉やおはじきが定番だった…
そんな中、たまに母と顔が合うと、いつもニッコリと微笑み、一言二言声をかけてくれる。 それが私には堪らなく嬉しかった。
母は私を大事にしてくれた。 いつも優しかったし偉大だった。 駒岡里では辛かった思い出がないのだから、本当に幸せな少年時代だったのだろう。
そして母は詩人であり宗教家の顔も持っていた。
よく覚えているのは、いつも兄達に一生懸命何かを教えていたということ… 多分宗教のノウハウを叩き込んでいたのだと思う。 本当は後を継ぐのは兄達だったから…
いつも家には信者や、お客が絶えず出入りし、 儀式などが執り行われていた。 その時に母は詩を詠い人を魅了し、神託を告げては村を守った。 そうやって崇められ、そんな母が誇らしく、輝かしく見え、憧れでもあった…
そんな光景しか思い浮かばない。 だから私の心には母しかいないのだ。
ハッと我に返り、原稿用紙を見つめ直すとそれを手に取った。
亡くなった人でもいいのだろうか?… 私には母以外書く人がいないだろう。
妻や娘がいるらしいが、記憶がないのでは書きようがない。 それに例え覚えていたとしても本当に大事な人だったかは分からない。 家族だからと言ってそうとも限らないというのは悲しいものだが…
ペンを持ち、いざ書いてみると以外と書けないというのが分かった。 情けないが小学生の作文の方がまだマシかもしれない。
汚い字にたどたどしい文章。 まるで文才というのが備わらずに育ってきたように感じる。
我ながら思わず苦笑してしまっていた。 一体私は七十五年間も何を教わって生きてきたのだろう? —と思えてしまう。 情けないが私の文章力は十五歳で止まったままのようだ。
それでも少しでも良い物を、と考え悪戦苦闘していると、廊下から「配食用意、大皿一枚、大食器一枚」と配食の号令がかけられた。
どうやら、たかが原稿用紙一枚に夢中になり、何時間もかけていたようだ。
全く情けないと思いながらも、なんとか書き終え、食器を取るのに立ち上がると「特食の為、食器用意」と更に号令が続いた。
今日は何の日だっただろうか? どうやら特別な物がでるらしいのは分かるのだが、検討もつかない。 まぁ、特別な物といっても、此処は拘置所だ。 そんなに期待などできないことは分かっている。
言われた通り、食器を用意すると、食器口に手早く並べた。 すると直ぐに目の前の小さな扉が開き、顔色の悪い配食夫がロボットの様に食事を配る。
大皿にはコロッケと、キャベツとハムの炒め物。 大食器には白滝のスープ。 そして麦の丼飯。 更に特食用に出した小食器には蒸かしたジャガイモ一個と、塩と角バターが入れられた。
どうやら特食とはジャガイモのようだった。 地元で収穫祭でもあったのだろうか?… −と思わせる。
拘置所で出される物などどれも一緒、碌な物など出ないと思っていたし、現にそうなのだが、意外にも私の心は躍っていた。 ——というのも私は昔から蒸かしたジャガイモが大好物だったからだ。
フゥーっと駒岡里の少年時代が頭に蘇り、当時の匂いが鼻をかすめていく…
そこは家の中で一番殺風景だった竃部屋。 どこの壁ものっぺりとした土色で、まるで此処の独房のような部屋だった。
毎日山のような家事に追われ、いつも空気は張り詰めていたと思う。 私はそこで誰かの食事を休む暇なく作っていた。
家族の分だけでなく、お客さんの分まで… それが当たり前だった。 それをつまみ食いしようものなら、激しく怒られたのを覚えてる。
母は躾にも大変厳しい人であった。 よく目を盗み、物陰で食べ、見つかっては叱られていたのを覚えている。
勿論自分の食事も自分で用意していた。 普段は野菜の皮や野草を見つけては碌に土もほろわずにそのまま食べていた。 それほど時間に追われていたのだ。 運が良ければ近所の畑から野菜を盗み、余ったお湯で蒸かして食べた。 その中で一番好きだったのが確かジャガイモなのだ。
当時はバターなど食べれず、塩だけで食べていた。 その塩さえ手に入らない時もあった。 そういう時は丸齧りだ。 よく喉に詰まらせ、急いで水で流し込んだのを覚えている。
懐かしい… 幸せな頃の思い出……
ではない…… おかしい… 一気に血の気が引いた。 額からは大量に脂汗が吹き出し、頭が真っ白になってうまく思考がまとまらない。 でもおかしい… 何かがおかしいのだ… 脳が正常に機能していない為か… −とも思うが、そうじゃない。 記憶がおかしいのだ。
何故野菜の皮を食べている思い出が私にはある?… 何故畑に盗みに入っている自分がいる?…
ドクンドクンと高鳴る心臓が余計に自分を不安にさせた。 目が霞み、クラクラと目眩まで起きてくる。 それでも記憶を辿り、駒岡里の生活を必死に絞り出していた。
私の家は裕福だった、筈なのだ… 物心ついた時には、いや… もっと前から母は宗教家で信者も沢山いた。
駒岡里の外からも大勢の信者が来て、山の物、海の物、着る物、珍しいお菓子まで、何一つ不自由はしなかった、筈だ。 なのに何故野菜の皮を食べたり、畑に盗みに入る記憶が私にはあるのだ?…
家族から孤立していたのか?… それとも虐げられていたのか?…
違う… どちらも違う。 私は母を愛していたし、愛されていた。 兄達もそうだ。 萩内家の人間は皆家族を愛していたのだ。
では何故… 何故野菜の皮を貪っている自分が、私の記憶の中にいる…
おかしいだろう…
食欲など完全に消え失せていた。 野菜を見るだけで息が詰まり、吐き気に襲われる。
吐き出しそうになる口を手で押さえ、えずきながらも便器に向かうと、頬にじっとりとした汗が流れ、そのまま床へと滴り落ちた。 気持ちが悪い… 何もかもが気持ちが悪い。 この状況も、場所も、記憶も全て…
何とか便器まで這うように来ると、そのまま蓋を外し、ゲェーゲェー、と胃の中の物を吐き出した。 だが出てくる物は胃液のみで、喉が焼けるように苦しい。
最悪の気分だった… 胸が苦しく、息を吸うとヒュウヒュウと喉の奥から変な音が聞こえる。 まるで喘息患者のように息をするだけでも辛い。
何とかしようと近くの壁に手を着き、起き上がろうと試みたが、激しい目眩に襲われ崩れるようにその場に倒れた。
酷く苦しい… 体がいうことをきかない。 助けを呼ぶうにも声が掠れ、言葉にならない。
私はどうなってしまうのだろうか? —と不安だけが伸し掛る。
「余… そろそろ思い出せよ」
突然室内に響く声。 霞む視界で辺りを見回すも人の影は何処にもなかった。
幻聴か… −とも思った。この時間に囚人の元へやってくる者などいない事は言われなくても容易に判る。
こんなありもしないものが聞こえるなんて、私もそろそろ限界か?… このままどうにかなってしまうのか?… そう考えるが、更に声は続いて聞こえ、私の意識だけはそれをしっかりと捉えていた。
「幻聴なんかじゃねぇよ。 どうせ死ぬなら全部思い出してからにしろ。 それがお前の罪滅ぼしだ」
まるで私の心を見透かすように返ってくる言葉に驚愕し、どう判断していいか分からず、頭が混乱していった。 息は苦しくなる一方で、どう呼吸して良いのかも分からなくなっていく…
それでも脳をフル回転させ、この声の正体を掴もうと必死になっていた。
この声は一体何だ?… 何処から聞こえるのだ? 幻聴じゃないのか?… 私は一体どうなってしまうのだ?… いや、どうなってしまったのだ?… −と頭の中では次々と疑問だけが湧き出し、 まともな判断などできなくなってきていた。 目眩の所為か頭がグルグルと回り、視界は明滅する。
「お前はどうもなってねぇよ。 ただ元の鞘に収まっただけだ…」
「どうゆう… ことだ?…」
聞こえる声に無意識に返していた。 だが私の叫びはもう蚊の鳴くような声にしかなっていない。 意識を保つのがやっとで、口を動かすのも難しいのだ。
世界は闇に包まれていき、体を動かす力や感覚も薄れていく…
限界だった。 五感を奪われ、震えるほど辛い寒さも部屋の独特な匂いも感じられない。
「お前は長い間消えていた。 全て放棄していたんだよ。」
薄れる意識の中でその声だけは何故かクリアに聞こえた。 不思議だったが、もう考える余裕もなかった。 そして全てが闇に包まれ、私はそのまま気を失い、記憶を失った…
:
妙に肌寒く、意識が朦朧としている。
遠くからは聞き覚えのあるメロディーが流れ、私は無心で口を動かしている。
目を覚ましたくない強い気持ちがあるのだが、誰かの受け入れろという声が頭に響き、半ば強制的に瞼を開いた。 いや、開かされた。
一気に開けた所為か眼球に昼白色の光が刺さり、一瞬目がくらむ。 一度目を強く瞑ると慣れるのを待ち、ゆっくりと視界を確かめた。
やっぱり… そうなのか… ——と思わず大きな溜め息をついてしまった。
心の何処かで夢であってほしいという願望があったのかもしれない。 だが目の前に広がる見慣れたのっぺりとした壁に夢は砕かれ落胆した。 此処は拘置所の独房、私の部屋だ。
だが不思議だった。 どうやら寝ていた訳では無いらしい。
右手には箸、左手には大食器(とき卵汁)をしっかりと握り、机の上には丼飯とアサリの佃煮、奥には茄子の味噌煮とチョコレートのショートケーキが置かれている。
天井のスピーカーからはクリスマスソングが流れ、今日が特別な日だということを知らせていた。
一瞬事態が飲み込めなかったが、信じたくないことが起こった。 ——というのを理解するのに大した時間はかからなかった。
頭が混乱する。 手に持っていた箸と、食器を投げるように机に置くと、叫び出したくなる衝動を抑え、頭を抱えた。
此処は拘置所だ、ケーキなんて出されるのは、誕生日とクリスマスぐらいだ。 しかも止むことなくクリスマスソングがずっと流れている。 —ということは今日が十二月二十四日、または二十五日であるというのが簡単に判ってしまう。
理解はするのだが、受け入れたくないという気持ちが、恐ろしい現実を拒否している。 信じられる訳がなかった。 約一週間も記憶が無いなんて…
食事どころではなかった。
私は何をやっていたのだ?… という気持ちで頭は支配されている。
最後に覚えているのは、倒れた自分と、聞こえてきた声だけ…
震える手で残った食事を残飯として食器口に起き、いつものように机の前に戻ると、そのまま倒れこみ自問自答を続けた。——が一向に何も思い出せない。気分も悪い。 最悪だ… また過去が消えたのだ。
「おいおい、こんなに残すのかよ?」
ビクリと体に緊張が走った。
またあの声かと思い、恐る恐る周りを見渡すと、食器口が開かれ、置かれた残飯の向こうからシワだらけの顔が覗いていた。 格好を見ると此処の職員だということを窺わせる。
それを見て、ホッと一息つくと「すいません」と返し、軽く頭を下げた。
「食いたくないなら仕方ないけど、ケーキくらい食ったらどうだ? 甘い物は苦手か?
今日はクリスマスイブ。 せめてケーキ食ってクリスマス気分だけでも味わえや」
正直クリスマス気分どころではなかったが、確かにこの中ではケーキなど簡単には食えない物だ。 私は「それも、そうですね」と返し、痺れた足を摩りながら立ち上がった。
「あと、これもあるからよ。」
そう係員が言うと、大きな赤い袋を入れてよこした。
私は食器口に近ずくと、袋を受け取り、置かれたケーキに手を伸ばした。
「袋の中にはお菓子やカードが入っているからよ。 気分だけでも良くしてくれや。
あと、あまり言いたくはないけど、あんたらの食事などもタダじゃないんだ。 有難いと思わないか? だからとは言わねぇが、できるだけ食ってくれや」
「そう… ですね…」
私は係員に一礼すると手に取ったケーキを一口食べて見せた。
それに満足したのか、笑顔を見せると無言で頷き、食器口を閉め、 靴音を響かせ去って行く。 遠ざかる靴の音が止まると、また廊下から、独特な語り口調の話し声が木霊していた。
残ったケーキとお菓子の袋を持ちながら、私は立ち尽くし、係員の声が消えるまで考え事をしていた。—というより考えさせられたと言った方が正解だろう。
死ぬ為に生かされている死刑囚の生活に税金が使われている。 確かに有難いことなのだ。
死刑囚は生きる資格は無い。 税金の無駄。死刑が確定すれば直ぐに殺せと言われている中で、イベントにはこうやって特別な物を出したりしてくれる国の配慮には本当に感謝の言葉しか無い。
ケーキを一口口に含み、その広がる甘さをゆっくりと楽しみながら、渡された袋を開くと、中には沢山のお菓子と一枚のカードが入っていた。
残ったケーキを口に放り込み、机に戻ると、カードに綴られた文字を目で追う。 そこには『あなたの日々が平穏で心豊かに、充実した毎日でありますよう。 祈りを込めて贈ります』と書かれていて、赤いリボンの飾りが付いていた。
死刑囚には到底こないことでであろう… —と思いながらも、その心遣いに思わず笑みがこぼれた。 これが言霊というやつだろうか? その言葉を聞くだけで、読むだけで、気分は随分と変わるものだ。 お陰でいつの間にか、気持ちは随分と落ち着いていた。
袋の中を漁りながら、ふと顔を棚にむけると、未開封の封筒と手紙が置いてあるのに気が付いた。
あれは娘に書こうと思って注文しておいたやつではないだろうか?… 開いてないということは、まだ何も書いていないのか… 時間はあっただろうに、一体私は何をやっていたのだ?…
過去を思い出そうとすると、また嫌な思いに包まれ、キリキリと頭が痛み出してくる。
…今日はもうやめよう… 過ぎた時間を思うのは…
余計なことは考えず、係員の言った通り、今はクリスマス気分に浸ろう。 せっかくの聖夜だ、辛い過去は忘れよう。 そう思い袋からお菓子を次々に取り出した。
中にはフルーツケーキ三個、和菓子一袋、おかき一袋、餅菓子一個、羊羹一個が入っており、どれもクリスマスにはそぐわない中身であった。
てっきりチョコレート菓子が詰め込まれていると思っていただけに、拍子抜けだったがそれでも有難い。 矢継ぎ早に和菓子を一つ手に取ると口へと放る。
そういえば子供の頃はお菓子など食べることなど出来なかったし、クリスマスなどなかった。
過去を思うのはやめようと決めたばかりなのに、次々と少年時代の思い出が蘇り、いつの間にかそれを頭の中で巡らせていた。
思わず笑みがこぼれる。 あの頃は本当に幸せだった。お菓子など無くても辛いと思ったことはなかった。
だってお菓子がないことなど…
そう…なかった…
我が家にはお菓子がないことなど一度もなかった。 いつもお菓子があったのだ、それも大量に…
急に心拍数が上がりだし、血の気が引いていくのが分かる。 頭の中ではお菓子を食べてる光景を必死に探していた。 だが何も思い出せないし、当時の味が何も感じられない。
おかしい… 食べたことが… ない… なんて…
兄や姉、母は美味いと言って食べている光景が脳裏に広がっていた。 その中に私もいる筈なのだ… 筈なのにお菓子の味が思い出せない。 お菓子の中身が判らない。 何故だ?… 何故なんだ?…
再び湧き上がる記憶の矛盾。
一方は裕福な少年時代。 衣食住には困らず、母の愛情を感じることのできる幸せな思い出。 もう一方はお菓子どころか食べる物も儘ならず、野菜の皮を貪り、毎日何かに怯え、人の表情ばかりを伺っている思い出。
二つの少年時代が私の中で歪み、少しずつ狂わし始めていた。
どちらの記憶が正しいのか、それとも両方共違うのか… 次々浮かぶ記憶の矛盾に自分の存在さえ判らなくなっていく…
頭を抱え、這うように布団まで行き、身を委ねた。
絞めつけられるように胸が痛い… 呼吸も正常ではないのか、ゼエゼエと自分の息遣いが聞こえる。
助けてくれ…私は一体何者なのだ?… 萩内余ではないのか?
人を呼ぼうにも声が出ない… イヤ…例え呼んだところで、誰が助けてくれるというのだ?… 五月蝿いと言われて終わりだろう。良くて精神安定剤を渡されるだけだ。
此処はそうゆう所、 隔たれた世界の住人には救いの手は差し伸べられないのだ。 それは嫌でも思い知らされている。
苦しかったが落ち着くのを待つしかなかった。
布団に寄り掛かり、天井を見上げ、無心で蛍光灯の光を見つめる。
余計なことを考えこれ以上幸せな記憶を壊したくなかった。
何か恐ろしいものを思い出しそうで怖い、例えそれが真実だとしても。 私が私でいられなくなりそうで何も考えれなかった…
目を瞑り母が詠ってくれた詩を思い浮かべていた。 これが唯一今の自分を冷静に保てる方法かもしれない。
恐怖で固まった体を解すように両手で摩ると、ようやく少し落ち着いたのか、部屋の寒さがビリビリと肌に伝わってきた。 白い息をゆっくりと吐き出し、お菓子を袋に戻すと、机の上に放り投げた。 そのまま布団を敷き、中に潜り込む。
天井のスピーカーから流れてくるクリスマスソングは最早私を苦しめるだけの雑音にしか聞こえなかった… 両手で耳を塞ぎ、母の詩を唱えるように心の中で詠い続けた。 全ての恐怖を消すために…
私の誕生を祝い、その喜びを詠った母の詩。 幸せな思い出を確かなものにするために、ひたすら心の中で響かせた。 悍ましい記憶を消すために… 母の愛を現実にするために…
:
肆、
朝七時の起床の音楽が頭に響いていた。 それと同時に薄暗い部屋には蛍光灯の昼白色の光が辺りを煌々と照らし出す。
妙に体がダルい… やはり昨日のことがあったからだろうか?… 頭もスッキリしない、ネバネバのスライム状の物が脳味噌に張り付いているような感じで、もったりしている。 どうやら今日の目覚めも最悪のようだ。
ハッキリとしない頭をもたげて、手探りで着替えを始めると、凍てつく朝の部屋が容赦なく私を迎えた。 震えながらタオルを手に持ち、洗面台の蛇口を捻る。恐ろしく冷たい水が噴き出すと、息を思い切り吐き出し、気合いを入れた。
たかが顔を洗うだけだというのにいちいち覚悟が必要になるとは… こればかりは何日経っても慣れそうもない。
なんとか身支度を整え、部屋の掃除に移ると、いつもと違う雰囲気に気が付き、自然と手が止まった。
聞きなれない数名の革靴の音が廊下から近づいてくる。 少なくとも五人以上はいるだろうか? 妙に不気味に感じる。 おかしなことにそれ以外の音は全て消えていた。
空気が張り詰めている。 ——と言った方がいいのだろうか? 自分の息遣いだけがハッキリと聞こえていた。
この時間帯なら、囚人達の掃除などの生活音が聞こえてくる筈だが、まるで息を殺すかのように、皆その靴音に耳を傾けているみたいで静寂が辺りを包んでいた。
靴音は私の部屋の前を通り過ぎ、どうやら近くの部屋で止まったらしい。 ガチャリと鍵を開ける音が聞こえる。
そしてギ−ッと扉が開く音が聞こえた瞬間、凄まじいまでの男の怒号が施設内に響き渡った。
「勘弁してください。 それだけは許してください。 だって今日はクリスマスですよ」
一瞬何故喚いているのか私には理解できなかった。 ——が、次の刹那泣き噦る男の言葉で、今立たせれている状況を嫌でも痛感させられた。
「お願いです、殺さないでください。 身体を拘束して死刑台に立たせるのは許してください。
首に縄を掛けるのだけは… 宙吊りにするのだけは… お願いです」
お迎えだった。 そう… 地獄からのお迎え。 大勢の靴音は死神達の行進だった。
一気に血の気が引き、ガクガクと膝が笑う。 目眩が起き近くの壁にもたれかかった。 首筋から背中にかけてゾッとするほどの冷たいものがへばり付き、全身から力が抜けていく。
もう聞きたくなかった。 だが男の叫びは更に続き、私の耳から離れることなく、気持ちを掻き乱す。 耐えきれずその場に膝を着いた。
「お願いです。 目玉を刳り貫けとおっしゃるならこの場で抉ります。 両手両足を落とせと言うなら喜んで差し出します。 此処で一生閉じ込められてもかまいません。
だからせめて病気になって自然に死ぬまで、このまま生かしてください。 お願いです…」
施設内に木霊する泣き叫ぶ声。 男の切実なる願いだった。
だが当然その願いは叶わないことは言われなくても誰もが判りきっている。 他人事ではない… いずれ私の元にもやってくるのだ。 それが死刑囚としての役目。 我々は死ぬために此処にいるのだ。 男の叫びが聞こえる度に、それを思い知らされる。
もし、死に方を選べるのなら金でも何でも払うかもしれない。 自殺を選べるなら、間違いなく自殺を選ぶだろう。
「助け… たすけて… たす… お願いです… お願いします… お願いひますよぉ〜」
悲痛な慟哭が廊下に響き、そして少しずつフェードアウトしていく。
数分後に迫りくる確実なる死。どんな気持ちで処刑場に向かうのだろうか?
私の元に死神達が迎えに来たら、どんな自分でいられるだろう…
男のように叫び、喚き、命乞いをするのだろうか?… それとも覚悟を決め、淡々と死を迎え入れるのか…
イヤ… 迎え入れれない、迎え入れられる訳がない。
私には犯罪の記憶がないのだ。 いつの間にこんな所に入れられて、ひたすら死を待つしかできないなんて… 納得できる訳がないだろう。
確かに罪を犯したのかもしれない。 でも覚えていないのに、いきなりあなたは犯罪を犯したので死刑ですと言われても、誰が認めるというのだ?
もし私が記憶が戻らず、死刑が執行されるならば、この上なく恐ろしいことだ。 それはもうただの人殺しにしかならないだろう。
だがその可能性はかなりの確率であるのだ。 現に冤罪のまま執行され、後から真犯人が見つかった例もあるし。 冤罪の可能性がある者が拘置所に収監されてもいる。
ということは私がこのまま何も思い出せず、死刑を迎える可能性も十分にあるということだ。
冗談じゃない… せめて全てを思い出すまでは生きなければ。 死んでも死に切れないだろう。
気がつくと靴音や男の声はもう止んでいた。 微かだが囚人達の生活音が聞こえ、いつもの朝が始まったことを知らせる。
まだ膝がプルプルと震え、軽い目眩はあったが、掃除の続きをするため立ち上がると、箒で畳の上を掃き始めた。
今頃は吊るされている頃だろうか? ふと死刑の場面が頭をよぎり、軽い吐き気に襲われた。
なんて嫌な朝なのだろう… クリスマスだというのに気分も何もない。 聖なる日にわざわざ死刑の執行をすることもないと思うのだが…
法務大臣はキリストが嫌いなのだろうか?
気分を害したまま点呼・点検を済ますと、朝食の号令がかかり、何事もなかったように、配食夫が大した変わらぬメニューの飯を黙々と配り始める
その光景は見慣れたいつもの朝だった。 虚しい… イヤ、哀しい。 人が一人死んだというのに此処では何一つ変わらないなんて…
これが普通のことなのか、狂っていることなのか私には判らないが、此処では粛々と時が刻まれ、ごく当たり前のように刑が執行され私達は死んでいくのだ… それが常識であり、つい通りのことなのだろう… そう拘置所の空気で伝わってくる。 あまりにも切ない… こんな朝は今迄味わったことはない…
男の声がまだ脳裏に焼き付いている。 あんなものを聞かされて、普通の生活などできる訳がないだろう。
何をやろうにも全く手がつかない。 心がグチャグチャに掻き乱され、落ち着きをなくし、ソワソワと体が動く。 黙って座っていることさえできなくなっていた。
少しでも気分を変えねば… このまま黙って座っていても、気が滅入るだけだろう。 取り敢えず体でも動かして気落ちを切り替えてみようか…。
そう思い、一度も行ったことのない運動場に行き、体を動かすことにした。
大体の死刑囚には決まった時間に三十分運動をする時間が与えられている。 普段は興味など無いことだったが、今日だけは別だった…
何かをやっていなければ、このまま気が狂い、拘禁症にでもなってしまいそうだ。
この独房から出るのも久しぶりかもしれない。 基本的に入浴以外では出ることはないだろう。 何日もこんな部屋に閉じ籠っていれば、嫌でも拘禁症状が出てくるかもしれない… これが自分の家なら、私はただの引き篭もりだろう…
立ち上がり報知器を押すと、扉の向こうから、刑務官の声が聞こえる。
運動をしたいことを伝え、棚に置かれたタオルを手に持ち扉が開くのを待った。
数分後、ギッと音を立てて重い扉はゆっくりと開いた。 それと同時に温かい風が独房に吹き込んでくる。 目の前には二人の刑務官が立ち、私を廊下へと促すと点検を始めた。
毎度のことだが身体をベタベタと触られるのは気分の良いものではない。 点検などしなくてもこんな七十五歳の老ぼれに何も出来ないことは分かっているだろうに…
進めの号令を掛けられ、廊下の突き当たりにある、エレベーターへと歩かされた。 飾り気の無い長い廊下が続き、両側には幾つもの部屋が設けられている。 その一つ一つに囚人が入ってるかどうかは見ただけでは判断できないが。 人の気配だけは感じられた。
今朝刑が執行された人の部屋は何処だろうか?…
そんなどうでもいいようなことが気になり、一つ一つの扉を見て歩く。 特別花が手向けられてる訳もなく、同じ造りの部屋が等間隔に並んでいるだけで、何処の部屋に死神達が訪れたのかは分からなかった。
多分執行された者の部屋は、直ぐに掃除などがされ、次の囚人が入れられるのだろう。 そう考えると私の部屋も、前に誰かが入っていて此処で亡くなっているのかもしれない…
急にゾクゾクっと背中に悪寒が走った。 幽霊などは信じていないが、気持ちの良いものではないのは確かだ。 それにあの部屋ではたまに奇妙な声が聞こえてくる。
もしかしたら… いや、やめよう… あれはただの幻聴だ。 そう考えないと自分の部屋に戻るのが怖くなる。 そう自分に言い聞かせ、余計なことを思わないように黙々と歩を進めた。
エレベーターに乗り込み扉が閉められると、ブゥーンという音と共に上昇している感覚だけは体に伝わってきた。 扉以外の三方は白い壁で覆われており、自分が何処にいるかは、階級表示でしか確認できなくなっている。
そのままぼんやりと閉められた扉を無心で見つめていた。 すると…
「最近運動にでも目覚めたか? ずっと続いているな」
階数表示を見上げながら、突然刑務官の一人が笑顔でおかしなことを言ってきた。
一瞬声をかけたのは私ではないと思ったのだが、その刑務官は笑顔のままこちらを向き、「今日は随分と口数が少ないな」と言って、私の顔を窺っている。
どういうことだろうか? 意味が解らなかった… 運動場に行くのは今日が初めての筈だが… 人違いでもしてるのだろうか? それとも…
最近の記憶がない私には、刑務官の話はただの人違いとも思えなかった。 熊谷も言っていたが、記憶を失ってた私と、今の私はまるで別人のようだったと… 知らない間に毎日運動場に通ってても何も不思議なことではないのかもしれない。
「そんなに続いてますかね?」
失った自分を知るため… 私の知らない私を見つけるため、何でもいいから情報が欲しい。 何かを思い出せるかもしれない… そう思い、刑務官の話に合わせることにした。
「嗚呼… 死刑囚にしては珍しいなぁ… 殆どの奴は運動なんてしないから。
先がないのに健康になってどうするんだって… どちらかといえば、病気になって、そのままあの世に逝きたいと思ってるのが大半なのに…
それよりあんた、今日はちょっと雰囲気が違うねぇ。 まぁ、今朝あれがあったんだから無理もないか…」
そう言い終えると、再び階数表示に視線を戻し、険しい表情に戻ってしまった。
「あの…」
昨日までの自分の様子を聞こうと声をかけたのだが、タイミング悪く、エレベーターが目的の階に到着し、扉が開く音で、私の声はかき消された。。
「さぁ、歩いて」
刑務官の指示で仕方なくエレベーターをおりると、日の光が窓から差し込む、明るい廊下が延々と続いていた。
左側に等間隔に扉があり、反対側の窓の外には久しぶりに見る青空が広がっている。
それを横目に歩いていると突然制止させられ、何の変哲もない並んでいる扉の前で立たされた。
一瞬何でこんな所で止められたのかが分からなかったが、刑務官達は黙ってそのまま扉の方に歩き、鍵を開け始めた。
ここが運動場なのだろうか? この奥に身体を動かせるような広い空間が広がってるようには到底感じられないのだが…
学校にあるような体育館みたいな重厚なものを想像していただけに、肩透かしをくらった気分だ…
扉が開き、一歩中に入ると、そこには独房と大した変わらない広さの空間が広がってるだけだった。
想像とはかけ離れた広さに呆気にとられ、思わず振り向き刑務官達の顔を見るが、至って真顔で私の行動を監視している。 どうやら本当にこの狭い部屋が運動場のようだ…
幅二メートル、長さ五〜六メートル、長方形に仕切られた狭い空間。 天井は高く天窓になっており、そこから日の光が降り注いでいる。 周囲の壁には所々ガラス張りになっていて、その向こう側からは監視員がジッと私の姿を見張っていた。
床には縄跳び用だろうか… 三メートル位のロープが一本無造作に置かれている。
ただそれだけ… 運動場とは名ばかりの独房と殆ど変わり映えのない部屋。
思わず苦笑してしまった。 この狭い所で何の運動をすれというのだろうか? と…
ただ呆然と立ち尽くしていると、怪訝な顔で私の様子を見ている監視員に気が付き、慌てて歩き始めた。 身体を動かしたいと言ってここに来たのだから、何かしないと怪しまれるだろう。
しかし、いざ歩いてみると、あまりの部屋の狭さに苦笑から、失笑にかわってしまっていた。
直進で五歩、横に一歩、逆に直進で五歩、横に一歩で一週。 走ると直進で三歩… 殆どランニングにもならない。 早足では目が回る。 ストレッチも部屋の中央でやらないと壁に手が当たる。
よくこれで運動場と言えたものだ… これでは誰もこないだろう、碌に体を動かすこともできないただの個室では…
それでも日の光を浴びに来るだけでも気分は違うのかもしれない… きっと此処は運動場というよりは、日光浴のための部屋なのかもな…
そう自分なりの解釈をして納得させると、ゆっくりと部屋の中を歩き続けた。 疲れたら床に座り、ストレッチをして体をほぐし、また歩き出す。
それを何回か繰り返しているうちに、なんとなく床に置いてあるロープが気になり手に取ってみた。 こんな狭い部屋で縄跳びなどできるのだろうか? と思ったのだ。
部屋の中央に行き両手にロープを持つと、何処かにぶつかるかどうか試す為、取り敢えず飛ばずに腕だけを回してみた。
するとギリギリ何処にも当たらずに飛べることが分かったが、七十五の老体には縄跳びは少々過酷かもしれないと思い、その場に置こうと屈んだ瞬間、何故か左手に持っているロープがスルリと手からはずれ、そのまま勢いよく首に巻きついてきた。
「ヒッ」
思わず首を振り回し、小さな悲鳴が口から漏れた。
何が起こったのか理解できず、咄嗟に首に巻かれたロープを地面に叩き付けると、脈打つようにくねり何度かバウンドしてから、床の上で止まった。
暫くロープを見つめるが、何の変哲もないただの一本の縄にしか見えない…
もう一度確認するため近付こうとした時、いきなり後ろから低い男の声が聞こえて、思わずビクリと体をすくませた。
一瞬、刑務官か? −とも思ったが、何かなければ決して入ってくることがないし、それに扉を開け誰かが入ってくる音も気配も一切なかった。 ということは今この運動場にいるのは私一人なのだと考えなくても分かってしまう。
もしかしてまたあの声か… とも思ったが、直ぐ後ろに妙な気配を感じていた。
やはり誰かいるのだろうか?… 私は得体の知れない恐怖を憶え、後ろを振り向こうとした時、今度は「絞首刑は苦しいぞ」と後ろで言っているのがハッキリと聞こえてきた。
その瞬間、背中に悪寒が走り、気味悪さを感じた。 そして私の体は恐怖で動かなくなってしまった。
こんな狭い運動場に一体誰が、何がいるというのだ?… それに何を言っているのだ?… 確認しようにも恐怖で体がいうことをきかない。 本能のようなものが見てはいけないと訴え掛けてきているのだ。
後ろにいる者は普通の者ではない、と。 だが見ないでこのままいるのも怖くて堪らなかった。
私はゆっくりと息を吐き出すと覚悟を決め、恐る恐る声の発声源を確認することにした。
首を回し後ろを見ると、そこには一人の若い男がニヤつきながら、こちらを見て立っているのが目に入ってきた。
どうやら今回は私の勘違いだったのかもしれない… 得体の知れない声なんかではなくちゃんと実態のある人間のようだ。 また声だけが聞こえていたと思っていただけに、人の姿を見るとどこかホッとしてしまった。
何でもかんでも怪異にしていたら、死刑が来る前に気が狂ってしまうな… —と心の中で呟き、自分の器の小ささに思わず苦笑した。
だが安堵したのもつかの間、男の方に目をやると、その格好の異様さに徐々に違和感と不安が募っていく。
そう、普通ではないのだ。 どこからどう見てもこの場所には似付かない格好なのだ。
ボロボロの白いランニングシャツに、もう何色だかわからないくらい汚れた短パン。 暫く洗髪してなさそうなボサボサでカサカサの肩まで垂らした髪。 顔は薄汚れていて笑っている口元には、並びの悪い黄ばんだ歯が見えている。
一瞬幽霊か妖怪の類だとも思ったが、どうやらそうでもなさそうだ… そんな雰囲気はまるっきり感じられない。
そのまま十数秒無言のまま、見つめ合ってたが痺れを切らすように、私は男の異様な格好に警戒しながらも声を掛けた。
「あの… あなたは?」
男は「フフ」と意味ありげに笑うと…
「まだ思い出せないのか? 俺だよ…俺」
と言ってその場にあぐらをかき座ると。更に私の顔をまじまじと見つめてきた。
だが俺だよと言われても、男の顔には全く見覚えはない。 私の知らない間、記憶を失っている間にでも知り合ったのだろうか?…
真顔で首を傾げていると、男は続けて口を開いた。
「オイオイ… 本当に忘れちまったんだな。 めでたい奴だ。
まぁ、いい… そのまま何も知らずに死ぬのも一興かもな」
男はゲラゲラと笑いながら、自分の膝を手の平でバンバン音を立てながら叩いている。
なんて失礼な奴だと思いながらも私は何も返せずに立ち尽くしていた。
「余… お前はやっぱりあの時死ぬべきだったんだ… 文月の儀式の日に」
男はボソリとそう言うと、鋭い目付きで私を睨んでくる。
そして次の瞬間、ある光景が頭の中に蘇り、言いようのない拒絶感に全身が支配され、ワナワナと体が震えだしていた。
文月の儀式… それは私が記憶を失った日のことだった。
母が執行う儀式の中でも重要な意味を持っていた、駒岡里では一ヶ月に一度の大きな儀式。 文月はその名の通り、七月の式。 いつもは神に祈りを捧げ、神託を授かる大事な行事だ。
だがこの時、十五歳の私は文月の儀式で普段起こりえない何かが、この身に起こっていたような気がするのだ… 思い出したくもない何かが…
あの日のことを思い出そうとすると、凄まじい頭痛が起き、忌避感で全身から汗が噴き出す。
そして何故この男が文月の儀式を… あの日のことを知っているのが不思議だった。
身体から力が抜け思わずその場にへたり込むと、周りが闇に包まれ、視界には男の姿しか入ってこなくなっていた。
「しかし、余は死刑が好きだな… せっかく文月の儀式で生き延びたのに、今度は絞首刑とは… 流石の俺でも想像しなかったぜ」
男が笑いながらそう言うと、腹を抱えて床を転がり始めた。 ツボに入ったのか、体を捩って爆笑している。
どうやら男は駒岡里での私を知っているようだ。 それを確かめたく口を開くが言葉が出なかった。 頭痛と忌避感で意識が朦朧としている。
男はそんな私の姿を楽しむかのように話を続けてきた。
「絞首刑は本当に苦しいぞ。 落下のショックでまず鼻血が吹き出るそうだ。 フフフ…」
狂ったかのように笑い転がり、苦しむ私を見据え、男はひたすら喋り続けた。
「そして、眼球が飛び出す〜。 フハハァ〜…」
まさに狂人だった。 そんな彼を私は黙って見てるしかできなかった。 もう意識を保つのがやっとで、狂った笑いに耐えるしかできない。 限界なのか体が痙攣を起こし、床の上でビクビクと震えていた。
「失禁〜、脱糞を繰り返しいぃ〜ヒッヒ〜。
更に激痛が全身を噛み砕き、絶命するまで十数分かかるう」
もう闇しかなかった。だが私のことなどもう視界にも入っていないのだろう。男の声は楽しそうに続いていた。
「ぶら下がったまま苦しみぬいて、死ぬんだよぉ〜、オヒヒヒヒィ〜…
その姿はどんなに無様だろうなぁ〜」
これが最後に聞いた言葉だった。 感覚はなく、生きているのか、死んでいるのかさえ判らない… そして私はそのまま意識を失った。 正確には記憶を失ったと言った方がいいのかもしれない…
:
伍、
「おい…………だ…」
遠くの方で誰かの声が聞こえる。 意識もハッキリせず視界は闇に包まれ、今私は誰なのか… 何処にいるかも判らない。
「おい、面会だ… 聞いているのか?」
耳元で聞こえる怒号で現実に戻り、いつもの独房の中で観覧用の新聞を広げているのに気がついた。 直ぐ横には眉間にシワを寄せ、独特な体臭を漂わせている刑務官が私を睨んでいる。
またか… というのが正直な気持ちだった。 慣れ…なのか、特別焦りなどはもうなかった。 ただおかれてる立場を考えると、また寿命が縮まってしまったと分析している自分がいるだけだった… 何故そこまで冷静にいられるのかは、自分でも判らない… 心のどこかで、このまま意識がない内に、死刑が執行されないだろうかと楽観的な考えを持つほど余裕まであった。 まるで異なる考えの人間が私の中に入ってきたような感覚。 やはり私はどこかおかしいのだろうか?
刑務官の顔を見返し「すいません、直ぐに行きます」と答えると、もう一度新聞に目を戻した。
日付けには一月二十日と書かれていて、私が約一ヶ月も記憶を失ってたことを知らされる。
正直驚きや焦りが湧かなかった訳ではない。 —がいちいち気にしていたら身がもたないと考えていた。 六十年も覚えていない時期があるのだ、一ヶ月くらい… 確かに此処に入れられてからは最長かもしれない、でもいつものこと、これからも起こりうること… と思った。 正確にはそう思うことで気を紛らわせたかった。
私は新聞を机に置くと、立ち上がり、刑務官に言われるまま廊下に出た。
温い風が体を包み、自分の体内に血が流れていることを感じさせられる。
寒さで固まっていた指先が動くかどうかを確かめ、歩きながら何度か動かし血の巡りを良くする。 一ヶ月以上経ってもどうやらこの寒さには慣れないようだ。
体はブルブルと震え、芯まで冷えている。 動かずに独房にいれば、数時間で固まってしまいそうだ。
面会室の扉が開かれ中に入ると、正面のアクリル板の向こうにスーツ姿の男が、スッと頭を下げるのが見えた。 私も頭を軽く下げると刑務官に促され席へと着いた。
「調子はいかがですか?」
開口一番男はそう聞いてきた。 どこか聞き覚えのある声に思わず顔を覗き込む。
顎髭がなく、髪型が変わってた所為で一見判らなかったが、そこには心配そうな表情で私の様子を窺っている弁護士の熊谷が座っていた。その姿を見て私は自然と顔がほころぶ。
「気分だけは悪くないですよ。 今は落ち着いてるし、冷静にもなれる」
そう伝えると、今までの拘置所内の出来事や、怪奇的・異常的な現象に至るまで全て包み隠さず熊谷に話した。
普通ならここまで話さないと自分でも思う。 熊谷を信用しきっていた訳ではないが、ただ、隠していてもどうしようもないし、時間もなかった。 遠くない未来に死を迎えるのだから… それに今頼れるのは熊谷しかいないだろう。 話をしたことで少しでも何か分かれば、それはそれで御の字だった。
熊谷は黙って何度も頷き、私の話を聞き終えると「なるほど、信じられませんが分かりました」と言って、足元に置いてあった鞄を膝の上に乗せ、中を漁りながら話を進めてきた。
「そういえば、前回話した記憶喪失の件ですが、診察は受けましたか?」
「いえ… 多分まだだと思います」
記憶を失っていた時のことは何も判らないが、まだ受診していないことは何となく判った。 というのも拘置所内の診察はやたらと時間がかかるのは知っている。 歯科を受診するだけで四ヶ月位待たされるというのを聞いたことがあった。
それに私の場合は精神科または神経内科だ。 死刑囚が精神科などを受診を希望するのはよくあることだと聞く。 その殆どが拘禁症状が原因らしいが… 中には精神疾患を装い、死刑の執行を延ばしたり、中止にしようとする者もいるらしい。 大概は直ぐに見破られ、余計精神的に追い込まれるだけらしいが… その為、願箋を出しても直ぐには診てもらえないのが現状らしいのだ。
「そうですか。 一度僕の方からもお願いしてみましょうか?
その方が話が早いかもしれない」
「お願いします」
直ぐに返事を返し、頭を下げた。
熊谷の言うことはもっとも当たり前のことであった、死刑囚より弁護士から希望を出した方が、話はスムーズに進むし、医師の見方にも差がでるという。 それだけ我々の言葉には信用性がないということなのだろう。 人間扱いされてないというのがいちいち思い知らされる。 つまり死刑囚が苦しもうが、辛かろうが此処ではどうでもいいことなのだ。
「分かりました、直ぐに連絡してみます」
そう言うと熊谷は漁っていた鞄から一冊のノートを取り出し、表紙をアクリル板に押し付けるように私に見せてきた。
「このノート覚えてますか? あなたが書いた物ですよ」
よくよく見るが、全く覚えてはいなかった。 所々破けていて変色してるボロボロのノート… 表紙には何も書いていなく、言われなければ誰の物かも判らない年季の入った代物だ。
私は素直に「分りません」と答えると熊谷は「そうですか」と残念そうな返事をして、小さな溜め息を一つ吐いた。 そのままノートを捲り、左右に首を傾げている。
「このノート… あなたの日記なんですよね… それも駒岡里で過ごした十五歳頃の交換日記みたいなんですよ」
「交換… 日記?… それをどこで?」
「前回話したジャーナリストがいたでしょう。 彼に萩内余の過去を調べてくれと頼んだら二つ返事で受けてくれましてね。 それで持ってきてくれたんですよ。 あなたの娘、香さんから預かってきたと言ってね」
何度見ても思い出せなかった。 駒岡里での生活は覚えているのだが、交換日記のことは何一つ分からない。 だが娘が持っていたということは、私の物で間違いないのであろう。 しかし一体誰と日記の交換などしたというのだろうか? 私には思い出せる人物は母しかいない。 まさか母とはしないだろう。 毎日顔を合わせ、会話をしていたのだから。
「あの… それでその日記には何が書いてあるんですか?」
気持ちが逸っていたのかもしれない、自分の知らない駒岡里の生活。 交換日記の内容。 そしてその相手… なんとなくだが、日記を読めば忘れた過去を思い出せそうな気がした。 それに例え何も蘇ってこなくても、矛盾してる記憶のどちらが正しいのかが判るかもしれない。 これでモヤモヤとした気分を拭い去ることができるかもしれない…
少しばかりの緊張感が胸を高鳴らせ、期待と不安が入り混じり、額には薄っすらと汗が滲んでいた。 どんな過去でも受け入れようと覚悟を決め、一度息を呑むと熊谷の言葉を待った。
「このノートにはあなたを含め、七人の人物が日記をつけたり、メッセージを交換しています。 男性が六人、女性が一人、年齢も職業もバラバラで、共通しているのは、皆あなたのことをよく知っていて、駒岡里の住人であるということです。 そしてここからがこの日記、ちょっと変なんですよね」
そう言うと熊谷は何度も首を傾げる。
「何が変なんですか?」
私は間髪入れずに質問をした。 兎にも角にも過去を知りたいというのが本心だが、何が変なのかそれも気になった。 それに交換日記の相手がそんなに沢山いたことも… そして皆私をよく知る人物だということに驚愕していた。
「この日記を書いてる人物の中に、人道光照を名乗る人がいるのです。 日記の人道は年齢が六十歳、宗教家萩内咲恵、あなたのお母さんの一番弟子として書かれています」
思わず「えっ?」と言葉が漏れた。 意味が解らず、頭は軽い混乱状態に陥っている。
母には弟子などいなかった筈なのだ。 もし信者が弟子と呼ばれていたのなら、それはそれで納得はできるのだが… 特別にしてる信者などはいなかった。
母は兄や姉に一生懸命教えて、自分の宗教を継がせようとしていた筈だ。 だからそれ以外に一番も二番もなかったのだ。
では一番弟子とは何なのだ?… それに人道光照といえば…
「どういうことですか? 人道といえば私が宗教家として名乗っていた教祖の名前ですよね?」
「そうなんですよね。 僕もよく理解できなくて…」
顎に手を添え考える熊谷。 そのまま目線を下に向けると押し黙ってしまった。
面会室に静寂が包み、生温い風が私の頬を撫でる。
「私がその人… 人道光照の名を騙り、宗教を広めてやっていたということでしょうか? 」
黙る熊谷に追い打ちをかけるように、質問を投げかけた。
すると直ぐに目線を私に戻すと、顎を摩りながら考え込み、絞り出すように口を開いた。
「僕も最初はそう思ったんですけどね。 どうも違うようなんですよ。
普通に考えてみてください、この日記に書かれている人道は六十歳です。 片やあなたは十五歳、四十五も離れています。 騙るには年が違い過ぎる。 どちらかを知ってる人が見たら一発でバレるレベルです。 まず特殊メイクでもしない限り、見た目で騙すことは無理でしょう 。
ということは、この人道光照の名をあなたが継いだか、または名乗る必要があった… と考えるのが普通ではないでしょうか ?」
「なるほど」
私は相槌を打ち、最もらしい答えに納得した。 しかし納得しただけで理解はできない。
そしていくら記憶を辿っても人道のことは何も思い出せないのだ。 熊谷にそのことを伝えると…
「そうですか。 まず人道のことは置いておきましょう。 それにこの日記には更に分からないことが沢山書いていました」
と言ってノートをパラパラと捲り、熊谷は話を進めた。
「あなたと人道の他に、五人の人間が日記の交換をしています。 先程も言いましたが年齢も職業もバラバラです。 何か不自然だと思いませんか?」
「何がですかね?」
何が言いたいのか解らず、眉間に皺を寄せ首を傾げた。
「いいですか… このノートには森猛という二十七歳の農家の男。 司島望という二十一歳の職業不詳の男。 加山進一という三十九歳の詩人の男。 松金楓という四十三歳の主婦。 川久和孝という十二歳の学生の男。 それに人道とあなたの計七人で交換日記をしています」
「それが何か?」
「…僕は交換日記をしたことがないので解らないし、交換日記という物はそんな物だよと言われたらおしまいなのですが、普通十代の少年が四十代や六十代の人と日記を交換するでしょうか?」
確かに熊谷の言うことは理解できる。 だが…
「駒岡里という所は、集落みたい場所を幾つも合わせた、小さな村でした。
村人同士が助け合わないと生活するのが大変な所で、村全体が家族のような付き合いをしていました。
それに母のところには様々な人が出入りしていました。 その中で知り合いになった人かもしれません。 それならば不自然ではないと思いますが…」
いつの間にか少々ムキになっている自分がいた。手に汗を握り、捲し立てるように言葉を発していた。 熊谷の主張をどこかで認めたくないという気持ちがあったのかもしれない。 認めるのが何故か怖かった。
「僕もね、小さな村だからそんなもんなのかなぁ…と思ったんですがね。 妙に人道光照という人物が気になってしまって… それでちょっと調べてみたんですよ。 そしたら面白いことが分かりました 」
そう言うとノートを目の前の台に置き、内ポケットから手帳を取り出すと付箋を挟めていたページを開いた。
「日記の人道光照は萩内咲恵の一番弟子として書かれています。 それに萩内一家とは家族ぐるみの付き合いだとも書かれている。 ということはあなたとは当然面識はあったろうし、頻繁に萩内家にも訪れていたと思われます。
そんな身近な人がわざわざ交換日記をするでしょうか?… 何か話したいことがあるならば直接会って話せばいいし、その場にいなかったのなら、家族へ言付けることもできる。 そう思いませんか?」
私が黙って頷くと、矢継ぎ早に話を続けてきた。
「そこで人道という人物をジャーナリストの山村さんに頼んで調べてきてもらいました。
そしたらね… 駒岡里、またその周辺に人道光照という人物が住んでた形跡はありませんでした。 人道という名字は大変珍しいと思います。 昔から駒岡里に住んでる人ならば一人くらい知ってる方がいてもおかしくないでしょう… でもいませんでした。 一人もね…
それどころか日記に書かれているあなた以外の六人を知る人は誰もいませんでしたよ。
今個人情報なんちゃらで調べるのが大変ですけど、一応戸籍の方も調べてみました。
するとね、誰もいませんでしたよ。 六人全員綺麗サッパリでてきませんでした。
あなたのことや萩内家を覚えてる人は何人かいたらしいのですがねぇ… どういうことなんですかね?」
何故だろうか? 熊谷の話を黙って聞いているのが苦痛になってくる。 汗が全身から噴き出し、鼓動が尋常じゃないくらい早くなる。
記憶がなくても、体は反応している。 ——とでもいうのだろうか?
日記のことを思うと何故か虫唾が走り、目眩に襲われる。
やはり私はその六人の正体を知っているのだろうか?… だとしたら何か忘れたい理由があるのかもしれない。
それを私は自ら封じたのか分からないが、思い出そうとすれば、体が拒否反応を起こし、それを必死で思い出さないようにしているかのように感じられる。
私は一度気持ちを落ち着かせる為に、ゆっくりと深呼吸をして、目を瞑り首を軽く左右に振った。
「大丈夫ですか?」
様子を伺うように声をかけてくる熊谷。 私は無言のまま片手を上げて意思表示すると「分かりました」と言って話を続けてきた。
「もしかしたらこの日記はあなたが一人で遊びで書いたのではないか… とも思ったのですがね。 それもどうやら違うようです。
あなたを含め七人全員の筆跡が違うんですよ。 一応筆跡鑑定の方にも見せたんですがね、見た途端全て違う人が書いてる物だって言われましたよ…
もう僕には意味がわかりませんでした。 あなたは一体誰と交換日記をしていたんですかね?…」
胸の高鳴りは嫌な胸騒ぎへと変わっていた。
駒岡里での生活を思い起こしても日記や六人の名前や姿は浮かんでこない。 本当に私が書いた日記なのだろうか? ——と思えてしまう。 もしかしたら日記の中の萩内余は、私ではないのかもしれない、と。
一頻り考えていると、熊谷は手帳を内ポケットにしまい、更に話を続けてきた。
「今のところ分かったのはそれくらいですよ。 あとは前回話したのと大した変わらないことばかりですね。 続けて調べてみますけど、日記の方は進展はないかもしれません。 あと日記の内容なのですが… 後ろの方になってくるとちょっと意味が解らなくなってくるんですよね。 なんか喧嘩してるようなんですが… 本当サッパリ解らなくて」
そう言うと台の上にあるノートを見つめ、複雑な顔で顎を撫で回している
「あの… そのノート見せてもらえませんか?」
私は失った記憶とその理由を知るヒントになるのではと考え、ノートの差し入れを頼んだのだが…
「僕もそのつもりで持ってきたんですがね。 ノートの差し入れはどうやら不許可みたいなんですよ。 どうも拘置所のルールというのはイマイチ解らなくて…
でも安心してください。 手紙でその内容を送ることは良いそうなんで、ちょっと時間がかかるかもしれませんが、便箋と同じ位のコピー用紙に両面写して送りますよ。 手紙なので一遍には無理だと思いますが」
「そうですか… よろしくお願いします」
私は礼を述べ、頭を下げると、熊谷はノートを鞄にしまい、いそいそと帰り支度をし始めた。
「すいませんね。 今日はちょっと忙しくて… これから二、三件行く所があるんですよ」
そう言うとコートを羽織り、鞄を手に取った。
「忙しいところ、わざわざすいません」
「いえ、また何か分かればきますよ。 あと例の出身地の件、もうちょっと時間がかかるかもしれません。 ではこれで…」
例の出身地? 最後の彼の言葉は何を言いたいのか理解できなかったが、多分他の誰かと勘違いしてるのかもしれないと思い、私は聞き返さずそのまま熊谷の後ろ姿を見送った。
:
独房に戻りいつものように机の前に座ると、棚に置いてある封筒と便箋が開けられ、使った形跡があるのに気が付いた。
記憶のないうちに娘にでも手紙を書いたのだろうか?
元々の目的がそうだった為、それ以外の使用方法は思いつかない。 それに親族関係や一部の関係者にしか手紙は出すことはできない為、特段気にはならなかったが何処か釈然としない気持ちもあった。 だが係員に誰に手紙を書きましたっけ? とも聞く訳にもいかず、多分娘に書いたのだろうということで自分を納得させるしかなかった。
気にならないといえば嘘になるが、それよりも今は他に考えるべきことが沢山あった。
矛盾する二つの記憶と覚えのない六人の人物。 過去を知ろうと思えば思うほど解らなくなる私の人生。 そして途切れる記憶…
途切れた記憶の中で生活する自分と運動場で現れた不気味な男。 突然聞こえ出す声や私が何故人道光照と名乗っていたかも気になった。 そして死刑囚という現実…
全てが狂気の世界だった…
こんな生き地獄を味わう人間もなかなかいないのではないだろうか? もし計測し他と比べることができるならば、間違いなく私は世界でもトップクラスの生き地獄を味わっているのかもしれない。 そう考えると今こうやって落ち着いてられるのも、我ながら不思議だ。 もう狂人の域に達しているのかもしれない。
冷えた机に肘をつき、頬杖をつくと、どうしてこうなったのかを考えていた。ハァーっと白い溜め息を吐きながら、何の飾り気もない寒々しい室内を見回すが、不安と絶望しか湧いてこない。
私に残された時間も多分そんなに長くないだろうと思う。 死ぬまでに幾つの謎が解けるだろう? それともこのまま何も知らずに死んだ方が幸せなのだろうか?
答えなど見つけられない… 正しい答えがあるのかも判らない…
思い出せないのがこんなにも虚しく辛いものだと思わなかった。 そして誰にも理解してもらえないというのが一番の苦痛だった。
忘れる位の記憶なのだから、思い出さない方が良いのか? とも思ったが、このまま何も思い出せずに死ぬのも辛い。
結局何一つ自分では決められないし、どうすることもできない… 私はただの情けない七五歳のじじいでしかないのかと、悲観に暮れるしかなかった。
それでも私は毎日悩みに悩んだ。 他にやることがなかった訳ではないが、何かやろうにも気になって手がつけれそうにもないというのが正直な気持ちだった。 だがそんな努力も虚しく、結局は何も思い出せずに苛立ちだけが募り、不安な時が粛々と刻まれるだけで、毎日同じことの繰り返し。
此処の生活で唯一変わるのは食事のメニューくらいで、何の気晴らしにもならなかった…
後は全く同じ日々… 昨日も今日も、きっと明日も変わらない… それが私の現実…
ただ一つ今までと違うのはずっと“記憶が失われずに続いている”ということだけだった…
:
陸、
熊谷の面会から一週間が過ぎた頃、ようやく係員から私の元へ、彼の手紙が届けられた。
私はそれを受け取ると、既に封が切られた封筒が信じられず、思わず何度も開封口に目をやっていた。
拘置所内ではプライバシーもクソもないことは知っていたが、手紙まで検閲されるとは… 正直驚くしかなかった。
隠し事は一切できないというのは妙に嫌な気分になるが此処では仕方がないことなのだろう。 私は開けられた手紙を取り出すと、机の前に座りそれを開いた。
スゥーっと文章に目を走らせると、一枚目には私の体調を気遣っている熊谷のメッセージが連ねられているのが分かった。 それを軽く読み飛ばすと、肝心の日記が書かれている二枚目以降に目を移す。
そこには自分が書いたであろう文字と萩内余の名が記してある。 やはりこの日記は私が書いたものなのか… ——と思うのだが、文面を見ても何も思い出せないし、感じられはしない。
私は逸る気持ちを抑え、取り敢えず書いてある文面をじっくりと目で追うことにした。 心のどこかで日記を全て読めば失われた過去が蘇ったり、またはそのヒントのようなものが分かるのではないか… という期待を持ちながら…
*
—萩内余の交換日記—
1
はじめまして、こんにちは。
突然すみません。 余君とお話がしたくて書かせていただきました。
俺の名前は森猛と申します。 村長の雪道さんの近所で農家をやっています。 二十七歳です。
このノートは差し上げます、良かったら返事ください。 ノートは水明源湖の祠の中に入れといてください。 あそこなら人が来ないので見つかりません。
よろしくお願いします。
森 猛
|
はじめまして、こんにちは。 突然なのでビックリしました。
こういうのを書いたことがないので、何を書けば良いのか判りませんが、こちらこそよろしくお願いします。 それよりも何で僕と話をしたいのですか?
萩内 余
|
お返事ありがとうございます。 ビックリさせてすみません。
この駒岡里では萩内家の人間は特別な存在です。 なかなか直接話しをする機会がありません。 ですからこのような手段でお話しができればな、と思い書かせていただきました。
余君は駒岡里の未来を担う方。 私が役に立てれることや困ったことがあれば何でも言ってください。
森 猛
*
日記の一〜三ページ目には森猛という男からの交換日記を誘う理由や世間話などが書かれていた。
その内容は幸福な方の記憶と一致するものばかりで、萩内家は神に仕える身、特別な存在として日記には書かれている。
やはり私の幸せな駒岡里の生活は、間違っていなかったということが、これを読んでわかり、嬉しかったのだが、森猛という男と日記については何も思い出せないのが釈然としなかった…
だが思い出したことも一つだけあった。 それは水明源湖。 以前熊谷から水明源教の話をされた時に、何か水明の名がついてた“大切なこと”を忘れていたと思っていたのがこの湖のことではなかったのではないかと思ったのだ。
水明源湖は水切りなどをして遊んでた場所で、友人がいなかった私にとっては大事な場所だったと思う。 よく一人で湖のほとりに立ち、物思いにふけったものだ。 しかしそんな身近な湖の名を何故忘れてしまっていたのだろうか? 妙に気になったが、また過去を一つ思い出したという気持ちが、そんなことを薄れさせ私を明るくさせていた。
このまま読み続ければ全てを思い出すことができるかもしれない。 そんな希望を持ちつつ、手紙の続きに目を移した。 世間話などのどうでもいいところを飛ばし、記憶に関係ありそうな文面をひたすら探した。
*
4
はじめまして。 私の名前は加山進一。 余君のお母さんとは詩を嗜む仲です。 一応詩人をやらせてもらっています。
森君から日記のことを聞き、私も余君と話がしたくて書かせてもらいました。
よろしくお願いします。
加山 進一
|
ごめんなさい。 加山さんに日記のことを話したら、どうしても仲間に入れてくれと言われたので… 余君が嫌でなければ混ぜてあげてくれませんか?
森 猛
:
5
別にいいですよ。 それに大勢で日記を交換した方が楽しいかもしれません。 加山さん、よろしくお願いします。 加山さんのことは母から聞いたことがあります。 素晴らしい詩人だと言ってましたよ。
こちらこそよろしくお願いしますね。
萩内 余
|
ありがとうございます。 安心しました。 時々詩などを書くかもしれません。 その時は感想などを書いてもらえると嬉しいし、助かります。
加山 進一
*
四ページ目からは加山進一という人物が日記に加わり、詩を書いたり、森を含め三人で世間話などをしている普通の交換日記になっていた。
ざっと目を通し、肝心なところをよく読んでみたが、この加山という人物もやはり私の記憶にはいなかったし。 その片鱗も思い出すことはなかった。
本当にこの日記は私が書いたものなのだろうか?
もしかしたら、私を知る人物が私の名を騙り書いたものとは考えられないだろうか? と思ったのだが、よくよく考えその答えは捨てた。
私の名を騙って何の得になるというのだ? というのが率直な意見だった。
それに私がただ覚えていないだけ、と考えた方が合点がいくだろう。 日記に書かれている萩内余は私の記憶と一致するところも多い。 筆跡も何となくだが見覚えもある。 やはりこの日記の萩内余はきっと私なのだ。
そう自分を納得させ、日記の続きに目を走らせた。
*
7
初めまして。 森さんに誘われました、司島望といいます。二十一歳です。 良かったら仲良くしてください。
司島 望
|
司島はうちの近くに住んでるんだ。 俺とは仲の良い友人だ。 余君が大勢の方が楽しいと言っていたから誘ってみた。 仲良くしてほしい。
森 猛
:
私も一人紹介したい人がいるのだが良いだろうか?
十二歳の少年で名は川久和孝。 ちょっと訳ありの子で、皆には色々と相談に乗ってほしい。
彼は友人もいなくて親、兄弟達からも相手にされてない可哀想な子だ。 色々相談に乗ってあげて、できれば友人になってあげてほしい。
加山 進一
|
8
僕でよければいいですよ。 でも何故その人には友人もいなく、家族からも相手にされてないのですか?
萩内 余
|
それは彼が“漏れ子”だからです。 駒岡里に住む余君ならこの意味が解るでしょう。 彼の力になってあげて救ってほしい。
加山 進一
|
わかりました。 漏れ子ですか… それは可哀想ですね。 実際に見たことはありませんが、話は聞いたことはあります。 僕で良ければ色々相談に乗りますよ。
でもそういうことは僕より母に相談した方が良くないですか?
萩内 余
|
一度お母さんの方にも相談しようと思ったのですが、とても忙しい方でなかなか声を掛けることはできませんでした。
それに年の近い余君の方が心を開いてくれるかなと思ったので。 すいませんがよろしくお願いします。
加山 進一
|
漏れ子なんて冗談じゃないぞ。 俺は余君達と話がしたくて参加したのに。
第一漏れ子に関わって何かあったらどうするんだよ?
司島 望
|
9
司島君、そんなこと言わないでくれ。 和孝君だって好きで漏れ子として生まれてきた訳じゃあない。
私達で助けてあげないと彼は一生可哀想な人生を送ることになる。
加山 進一
:
はじめまして。 僕の名前は川久和孝。 加山さんから話をされてると思いますが、僕の友達になってください。
まだ直接会うことはできないので、しばらくこのノートでお話ししてください。 よろしく、おねがいします。
川久 和孝
|
加山さんへ、事情は解りました。 僕にできることでしたら頑張ってみます。
川久君へ、はじめまして、僕も友達ができて嬉しいです。 よろしくお願いします。
萩内 余
|
お前ら、漏れ子に関わればどうなるかわかっているんだろうな? どうなっても知らないぞ。
俺はこの件に関しては無関係だからな。
そんなことやってるくらいなら、日課の散歩でもしてる方が楽しいよ。
まぁ、せいぜい頑張ってくれ、じゃあな。
司島 望
|
司島君、余計なことは書かないでほしい。 それでなくても和孝君は精神的に不安定なのだから。
加山 進一
|
10
いいんです加山さん。 僕は紛れもなく漏れ子なんです。 この苦しみに耐えながら生きるのが運命なんです。
漏れ子は一生その家の者に尽くし、情を知らず、情を持てず、ただひたすらに働くのが定め。 関われば不幸が起き、その者、また周りの者にも不幸を招く駒岡里の呪い。
僕は平気ですよ。 これが運命なんですから。
川久 和孝
:
今日、母に相談しようと思いましたが、忙しそうだったので話しかけられませんでした。 その代わりといえばなんですが、人道光照さんて人に相談してみました。
人道さんは母の一番弟子で、信用できる立派な人です。 兄や姉よりも力があると思うし、知恵もある。 人道さんなら和孝君を助けれるかもしれません。
萩内 余
:
11
皆さんはじめまして… 私は人道光照、余君のお母さん、萩内咲恵に仕える者です。 今年で六十になります、よろしく。
川久君、漏れ子の相談に乗ってあげてほしいということを頼まれ、この日記に参加させてもらいました。
人道 光照
|
人道さん、私からもよろしくお願いします。
萩内さんのお宅で何度か会ったことがありますよね。 私にできることがあれば何でも協力しますよ。 是非知恵をお貸しください。
加山 進一
:
はじめまして人道さん。 よろしくお願いします。
まず、僕は殆ど外に出ることができません。 朝起きると家族の朝御飯を作り、かたずけ、掃除、洗濯、昼御飯、晩御飯、全部の家事を僕一人でやってます。
唯一外に出れるのは買い物などの時です。 それも楽しいものでは決してありません。 漏れ子の僕をまともに相手してくれる者は誰もいません。
お母さんからは毎日、お前なんて産みたくなかったと言われ、兄や姉からも馬鹿にされ、毎日奴隷のような生活を送っています。 心の休まる時間が少しもありません。 どうかお願いです、助けてください。
川久 和孝
|
漏れ子なんだから仕方ねぇだろ。 生きてるだけありがたいと思え
司島 望
|
12
司島君、いい加減にしてくれ、 和孝君には何の罪はない。 もし司島君が漏れ子として生まれてきたらどうする?
少し和孝君の気持ちや辛さを考えてあげたらどうだ。
加山 進一
|
俺が漏れ子なら間違いなく自殺するね。 生きててもしょうがねぇよ。
司島 望
:
和孝君の今の状況というのは解りました。
まず咲恵さんに相談して駒岡里の呪い、漏れ子という偏見をなくしてもらいましょう。 多分これが一番早い方法です。 咲恵さんは駒岡里の中心、神託を授かる方です。 あの人の言うことを聞かない者はいないでしょう。
それから少しづつ和孝君の家族にも色々と指導していきましょう。
人道 光照
|
はじめまして、私の名前は松金楓といいます。 四十三歳です。
人道さんに頼まれて、川久君を助けるのに、この日記に参加させていただきました。 よろしくお願いします。
松金 楓
|
13
松金さんは最近駒岡里に移ってきたばかりの人です。 漏れ子というものに何の偏見も持ってはいない。
こういうことは客観的に見るのも大事だと思い、私が協力を頼みました。
あと、全然関係ない話ですが、最近コーヒーという飲み物を手に入れました。 これが堪らなく美味しい。 皆さん飲んだことありますか?
人道 光照
:
皆さんありがとうございます。 少し希望がでてきました。
川久 和孝
*
日記には続きがあるのだろうが、手紙はここで終わっている。 先が気になり、早く読んでみたいのだが、次に送られてくる物を待つしかないだろう。
私は手紙を封筒に戻すと、一度大きくゆっくりと伸びをしながら首を回し、固まった首筋をほぐした。
夢中で読んでいたとはいえ、数十分同じ体勢でいるだけで痛みを発し疲れてくるとは… やっぱり七十五の老体なのだなとしみじみと自覚し、痛む体を摩りながら手紙を棚に置くと、熊谷の言葉を思い出していた。
日記には彼の言った通り、私を含め七人の駒岡里の住人が文章を交換している。
最後までよく読んではみたが、書かれていた六人の人物名には心当たりは全くなく、水明源湖以外に思い出すことは何もなかった。
それどころか読めば読むほど謎が増えていく一方で、余計に私の頭を混乱させ悩ませていた。
まず分からなかったのが、漏れ子という言葉。 駒岡里の中では“呪い”… 忌み嫌う者として扱われているようで、それに当たる川久和孝という少年が迫害を受けている様子が大雑把にではあるが綴られていた。 このことについては本当に何も解らなく、漏れ子という言葉にも心当たりはなかった。
そして、人道をはじめ、この日記の人達はその川久少年を助ける為、情報交換の場として、日記を使い、まるで会議でもするかのように話し合うようになってきていた。 しかし司島という男だけは違うようで、酷く漏れ子という者を嫌っている様子が書かれている… 関われば何か酷い目に合うようで川久少年を罵っている文章が並んでいた。
そして読んでいて気がついたのだが、熊谷の言う通りこの日記はどこかおかしいと思うようになっていた。 何というか作り物というか、自然ではないというか… うまく言えないのだが、何かが引っかかり、私の思考がこれはどこかおかしいよと、訴えてくるのだ。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、一呼吸おいてから一気に吐き出し、頭の中を一度空っぽにすると、日記に書かれていたことを自分の覚えている少年時代と照らし合わせ、不自然な点を探っていった。
書いていった状況を考えると、私と川久和孝の二人は、日記を使わないと他人と会話する機会がなかなか作れないということが窺える。 —が他の者はどうだろう… 元々は萩内余と会話をする為に書かれ始めた日記だ。 他の者同士の会話は普通にできると考えるのが常識的だろう。 しかしだ、何故かわざわざ日記を使い、どうでもいいような世間話までしている場面が多々見受けられた。
これは一体どういうことなのだろうか? 日記を使わなくても、話をしようと思えば直接会ってすれば済むことだろうし、別に書く必要のないものを書いてもノートの無駄だろう。
これが子供同士というのならまだ解るが、いい大人達が世間話の為に日記を使いやり取りするだろうか?
まるで一人一人がこの日記がないと会話ができない、伝達手段を持っていないという感じに思えてしまう。
それとも何か特別な理由があったのだろうか? 例えば喋ることができない障害でもあったとか…
いや、それもないと思うのが普通かもしれない。 一つの小さな村に同じ障害を患っている者が、こんな沢山いるとは考えにくい。 皆親戚関係で遺伝の為なってしまったというのならまだ可能性はあるかもしれないが、彼らは赤の他人だ。 その証拠に日記に参加する時には、必ずはじめましてと挨拶している。
突然ふと別の考えが頭に湧き、思わず苦笑してしまった。
熊谷も言っていたが、もしかしたらこの日記は私一人で書いたものではないかと思ってしまったのだ。
調べたところによると、私以外の日記に書かれている人物を知る者はいなく、戸籍もないと言っていた。 ということは実在しない人達と交換日記をしていたことになる。 勿論そんなことはできないであろうし、ありえないだろう。
だから自然に考えて私一人で書いた物と思ったのだ。 それならば記憶の中に“誰か”と交換日記をした覚えがなくても当然だろう、と。
だがその考えも直ぐに掻き消された。 文面を見るとやはり筆跡は全員全然違うのだ。 これは全て別人が書いた物ということの何よりの証拠だろう。
十五歳の少年だった私に七人分違う筆跡で文章を書く技術があったとは考えにくい。 それにもし日記を私一人で書いたというのなら、その理由が解らないし意味も解らない。
そして何より気になるのが漏れ子という者だ。
日記の中の萩内余は意味を理解しているようだが、今の私にはその記憶がない。
でも覚えていないだけで、知っているような気もする。 その証拠に漏れ子のことを考えると、何故か凄まじい忌避感に襲われ目眩がする。 記憶が失われても、脳や体は覚えているのであろう。 それほどまでに恐ろしいことなのかもしれない。
午後二時半を知らせる室内体操の音楽が天井のスピーカーから流れ始め、ハッと我に返ると、すっかり底冷えしてしまった体を両手で抱きかかえるように摩った。
気分でも変えようか… そう思い立ち上がると、棚の上に置かれたコーヒーカップに手を伸ばす。
決して好きになった訳ではないが、頭の中をスッキリさせるのにコーヒーは最適だった。 それにいくらかでも温かい物を体に入れないと、この寒さに耐えれそうにない。
給湯の時間がくるまで、ストレッチをして体を暖めようと思い、部屋の中心で洗面台の方を向き腰を下ろした。 そして動こうとした瞬間、背後からもぞもぞと物音が聞こえ、人の気配を感じることに気が付き、一瞬思考が停止した。
今座った所の直ぐ後ろ…
勿論誰も室内にいないことは確認しているし、わざわざ見渡さなくても、独房の中には私一人だということは直ぐに解ることだった。 目を瞑って行動してる訳でもなく、隠れる場所もないし、部屋の広さなど、たかが知れている。 そいつが座る時にはいなくて、座った直後に現れたのだということは直ぐに理解できた。
だが理解しただけで、何が起こっているのかまでは解らない。
私は思わずビクリと体を跳ねらせると、ゴクリと唾を飲み込み、上半身を捻らせ後ろを確認した。
すると一人の男が扉の前で座り、両手を組んで俯いている。 どこか見覚えのあるその格好にハッと運動場の光景が蘇った。
ボロボロのTシャツに薄汚れた短パン、いつ洗髪したのか判らない、ボサボサの髪が肩まで伸びている。
間違いない。 運動場にいたあの男だ。 だが判るのはそれだけで、彼が何者で、何故此処にいるかも判らない。 それどころか生きてる者なのか、死んでる者なのかも…
この極寒の独房を耐え切れるような格好ではないし、鳥肌一つ立てず寒がってる様子もない。 生きてる人間にできる技ではないとは思ったが、その妙に現実味のある質感に死んでる者にも見えなかった。
確かに此処では死刑が執行され、何人もの罪人達が亡くなっている。 幽霊の一人や二人出てきても、何もおかしくはないと思うが、何故だか彼は違うという、何の根拠もない自信があった。
では、今目の前に見える男は何者だというのだ?
何も答えなど見つけれず、ただ呆然とその男を見据えていた。
すると突然…「本当に忘れちまったみたいだなぁ」 −と、俯いたまま男がそう言うと、フフと意味慎重な含笑いを見せ、肩を小刻みに揺らした。
意味も解らず固まり、男の行動をただ凝視するしかできないでいると、男はゆっくりと頭をもたげ、顔を覆い隠す前髪を掻き上げながら「俺だよ」と一言言って私の顔を凝視してきた。
嫌な汗が額から頬へと伝わる…
この男は以前何処かであっていた人なのだろうか?
心のどこかで、考えても解らないと解っていながらも頭を巡らし、それらしい答えを探していた。
「分からないなら教えてやるよ。 俺の名前は司島望、駒岡里でずっと一緒だったじゃねぇか」
その名を聞いた途端、張り裂けんばかりに胸が高鳴り、この男は危険だと全身が拒絶感に包まれ、訴え始めた。
もう一度彼の顔を真剣な眼差しで捉え、思考を巡らせるが、どういうことなのかサッパリ解らない。
一瞬彼が何か冗談を言っているのでは? とも考えたのだが、彼の存在感と正体不明なところが、そういう答えには至らせなかった。
だが普通に考えてもおかしいのだ。 司島望といえば六十年前に書かれた日記の登場人物の一人だ。 書かれた当時の司島の年齢は二十一歳、私より六歳上になる、生きていれば八十一の老人の筈だ。
だが今目の前にいる男はそんな高齢には見えない。 見た目こそ年齢不詳だが、二十歳前後の青年に見えなくもない。
それに、もし彼が日記の書かれていた司島望だというのなら、今この拘置所にいるのはおかしいだろう… ということは彼は一体何者なのだろうか?
何もできず硬直していると、男はニヤリと不敵な笑みを浮かべ更に言葉を続けてきた。
「余… 解っているのか? 皆苦しんでいるんだぞ、特に和孝なんて可哀想なものだ。 今でもまた全てを背負うことになるのではないかと毎日恐怖でビクビクしているんだ。 そろそろ解放してやれよ」
男の一言一言が何故か胸へと突き刺さった。 その意味は判らないのだが、私が悪いような、過去に何かしでかしたのではないかという罪の念だけが伸し掛る。
愚か者を下げずむような男の眼差しが拒絶感を増幅させ、体を小刻みに震え始めさせていた。 そしてその重圧に耐えきれず私は思わず口を開いた。
「私にどうすれというのだ?」
「簡単だよ。 余が全てを受け入れて死ねばいいんだよ。 それで何もかもが終わる」
「どういう意味だ?」
嫌な気持ちを拭い去ろうと抵抗はしたのだが、返ってくる言葉は更に謎を生むものだった。 しかし脳や体はその意味を理解しているようで、彼の言葉を聞く度に、胸が苦しくなり、目眩に襲われる。
「オイオイ、またそうやって逃げるつもりか?」
その言葉を聞いた途端、自分の中から、何かが湧いてきたような感覚に襲われ、フッと意識を失い、冷たい床に崩れ落ちた。 どうやらそこでまた私は記憶を失ったらしい…
最後に覚えてるのは男の気味悪い恍惚の笑顔と不気味な笑い声。 そして早く死んでくれという言葉だった…
:
漆、
暖かい日差しを感じていた。 日の光を浴びるのは何日… いや何ヶ月ぶりだろうか? そんな感覚。
今迄のは夢か幻だったのかもしれない。 今はとても暖かく気持ちがいい。
とても長い夢。 そう… あれは悪夢だったのかもしれない。 全て夢…
考えてみたら私が死刑囚の筈がないのだ。 何も過ちを犯していないし、何も罪になりそうなこともやってはいない。
そう… 私は母の自慢の子だったのだ。 木漏れ日に照らされて生を受けた大切な宝。 母がいつもそう詠ってくれた。
母は駒岡里の光だった。 その光から私は生まれたのだ。 そんな私が罪を犯す訳がない。 悪行などする理由が見つからない。
「じゃあ此処は何処だろうね…」
まるで私の思いを断ち切るように聞こえる不快な声。 その声に自分を取り戻し、そっと目を開くと、五感が冴えてくるのが感じられた。
眩しい日の光が直接眼球を焼いてくる。 何度も瞬きをし、瞼を擦り、広がってくる世界に目を凝らした。
そこは幅二メートル、長さ六メートルの小さな個室。 床には一本のロープが無造作に置かれ、天井には天窓が付いている。 そこから部屋全体に日差しが降り注ぎ私を明るく照らしていた。
夢ではなかったのか… あまりにも愕然とする現実。 そこは拘置所の運動場… また記憶を失っていただけ、全てが現実の出来事だったのだ…
「おはよう… 余さん」
残酷な世界に打ち拉がれていると、何処からともなく少年の声が聞こえてきた。
辺りを見回しても勿論人の姿など何処にも見えない… 第一この拘置所内に少年などいる訳がないのだ。 そんなこと目覚めたばかりのハッキリとしない頭でも容易に判ることだった。
寝ぼけているのか? それともただの幻聴か? そう思い、頭をスッキリさせる為、ストレッチでもしようとその場に座りかけた時、再び少年の声が聞こえ、私は中腰のまま思わず固まった。
「幻聴じゃあないよ、僕だよ僕… 余さん忘れちゃった? それとも思い出したくないだけ?
僕は川久和孝。 駒岡里では交換日記を交わしたじゃないか… 本当に忘れちゃったのかい?」
ガクガクと膝が笑っていた。 それは中腰のままの体勢が辛いわけではなく、発せられた声の意味に反応していたのだと思う。 自分は狂ってしまったのだろうか? と自問自答し、理解できない現実に途方に暮れた。
また六十年前に書かれた日記の人物が、その時の年齢のままで自分に話しかけてきているのだ。 普通に考えておかしいことであろう。
頭の中がグチャグチャに掻き乱れていた。 どう考えても理解できないことが起きている。 思考は停止し、しばらくそのまま放心状態に陥っていた。
すると追い打ちをかけるかのように、少年の声が頭の中で響いた。
「早く思い出してよ。 そして早く死んでくれよ。
苦しいんだ。 余さんが生きていると、僕は不安で不安でどうしていいか分からなくなる。 全部余さんがやったことなのに、僕が酷い目に合うんだ… 耐えられないんだよ。 だから死んでくれよ。 全てを思い出してとっとと死ねよ」
あまりの恐怖でその場に崩れ落ちると、両手で頭を抱え、声にならない叫び声を上げた。
(やめろ… やめてくれ… 私が何をしたというのだ?)
全身が震え、息をするのも苦しくなってくる。
「運動終了」
突然運動場に響きわたる号令。 次の瞬間部屋の扉が開かれると二人の刑務官が入ってきて、私に立てと声をかけた。 ——が恐怖で体がまるっきり動かない。
そのまま動けずに震えていると、刑務官達は私の両脇を抱え、無理矢理体を引き起こした。
「いい加減にしろ、早く立て。 面倒を起こすな」
怒鳴るように声を浴びせてくると、私を引きずり運動場から連れ出した。
もう少年の声は聞こえなくなってはいたが、相変わらず体は震え、上手く動かすことはできない。 そのまま刑務官に体を支えられ、おぼつかない足取りでなんとか独房へと帰ってきた。
私を机の前に投げ出すと、重い扉を閉めながら、おとなしく座ってろと捨て台詞を吐き、刑務官達は去って行った。
縋るように机の脚を掴むと上体を起こし、そのまま机の上に突っ伏した。
呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。 次々に起こる怪現象に、脳や体が追いついてけない状態だ。
きっと拘禁症状からくる、幻聴や幻覚だろう… そう自分に言い聞かせるしかなかった。 余計なことを考えると目眩が起き、息が苦しくなる。
心のどこかで起こったことは全て現実で、真実を知るには受け入れなければいけないという気持ちはあるのだが、凄まじい忌避感に襲われ、それを受け付けない自分がいた。
どのくらい経っただろうか… いつの間にか気持ちは落ち着き。 感覚も大分戻ってきていた。
大きな溜め息をつき、上体を起こすと、部屋の中をゆっくりと見渡した。
いつもと変わらない、見慣れた独房。 だが置いてある物など細かな違いがあることに気付き、妙に部屋の中が新鮮に感じられた。
どうやら記憶がない内に色々と自分で変えているらしい… 乱雑に置かれている物を見ると今の私とは少々性格が違うように感じられる。
それにさっきから不思議に思っていたのだが、室内が妙に暖かいのだ。
一瞬空調が入ったのかと思ったが、通風口に手を伸ばしても風を感じられなかった。 だがあの地獄のような寒さは今は微塵も感じられない。 逆に薄っすらと汗ばむような暖かさがあるような気がする。
自ずといつの間にか掛けられたカレンダーに目がいっていた。
まさか… と思い、ドクンと胸が一つ脈打つのが分かった。 信じられないがそこには三月のカレンダーが当たり前のように掛けられている。 季節は春に移り変わっていたようだ…
どうりで暖かい訳だ、また寿命が縮まってしまったな… そう独り言を呟くと、乾いた笑い声を上げ、ゴロンと上体を後ろに倒し、悲嘆に暮れた。
きっとこのまま訳も解らず、死刑が執行されるかもしれないな…
そう、ぼんやり考えながら瞳を閉じて、込み上げる恐怖を堪えていると、ある事を思い出し、飛び跳ねるように上体を起こした。
そういえば… 熊谷からの手紙が届いているのではないか、と…
慌てて棚に目線をやると、私物と一緒に何通かの手紙が置かれているのが分かり、思わず「やはり来ていたか」と独り言を呟いていた。
棚に手を伸ばし、その内容を確認すると、差出人は全て弁護士の熊谷なっていて、最後に出された日付は三月十五日になっていた。 どうやら二ヶ月以上も私は記憶を失っていたらしい…
今更ながら、それだけ自分が死に近づていることに、否応無く焦りがでてくる。 もう七十五の老体。 別に長生きをしたい訳ではないが… やはり死刑は受け入れたくないのだ。
私は嫌な思いを払い去るように頭を左右に振ると、一番古い未読の手紙を手に取り、中身を取り出した。
一枚目には前回と同じく、私を気遣う熊谷からのメッセージが綴られている。
そして二枚目からは駒岡里での交換日記の内容が記してあった。
熊谷からのメッセージは特段気にすることは書いていなく、軽く目を通すと、二枚目に視線を移した。
これで司島望や川久和孝が何故私の前に現れたのか、そして何故記憶を失ったのか何か解るかもしれない。
それか彼等に何か後ろめたいことをしていたことが記してあったのなら。
それが原因であんな幻覚や幻聴を聞くようになり、この日記を忘れてしまいと思い記憶から消した、ということにも繋がる… それで全て辻褄が合うし、納得できる形にもなるだろう。
何か一つでもヒントになるようなものが書かれていれば良いのだが…
そう思いながらも焦る気持ちを押し殺し、ゆっくりと一文字一文字確かめるように、日記の文章を目で追った。
−萩内余の交換日記−
15
何回か母に相談しようと思いましたが無理でした。
昼はお客や信者の相手、夜は詩の創作の為、部屋に引きこもってしまいます。 何度か声を掛けましたが、忙しいから今度にしてと言われ、なかなか相談できそうもありません。
萩内 余
|
すいません私も無理でした。 ああ見えてとても真面目で厳しい人です。 詩以外のことを話す雰囲気じゃないですし、休憩の時話し掛けようにも、他に人がいるのでなかなかできません。
加山 進一
:
16
多分無理かもしれませんね。 一度咲恵さんに相談してみたのですが、漏れ子の言葉を出した途端、私を睨みつけながら凄い剣幕で、私の前で漏れ子の話をしないで… と言って何処かへ行ってしまいました。 過去に何かあったのですかね?
人道 光照
|
やっぱり無理なんじゃないのかな? 漏れ子を助けるなんてさ。
駒岡里じゃ御法度みたいなものだし、咲恵さんも神に仕える身。 風習や仕来りなどを大切にするんじゃないかな?
森 猛
|
でも和孝君は何も悪い訳じゃないんですよね? そんなの酷すぎませんか?
昔からの決まり事なのかもしれませんが、私には理解できません。
松金 楓
|
皆さん、僕の為に色々ありがとうございます。
そしてお願いがあります。 何か食べ物を分けて頂けませんか? 殆ど飲まず食わずの毎日なので、本当に辛いんです。
川久 和孝
:
17
俺の畑になってる物なら勝手に持って行ってもかまわないよ。 あまり良い物ではないけどな。
森 猛
|
しかしこのままでは本当に和孝君は死んでしまうかもしれない。 何か良い方法を見つけないと。
加山 進一
:
18
咲恵さんが相談乗ってくれないなら、もう駒岡里に当てにできる人はいないかもしれない。
一層のこと、駒岡里から逃げるしかないかもな。
森 猛
|
和孝君はまだ十二歳の少年だ。 しかも漏れ子として育ってきた彼には、駒岡里を出て一人で生きていくのはあまりにも過酷だろう。
人道 光照
|
ではどうすれば良いのでしょう? このままでは和孝君の人生は…
萩内 余
:
19
私の叔父夫婦が早根別(ソウネベツ)に住んでいます。
少し離れていますが、事情を説明して匿ってもらうというのはいかがでしょう? それに叔父は若い働き手を欲しがっています。 彼が真面目に働いてくれるなら叔父も喜んでくれると思います。
松金 楓
|
良い考えかもしれません。 助けるにはそれが一番じゃないでしょうか?
決行する日時などを決めて、逃げる道順、食料、必要な道具を集めて備えたら、和孝君でもやれそうだと思います。
加山 進一
|
待ってくれ、良い考えかもしれないが、早根別といえば、かなりの距離がある。
大人の足でも数時間はかかるだろう。 そんな所に漏れ子として育ってきた和孝君に辿り着けるとは到底思えない。
人道 光照
:
20
大丈夫です。 一応地図を書くつもりだし、決行の日には従兄弟に峠の入口まで、迎えに来てくれるよう話しをしておきます。
松金 楓
:
僕にできるでしょうか? 少し心配です。 でも漏れ子の辛さから抜けることができるのなら、頑張ってやってみます。
川久 和孝
|
そこまでやってくれるなら、和孝君でも大丈夫じゃないのか?
これで和孝君が救われるなら、やってみる価値はあると思うぜ。
決行の日には俺が食料をたんまりと用意させてもらうぜ。
森 猛
|
21
分かった。 そういうことなら私も知恵をだそう。
決行の日時は水無月の儀式でどうだろうか?
駒岡里にとって特別な日だ。 式の最中は村の人間皆、水明源湖に集まる。 漏れ子を抜かしてな…
それなら和孝君も誰にも見つからずに逃げることが可能かもしれない。 式の最中は漏れ子のことなど誰も気にしないだろうし、いなくなっても気が付かないだろう。 絶好の機会だと思うが、どうだろうか?
人道 光照
|
水無月の儀式は確かに、最高の日かもしれませんね。 駒岡里から逃げるには最適でしょう。 それまでに皆さんで色々用意しておいた方が良いかもしれませんね。 和孝君を逃がす為に、力を合わせてやってみましょう。
萩内 余
|
わかりました、水無月の儀式ですね。 それまでに必要な物を集めましょう。
加山 進一
:
22
では儀式の日で決まりですね。 余君は普段通りの生活を送ってほしい。 下手に動いてこの計画が失敗するのを避けたい。
人道 光照
:
23
食料は用意できたぜ。 銀シャリのむすびをこさえてやる。
森 猛
|
薬や靴、上着などは用意できました。
加山 進一
|
地図は完成しました。 あとは従兄弟に任せるしかありません。 この計画が失敗しないことを祈ります。
松金 楓
|
23
決行日、和孝君は儀式が始まるまで自分の家にいた方がいいだろう。 式が開始され周りに人がいなくなれば、森君の家に向かいなさい。 そこで食料や地図など取って、峠の道まで走りなさい。 時間は少しでもかせいだ方がいいだろう。
山道は危険だが、ほぼ一本道。 迷うこともないはずだ。
あと皆には書いた通り、道具などは森君に預けておいてほしい。 彼の家が場所的に峠の道に近いから良いと思う。
人道 光照
:
本当は付いて行ってあげたいのだが、我々は儀式に参加しないといけない。 心細いかもしれないが一人で頑張ってほしい。 自分の未来の為に…
加山 進一
|
皆さん本当にありがとうございます。 とても怖いですが頑張ってみます。
川久 和孝
:
24
早根別の村長の、二番目の息子が亡くなったらしいぜ。 噂では天罰だったらしいよ。
森 猛
|
あの息子は悪い人間でしたからね。 酷い噂しか聞いたことがありません。
ある意味当然の結果だったのかもしれませんね。 もし天罰なら、流石咲恵さんと言ったところでしょうか。
加山 進一
|
ついに明後日ですね。 皆さんよろしくお願いします。 この日記は明日の夜、一度僕の家に持ち帰りますね。 儀式の時は水明源湖に人が集まりますし、祠も使用しますからね。
萩内 余
*`
手紙はここで終わっていた。 手紙を封筒に戻すと、一度深呼吸し日記の内容に考えを巡らせた。
人道が指揮をとり、和孝を早根別に住む、松金の叔父の元へ逃がす計画が事細かく書かれている。 日記を見る分には人道という人物はとても頼り甲斐のある、良き理解者としての印象を受けるが、この人物の名を騙る、又は受け継ぐ理由は私にはあったのだろうか? それとも一種の憧れからくるものだったのだろうか? これを読んだだけではまだ何も解らない。
そして水無月の儀式のことはよく覚えているが、十二歳の少年がいなくなったことなどあっただろうか?
この儀式は駒岡里では月に一度の大きなイベントのようなものだ。
村の人が皆水明源湖に集まり、母が神託を受け、それを村人達に知らせる一ヶ月に一度の大きな式だ。
そんな大事なことに参加できない者がいたなんて…
村から逃がしてあげないと命の危険にさらされるなんて… 漏れ子とは一体何なのだろうか? 分からない…
それにこの日記に書かれているものが全て現実に起きてきたのなら、川久和孝は無事駒岡里から脱出できたのだろうか?
考えを巡らしていると、ジワジワと嫌な頭痛に襲われ、頭が重たくなってきていた。 まるで私の頭がそれ以上過去を思い出すなと言っているような感じに思えてしまう。
額を右手で抑え、肘を机に着くと、そのまま右腕に体重を預けた。 体が気怠い。 何も支えも無しに座るのが辛くなってくる。
失われた記憶を呼び起こそうとすると決まって体調が悪くなるような気がする。
そういえば司島望、川久和孝が現れた時も酷く体調が崩れた。 これは私が過去の出来事に拒否反応を示しているということなのだろうか?…
そして何故彼等は、若い状態で私に接してこれるのか… やはり過去に何かがあり、そのトラウマが私にあのような虚空の者達を感じさせているのだろうか?
左手に握ったままの手紙を棚に戻すと、次に古い消印が押された封筒を手に取った。 これに何かヒントになるようなことが書かれていれば良いのだが…
額から右手をどけ、痛む頭を重く感じながら、手紙を取り出し開いた。
一〜三枚目には、熊谷からのメッセージが綴られている。 いつもは便箋一枚程度に簡単にまとめ、体調などを気遣う文面なのだが、今回はちょっと違うようだ。
一枚目からゆっくりと目を通すと、その内容に思わず固まり驚愕していた。 そこには今の私を更に鬱屈させることが長々と綴られている。
手紙にはこう書かれていた。
一ヶ月前… どうやら私は記憶を失っている間に拘置所内の精神科を受診したらしい。
検査の内容はまるっきり覚えてはいないのだが、何度読み返しても、そこには完全責任能力が認められるのは明らかと書かれていたのだ。
手紙を持つ手が小刻みに震え便箋がカサカサと擦れあっている。 一瞬嘘ではないかと熊谷を疑ってしまったが、わざわざ嘘を書いてくる理由もないであろう。
続きに目を通すとその理由も書いてあった。 だがその内容は到底理解できるもの、納得できるものではなかった… それはあまりにも“ふざけた”解釈にしか感じられなかったのだ。
理由… 萩内余は幼少期からの得意な心理的発達障害、虚言癖があり。 自己中心性が目立ち、共感性を持てない人格の障害、情性欠如、強い猜疑心、嫉妬などを特徴とする妄想反応などがあるが、起こした得意な犯行を説明する決め手になる診断名とは言えない。
更にテストで彼に書いてもらった手紙、絵を見ても彼自身そのような自分を持て余してたことが窺える。 頭の中に誰かを殺したろうとの考えが浮かび、それから殺人を空想。 しかしただの空想と実行との間には大きな乖離があり、それは鑑定では埋め尽くせていない。
また記憶障害を起こした者にみられる他の障害との連動が見受けられず、危機的状況、または不安感からくるガンザー症候群の可能性も否定できない為、記憶障害に値する判断には至っていない。 なのだそうだ。
要するに精神障害や、精神疾患などの症状は多々見られるが、刑の執行を遅らせたり、中止にするまでには至らないということが書かれている。
では刑に影響を及ぼすほどの精神症状とはどのようなものなのだろう… 記憶を失い、自分の犯した罪が判らない人間に刑を執行することに意味はあるのだろうか?
こういう話も聞いたことがあるような気がする。 一度死刑囚として拘置所に入れられた人間は、例え冤罪だろうと骨にならないと出てこれないと…
現に刑の執行の後、冤罪を証明された事件もあるし、今でも独房の中から無罪を訴えてる死刑囚はいるのだ。 だがそうゆう訴え(上訴や再審請求など)は碌に調べられることなく棄却され、刑は執行されていってるのが事実だ。
例え私が無罪だったとしても、此処から出れる確率はほぼ無いに等しいというのが嫌でもわかる。
警察側の思い込みとずさんな捜査。 そして自分達の間違いを決して認めようとしないプライドとメンツ。 人の命がかかっていようとも、全く御構い無し。 泣かされた人達は数え切れないほどいるだろう。 そんなことがまかり通って良いのだろうか?
手紙を握りしめ、暫く茫然自失に陥っていた。
なんとなくだが判ってはいたと思う。 一度死刑囚になれば希望など持てないことなど… 最初から結果は見えていたのだ。
例え死刑が無効になり、私が生きながらえたとしても、決して世間は許してくれないだろう。 あれだけの犯罪を犯したのだから、極刑になるのは当然なのだ。
だから私は犯罪に走った理由が知りたい。 何故そんな人間になってしまったのか、何故ここまでなるまでに自分を止めることができなかったのか…
自然と溢れる涙を袖で拭い取り、クシャクシャになった手紙を広げ、先へと読み進めた。
熊谷は今回の診断結果はあくまでも拘置所側の判断であるため、再検査の要請をしていると書いてくれていた。 彼の気遣いには本当に頭が下がる… だがあまり期待できないことは火を見るよりも明らかだろう。 私がなんぼ叫んでも、喚いても、死刑執行の日は変わることはないというのは解っている。 今私に必要なのは死を迎える覚悟ではないだろうか?
死とは怖いものだ。 考えるだけで眩暈や、痙攣が起き始める。 いや死が怖いのではなく死刑が怖いだけかもしれない… 突然首にロープを掛けられ殺されるのだ、想像するだけでゾッとするのは当然だろう…
できれば寿命を全うしたいと誰しもが思うのことではないだろうか? だが私にはそれが許されず、殺されるのを待つしかできないのだ…
私は項垂れながら交換日記の内容に目を移した。 死ぬまでの間に幾らかでも自分の謎を解き明かすのが、刑の執行を素直に受け入れるためには必要だろうと思いながら…
—萩内余の交換日記—
25
計画は失敗に終わりました。 和孝君は自宅で監禁状態でいるそうです。 何故今回の計画が失敗したか分かりませんが、彼には罰が与えられるそうです。 それが決行される時は、文月の儀式。 一ヶ月後です。
人道 光照
|
何故和孝君は罰を受けるのですか? 自由を求めただけですよ。 それがいけない事なのですか? あまりにも酷いし可哀想です。
萩内 余
|
余君も駒岡里の人間ならば解るでしょう。 漏れ子として生まれた時から和孝君の運命は決まっていたのかもしれません。
漏れ子は一生その家に仕える者。 情を知らず、情を持つことさえ許されず、ただひたすら働くのが運命。 駒岡里の呪いなのかもしれません、逃れる事のできない呪い。 それから逃げようとすれば罰が与えられるのは当然なのかもしれません。
加山 進一
|
漏れ子とは何なのですか? 私にはまだよく解りません。
松金 楓
:
26
漏れ子とは望まぬ子、産みたくなかった子のこと。 文字通り産むつもりはなかったが、漏れ生まれてきてしまった子のこと。
稀に生まれた直後に殺されるという話は聞いたことはあるが、その殆どが生かされ、一生奴隷のような人生を辿ることになるという。 ある意味こちらの方が悲惨かもしれない。
漏れ子の大半は強姦などによって生まれてきた子で、汚れた子、獣の子として駒岡里では忌み嫌われた。 その理由には様々な諸説があるらしいが、今の村人で詳しいことを知っている人も少ないようだし、知っていても話すこと事態、禁止されているらしく、口にはしない… 駒岡里では古くからの仕来りのようなものになっている。 だから和孝君は生まれながらに人間扱いされていないのだよ。
人道 光照
|
でもさ父親のことは誰にも言わなければ判らないんじゃないの?
森 猛
|
こんな小さな村です、嫌でも噂は広まりますよ。 例え漏れ子ではなくても、父親がハッキリと判らなければ、疑いがかけられるほどです。 母親も辛いでしょう。
漏れ子を産んでしまった母親は、一生忌み子の母として村から良い顔をされません。 しかも漏れ子を殺せば不幸が訪れるとして、殺すこと事態が本当は御法度なのです。 ですから漏れ子の母は八方塞りになり、気が触れる者が多いと聞きます。
加山 進一
:
27
これから和孝君はどうなっちまうんだ?
森 猛
|
僕もそれが心配だし、気になります。
萩内 余
:
28
何故今回の計画が失敗したか理由が判りました。 松金さんが萩内家に密告したらしいのです。
彼女はこの計画がバレて、自分が駒岡里に住めなくなるのが怖かったと言ってました。 気持ちも解らないでもないです。 皆さんも理解してあげてください。
それに彼女を誘った私にも責任がある。 皆さん本当にすまない。
人道 光照
|
ふざけるな、密告した奴は助かるかもしれないが、逃がすのに手を貸した俺達はどうなるんだよ?
森 猛
:
安心してください。 密告は手紙で、誰の名も書かずに萩内家に置いてきたそうです。 ただ漏れ子が水無月の儀式最中に、峠を越えて逃げるつもりだと書いて。
だから大丈夫でしょう。
でも今回の失敗は、全て余君に原因があるのかもしれませんよ。
人道 光照
|
確かにそうですね。 根本的な原因は余君にあるでしょう。
加山 進一
|
何でですか? 僕に何の原因があるというのですか? 意味が解りません。
萩内 余
*
手紙はここで終わっていた。
どうやら和孝君は駒岡里からの脱出に失敗したようだ。 それは日記の内容を読めば、ぼんやりとだが理解はできるのだが、何故その原因が私にあるのかは理解できない。
日記での萩内余は、人道の言われた通りに動いていたように書かれていると思うのだが… それとも何か日記に書いていないことをやっていて、それが原因で計画が失敗したのだろうか? 日記の内容からは窺い知ることはできなかった。
だが漏れ子のことはなんとなくだが、解ったような気がする。 この手の話は日本の風習、特に東北地方ではよく聞く話だ。
しかし駒岡里は北海道… このような風習が本当にあったのだろうか? 北海道の歴史は意外と浅い。 確かに古くから原住民(アイヌ)や南部には松前藩などが生活していたが、本格的に開拓が始まったのは明治に入ってからだ。 それまでは何処までも広大な原生林が続いていた、−とどこかで見た覚えがある。
日記には古くからの仕来りと書いてはいるが、もしかしたら開拓民達によって伝わってきた風習なのかもしれない。 それか駒岡里で何かあって生まれた風習なのか… 色々と想像だけはできるが、それ以上は何も解らなかった。
読み終えた手紙を棚に戻し、次に送られてきたであろう封筒を手に取った。
おそらくこれには何故、私に原因があるのか理由が書かれているはずだ。 意味も解らず緊張するが、どんなことが書かれていようとも、受け入れる覚悟ができている、——と思う。
気合いを入れるかのように、頬を両手で叩き深く息を吐き出すと、手紙を取り出し中を確認した。
一枚目にはいつも通り私の体調を気遣う言葉や、忙しいのであまり面会に来られないこと、手紙の方もなかなか送ることができないが、なるべく早く全部送るので待っていてほしいなど、熊谷の言葉が謝罪を込めながら色々綴られており、彼が一生懸命やってくれていることが、ひしひしと文面から伝わってきた。
本当に彼には感謝の気持ちしかない、有難いものだ。
私は彼からのメッセージを読み終えると、問題の日記の方に目をやった。
内心怖いのだが、 過去を知りたいという欲望の方が断然勝っている。 そこに何が書かれていようとも、今の私にはそれを止める理由は何もなかった。
—萩内余の交換日記—
30
分からないのですか? 全ての発端は余君にあるんですよ。 自分でよく考えてみてください。 あなたは何者であるか…
人道 光照
|
僕は萩内家の者です。
将来母の後を継ぎ、駒岡里を導く存在になっているかもしれない。 それが萩内家の使命であるし、人生です。
萩内 余
|
それはないですね。 萩内家を継ぐのは、お兄さんかお姉さんでしょう。
例えその二人が亡くなったとしても、余君が萩内家を継ぐことはないでしょう。
加山 進一
:
31
何でだよ? 余君も萩内家の人間だろ。 継ぐ可能性だってあるだろ。
森 猛
|
気付かないのですか?
今回の計画は最初から成功など有り得なかったのかもしれません。
余君が余計なものを作ってしまった。 いや、作れなかったから。
人道 光照
|
だから言ったんだ。 最初からこうなるのは判っていた。 せっかくお前らの茶番に付き合ってやったのに、結局これとはな。
和孝を救う為には余が死ぬしかねぇんだよ。
司島 望
:
32
司島に何が解るんだよ?
余君が死んでも和孝君は何も変わらないだろ。
森 猛
|
いいえ。 余君が死ねば、和孝君は救われました。 もう漏れ子として生きなくてもいいのです。
加山 進一
|
意味が解らねぇぞ。どういうことだ?
森 猛
|
今回の計画は余君の為に作られたもの。 和孝君はただの変わり身だったんです。
逃れる為の犠牲。 それを気付いてないだけなんです。 生まれてこなかった従兄弟が全てを終わりにしました。 それも漏れ子の呪いかもしれません。
人道 光照
|
余君は普通の人生を望んだということですよ。
加山 進一
|
33
益々わからねぇ。 最初から説明してくれよ。
森 猛
|
僕は確かに普通の生活は送ってはいません。 でもそれは萩内家の者なら仕方ないことです。 大変ですが十分幸せですよ。
萩内 余
:
現実を見てくれ、そして死ねよ。
司島 望
|
34
余君は何もわかっていない。 いや… わかろうともしない。 そういうところが、皆さんうんざりしてるんですよ。
加山 進一
|
どういう意味ですか?
萩内 余
|
まだわからないの? いつまで自分を騙し続けるつもり?
松金 楓
*
どういうことなのだろうか? 全然理解できない… 訳も分からなく嫌な思いだけが募り、鼓動がどんどん早くなるのが分かる。 手紙を持つ手はじんわりと汗ばみ、妙な焦りを感じていた。 日記の中に記された意味不明のやり取りが、私の心を徐々に追い込んでいる。
この日記は何なのだ? 率直な意見だった。 意味が分からないのだ。
そして何故か読めば読むほど胸が苦しくなってくる。 思わず読むことを躊躇ってしまう。 読むのが怖い… この先もっと恐ろしいことが書いていそうで、手紙を持つ手が震えていた。
取り敢えず落ち着いて一つ一つ整理していこう。
私は汗ばむ手を着ている服で拭い、手紙を持ち直した。
まず和孝君を助ける計画が失敗したのは解った。 でもそれの原因が何故私にあるのかが未だに判らない。 何故死ななければならないのかも、そして何故責められているのかも…
『読めば解るよ。 読んで思い出せ、それが罪滅ぼしだ』
突然頭の後ろから聞こえる声… 一瞬訳が解らずその場で体を強張らせ思わず息を呑んだ。
そのままゆっくりと部屋の中を見回すが、声の主は何処にもいない。
キョロキョロと何度も辺りを見回し(またか)と心の中で呟いていた。 もう特段焦ることはない、異常なことが起こっているのは十分理解していたが、聞こえてくる声が妄想なのか、私の心の声なのか、はたまた実際に聞こえる声なのか。 そんなことはもうどうでもよくなっていた。
この狂気の世界が繰り返される度に異常なものに対し耐性のようなものができたかもしれない。 要は慣れてきてしまったのだ。
それにこの声は、正しい事を言っているかもしれないという何の根拠もない自信もあった。
きっとこの日記は失われた記憶を取り戻すのに必要なのだろう…
私はそう覚悟を決めると、書かれている文章を目で追った。 自分の過去に照らし合わせ駒岡里での記憶を辿るように。
35
和孝君に全てを擦りつけ、余君は自分を守ることにしたんだ。 でもそれだけでは不安だった。 そこで森君を… それでも足りなかった。 加山進一、私と松金楓。 これは全て余君の為だった。
でも司島望だけは違った、彼は負の塊から生まれた、闇の意思だった。
人道 光照
|
余君は駒岡里の酷い現実から逃げたかった。 だから和孝君を助けることにしたんだ。
加山 進一
|
自分では完璧だと思い込んでいたんだ。 だが松金楓の従兄弟は現れなかった。 叔父さえも出てこれなかった。 駒岡里から出られなかった余にとって、外の世界は無だった。 無からは何も生まれない、だから松金楓は暴走した。
司島 望
|
意味が解りません。 何が言いたいのですか?
萩内 余
:
36
まだわからないのかね? 文月の儀式で罰を受けるのは、和孝君ではなく余君なのだよ。 いや… 余君の中では和孝君なのだから、やはり罰を受けるのは和孝君になってしまうのか。
人道 光照
|
余が死ねば和孝は助かる。 惨い日々から救われる。 そろそろ解放してやれよ。
司島 望
|
和孝君も我々も苦しいんだ。 余君を憎いと思うことさえあるよ。 君の為に様々な思いをしてきたからね。 そろそろ漏れ子の呪いを受け入れてほしいんだ。
加山 進一
|
何の説明にもなっていません。 皆さん一体どうしてしまったんですか? 僕は萩内家の子供、萩内余ですよ。
萩内 余
:
37
余さん、そろそろ認めてよ、僕は本当に苦しいんだ。
もう何年も漏れ子として生きてきたんだ。 余さんの代わりとしてね。 もう疲れたよ、そろそろ死んでくれよ。
川久 和孝
*
手紙はここで終わっている。
一体何がどうなっているのか… 理解不能だった。
私が和孝で、和孝が私の代わり? 私が二人いたということなのか? それとも萩内余と川久和孝は同一人物ということなのだろうか? それならば和孝君が私のことを恨む理由が見つからない。 それに代わりというのなら、やはりこの二人は別の人間と考えた方がいいのだろう。
しかしそれでは私の中の和孝君の意味が解らない… それに何故私はこんなにも非難されているのだ? 何度読み直しても、合点のいく答えは出てこない。 それとも何かもっと別の理由があるのだろうか?
そして読み進めて一つ気になったことがある。 確か前の手紙で送られてきた日記には、水無月の儀式の時、このノートは萩内余が自宅に持ち帰り、保管すると書いていた筈だが、持ち帰らなかったのだろうか?
もし、持ち帰り保管していたとしたら、萩内余以外の人物はどのようにして、この交換日記にメッセージを残せたのだろうか? もし、簡単に萩内家に侵入し、日記に文字を書き記せるのならば、直接萩内余と会うことができるということになる。 そうなればわざわざ交換日記をする必要がないだろう。
どういうことなのだ? 余計わからなくなってきた。 頭がクラクラする。
手紙を棚に戻し、次の封筒に手を伸ばす。 —が次の瞬間凄まじいばかりの目眩に襲われ、思わず机の上に突っ伏した。
今まで感じたことのない妙な感覚が全身を駆け巡る。 頭が熱くなり、息をするのも辛くなっていた。 しかし意識だけはハッキリとしていて、閉じた瞳の裏側にある光景が浮かび、その何とも言えない懐かしさと恐怖から我を忘れ、思わず見入っていた。
それは駒岡里での一夜。 あの時も頭がフラフラして動くことはできなかったと思う。 私は薄れる意識の中で誰だか判らないが、ある男の背中を必死で見ていた。
辺りは炎に包まれ、何本もの火柱が天を焦がしていた。 地面は血潮で真っ赤に染まり、その中に人が何人も倒れ、重なり合っている。 遠くからは殺せという怒号が聞こえ、まるで地獄絵図のような光景だった。
そしてその男が振り返らずに私にこう言ったのだ。
『余君、もう大丈夫。 あなたは今から自由だ』と…
誰かは本当に判らない。 でもその一言で私は救われたと思うし、全てを失ったような気もする。
この記憶は何だろうか? 何を意味するものなのか、自分でも解らない。 だがそれが全ての終わりであり、始まりであったような気がする。
『それが文月の儀式、余が全てを放棄した日だよ』
突っ伏していた頭上から突然男の吐き捨てるような声が轟く。 その声は頭の中に余韻を残し、脳へと直接突き刺さった。
フラフラした頭を抑え、顔を上げると直ぐ目の前に、背中を壁へペッタリと付けて司島望が机の上に立ち、私を見下ろしていた。
一瞬ドキリとはするが、然程驚くこともなく相変わらず浮浪者のような出で立ちに少々不快感さえ覚える。
「そろそろ死ぬ覚悟はできたか?」
目が合った途端、司島は惨い言葉を投げかけ、冷ややかな眼差しをぶつけてくる。 まるで心が通っていないロボットようにその瞳には光は感じられなかった。
勿論答えはNOだ。 だが敢えてその質問を無視すると、私は逆に彼に疑問を返した。 「お前は誰だ?」と…
すると突然スイッチが入ったかのように司島はいやらしい笑みを浮かべると… 「俺は何番目だったかなぁ〜」と意味深長な言葉を、誰もいない窓の方を向き、ボソリと呟いた。
「どういう意味だ?」
間髪入れずに質問を続ける。 すると司島は面倒くさそうに頭を掻き毟りながら、備え付けの便器まで移動し腰を下ろした。
別に用を足したい訳ではないのだろう。 薄汚れた短パンは履いたまま少し座りずらそうに、何度も腰の位置を調節している。 そしてようやく落ち着かせると、こちらを見直し、ゆっくりとまるで私の表情の変化を楽しむように語り始めた。
「川久和孝が最初だった。 余の身代わりの為に… 次に森猛、彼は余を守る為。 そして人道光照、あいつは余の理想、母親の一番弟子として現れた。 次は加山進一だったかなぁ〜… 奴は呪いの詩を変える為だった。 そして松金楓、彼女は漏れ子の偏見をなくし、自分を一人の人間として認める為。 俺はどうだったかなぁ〜? 余が幼い時からいたような気がするなぁ。 っていうことは俺が一番目だったかもな、余を殺す為に。 お前は和孝が現れるまで死ぬことばかり考えてる子だったからな」
「嘘だ」
無意識に叫んでいた。 司島が何が言いたいのか大体予想はついていた。 だがそれを受け入れたくない自分がいる。 信じられる訳がない、そんなことあるはずないと… 私は多重人格者ではないと…
だが司島はそんな私の心境を察したのか、グニャリと不気味な笑みを見せると、捲したてるように話し続けた。
「これで解っただろう? みんな余なんだよ。 俺達は漏れ子の人生に耐える為に生まれてきたんだ。 酷い人生だったよ、死ぬことばかり考えさせられる光の無い孤独の世界。 奴隷として生かされ、家事や雑用、残飯や汚物の処理まで何でもやらされた。 何の愛情も無い辛い毎日、暴力を振るわれることもあった。 理由など分からないが、罵られ、蔑まされ、耐えるしかできなかった。 幼い余にはあまりにも過酷。 何度も死ぬ覚悟をしたよ」
「嘘だ… 嘘だ… 嘘だぁ〜」
司島の言葉を掻き消すように声を張り上げ、喚き散らし、地団駄を踏んだ。 これ以上彼の話を聞くのは耐えられなかった。 それに認めたくなかった。 幸せな駒岡里の記憶が強く残ってる私には、自分が多重人格だなんてとても受け入れることはできなかった。
そんな狂ったかのようなヒステリックな姿がよほど面白かったのか、司島は笑いながらまるで子供を揶揄うようにその動きを真似して見せてきた。 完全に私を馬鹿にしているのが簡単に分かる。
「やめろ」
癇に障るその動きについ叫んでしまっていた。 —がそれが余計に可笑しかったのか、彼は腹を抱え、その動きに拍車をかけてくる。
沸々と湧き上がる怒りにも似た不快感。 私は思わず机の脚を掴むと、司島目掛けてそれを投げつけた。 しかしそれは彼の体を突き抜けると便器に当たり弾け飛んだ。
するとピタリと動きを止め、こちらの顔色を窺うようにゆっくりと床に座り込むと…
「なぁ漏れ子… 一分一秒でも俺らはお前に早く死んでほしいんだ。 だから俺が殺してやるよ」
そう言って再び腹を抱え絶笑すると、煙を掻き消すかのようにその姿を消した。
私は一瞬何があったのか理解できず、鳩が豆鉄砲を食ったように佇んでいると、四方の壁に次々と影法師が現れ、私に「漏れ子は死んでしまえ」などの罵詈雑言をぶつけてきた。
その声は老若男女様々で、とてもじゃないがまともに対応などできなかった。 絶え間なく浴びせられる非難や誹謗中傷に蹌踉めき、頭がおかしくなりそうになりながら、床に伏せて頭を抱えた。
「やめろ… やめてくれ… 私は漏れ子じゃないんだ」
必死に自分は漏れ子ではないことを訴えるが、声は一向に止む気配はなかった。 それどころか人影は増えていき、聞こえてくる罵声も量を増した。
「消えろ、消えて無くなれ。 漏れ子の筈はないんだ」
キレるとはこういうことを言うのだろうか? 私は叫びながら立ち上がり、再び机を掴むと、人影が浮き出る壁へと投げつけていた。 しかし怯むどころか人影達は、甲高い笑い声をあげながら、更に私を罵ってくる。
もう恐怖以外のなにものでもなかった。 それでも精一杯私は得体の知れない影達に抵抗していた。
「母に愛され育ってきた、私が漏れ子の訳がないだろう。 その証拠に詩がある… 生まれた時に… 誕生を祝い詠ってくれた母の木漏れ日の詩が…」
叫び声を上げながら、続けざまにその辺にある物を手に取り、投げつける。 一向に消えない笑い声と、浮き出る影に我を失いそうだった。 興奮している為か、体は終始震え、恐怖に押しつぶされそうにもなっている。 もう周りなどまるっきり見えてはいない。 いつの間にか独房の扉が開かれ、数人の刑務官が流れ込んできても気付かずに私は暴れていた。
おそらく物を壁にぶつける音や、監視カメラの映像などを見てやってきたのだろう。 刑務官達は一斉に私を取り囲むと何かを言っているのが解った。 ——がそれを私は浮き出る影なのか、刑務官達なのか判断できずに、ひたすら喚き、物を投げつけていた。
勿論結果は言わずもがなだ。 簡単に刑務官達に抑え込まれると床に叩きつけられ、拘束具で自由を奪われた。 しかし状況を把握できずに尚も暴れていると、腕に針のようなものが入ってくる感触があった。 そしてそれからのことはよく覚えてはいない…
:
捌、
廊下から聞こえてくる何人もの靴音。 それが私を現実へと引き戻した。
体にはジーンとした痺れる感覚があり、妙に頭が重い。 ゆっくりと首を回し、辺りを確認すると、そこはいつもの独房の中、私は床に敷かれた布団の中に寝かされ、拘束具を付けられているのが分かった。
体は自由に動かせず、手足も長い拘束時間の所為か感覚が失われている。 無理に動かそうとすると締め付けられ、痛みが走る。
「クソ、どうなってんだ…」
悪態をつき、不貞腐れるように動くのを諦めると、妙に空気が張り詰めていることに気が付いた。
シーンと辺りが静寂に包まれ、その中で靴音だけが建物内に響き渡っている。 固唾を呑み、聞こえてくる音に意識を集中する。 −とその聞き覚えのある音に一気に血の気が引いた。
死神の行進か… 顔を無理矢理持ち上げると、蛍光灯が煌々と私の眼球を照らしだし、起床時間が過ぎていることを知らせてきた。 嫌な汗がじんわりと滲み、恐怖で小刻みに身震いが起こっている。
私ではないだろう、まだ控訴中の筈なのだから。 そう自分に言い聞かせるが、靴音の近づきと共鳴するかのように心臓の高鳴りが激しくなる。
何人もの足音が近くまで来ている。 そう分かると、もう祈ることしかできず、頭を布団に擦り付け、神に許しを乞うのが精一杯だった。
目を瞑り、歯を食い縛り、自分の罪深さをひたすら謝り、独房の扉が開かれないことをひたすら願った。
どのくらいそうしていたのか、気がつくと音は消えていた。 代わりに何処からか話し声が聞こえてくる。 何を話してるか分からないが、二言、三言聞こえると、再び死神達は歩き出し、徐々に靴音は遠ざかっていった。
どうやら今回は私ではなかったらしい…
ハァーっと大きく安堵の息を吐くと、胸を撫で下ろした。 沢山の靴音が聞こえる度にこんな思いをすると思うと気が気じゃない…
なんとなくだが自分ではないと判っていても、怖いものは怖いし、第一良い気分ではない。
取り敢えず乱れた呼吸を整えようと、深呼吸を繰り返し、生きている実感を味わっていると、再び廊下から靴音が響き始めるのが分かった。
嫌な予感がする。 どうやら助かったと思うのも束の間だったようだ。
靴音は私の部屋の前に止まると、カチャカチャと鍵束をいじっている音に変わった。
嘘だろ… 全身から力が抜ける… もう言葉も出てこなかった。 何もできず、ただ扉を見つめることしか…
そして次の瞬間、扉がガチャリと音を立てて開き、流れ込むように刑務官達が入ってきた。
その姿を見た途端、呼吸は止まり感覚は全て失われ、死という文字が頭を覆い尽くすように、恐怖と絶望が私を支配していった。
ついにきたか… と覚悟したが… 「御迎えではありませんよ」と刑務官達の間から、一人の中年が顔を覗かせるとギラついた視線をこちらへ投げかけた。
白衣を着た白髪交じりのその男はそのまま私の枕元へ立つと、気味の悪い笑顔で見下ろしてくる。
「ご気分はいかがですか?」
嫌な男だ… 勿論拘束された状態では居心地の良いものではないことなど、言わなくても分かりそうなものだろう。
無言のままその男を睨みつけると、私は早く拘束具を外してくれと言わんばかりに手足をバタつかせた。
「そう怖い顔しないでくださいよ。 あなたは昨日、暴れて部屋の中を滅茶苦茶にしたんですよ。 ですからこうやって落ち着くまで拘束させてもらいました。
いかがです… 頭は冷えましたか?」
男はそう言うと、その場にしゃがみ込み、私の顔を覗き込んでくる。
姿からして、医師か医務関係の者だろう。 嫌な男だということに変わりはしないが、その格好に少し安心した私は昨日のことを少しづつ思い出しながら、口を開いた。
「暴れたのは覚えています。 部屋の中に沢山の人影が現れ、皆私のことを馬鹿にしてくるんです。 壁や天井から笑い声が聞こえ、部屋の中で木霊し、頭がおかしくなりそうでした」
不思議と羞恥心というものはなかった。
久しぶりに普通の人間と会話をしたかった気持ちや、相手の姿に安堵したというのもあるかもしれないが、まともなことを言っていないのは自分でもよく分かっていたにも関わらず、堰を切るように自然と言葉は出てきていた。
一通り話終えると、男は黙って大きく頷き、白衣のポケットから何かを取り出して枕元に置くと、すっくと立ち上がった。
「精神安定剤のような物です。 またおかしなものを見たり聞いたりした時、二錠ずつ飲んでください。
多分拘禁症状の一つでしょう。 幻覚や幻聴、妄想に囚われ、有りもしないものを感じるのはよくあることです。 そういう時は落ち着いて薬を飲んでください。 きっと良くなりますよ。 それに良くなってもらわないと困ります」
そう言うと意味あり気な笑みを浮かべ、私の顔を見下ろしてきた。
やはり嫌な野郎だな…
最後の言葉がまるで、良くなってもらわないと、死刑の執行ができないと言ってるようにも聞こえ、思わず見上げ睨みつけたが、男はそれを無視するかのように笑顔のまま返すと、二人の刑務官に指示し、拘束具を解かせ始めた。
「もう大丈夫でしょう。 十分落ち着いてるみたいだし、通常通りに戻しましょう。 もし次にまた何かやらかした場合は、その時に考えましょう」
そう言うと男はニッと白い歯を見せ、そそくさと独房から出た行った。
刑務官達も私の拘束具を外すと… 「もう暴れんじゃねえぞ。 分かったら早く朝の支度でもしろ」と捨て台詞を吐き、廊下へと消えて行った。
拘束具の跡を手で摩りながら身を起こすと、物が散乱されたままになってる部屋の掃除を始めた。
不快な思いをした所為か、どうも頭がもったりとする。 拘束の為かただの老体の為なのかわからないが、体もあちこちが痛い。 たかが掃除をするだけなのにこんなにも辛いとは思わなかった…
それに何とも具合が悪い。 気持ちが優れず、軽い吐き気がする。 体もダルい…
鬱にでもなってしまったのだろうか?…
こんな生活を虐げられ、次々におかしなことが起きれば、病気になっても不思議ではないか…
そう自分を納得させると手短かに掃除を終わらせた。
点呼・点検を受け、朝食を済ますと、重い体を引きずり机の前に腰を下ろした。一息つくとまだ読んでいない手紙があった筈と思いながら、棚に置いてある封筒に手を伸ばす…。
正直続きを読むのが怖かったが、頭の中は交換日記のことや漏れ子という言葉でいっぱいになり、早く続きを読まなければという、焦りにも似た感情に支配され、自分を止めることはできなくなっていた。
それに司島望が語った萩内余の人生も気になると言えば気になるのだ。
記憶に残っている駒岡里の生活はとても幸せなものだっただけに、とてもじゃないが、漏れ子だったとは考えにくい。 だが一つだけ不安も残っているのも確かだ。
それは司島が言った通り私が多重人格だった場合。 それならば説明できるところが多々あるのだ。 ボロを着て野菜の皮を貪ってる自分を別人だと信じ込んでいたならば、その記憶が薄っすらと残っているのにも納得ができる。
だが司島の姿が見えることが多重人格の条件を逸脱しているということも私を困惑させていた。
あくまで一つの体にいくつもの人格が現れるのが、多重人格の考え方だ。 その条件を彼の存在が崩しているのだ。 ということは私は多重人格ではないということになる。 そうなると、やはり私は漏れ子ではないのだ。
ではあの日記に書かれている、人物達は何者であり、何の為に私の前に姿をあらわすのだろうか? 益々解らなくなってくる…
やはり全て幻覚や幻聴、妄想などの拘禁症状なのではないだろうか?
拘置所の生活や意味不明の交換日記などの不安からくるただの虚空なのかもしれない、−と思えてしまうのだ。
そうなると、この交換日記は本当に誰が書いたものなのだろうか?… ということになる。
もしかすると誰かの嫌がれせで作られたのか?… そう… 私を陥れる為に。
もしそうだとしたら、一体誰がこんな手の込んだ物を作るというのだ?
娘の香という女か? イヤ… 本当に私に娘などいたのだろうか? そうなってくると熊谷までもが怪しく思える。
でもそれも違うような気もする… 熊谷が私を陥れる意味が判らない。
それにこの日記だけはなんとなくだが、正しいことが書かれてるような気がするのだ。 日記の中の萩内余の字は、私の書く字と似ている。 だがそうするとやはり私が漏れ子ということになってしまう。 やはり分からない… 本当に分からない。 どれが正しくて、どれが間違っているのかも…
錯乱していた。 何も分からずイライラした気持ちだけが募っていく。
頭を掻き毟り、冷たい机に何度も頭を打ち付けた。
全部思い出せれば楽なのに…
そう考えると自然と涙が溢れ、手に持った手紙が滲んでいった。
何故こんなことになってしまったのかが分からない… 記憶が失ってしまうと自分の言動を後悔することもできない。 それがこんなにも苦しいとは思いもしなかった。
溢れる涙を服の袖で拭い、落ち着かせるように一呼吸おくと、手紙に書かれてる文章に目をやった。
いつも通り、一枚目には熊谷からの言葉が綴られている。 だが今は彼からのメッセージをなんとなくだが読む気にはなれなかった。 それをそのまま机に置くと、交換日記の文面に視線を移した。
これが実際に私が書いたものなのか、誰かの嫌がらせなのかは判断できないが、どちらのしても読まないと私はこのまま何も思い出せず死ぬだけなのだ。 それに日記の内容を全部読めば、何か見えてくるものがあるかもしれない。
そう思い、私は書かれている文字を確かめるように読み進めた。
—萩内余の交換日記—
38
和孝君、どうして日記を書くことができるの? 家に監禁されてたんじゃなかったのかい?
萩内 余
|
監禁されてるのは余さんの方だよ。 自分の姿をよく見て、少し現実を受け入れなよ。 そして僕達を解放してくれよ。
それとも文月の儀式も僕に押し付けるつもりなの?
川久 和孝
|
みんなは何を言っているんだ? 余君は萩内家の大事な御子息じゃないか。 漏れ子は和孝君だろ。
森 猛
:
39
森君は余君を現実から離すため、理想の世界にいる彼を守るために現れたのだから、解らなくても仕方ないが。 このままでは誰も救われないのだよ。まだまだ和孝君の絶望が続くだけだ。 それに私達が振り回されるだけ。
加山 進一
|
最初から誰も救われねぇよ。 悪いのは余君じゃあねぇだろ。
森 猛
|
そんなことは分かっています。 悪いのはこんな世の中にした人間のおかしな考え方。 でもどうします? 余君が一人叫んだところで何も変わることはないですよ。
松金 楓
|
一層のこと死んだ方が余も楽になるし、我々も役目を終えることができるぞ。
司島 望
|
死んだら我々はどうなる?
森 猛
|
消えるだけだ。
司島 望
|
40
何もわからないよ… 僕は漏れ子じゃないんだ。
お前達こそ誰なんだ? 人を苛めるのがそんなに楽しいか?
僕は漏れ子の訳がないんだ。 母に愛されて育ったんだ。 その証拠に僕の為に作ってくれた母の詩がある。 木漏れ日の詩があるんだ。
萩内 余
|
そんな詩はない。 あるのは子漏れ火の詩。
加山 進一
|
子漏れ火って何だよ?
森 猛
|
子漏れ火とは、出産の痛み。 要らぬ子を産まされる時の悲痛な叫び。 そしてこれから訪れる地獄の日々への恨み。
加山 進一
|
明日は文月の儀式。 余君が罰を受けるのか、それともまた和孝君に任せるのか…
人道 光照
|
何回言えば分かってくれるんだよ…
僕は漏れ子じゃないんだ、僕は萩内家の人間。 家族が僕を守ってくれるし、母が詠ってくれた詩もあるんだ。 今度皆の前で詠ってあげるよ。
萩内 余
:
41
ずっと忘れていたと思う
今日の自分が誰であるかを
そんな毎日がうんざりで
僕は日々私を殺し続けたんだ
増殖していく 覚えのない傷口に
血の味を噛み締め
覚めねばよかったと嘆く
目を閉じれば終わりだと思っていた
しかし相対的世界の朝日は
また苛虐の始まりを告げている
加山 進一
|
変な詩を書くな。 僕は漏れ子じゃないんだ…
余
:
42
刻まれぬ時の定めに
産み落とされた命は
凍える母の鎖に繋がれ
情動が日毎剥がされていく
偏執の神託を理解できず
歪んだ軌跡を彷徨う今の僕は
目に映る全てが歪に見え
真実の憂いを潰していった
だから…
示してくれあの詩を
今夜詠ってほしいんだ
せめて
偽りの愛の中で生きるために
加山 進一
|
お願いだ。 もうやめてくれ
余
*
決して暑い訳ではないが、自然と体からは汗がじっとりと吹いていた。
書いた覚えのない交換日記が私に何とも言いようのない緊張感を与えていたのかもしれない。
汗で張り付いた手紙を手から剥がし、机に置くと、強張った体と気持ちを解す為、深呼吸を何回か繰り返した。
一体何が正しいのかなんて自分では分からないし、判断もつかない。
日記の萩内余は漏れ子として扱われ、それを否定している。 今の自分と一緒だった。
日記の中でも否定しているのなら、やはり私は漏れ子ではないような気がする。 もしそうならば、日記の中の人道や司島達によって、仕組まれたものではないのか? 何か私に恨みがあって集団で陥れようとしたのではないか?
ダメだ… 例えそうだとしても、現実に私の目の前に現れる司島や得体の知れない声や人影、そして記憶を失う理由が分からない。 それに本当に私が多重人格ならば、彼らは何の為に現れたのか? 書かれている内容を見ても、イマイチ分からない。 後半になってくると別人格達が主人格を責めている。 これはもう本当に理解不能だ。 私は私を殺したかったのだろうか?
合点のいく答えを見つけられないまま、モヤモヤした気持ちで考えを巡らせていると、天井のスピーカーから午前の休息の音楽が流れ、ハッと我に返った。
夢中になっていた。 忘れたことを思い出すというのはこんなに大変のことだとは思いもしなかった。 真実を知りたい… ただそれだけなのに忌避感と恐怖が湧き、過去を拒絶しようとする自分がいる。 そんなに記憶を取り戻すのは怖いものなのだろうか? それならば一層のこと全てを忘れて何もわからず死を迎えた方が楽だったのかもしれない。
そう思いながら、手紙を棚に戻しタオルで汗を拭くと、一息入れる為コーヒーカップに手を伸ばし、立ち上がった。
長時間座っていた所為か、痺れていうことをきかない足を摩り、報知器を押そうとした瞬間、食器口が勢いよく開かれ「受診」という声と共に二通の手紙が投げ込まれた。
食器口が閉められると、その風圧で手紙が飛び、机の下に滑り落ちる。
取り敢えず報知器を押すと麻痺した足を引きずり手紙を拾った。 一通目はいつもの通り、熊谷の名が記され、消印は三日前のものになっていた。 どうやら一番新しい彼からの手紙のようだ。
もう一通には井上陽子と記され、消印はない… それどころか切手も貼っておらず、検閲もされていないのか、封が切られていなかった。
どういうことだろうか? 怪訝に思いながら、書かれている文字を何度も確認する。
死刑囚に手紙や物を送ることができるのは、親族や弁護士などの一部の人間だけだ。 ということは、この人物も私の親族なのだろうか? 熊谷からは何も聞かされてはいないが…
首を傾げながら机に手紙を置くと、カップを食器口に置き、スティックコーヒーを入れた。 気分転換がしたかった。 ずっとモヤモヤした気持ちでいるど、何でも思考が悪い方向にいき、思い出すどころか気が狂ってしまいそうだ。
お湯を注いでもらうと、立ち上る香りを楽しみ、慣れない苦味を口に含んだ。
決して美味いとは思えないが、頭をスッキリさせるにはちょうど良いのかもしれない。
また机の前に戻り、軽く伸びをすると、座りながら熊谷からの手紙を開いた。
前半の彼のメッセージを飛ばし、日記の続きを探す。
別に彼の文章を読みたくなかった訳ではないが、とにかく日記の続きが気になったのだ。 順番からすると文月の儀式や、その後のことが綴られている筈…
儀式の後、母達が行方不明になったことしか覚えていない私には、記憶を辿る上で重要なことが記されているような気がするし、何があったか知りたいのだ。
私は気持ちを落ち着かせる為コーヒーを一口喉に流すと、日記の文章を確かめるように目で追った。
—萩内余の交換日記—
43
何てことをしてくれたんだ。 これで駒岡里もお終いだ。
人道
|
仕方なかったんだ、こうするしかなかった。 余君が死ねば我々は消えてしまう。
森 猛
|
一層のこと、死んでしまえばよかったんだよ。 そんなに消えるのが怖いか?
司島
|
これからどうするつもりだ? 誰がこの体を? 余ではもう無理だ。
加山
|
余には罪はありません。 悪いのは駒岡里の教え、駒岡里の人達。
松金
|
44
余さんが全部悪いんじゃないか。 苦しいよ、辛いよ。
でもまだ終わらないだ。 余さんが生きてる以上この苦痛は続くんだ。
和孝
|
駒岡里にいれば、いずれ殺される。 咲恵さんと御兄弟の遺体は私が預かろう。
特別な存在だからな。 それに村の奴等に見つかれば黙ってはいないだろう。
人道
|
まさか、余君があんなことを口にするとはな…
全てを知っていたんだ。 それを解ってた上でお母さんを愛していたし、愛してほしかったんだ。
森
|
洗脳が解かれれば、村は萩内家を許さないだろう。 まさか自分達が操られ、殺人を繰り返してたなんて誰も思わないだろう。
記憶のない殺人、しかも村人は誰も分からない。 まさに天罰にしか見えないだろうな。
加山
|
洗脳、催眠、偽りの神託、まやかしの宗教。 それでも村は縋るものがほしかったのかもしれません。
萩内家が滅んだ今、そのうち村人達も気付くんでしょうね、自分達の罪深さに。
松金
|
45
僕達はこれからどうなるの? 怖いよ…
和孝
|
だから死ねばいいんだよ。 それで全てが終わる。
司島
|
終わらせないよ、萩内余も宗教もね。
人道
|
漏れ子の宗教に誰がついてくる?
司島
|
何も駒岡里でやるとは言っていない。 咲恵さんの意思と余の夢は私が継ぐ。
人道
|
勝手にしろ。 でも余が出てきたら、俺が殺す。
司島
|
46
しかし罰を免れる為に、全てを村人達に打ち明けると言うとはな… 思いもしなかったよ。 まぁ… 話したところで洗脳されてる人達には理解できるかどうか分からなかったがな…
加山
|
あのままだと余君は殺されていた。 だから殺られるまえに殺ったんだ。 守る為だった。 でもこれは余の意思なんだ。
森
|
尚更ショックだろうな。 もう一生出てこれないかもな。 自分の身を守る為とはいえ、愛する母を…
俺は愉快だがな。
司島
|
もうこの日記は必要ないな。 元はといえば、余が自分を守る為、一人ではどうしようもなくなって我々の力を借りる為に書いた物。
だが結局は無理だった。 もしかしたら母の元から離れたくない気持ちがあったのかもな…
この日記は私が預かろう。 将来何かの役に立つかもしれない。
人道
*
明らかに動揺しているのがわかった。 手紙を持つ手が震え、心臓がバクバクと音を立てている。
母は… 母はどうなってしまったのだ? 冷静には考えられなかった。
ハッキリとは理解できないが、日記には何か恐ろしいことが書かれているというのは解る。 それが私がやったものなのか、それとも別の誰かがやったものなのかは知ることはできない… 私は何度も文章に目を走らせ、その答えを探した。
もしかして、全て私がやったことなのか? 何度読み返しても、そう考えるのが一番自然なような気がする。 でも… 納得できるわけがない、そんな訳がある筈がなかった。 母を愛していたのだから… 私が殺す筈がないのだ。
それに兄や姉はどうなってしまったのだ? 萩内家が滅んだ? これも全て私がやったというのか? そんなこと… そんなことできる訳がない…
しかもまやかしの宗教とはどういうことだ? 殺人を繰り返す? まるで意味が分からない。
萩内家は神の声を聞き、村に恵みを与え、悪人には天罰を下した。 駒岡里は母さんを中心に豊かな生活を送っていたんだ。
そんな萩内咲恵の神託が、宗教がまやかしのはずなどないだろう。
鼻息を荒くし、怒りで我を失っていた。 母さんは間違ってはいない。 私も殺人などしていない。
両の手で何ども机を叩き、怒りを打ち付ける。
受け入れ難い内容に頭は困惑していた。 体は恐怖で打ち震え、落ち着きなくゆさゆさと揺れている。
この日記はどこかおかしい… 全てデタラメだ…
そう自分に言い聞かせる他なかった。 それでなければ自分を保つことができそうもない。 心の何処かでこの日記は正しいとは思っているが、それを無理に搔き消し、自分を騙すしかなかった。 こんな誰が書いたかも分からない物の何を信じろというのだ? と…
無意識に手紙をグシャグシャに丸め壁へと投げつけていた。 もう何も考えたくはない。 全てを忘れ、自分の中に閉じこもりたかった。 何もかも嫌になってくる。
『また、そうやって現実から目をそむけるの?』
『また、新しい萩内余を作り、自分は逃げるつもりなのかい?』
『卑怯者、情けない男だ』
『死ねばいいんだ』
『くたばれ』
突然至るところから私を卑しめる声が響き、思わず耳を押さえ床に伏した。 凄まじいばかりの忌避感に襲われ、心の中で(やめてくれ)と叫び必死に抗う。
次々に聞こえる私を罵る声。 まるで頭に直接発せられるてるみたいで、耳を押さえても何の意味がないように思えた。
もしかしたらこれは私の心が叫んでいる声なのだろうか?
いや、違う筈だ… 私はまだ死にたくはない。 まだ死を望んではいない。 これは幻聴なのだ… 心の不安からくるただの幻聴… 全て精神的なものからきてる妄想なのだ。 そう無理矢理言い聞かせ、白衣の男からもらった薬に手を伸ばした。
これで声は消えるはずだ… 震える手で薬を口へ放ると壁を伝い歩き、洗面台の蛇口に直接口を付け、そのまま流し込んだ。
吐き気に襲われ戻しそうになるが、手で口を押さえ必死で耐える。 フゥー、フゥーと肩で息をし、畳んである布団へ身を倒した。
声は止まずに聞こえているが、意識が朦朧として何を言っているのか分からない。 兎に角苦しくて何も考えられなかった…
:
どのくらい時間が経ったのか分からないが、突然聞こえる「オイ、座ってろ」という怒号で我に帰り、辺りを見回した。
どうやら休息時間は疾っくに終わっていたらしく、食器口を開け、こちらを睨みつける刑務官の顔が目に入った。 薬のお蔭なのか声は止み、いつもと変わらない静かな独房へと戻っている。
私は布団から身を起こし「すみません」と刑務官に一礼すると、机の前に戻りまだ目を通していない熊谷からのメッセージが書かれた手紙を手に取った。
気持ちを落ち着かせるため、何度か体を伸ばし、ゆっくりと首を回してから手紙に視線を落とす。
相変わらず手紙には私の身を案ずる文面が続いていて、彼の人間味というものがひしひしと伝わってきていた。 だが突然その内容がガラリと変わり、思わず我が目を疑ってしまう… そこに書かれている内容はとてもじゃないが信じられるものではなかったのだ。
何も覚えてはいないが、手紙によると、どうやら二週間ほど前に熊谷が面会に訪れており、私と会っていることになっている。
そこで私自ら控訴を取り下げる相談をし、自分で取り下げる手続きをした… −というのだ。 そして何の問題無くそれは受理され、私の死刑が確定したと書かれている。
一体何がどうなっているのか意味が解らなかった。 私は自分を死に追いやり、何をしたいというのだろうか?
一瞬の内に目の前が真っ暗になり、ドックン… ドックン… と大きな音を立てて心臓が高鳴るのが伝わってくる。
あまりのことにそれ以上手紙を読み進めることはできなかった。 力を込め目を閉じ、歯を食い縛ると、記憶がないとはいえ自分の行動を悔やんでいた。 頭の中では色々な感情が渦巻き、混迷している。
自分で自分を殺すのになんの意味があるというのだ? それともただ単純に死にたいだけなのか?
喚き立てたい衝動を抑え、手紙を封筒に戻すと、自分の死ぬ時期を計算していた。
控訴を下げた場合、法律では死刑判決の二週間後に確定となり、半年以内に刑の執行が行なわれることとなる。
しかし熊谷も言っていたが、実際に死刑囚の殆どが何年も、中には何十年も生き、拘置所で生活している。 その理由は色々あるかもしれないが、法務省も慎重に審議しているということなのだろう。
だが時間はあまり残されていないというのは確かだ。 私の命はあと数十年なのか、数年なのか… 下手したら数ヶ月、数週間かもしれない…
そう考えると、一気に不安と死の恐怖が押し拉ぎ、吐き気を催した。 咄嗟に立ち上がり洗面台へ向かうと、勢いよく胃の中の物をぶちまける。
しかし殆ど胃液しか上がってこず、えずくだけで、苦しさだけが胸の辺りに残るだけだった。
どうにも気持ちが悪い。 何回かゲェー、ゲェーと胃液を吐いてはみたが、不快感は何も変わらなかった。
『どうだ? 死に一歩近ずいた気分は? 最高だろ?
お前がなかなか死ぬ覚悟を決めないから、俺が代わりに控訴を取り下げてやったんだよ。 これで死を実感できるだろう?』
苦しむ私の姿をまるで見ていたかのように、部屋全体に声が響き、直ぐに笑い声へと変わった。
一瞬身震いし(クソ… またか)と心の中で呟くと、 両耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んでひたすら湧き出す恐怖に耐える。
薬など最初から効いていなかったのかもしれない… ただ単に笑い声の主達が黙って私の行動を見ていただけなのだろう。 もしそうならば、なんて悪趣味な奴等だ… 最低のゲス野郎だ。
『そのゲス野郎は全部お前なんだぜ。 だから早く死んじまえよ。 一刻も早く死ぬべきなんだ。 いや生まれてこない方が皆喜んだかもな。 つまりお前は生きる価値がないんだ。 ゲス野郎が…』
その言葉にワナワナと体が震え出し、怒りにも似た感情が体の中を突き上げてくるのがわかった。 それをそのまま声の主にぶつけるように叫び声を吐き出すと、顔を上げ、辺りを睨みつけた。
「貴様等は一体何なんだ? 俺を殺すのが楽しいのか? 苦しむこの姿はそんなに愉快か?」
誰もいない独房に響く自分の声。 それに答えるように次々と人影が壁に現れると、耳を劈くばかりの笑い声を上げてきた。
『楽しいに決まっているだろう。 僕は何年も何年もお前の代わりに苦しい思いをしてきたんだ。
だから辛い記憶を僕に押し付け、逃げ回ってるだけのクソのようなお前が生きてるのが許せねぇんだよ』
震えは痙攣に変わり、私の感情は崩れていった。 恐怖で涙が溢れ、視界は歪んでぼやける。 それでもなんとか手探りで床を這いずり回り、机の前まで来ると、白衣の男からもらった薬を幾つも手の平に乗せた。
『お前は馬鹿か? 薬なんて意味ないって分かってんじゃねぇのか?』
聞こえてくる声を無視し、一気に薬を口へ入れ、そのまま飲み込むと、両手で自分の体を抱きしめ、身を縮めた。
「消えろ… お願いだ消えてくれ」
祈るように呟き続けるが、一向に声は止まず、頭の中で反響し、ドンドン辛くなってくる。
耐え切れるものではなかった。 うわ言のように消えろと連呼しながら、その辺にある物を無意識の内に人影に向かい投げつけていた。
すると直ぐに刑務官達が、部屋に雪崩れ込み、私を拘束すると、床に押さえつけ、腕に薬を打ってくる。 しかし、そのことさえも分からない私は、ひたすら消えろと叫び、最後まで抵抗して暴れていた。
完全に我を失っていたらしい… 目の前に並ぶ半分呆れた顔達が、首を横に振って憐れみの目で私を見つめている。
「昨日と今日で二日連続ですよ。 もう上に相談しましょう」
刑務官達の話し合う声… それがこの日覚えてる最後の記憶だった。
どうやら私はそのまま、最悪の気分のまま意識を失ったらしい…
全てを消し去りたいと思いながら…
:
玖、
いつ気が付いたのか、ハッキリとしない…
何日も拘束されたまま、ずっと人影や誰かの声に苛まれていたのを覚えている。
その度に叫び声を上げ、恐怖や辛さ、苦しさを刑務官達に訴えたが、誰もまともには取り合ってはくれなかった。 それどころか最近では声まで出ないように猿轡までされ、何一つできない状態にされている。 まさに地獄のような生活だった。
そして今、本当の地獄へと案内する靴音が、確実に近づいているのを感じている。 何かの間違いとも思った。 つい数日前に死刑が行なわれたばかりで、こんな短期間での刑の執行など聞いたことがない。
しかし、死神達の行進は止むことなく、私の神経を鋭敏にさせていった。 極度の緊張と不安。 恐怖で心は慄き、涙と鼻水は止め処なく流れている。 自分でないことをひたすら願い、声にならない叫び声を上げていた。
だが世の中は残酷なもので、救ってくれる神などいないという現実をこの日、この身をもって知らされた。
ゆっくりと部屋の扉が開かれると、数人のスーツ姿の男と刑務官が入ってきて、私のことを見下ろしてきた。
心臓が壊れそうなくらい高鳴り、夢なら覚めてくれと力一杯目を瞑りながら祈る。
私が一体何をしたのだというのだ? やったのは記憶のない時にこの体を操る誰かなのだ。 —と天に訴えていると、おもむろにスタスタと刑務官達が近づいてきて両側に立ち、私の体を起こしながら猿轡を外してきた。
「お迎えだ。 覚悟はできてるね…」
スーツ姿の男がそう言うと、暴れないように刑務官達に両脇をしっかりと抱えられ押さえ込まれる。 動こうにも拘束具で身動き一つ取れない状態なのに… だ。
それに覚悟などできてる訳がない。 僅か数年の記憶で、何も分からない内に犯罪を犯し、拘置所に入れられ、控訴を取り下げ、どう覚悟しろというのだ?
しかも、なんぼ控訴を取り下げたとはいえ、この執行の早さは異常ではないのか? 納得できる訳がない。
私はスーツ姿の男を顔を上げ睨みつけると、悪態を付くように言葉を吐いた。
「私は何も覚えてないし、何をやって此処に入れられたかも分からない。 それに早すぎだろう? こんなに連続で執行されれば世間は黙っていないだろう? この執行は無効だ。」
唯一自由に動く頭をブンブン振り回し、がなり立てたが、男達はまるで見世物小屋の客のように、私を好奇な眼差しで見つめ、薄ら笑いを浮かべている。
「いいえ、有効ですよ。 法務大臣の死刑執行命令書も出ています。 それにあなたのような重犯罪者が死んだところで、世間は何も言いませんよ。 むしろ、望む人が多いでしょう。
死刑期間も気にしないでください。 あなたの執行の発表を遅らせれば何も問題はない。 拘置所の内部で行なわれていることは、一般市民には何も分からないのですからね」
「ふざけるな。 誰か面会に来たらどうする? 弁護士の熊谷が来たら驚くし、このことが世間に知れ渡るぞ」
「大丈夫ですよ。 誰が面会に来ても、あなたが面会を拒否してると言えばいいだけです。 そして頃合いを見計らって刑を執行したと発表すればいいだけのこと、いくらでも調節はできます。 何も問題はありませんよ」
至って冷静に、淡々と返すスーツ姿の男達に気味悪さと、恐怖を覚えながら私は落胆した。
もう終わりだ… 絶望しか残っていないことを知らされ、全身から力が抜けていく。
「では行きましょうか…」
スーツ姿の男が首を扉の方に傾けると、私の拘束具が外され、引き摺られるように部屋から出された。
妙に体がフラフラしている。 拘束中、投与され続けた薬が原因なのか、それとも単に死が怖いのか、力が入らず足元もおぼつかない。 支えられてないと歩くこともままならない。
こんな状態で死刑を迎えるとは思いもよらなかった。 自然と嗚咽にも似た呻き声が口から漏れ、自分が泣いていることに気付かされる。
「オイオイ、大の男がめそめそ泣くなよ。 ようやくこの日が来たんだからよ。 手紙を書いた甲斐があったってなもんだぜ」
死神達の中に司島が現れ、ズルズルと連れて行かれる私を気味の悪い笑顔で見つめている。 その姿は他の者には見えないようで、皆何事も無いように歩き続けていた。
「手紙って何のことだ?」
司島の意味深長な言葉に返事を返した瞬間、死神達は一斉に私の顔を窺ってきたが、直ぐに視線を戻し、そのまま歩き続けた。
多分気が触れたか、拘禁症状だと思ったのだろう… 彼等からしたら、私が独り言を喋っているようにしか見えないのだから…
司島はそのまま気味の悪い笑顔を崩さぬまま、何かを確信しているかのように話始めた。
「前にいただろう… 喚き散らしながら、死刑を執行された奴が。 その日の翌日、ラジオで死刑執行のニュースが流れてな、法務大臣の名前と執行の経緯が放送されたんだ 」
「何が言いたいんだ?」
「大臣の名前がさ、雪道亮平っていうんだぜ。 聞き覚えがあるだろ?」
「…雪道って… もしかして駒岡里の村長か?」
「ピンポーン」
両脇を抱えている刑務官の動きが急に止まり、顔を上げると、いつの間にかエレベーターの前まで来ていた。
執行室は地下にあると聞いたことがある。 恐らくこれで行くのだろう… しかし本当に私はこれで死んでしまうのだろうか? 未だに実感が湧かない。 覚えの無い罪で殺されるなんて、誰が信じられるだろうか…
「雪道なんて珍しい苗字だろ? それでお前が買っておいた便箋と封筒を使って熊谷に手紙を書いたんだ。 大臣の出身地を調べてくれって。
そしたらさ、熊谷はやってくれたよ。 しっかり大臣さんは駒岡里出身だってことを調べてくれたんだよ」
人の気持ちを知ってか知らずか、司島は終始ニヤついた顔で楽しそうに話を続けている。 その姿に怒りを覚えるが、それを行動に移す力などもう今の私には残ってはいなかった。 ただ司島の言うことを、頭の中で整理し、そういえば熊谷に出身の件についてはもう少し待ってくださいと言われたことがあったなぁとぼんやり思い出していた。
「雪道亮平はお前が駒岡里にいた頃の村長、雪道金吉の孫だということがわかったんだ。 それで更に熊谷に頼み、大臣さん宛に匿名で手紙を書いてもらったんだよ」
司島が何が言いたいのか、イマイチ理解できないが、彼は自分の起こした行動に絶対の自信を持っているようだ。 鼻の穴を広げ、得意満面にこちらの表情を窺っている。
人がこれから死ぬというのに、よくこんな態度ができるものだ。 正直神経を疑ってしまう。
エレベーターの扉が開き、中へ連れ込まれると、冷んやりとした空間が広がり、私の心を切迫させた。 この下に処刑場があると思うと、もう自分では怖くて動けそうもない。 抱えられてないと、立つこともできなくなっていそうだ。
そんな私の姿を楽しそうに眺めながら、司島は話を続けていた。
「手紙にはこう書いてもらったんだ。
萩内余は今、記憶を失い、辛い拘禁生活を送っています。
犯行を覚えていない死刑囚の執行を辞めてください… —と。
あと、こうも書いてもらった。
彼は十五歳までの記憶は残っています。 駒岡里の生活はとても酷いものでした。
村の人達にも大変恨みを持っています。
もう一度しっかりと精神鑑定を行い、刑の執行を辞めさせるようにしてください。 そうすれば彼の恨みも消えるでしょう。
駒岡里の秘密も忘れるでしょう… ——とね。
何の反省もしない死刑囚の刑執行を反対している熊谷を利用するのは簡単なことだったよ」
「駒岡里の秘密って何だ?」
エレベーターはゆっくりと下降していく。 数十分後には命がないと思うと、恐怖で身が縮む。 死ぬときはやはり苦しいのだろうか?
死に慄く姿が余程愉快なのか、司島は言葉の合間に小さな笑いを漏らしながら私の苦しむ顔を満足気に見つめ、話を進めた。
「お前の母ちゃんのことだよ。
記憶に残っていると思うが、駒岡里は萩内咲恵を中心にまわっていた。
儀式を行い、神託を受け、そして村人達が動く。 だが全部まやかしだ。
実際には催眠術をかけ、人を騙し、天罰と言って、事故に見せかけ人を殺してきた。
例え、催眠に掛かり騙され、記憶がないとはいえ、殺人を繰り返していたのは当時の村人達だ。 村長だからと言って例外ではない」
「ふざけるな。 催眠術なんかで人殺しなんかできる訳がないだろう」
地下二階の階級表示が点灯すると、エレベーターが止まり扉が開いた。 目の前には長い廊下が続き、何人もの刑務官が両端に並んでいる。
死刑囚を逃さないためか、暴れるのを阻止するためかわからないが、通路には物々しい雰囲気が張り詰めていた。
そこを引き摺られるように進んでいくと、奥の部屋から線香の匂いが漂ってくる。 あそこが執行室なのだろう… 嫌でもその部屋に視線がいってしまう。
もうダメなのだろうか… そう考えると自然と優しかった母の姿が脳裏に浮かんだ。 私が唯一幸せを感じることができる至福の思い出。
「お前の母ちゃんはただの犯罪者だ」
司島は不気味な顔を覗き込ませ、想いに馳せる私を信じられない言葉をぶつけてくる。
いちいち勘に障る男だ。 催眠術で何ができるというのだ? もう直ぐ死ぬ人間に対してこれ以上罵ることに何の意味がある?
そう思いながら睨みつけると、司島は私の心を見透かすように話を続けてきた。
「普通の催眠術ではないんだよ。 萩内咲恵は後催眠暗示と健忘催眠を巧みに使い、村人達を自由に操ったんだ。
そしてその催眠を完璧なものにするためには、何度も暗示に掛ける必要があった。 だから宗教を利用し、人を集め、儀式といって何度も催眠をかけては村を操っていったんだ。
人は直ぐに集まったよ。 最初に幻覚を見せ、神秘的な体験をさせれば簡単に神の存在を信じてしまう。 当時の人間なんてそんなものだ。
幻覚を見せるのも難しいもんじゃない、まわりの山には自然の大麻が群生してるし、知識があればその辺の草やキノコからも幻覚剤を作れる。
ある意味お前の母ちゃんは天才だったかもな。 普通の人間には思いもしないことだ 」
「後催眠暗示と健忘暗示ってなんなんだよ?」
歩を進める度、線香の匂いが段々強くなり、鼻の奥を刺激する。 奥の部屋からはぼんやりと明かりが漏れ、それがこの世の最後に見る光だと感じさせた。
僅か十五年の記憶… それが走馬灯のように頭の中を巡っている。
「いちいち説明してたら言い終える前に、多分お前はあの世に逝ってるよ」
司島は汚い顔をボリボリと掻き、鼻の穴に指を突っ込むと、グリグリとその指を回した。 これから人が死ぬというのに、本当此奴の態度は一体何なんだろうか? 怒りを通り越して呆れてしまう。
「簡単に言うとだな、何重にも催眠暗示を掛け、その催眠で行ってしまった行動や、暗示を掛けられたことさえ忘れさせるんだ。
でも記憶がないだけで、催眠には掛かっているから、言われた通りの行動をとったり、記憶を植え付けられる。
それを利用し、天罰だと言って村人達に事故や自殺に見せかけ、人殺しをさせた。 他の村人達には、犯行時刻に殺人者と一緒にいたという暗示をかけ、アリバイを作り上げた。
勿論失敗のことを考え、殺人を行う者には毒物を渡し、何かあった場合にはその場で自殺する暗示をかけておく。
動機もない殺人者達。 何も記憶がなく、操られてることさえ気付かない。
知らない人から見たら、天罰にしか見えなかったのかもしれないな…
噂を聞き遠方からも沢山の人がやってきたよ。 恨み、辛み、憎しみ、ただ単に邪魔だから天罰で消してくれっていう依頼もあった。 そういうのを法外な金品で受けていたんだ。
これがお前の母ちゃんの実体だよ」
「ふざけるな。 犯罪行為は暗示に掛かっても本能が拒絶するから、無理だ。
母は立派な宗教家だ。 そんなちんけなイカサマ師ではない。
唯一残ってる母の姿まで壊すつもりなのか? 私が死ぬだけでは貴様は満足できないのか? そんなに絶望する姿が愉快なのか?」
扉が開き、終焉の間へと通されると、煌々と照らされた室内に一瞬目が眩んだ。 その光があの世への道標になりそうで、妙に神々しく感じられる。
ゆっくりと目を見開くと、表面には大きな仏壇があり、その手前には教誨師と思わしき人物がお経のようなものを唱えているのに気がついた。
香が強く焚かれ、むせ返りそうになりながらも、首だけを左右に回し、その異常な光景に一瞬我が目を疑う。
「あなたへのお供えです。 どうぞ…」
いつの間にかそばに寄っていた教誨師が指し示す物。 それは死者への手向けであり、その横には私の名が刻まれた遺影が置かれている。
到底手を付ける気分にはなれず、私は無言で首を横に振ると「そうですか…」と言って軽く会釈し教誨師はまた先程の位置に戻り、お経の続きを唱え始めた。
気持ちが悪い… 素直にそう思った。 自分の遺影と供えものを生きてるうちに見るなんて、ハッキリ言ってゾッとするし、気分の良いものではない。 死ぬ前にこんな物を食べた者が今までいたのであろうか?
そんなどうでもいいことを考えながら、自分の遺影を見つめていると、視線を遮るように司島が私の前に仁王立ちした。
「どうだよ? 生きてるうちに、自分の遺影を見る気分は? 」
「うるさい、黙れ」
思わず不快な気分を司島にぶつけると、彼は楽しそうに言葉を返してきた。
「そう、そう、何で暗示で人が殺せたか、冥土の土産に教えてやるよ」
そう言って仏壇の横にある、ソファーに深く腰を下ろすと、ニヤついた顔で辺りを見回し、まるで独り言でも喋るように語り始めた。
「例えばだ。 Aさん(殺人者にしたい人)にBさん(殺したい人)から命を狙われていて、殺さないと殺されてしまうという暗示をかけるんだ。
そうしたらAさんがBさんに殺されると思い込み、自分を守る為、本能は拒絶するどころか、殺せと命令を出すんだ。 防衛本能ってやつだよ。
自殺もそう… 犯行が発覚し捕まれば、一生拷問を受け、死ぬよりも辛い人生が待っているという暗示をかける。 そうすれば死んだ方がマシと思い込み、自ら毒物を飲んでしまう。 これがお前の母ちゃんの宗教の実体、駒岡里の神託の正体であり、秘密だよ」
「嘘… ダ…」
天を仰ぎ、これから始まる地獄への旅立ちと、信じられぬ母の姿に、絶望の雫が溢れ、頬を伝い床へと落ちる。
そんな訳がない… そんな訳がないだろう… 司島の言葉を認めることができない心が、必死で抵抗していた。 張り裂けそうな胸の内を母への愛で無理矢理抑えつけようとしている。
信じるわけにはいかなかった。 今まで私は母への愛だけで、理想の母親像を胸に抱き生きてきたのだから…
「そうだ、話を戻そう。 何故、お前がこんなにも早く死刑が執行されたかだ」
絶望に打ちひしがれる私を無視するように、司島は右手の人差し指を立て、自分に酔うように話を続けた。
「手紙を受け取った大臣さんはこう考えるはずだ。
萩内余を生かしていれば、駒岡里の秘密がいずれバレる。とね…
騙されてたとはいえ、殺人教を熱心に信仰し、殺しを繰り返してきた者達が、近親者にいるということが知れたら、世間はどう見るかな?
普通は黙っていないだろう… マスコミには格好の的にされ、人生が狂ってしまうだろうな。 せっかく大臣にまでなったんだ。 その肩書きを失いたくはないだろう。
幸い、死刑に携わっているし、決定権も自分にある。
何としても萩内余の死刑執行を早めよう。 と思うんじゃないのかな…
重犯罪者が一人死んだところで、世間は何も思わないし、合法的に殺すことができるんだ、この手を使わないわけはないだろう。
しかしこんなに早く執行されるとは俺も思わなかったよ。 大臣さんはよっぽど焦ったのかねぇ…」
「きさ… ま… そんなに私を殺したいのか?」
「当たり前だろう、俺はその為に生まれてきたのだから」
「どういうことだ? 貴様は何者なのだ? 私の人格の一つだとでも言いたいのか?」
「俺は違うよ。 お前の体を借りることはできるが、人格の一人ではない。 だからお前の前にこうやって現れることができるだろ」
先程とは裏腹に面倒臭そうな顔を見せると、頭をボリボリと掻き始めた。 きっと興味の無い話なのだろう…
しかし、司島が私の別人格ではないとしたのなら、此奴は一体何者だというのだ? どう考えても当てはまるそれらしい答えなど見つけることはできない。
「では貴様はなんなのだ?」
「俺はお前の唯一のお友達だよ」
人のことをまるで馬鹿にするかのような答えに、苛立ちを覚える。
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいねぇよ。
お前はいつも母ちゃんの期待に応えることのできないダメ息子だって、嘆いていたじゃねぇか。
何もできない僕なんて死んだ方がマシ、死にたい死にたいって一人で喚いてたから、死ぬ手助けをする為にお友達として現れてやったんだよ。
それなのにお前は死ぬことができなかった。 何回もアイデアを出してやったのにだ、情けない野郎だよ。
そうしたら今度は死ぬことが怖くなっちまった。
だから和孝達を作り出し、全て辛いことはそいつらに押し付け、自分は現実から目を背けるようにして生きるしかなかった」
「そんなこと知らない。 私は何も覚えてはいない」
「忘れんのは勝手だけどよ、自分の人生くらい自分で全うしろよ、本当情けねぇ」
「そんなもん知るもんか。 結局貴様は何なんだ?」
「俺はお友達。 IFって呼ばれてるんじゃなかったかな?。 イマジナリーナンチャラってやつだよ」
「イマジナリーフレンド? ふざけるな。 私はいい大人だ… それにイマジナリーフレンドと多重人格を同時にもてる人間はいない」
「それはそっちの勝手な思い込みだろ? 現に俺がこうやって出てきているし、大人にだってIF保持者はいる。 ただIFと多重人格を両方持ってる奴の報告がないだけだ。
確かIF保持者が多重人格を持った場合、IFは一つの人格として、いくつもある人格の一つとして現れる、だったか? 」
スーツ姿の男が呆れ顔で、いきなり私の前に現れると、死刑執行指揮所なる書類を読み上げ、死刑執行を言い渡してきたが、その内容はもう私の頭の中には入ってこなかった。
司島の言いことを信用した訳ではないが、理にかなった答えが更に私の心を不安にさせていたのだ。
IFに多重人格、それならば私が何故記憶を失ったか、それに何故司島達が歳をとらないかが説明がついてしまう。 あと交換日記の内容もだ。
しかしだ… それだけは認める訳にはいかなかった… 優しい母の姿を崩したくない… それに私の為に詠ってくれた詩の説明がつかないではないか…
誕生を祝い、母の愛が詰め込まれた詩。 これの説明はどうやってするというのだ? そんな漏れ子として育った私にそんな愛情がこもった詩を詠う母などいないだろう。
「かなり錯乱しているようですね? 先程から誰とお話をしてらっしゃるのやら。 自分の死が迫っているのですから無理もないですかね?
取り敢えず書けるのであればこれを書いてください」
目の前に立っているスーツ姿の男がそう言うと、私に一枚の紙とペンを渡してきた。
「あなたの遺書になります。 亡くなったあと、責任を持って親族にお渡ししますよ」
熊谷や娘に一言、ありがとうございましたと伝えたかったが、手は震えペンを持つことさえできなくなっていた… 誰かに書いてもらおうと言葉で伝えようともするが、思い通りに口が動かせず喋ることさえできない。 それだけ恐怖で体がいうことが効かないのだ。
だがそのこと以上に頭の中は、母が殺人教を作ったことが信じられず、混乱していた。
あんなに優しかった母がそんな宗教を作るなんて認めたくない気持ちに支配され、何度も心の中で嘘だと言ってくれ母さん… ——と祈るように叫び声を上げ続けていた。
だがそんな思いを踏みにじるかのように司島が私の頭の中に入ってくる。
「本当だよ、お前の母ちゃんは、ただの殺人者だ」
(貴様には聞いてない)
ソファーの上でまるであざ笑うかのような顔を作り、私の心を読む司島に対しこの上ない怒りを覚える。 それを言葉にしてぶつけたいのだが、掠れた声しか出せず、悔しさだけが募っていった。
「何も残すことはないのですね? ではそろそろ始めますか」
スーツの男達がそう言うと、私の着ている服をおもむろに脱がし始め、代わりに白装束に腕を通させてくる。
遂に私は死ぬようだ…
男達は手慣れているのか無言でテキパキと動き、アッと言う間に、顔は白い布で目隠しをされ、後手に手錠が嵌められた。
ハッキリいってされるがままだった。 もう動く力も気力も残っていない。 数分後に迫る来る死に対して、頭の中は真っ白になっていた。
引き摺られ隣にある処刑場に連れてこられると無理矢理立たされ、膝下にも縄が巻かれた。 これでほぼ身動きが取れない状態だ。
「やっとこの時がきたな。 ようやく我々の役目を終わらすことができるし、お前の母ちゃんもさぞ喜んでくれるだろうよ」
(そんな訳がないだろう。 母は私を愛していたんだ)
最後の最後まで罵る声が聞こえ、私はひたすら抵抗した。
貴様さえいなければ、私はまだ生きてられたのだ。 僅か十五年の記憶で死ぬのは嫌なんだ。 私の六十年を返してくれ、——と。
「それは俺に言わないで人道に言ってくれよ。 でも結局の原因は全部自分にあるんだぜ。
それも冥土の土産についでに教えてやるよ。 何故お前が六十年も記憶を失っていたか」
部屋の中には香が充満し、冷たい空気が流れている。 見ることはできないが、きっと無機質な空間が広がり、足元には地獄の門があるのだろう。
そんな絶望的な状況に司島は、ひたすら気味の悪い声を上げ、悦に入るように話しを続けていた。
「お前は文月の儀式の時、母ちゃんや兄弟達を殺し、自分でやったことに耐えられなくなって、自分の中に閉じこもった。 まぁ、正確には森猛がお前を守る為に殺したんだけどな。 でもお前の意思でもあった。
それで代わりに出てきたのが人道だ。 奴は駒岡里を離れ、お前や母ちゃんの意思を継ぎ宗教を開いた。
だが、継いだのは意思だけだ、やり方も催眠術も分からなかったんだ。
あくまで人道はお前を通して宗教を見てたからな、母ちゃんの催眠を信じたくなかったお前からは、そのやり方を知ることができなかったんだ。 なんて言ったって、人道はお前の理想の姿だったからな。 催眠を認めたくなかったんだろう。
そこで奴なりの宗教を作っていったんだ。 皮肉にも人を騙しても幸せを掴めという母ちゃんの意思をついでな。
でも六十年後あっさりと捕まっちまった。 それでも裁判とかは頑張ってやってたみたいだな。
だが死刑判決が下された時、耐えられなくなりお前に体を返したんだ。 ウケるだろ?
それからは誰もお前の体を奪う者はいなくなったよ。 皆死ぬ苦しみを味わいたくないんだろうな。
それでもお前が自分の中に閉じ籠った時は、俺が代わりに使わせてもらったよ、早く死を迎える為にな。 あとコーヒーってやつも飲みたかったしな。 どうだ、面白かったか?」
笑える訳がない。 母や兄達を殺したなんて… 何も覚えてはいない。
だから何も信じられる訳がない。 貴様は… 貴様は何を言っているのだ?… 理解などできる訳がないだろう。
両脇の刑務官が離れていく感覚があり、頭の上で何かを動かす音が聞こえる。 多分首に掛ける縄か何かだろう… これで足元の扉が開けば全てが終わる。 これで本当の終わり…
そう思った瞬間、生への執着と死の恐怖に駆られ、その場に倒れこんでしまった。 すると直ぐ近くで司島の笑い声が響き、バンバンと床を叩く音が聞こえる。
「ほれ、頑張れ。 最後くらいおとなしく死ね。 いつまでそうやって逃げるつもりだ? もう誰もお前の代わりはしてくれないぞ。
お前がしっかり死ぬことを皆待ち望んでんだからよ。 特にテメェの母ちゃんがな」
「デタラメ… なことを… いうな。 私が漏れ子… ならば… 何故… もっと早く… 殺さなかった?…」
最後の力を振り絞り、自分の理想像を崩さないため、掠れ声で途切れ途切れに質問を投げかけた。
「そんなもん知らねーよ。 あの世に行ったら直接母ちゃんに聞いてみるんだな」
司島でさえ知らない理由。 それは母さんだけが知ることなのだろう…
もし私が本当に漏れ子だったならば何故生かしてくれたのか… ただ漏れ子は一生その一族に仕える身… それが仕来り。 私はそんな理由で生かされたとでも言うのだろうか?
力強い腕達が私を引っ張り立たせ、首には縄が掛けられる。
遠くからは教誨師のお経が聞こえ、いよいよ旅立ちの時だということを知らせてきた。
首にはザラついた縄の感触があり、ガクガクと体を震えさせる。
とても短い一生だったように思える。 こんな死に方で終わりを迎えるとは思いもしなかった。
駒岡里の豊かな生活と優しい母の記憶。 私の人生にはこれしか残っていない。
せめて母が詠ってくれた詩に抱かれて最後を迎えたい。 誕生を祝い詠ってくれた木漏れ日の詩。 その姿に思いを馳せ、心の中でひたすら詠い続けた。
:
さぁ 覚めて 私の愛おしい子
貴方は木漏れ日に照らされて生まれてきたわ
とても嬉々たることで 全てを変えてくれたの
さぁ 光華が降り注ぎ アヤメが咲き乱れる地に
身を委ねて ゆっくりと生きなさい
月が満ちるように
あの日 切望の産声にこの身は震えたわ
笑顔が嬉しくて涙が出たの
木漏れ日に包まれる美しい日々が
私の鎖を解かしていく
心の中に深く沈む愛情
その姿を見るだけで狂喜に思えるの
さぁ 覚めて
臆病な私を消してほしい
貴方の愛しさで…
:
涙が止まらない… 母が詠ってくれたこの詩を抱き、あの世へと逝く時がきたようだ。 きっとあの世で待っていてくれるだろう。 最高の笑顔で…
すると何の合図もなく地獄の門が開き、重力が私の体を落下させた。
「お前の母ちゃんは待っていてくれねぇよ。 その詩はお前の母ちゃんが詠った詩じゃねぇからな。
本当の詩はお前への恨みの詩。 子漏れ火の詩だ。
それを信じたくなくて、自分で変えたんだよ。
わざわざ加山進一という詩人を作り、自分の納得のいくようにな。
俺が代わりに詠ってやるよ。 本当の子漏れ火の詩をな…」
数メートル下に落ち、首に巻かれた縄が一気に頭を持ち上げ、同時に締め上げると、ゲェーという自分の声が一瞬、暗闇に響き渡った。 それと同時に意識が朦朧とし、ガクンッと体が飛び跳ねた。
これで全てが終わった…
もう何も見えず、何も聞こえず、感覚も残ってはいない、五感は全て失われたと思っていた。
だが残酷な世界は私を最後まで苦しめてきた。 ハッキリと全てを思い出す、絶望の母の詩が、現世と常世の間でずっと響き渡るように…。
:
さぁ 冷めて 私の疎惜しい子
貴方は子漏れ火に照らされて生まれてきたわ
とても危機たることで全てを変えてくれたの
さぁ 業火が降り注ぎ 殺めが裂き乱れる血に
身を委ねて ゆっくりと逝きなさい
憑きが尽きるようにね
あの日 絶望の産声にこの身は震えたわ
笑顔が恨めしくて涙が出たの
子漏れ火に包まれる鬱苦しい日々が
私の腐りを毒していく
心の中に深く歪む哀情
その姿を見るだけで狂気に思えるの
さぁ 冷めて
臆病な私を消してほしい
貴方の疎惜しさで…
:
そう… 母は私をいつも恨んでいた。 私は漏れ子。
駒岡里の呪いであり、母の汚点。 完璧主義者である母の唯一の汚点。
古い仕来りを大事にする母には私を殺すことは無理だった。 だから呪いの詩を詠い、蔑み、罵倒し、私に自殺するように促したのだ。
私が生まれたことにより、駒岡里では漏れ子の母として生きなければならなかった。 周りからは相手にされず、せっかく作った宗教にも、誰も寄り付かなくなっていた。 それが辛かったのだ。
だからまやかしの宗教を作り、神の使いとして村そのものを操った。 そうすれば誰も母を蔑む者はいなくなる、それどころか神の使いとして崇められた。
これで全て解ったよ。
僕は生まれてきてはいけなかったんだ。 僕が全て悪いんだろ? 僕が生まれてこなければ、母さんは普通の宗教家として、駒岡里で幸せな人生を送れた。
全てを狂わせたのは僕なんだ。 そうだろ? 母さん…
でもお願いだ… 一度でいい… 一度だけでいい… 地獄で僕を抱きしめてほしいんだ。 笑顔が見てみたいんだ。
僕も母さんの息子なんだよ… 一度でいいんだ、お願いだ、力一杯抱きしめてほしい…
なぁ… 一度くらい、いいだろ? 母さん…
:
拾、
—井上陽子の手紙—
夜明けさえ 絶望に変わる狂気の淵で
揺れる子漏れ火は美しく
ぬくもりさえ 現実と妄想の狭間で求め
届かぬ木漏れ日に打ち拉ぐ
聞こえてくる咽びの詩に
歓喜と復讐の念を込め
残された虚ろと苦悩の
長い長い夢の終焉を願う
奸邪の切なる涙が朽ちるまで
時の果てに胸懐を巡らせ
私は詠う
:
苦狂日記 木漏れ日の詩 終
そして… 咽びへと続く
作者退会会員
お久しぶりです。 かなり時間が空いてしまいましたが、一応 苦狂日記 滅びの詩の続きになります。
相変わらず酷い文章と、恐ろしいまでの長文ですので、暇を持て余してる時になど読んでもらえたら幸いです。
ちなみに、久しぶりに投稿するので改行などがわかりません(笑)
申し訳ありませんが、表示を切り替えなどして読んでみてください。 お願いします。