その日、美子は珍しく店を閉めて鏡の前に立っていた。
彼女は唇に紅を引きながら、鏡台の上に乗せた葉書をちらりと見た。
『同窓会のお知らせ』
葉書に印刷された文字をなぞって、彼女は微笑んだ。
「10年ぶり…ね。みんな元気かしら?」
いつもちょっかいをかけてきた幼稚な男子や、休み時間にお喋りをした女友達。沢山の旧友の顔が目に浮かんだ。
いつもより少しめかしこんだ美子は、うきうきした気分で鏡の前を離れた。
ー
「あらぁ、久し振り!」
会場に着くと、早速派手に着飾った女性に呼び止められた。
「美子でしょ?まぁー、綺麗になっちゃって。」
「え?えーと…。」
いきなりの事で戸惑いを隠せずにいると、女性は笑って美子の肩を叩いた。
「もしかして私の事忘れちゃった?酷いわぁ。」
「え、そういう訳じゃ…。」
「ふふ、冗談よ。ちょっと化粧濃くし過ぎちゃったかしら?ほら、『3組のかしまし娘』の…。」
ああ、と美子は手を打った。
「もしかして…万智子?」
彼女…万智子は嬉しそうに手を叩いた。
「そうそう!良かったー、ほんとに忘れられてたらどうしようかと思ったわぁ。」
「やだー、久し振り!」
女性特有の性質か、一度盛り上がるとその場はどんどん騒がしくなっていく。
「あら、あなた昌枝?変わってないわぁ!」
「三枝子!久し振りー!」
女性達が集まり、美子がどこにいるかも分からないと思いきや、彼女はその中で一際落ち着いた美しさを誇っていたため逆に目立っていた。
「久し振り、美子。」
「あっ、椿ちゃん!本当、久し振りねぇ…。」
高橋椿。高校時代の美子の友人で、中々もてていたのを美子は記憶している。
「元気だった?…あら!」
美子は椿の華やかなネイルアートの施された左手薬指に光る石を見つけて、微笑んだ。
「もう旦那様がいらっしゃるのね。羨ましいわ。」
椿は少し自慢げに笑った。
「まあまあの二枚目なのよ。私が言うのも何だけど…。そういう美子はまだなの?」
美子の脳裏を木菟の顔が過る。
「…ええ、中々ご縁がなくて。」
「気を付けなさいよ、うかうかしてると婚期なんてすぐ過ぎちゃうんだから。」
「ええ、分かってはいるんだけど…。」
いつかやった水鏡の占いでは、未来の伴侶は木菟だという。しかしそれがいつになるのやら、彼女には皆目分からなかった。
「…あ、美子。あれ見てよ。」
椿に袖を引っ張られ、彼女の指さす方を見ると、そこには一人の男性がグラスを持って談笑していた。
「あれって…。」
「白石君よ。野球部のエースで、モテモテだったじゃない。」
覚えている。彫りの深い顔立ちの、その頃流行っていたアイドルを彷彿とさせる佇まい。
そして、一度交際を申し込まれた事も。
告白された事は誰にも言わなかった。高校のうちから男女交際をするのはどうかと考えていた美子は、白石の申し出を断っていたからだ。それに、多少ナルシスト気味の彼の事は正直あまり好みではなかった。
しかし、誰もが憧れる白石を振ったと聞けば、当然それを快く思わない者も出るだろう。学生の自分はそれが嫌だったのだ。
「…あ、飲み物切れちゃったでしょ。注ぎにいきましょうよ。」
美子はそんな苦い思い出を振り払おうと、努めて笑顔を繕った。
ー
会もお開きになり、個人的に飲みに行こうという友人達の誘いをやんわりと断った美子は手洗い場で身繕いをしていた。
白のハンカチーフで手を拭いながら外に出ると、背後から何者かに呼び止められた。
振り向いて、どきりとした。
「白石君…。」
「覚えててくれたんだ。」
白石は学生時代と変わらない爽やかな顔で笑った。
「会の最中も君の事探してたんだけどな。」
「あら…。ごめんなさい。」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。」
「…。」
美子は何となく気まずさを感じ、黙っていた。
「緊張してるの?」
「え?」
「僕と二人きりで、さ。」
美子は思わず吹き出した。
「やだ…。酔ってるの?」
「いいや。本気さ。」
白石は美子の手を取った。
「冬堂さん、まだ気持ちは変わらないかい?」
「何の事?」
「学生時代の話。僕は君の事、まだ諦めてないんだ。」
美子は思わず彼の手を振り払った。
「え、あの…。ごめんなさい、私はやっぱりそういうつもりはないから…。」
さよなら、と彼女は踵を返し、早足でその場から歩き去った。
ー
同窓会から数日後の日曜日、店には木菟と経凛々が揃って来ていた。
「経凛々さん、前髪を下ろしたのねぇ。」
経凛々は微笑した。
「イメージチェンジです。似合いますか?」
「ええ、とっても。」
美子は微笑み、二人にココアを出した。
「そろそろホットココアでは暑い気節になってきましたねぇ。」
ココアを一口飲んだ木菟が呟く。
「アイスになさる?」
「いえ、結構。美子さんのココアはホットでないと。」
「こだわりがあるんですのね。」
彼が 自分のココアにこだわりを持ってくれているのが嬉しくて、美子は少し頬を赤らめた。
「そうだわ、新しいメニューの試作品があるんですの。試してくださる?」
「ええ、勿論ですとも。」
二人が頷くのを見ると、美子は軽く礼をして店の奥に引っ込んだ。
オーブンレンジで40分程焼いた、プディングのようなフランスの伝統菓子だ。
丁寧に切り分けていると、前方から視線を感じた。
木菟か経凛々が入ってきたのか?
そう思った美子は、顔を上げずに声をかけた。
「もう少しお待ちになって、すぐ盛り付けますから…。」
しかし、気配が去る様子はない。
不審に思い、顔を上げた彼女は息を呑んだ。
そこにいたのは、般若の面を被った白装束の人物。台所という場所との取り合わせが、妙な雰囲気を醸し出している。
「な…何なの?」
般若の面の人物は、片手を振り上げた。
その手に握られているのは、大きな鉈だ。
「やっ、た、助けて…!」
必死で助けを呼ぶが、残酷にも彼女の声は店内には届かないようだ。
鉈が降り下ろされる。
美子はそのまま、気を失った。
ー
彼女が目を覚ましたのは、自室の布団の中だった。
体を起こすと、部屋の隅で毛布にくるまった経凛々が寝息を立てているのが見えた。
はっとして時計を見ると、夜中の11時だ。
「いけない、お店!」
彼女が立ち上がると、眠っていた経凛々がびくりと飛び上がった。
「まずい、寝てた…。」
外していた眼鏡をかけ直しながら、彼は頭を掻いた。
「経凛々さん、お店…。」
美子が不安げに尋ねると、彼は大丈夫ですよと微笑んだ。
「晴明君と律子ちゃんに連絡して手伝ってもらってます。あまりお客様もいらしてないようですし…おっと。」
慌てて口に手を当てた彼の頭を、美子は軽く撫でた。
「…とんだ非礼を」
そう言って顔を赤らめる経凛々。
「いいのよ。ほんとの事なんだから。」
そんな彼を宥めながら、彼女はふと気絶前の事を思い出した。
「…ねえ、あなた誰か怪しい人見なかった?」
「不審人物ですか?」
彼は暫く考えるそぶりを見せたが、やがて首を横に振った。
「…そう。」
その不安げな様子を見て心配に思ったのか、経凛々は美子の側に寄り添った。
「何かされたんですか?」
「いえ…ね。」
されたというほどの事でもないけどね、と前置きして、彼女は般若の面の人物の事を彼に話した。
話を聞き終えた経凛々は、ふうむと唸った。
「般若…。鬼、ですね。」
彼は前髪を弄りながら、首を傾げた。
「先生が言っていました、鬼というのは人間が堕ちた姿だと…。怨みなどの執着心から鬼へ身をやつすものが多いそうです。」
「先生はそんなことまであなたに教えるのねぇ。全く、何を考えているのかしら…。」
苦笑した美子に恥ずかしそうな視線を返し、経凛々は頷いた。
「何か心当たりはありますか?」
美子は首を振った。
「そうですか…。まあ、ただの不審人物のセンもありますからね。一応先生に相談してみますが、生身の人間の仕業であればこの件は深山刑事にお願いしましょう。先生は生身でないもの専門ですから…。」
「ええ。ありがとう、経凛々さん。」
微笑んで礼を言いながらも、不謹慎にもこの件がどうか生身の人間の仕業でないように祈った美子であった。
ー
その晩のことであった。
暗い部屋の中で、眠れないながらも横になって目を瞑っていた美子は、経凛々に言われた事を思い返していた。
(鬼…。執着心、ね…。)
執着って、何に?私かしら?
そう考えたとき、頭に一人の人物の顔が思い浮かんだ。
彼女は体を起こし、スマートフォンの電源を入れた。
先日の同窓会の集合写真。
中央で笑みを浮かべたその顔を見て、彼女はごくりと唾を呑んだ。
ー
翌日、木菟と経凛々は美子の見舞いに来ていた。
「お台所に立つのが億劫でしょう?家で味噌汁を作ってきましたよ。」
木菟が魔法瓶を美子の枕元に置く。
「あら、わざわざ良かったのに。でも、嬉しいですわ。」
「それは良かった。」
それで、と木菟は声を潜めた。
「般若の面の人物が現れたとの事ですが…。思い当たる人物は見つかりましたか?」
美子は少し俯き、頷いた。
「もしかしたらって人は…一人。」
彼女はスマートフォンを取り出し、1枚の写真を出して木菟らに差し出した。
「成る程、同窓会ですか。」
スマートフォンを受け取り、木菟は頷いた。
「この中にその人物が?」
経凛々が画面を覗きこんで尋ねると、美子は頷いた。
「ええ。」
この方なんですけど、と彼女は写真中央辺りに写っている男を指差した。
「白石君ていうんですけど…。彼、学生時代に私に交際を申し込んできたことがあって。その時しっかりお断りしたんですけど、まだ諦めてなかったらしくて。この間、もう一度交際を考えてほしいと言われて…。」
「え!」
それを聞いた経凛々は明らかに動揺して、木菟の顔を見た。
しかし当の木菟は全く気にしていない様子で、神妙な顔をして頷いている。
「その告白は受けたんですか?」
「まさか!断りましたわ。」
「そうですか…。彼、中々の二枚目ですよ?勿体無い。」
「先生…。見た目じゃありませんわ。」
どうして分からないのかしら…。
暫くその場に気まずい沈黙が流れる。
「…あの」
それを破り、経凛々が手を上げた。
「もしその鬼が彼だったとしても、美子さんに全く手をつけずにチャラ、って事は無いと思うんです。鬼に身をやつす程の強い執着があるのなら。この後も現れる事があるのではないでしょうか。」
美子が不安そうな顔をした。
「だから、暫く美子さんに護衛が必要だと思います。木菟先生、数日間彼女についていて差し上げてはいかがでしょう?」
「え?私がですか?」
木菟はきょとんとして、美子の顔を見た。
「しかし、護衛なら私なんかより腕の立つ方に頼んだ方が。そうだ、深山刑…。」
「ああああっ、ダメです!ダメ!」
美子が深山を仇のように見ているのは、経凛々も知っている。しかし木菟は例のごとく気付いていないのだ。
珍しく大声を発した経凛々を不思議そうに見つめて、木菟は首を傾げた。
「どうして?年こそかなり上ですが、身体も鍛えているし、用心棒としては最良の人物だと思うのですが。」
「え、えーと。深山さんには奥様もいらっしゃいますし、うら若い女性とひとつ屋根の下で数日間とはいえ暮らすのはちょっと…。」
ああ、と木菟は微笑んだ。
「それなら大丈夫。彼、ああ見えて愛妻家なんですよ。」
「それはそうかもしれないですけど…。警察というのは大変なお仕事です。一個人の為に長期休みをとるのはいかがなものかと。」
「…まあ、それは確かに。」
木菟は少し考えて、頷いた。
「分かりました。私も暇ですし、たまには所帯を持った気分になるのもいいでしょう。」
経凛々は嬉しそうに美子を振り返り、微笑した。
(まあ…。)
美子はそこでやっと彼の計らいに気付いた。
お節介な所は誰の影響かしら?でも、ありがとう。
微笑ましく思って、彼女は経凛々に微笑み返した。
ー
その晩、美子は中々寝付けずにいた。
何せ、隣の布団では木菟が寝息を立てているのだ。
想い人が近くで無防備な姿を見せているというのは、こんなに緊張するものなのかと彼女は思う。
明日の朝食は何にしてやろうか、などと考えていたその時。
ひたっ、と畳の床を踏み締めるような音がした。
(‼)
どきりとした。
今この家の中にいるのは、木菟と自分だけだ。
布団の中で手を伸ばして、木菟の寝間着の裾を引っ張る。
「…先生、先生!」
「んん…。」
眠そうに目を擦りながら、木菟は上体を起こした。
「誰かいますわ…。」
「何だって?」
木菟はそっと布団を出て、足音を立てずに素早く襖に張り付いた。
「確かに、足音がします。こちらに近づいてくる。」
隠れていてください、と美子に指示して、彼は襖を少し開けた。
瞬間、目の前に鉈が降り下ろされた。
驚いて飛び退いた彼の眼前に、再び鋭い刃の切っ先が迫る。
しかしそれは彼の瞼すれすれの所でぴたりと動きを止めた。
「…ちっ」
明らかな舌打ちの音が聞こえた。
「は?」
目を開けた木菟の視界の端で、何かがきらりと光った。
嵐の後のような静けさが辺りを包み込む。
我に返った木菟が立ちあがり、周囲を確認するが誰もいない。
「美子さん…。」
気が抜けたように呼び掛けた木菟に応えて、美子が顔を出す。
「正体はわかりましたの?」
「いや…。それ以前に」
木菟は戸惑ったように頭を掻いた。
「私は重大なミスを犯していたようです。」
「え?」
「私は鬼の正体があなたに執着する男だとばかり思っていました。しかしそれは大きな間違い。」
「どういうことですの、先生。」
不思議そうに尋ねた美子に、木菟は説明を始めた。
「美子さん、あなたは『般若』の面の人物を見たと言いましたね?」
「ええ…。」
やっぱり、と木菟は頷いた。
「美子さん、『般若』というのは『鬼女』なんです。」
「鬼女?…それって」
「はい。あの般若の正体は、あなたに執着する男でなくあなたに嫉妬する女です。」
美子は目を見開いた。
「私に…嫉妬?」
思い当たる人物はいない。
「包丁を持った左手の薬指に、指輪がありました。犯人は左利きの既婚者です。」
「左利き?」
ふと、彼女の頭の中に指輪をはめた白く美しい手のイメージが浮かんだ。
この手、どこかで…。
何かを軽くつまむように揃えられた指先。
その指先を彩るネイルには、確かに見覚えがあった。
「…もしかして」
美子は顔を上げた。
「思い当たる節がありましたか?」
ええ、と頷きかけて、美子は戸惑った。
「でもまさか、そんなことって…。」
「狼狽えるのは後にしてください。冷静に、誰に心当たりがあるのかだけを教えてください。」
諭すような木菟の口調に宥められ、彼女はある人物の名を口にした。
ー
「彼女はきっとまた来ます。しかし私がいると却って向こうを警戒させます。」
木菟はそう言って、まとめた荷物を背負っていた。
「申し訳ありませんが、私は帰らせていただきます。」
「でも、私だけじゃどうにも…。」
「大丈夫です。」
彼は微笑み、美子の瞳を見つめた。
「この建物の周りはしっかり固めておきます。入り口は私、裏口は晴明さん。更に空から経凛々さんが見張ってくれますから。」
何かあればすぐ分かります、と、彼は自信満々で胸を叩いてみせた。
「…まあ、先生がそう仰るなら。」
彼女は不安の残る表情で、木菟を送り出したのだった。
ー
その晩のことだった。
経凛々はゆっくりと美子の家上空を旋回していた。
体力のない彼は、30分ほど飛んだところで少し疲れてきたようで、徐々に高度を下げながら美子の家の屋根に着地した。
そこから鷹のように目を光らせていると、裏口に仁王立ちしている晴明の姿が目に入った。
木菟に命じられて声をかけたが、彼のやる気はすごかった。美子の名を出した瞬間に、目の色を変えたのだ。
人というのは自分にはまだ到底理解できそうにない、としみじみ思ったその時。
「な、何だてめぇ!?」
ひどく取り乱したような晴明の声が、彼の耳に入った。
「晴明君!どうしました?」
慌てて視線を向けると、晴明が胸の辺りを赤く染めて倒れているのが見えた。
「晴明君‼」
彼は屋根から降りると、晴明の側にしゃがみこんだ。
「深くはなさそうだけど、ひどい出血だ…。どうしたんです?」
晴明は痛みに表情を歪ませながら、苦しげに言った。
「鉈持った女が…。鬼の面つけた、髪の長い…。」
「何ですって!?」
「家、入られちまった。ごめん…。」
「いいんです、気にしないで!」
経凛々は物干し竿に掛けられたタオルを取り、彼の胸の傷をきつく縛った。
「いいですか、絶対動いちゃダメですからね?」
「おう…。わりーな、情けねぇ…。」
弱々しい晴明の声を背にして、経凛々は美子の家の中へと足を踏み入れた。
ー
美子は携帯電話を握り締め、寝室の毛布にくるまっていた。
何度木菟に電話しようと思ったことか。しかし、そんなことをしたらまるで自分が彼の事を信頼していないかのようで、できなかった。
不安を押し殺し、彼女はぐっと目を閉じた。
…来た。
摺り足の足音と、衣擦れの音。間違いなくこちらに近づいてきている。
部屋の端に置かれた盛り塩からは奇妙な煙が出ており、10㎝ほど立ち上ったところで渦を巻いていた。
美子は大きく深呼吸して、立ち上がった。
襖が大きな音を立てて開く。
弾け飛んだ盛り塩が顔にかかるのも気にせず、彼女は真っ直ぐ前を見据えていた。
「美子…。」
『般若の面の女』はざらついた声で呟き、手にした包丁を振り上げた。
美子はそんな彼女を哀れむように見て、小さく息をついた。
「…椿ちゃん。どうして…。」
女は明らかに動揺した。
「やっぱりそうなのね、椿ちゃん…。」
指輪のついた左手をゆっくりと下ろし、女はその場にくずおれた。
「…だって、狡いんだもの…。」
「狡い?一体何が…。」
「とぼけないでよ!」
女…。高橋椿はそう叫んで美子を睨み付けた。
「学生時代にあんたが白石君に告白されたとこ、あたし見てたんだから!」
「まあ…。」
「しかもあっさり振るなんて!あたしだって彼の事好きでいたのに…。」
「でも、そんな昔のこと…。」
「昔だけじゃないわ。今だってそう。」
椿は美子をきつく睨んだまま話し始めた。
「この間の同窓会。あんた、また白石君に言い寄られてたわよね?それでまた断って。学生時代からずっとそうよ、ちょっと美人だからってもてはやされて…。」
「そんな、椿ちゃんだって綺麗でもててたじゃない?それに結婚だって…。」
「それでも!あんたには追い付けなかったのよ、いつまで経っても…。確かに結婚はしたわよ、浮気癖のひどい二枚目の旦那とね。でも、あんた結婚してないって言ってたから、10年経ってやっとひとつあんたに勝ったと思ったわ。でも違ったわ、あんた家に男連れ込んでたわねぇ?同窓会の時は、白石君引っ掛けて弄ぶために結婚してるの隠してたのよね?本っ当、幸せよねぇ美人は。男なんて思いのままでしょ?」
「…いい加減にしてよ」
美子は細い肩を震わせ、ぽつりと呟いた。
「…もういい加減にして!勝手に私が幸せだなんて決めつけて。」
狼狽えた様子の椿を前にして、抑えていた気持ちが溢れ出す。
「私にだって叶わないこと沢山あるのよ!どんなに手を尽くしても叶わないこと…。占いに頼っても、おまじないに頼っても、理想の恋なんて実らない。そんなものよ。でも、信じて待つしかないじゃない。本気で想いを届けたいと思うなら。」
そこまで一気に話して、彼女は一息ついた。
「それができなくて、その人の事を本当に好きだったなんて言えるの?八方手を尽くしたって言えるの?」
「…。」
椿の顔の面はいつの間にかなくなっていた。
つい先程まで鬼がいたその場所には、嫉妬に身を焼いて落ちぶれた愚かな女がいるだけとなった。
その時、勢い良く部屋の戸が開き、木菟と経凛々がなだれ込んできた。
「美子さん!無事ですか?」
木菟は美子の肩を抱き寄せ、椿を睨み付けた。
「あなたが高橋椿さんですか…。お話はすべて聞かせてもらいましたよ、あなたの影響で閉め切られた部屋の外からではありますが。」
椿は項垂れて返事もしなかった。
「何とか言ったらどうなんです?」
友人の晴明を傷つけられた怒りからか、経凛々は本来の鳥のような姿を現して詰め寄った。
その姿に怯えたのか、椿はその場にしゃがみこんだ。
「いやっ、化け物…!」
「化け物はあなたの方です、椿さん。」
木菟が冷たく言い放つ。
「嫉妬に狂って10年間も美子さんを妬み続け、望まない結婚までして自分の人生を狂わせ、ついには鬼に身をやつした。あなたは愚かですよ、本当に。」
さて、と木菟は息をついて、美子の方に向き直った。
「美子さん。彼女をどうするかはあなたにお任せします。これはあなたと椿さんの問題です。私にはどうすることもできません。」
「ええ…。」
美子はそっと椿に歩み寄り、目線を合わせてしゃがみこんだ。
「椿ちゃん。今後一切、私も含めた人の幸せを妬まないって約束してくれる?」
「…え?」
椿は一瞬戸惑って、ええと頷いた。
それを見た美子は、にっこりと微笑んだ。
「そう。それならいいわ。」
彼女は木菟を見上げ、頷いた。
「え、それでいいんですか?」
経凛々が驚いたように彼女を見た。
「ええ。実害はなかったし…。」
「美子さん…、甘過ぎですよ!」
「まあまあ、経凛々さん。」
不満げな経凛々を木菟は何とか宥め、晴明の傷を治療して家に送り届けてやるよう指示すると、何か言いたげにしながらも彼はそれに従った。
椿はというと、何度も美子に頭を下げながら帰っていった。
その後ろ姿を見送りながら、美子が言った。
「先生。椿ちゃんは最初から般若の面なんて着けていませんでしたわ。」
「え?」
「彼女と正面から向き合ったとき、初めて分かりましたの。あの顔は、私への恨みに歪んだ彼女の素顔でした。」
「ほう。」
頷き、木菟は言った。
「嫉妬に狂った女の顔は、般若そのものだったというわけですね?…面白い」
彼はくっくと喉を鳴らして笑った。
「いや、実に興味深いものですね。古来より生きながら鬼に身をやつす女性を『生成り』と言いますが…。彼女もきっとその一種だったのでしょうね。」
「…。そうなのかもしれませんわ。」
美子はそっと木菟に寄り添った。
ー
晴明を家に送り届けた経凛々は、深山を訪ねて警察署を訪れていた。
丁度帰宅するところだったらしく、彼はいつものように車に凭れて煙草を咥えていた。
「深山さん。」
声をかけると、深山はちらりと経凛々を見て軽く手を振った。
「よぉ、タイミング良かったな。」
「はい。深山さん、いつもこれくらいの時間になると外で一服してるじゃないですか。」
深山はんっと唸った。
「なんで俺の行動パターン知ってんだ?」
「深山さんみたいな単純な人のルーティンくらい、すぐ覚えます。」
「口もよく回るようになったねえ…。」
苦笑して、深山は煙を吐いた。
「…何かあったのか?」
そう尋ねた彼の表情は笑っていたが、目は真剣だった。
経凛々はそんな彼を見上げ、躊躇いがちに口を開いた。
「…私、化け物って言われました。やっぱり、私は人間にはなれないのでしょうか?」
「ふん…、そんな事かい。」
深山はにやりと笑った。
「いいじゃねぇか、別に。」
「え?」
煙草の火を揉み消し、彼は続けた。
「人間ってもんが必ずしも上等なわけじゃねぇ。別に人間になることにこだわらなくてもいいんじゃねぇのか、特にお前なんかはちょっと化け物じみてた方が可愛くていいぜ。」
「…そういうものですか」
首を傾げた経凛々の肩を、深山は勢い良く抱き寄せた。
「おうともよ!よーし、今日はおごってやる。飲みに行こうぜ、相棒!」
「むさ苦しいです、全く…。」
質問の根本的な答えをもらっていないにも関わらず、不思議と気持ちが軽くなっていくのを経凛々は感じていた。
作者コノハズク
進学したてでやることが沢山あって、中々投稿できませんでした。今回は生成りのお話でしたが…。女の嫉妬は怖いですね。女性にしか分からないところもあるのではないかと思います。