「……ぁい……もぉ……いぃ……かぁい……」
気が付くとそんな声が、彼女の頭の中で響いている。
それは抑揚がなく、こもっていて、水の中で聴こえる声のようであるらしい。
次に自分が、商店街のど真ん中に立っていることを知る。
あたりには人の姿はなく、霧のような白いもやが立ちこめるばかり。
そして徐々に大きくなる声に、それが幼い子供のものだと気づく。
やがて前方に黒い影が見え始めるが、しかしそれは太った大人の形をしていて、
彼女はなにか嫌なものを感じ、とっさに横の路地へ隠れると、
「もーいーかぁい……もーいーかぁい……」
声がいよいよはっきり迫ってくる。
そっと覗くと、影の腹のあたりに顔が見える。
少女の顔だ。
口を真っ赤に開き、遊びの文句を繰り返している。
おそろしくて、思わず背を向けて逃げ出すと、いつの間にか階段を降りている。
たどり着いた先に細長い箱が立っている。
その把手へ手を伸ばす――。
ここでいつも目が覚める。
◇
この夢の話を聴いたのは先月の始め頃。
そのときは千穂にとっても、昨晩たまたま見た悪夢でしかなく、俺も笑って聞いていた。
しかしそれから今に至る、およそひと月の間、彼女は毎晩この夢を見るようになっている。
夜中にうなされて起きては、そのまま眠れなくなるといった日々が続いている。
大事な時期でもあり、医師に相談し、できれば避けたい薬も慎重に服用したが効果がない。
俺はオカルト絡みのことなど今まで真剣に考えたことはなかった。
しかし藁にもすがる思いで、その手に詳しい知人の紹介から、ある占い師を頼ることにした。
千穂はそのとき何故かしぶっている様子だったが、とにかく今は手をつくそうと説得し、
二人でその事務所を訊ねた。
占い師は夢から吉凶や未来などを見通すらしく、
「この悪夢は過去からのよどみ、わだかまりが生じさせるものである」
「これを消すには夢に現れる事物に、現実(リアル)でも対峙し正体を探るしかない」
という二点が告げられ、即行動に移ったほうがよいとの助言を受けた。
◇
翌日、俺は仕事を休み、某県の市街へと車を走らせていた。
向かう先は夢に出てくる場所、千穂の故郷の街だ。
山道から遠くに街並が現れ始め、助手席を見ると、千穂の様子がどこかおかしかった。
じっと街を見つめる表情には、悪夢による疲れとは別に、何か恐怖のようなものが浮かんで
いるように思われた。
「どうした千穂?」
「――あたし……あの日見てたの……マナのこと」
思い詰めたような言葉に、俺は驚き、
「何か、思い出したのか?」
と訊くと、彼女は首を振り、
「そうじゃない、ちがうの……ごめんなさい。ほんとはあたし、あの夢を何度か見たあとに
思い出してた。夢の中の子のことや、その子がどうなったかも――」
それは幼い頃の記憶で、近所にマナという少女がいたという。
「あたしたち、親同士が仲良かったからよく遊んでた。その日もお母さんたちの買い物が
終わるの二人で待ってたんだけど、マナが『かくれんぼしよう』って。
あたしイヤだったんだけど、彼女が数え始めたから仕方なく隠れて……いつもマナは自分から
言い出して、満足するまでしつこくて、終わりも自分の好きなようにして……あたしの言う
ことなんか何もきいてくれなかった。
それでしばらくして覗いたら、反対側の路地裏で知ってるおじさんと話してて、次に見たとき
はもう二人ともいなくなってて……マナはそのまま行方不明になった。
でもあたし何訊かれても『知らない』『何も見てない』って答えた。彼女にそのままいなく
なってもらいたかった。自分勝手で、気に入らないことがあるとあたしをいじめる彼女が、
本当は嫌いだったから……」
◇
件の商店街近くまできて車を降りると、携帯に職場から連絡が入った。
数分ほどで済ませたが、顔を上げると、千穂の姿が消えている。
「千穂!」
俺は彼女を呼びながらあたりを見渡した。
まだ夕方だが、完全なシャッター街と化した商店街に人影はない。
閑散としたメインストリートを行くと、向こうの建物近くに一瞬姿がみえた。
急いで行くと、その建物は銭湯らしかったが、すでに営業はされていないようだった。
正面口は閉まっているので、横の路地をみると裏口のドアが開きっぱなしになっている。
そっちへ行って覗いた俺は思わず息を呑んだ。
室内の奥にあるドアの前で、太った男がうつむいて座っている。
首が妙に伸びていてる。
ひと目で首吊りと知れた。
ノブに紐がかかって、悪臭と黒ずんだ皮膚からも、明らかに死体であるのがわかる。
その場で固まっていると、左の方で物音がした。
俺は胸騒ぎがし、とにかく千穂を探そうと入って行くと、地下への階段があった。
壁に貼られたプレートに『ボイラー室』とある。
降りていくとそこに千穂がいた。
◇
上方の小窓から陽が入っているようで、うす暗い壁に何条もパイプが走っているのがみえる。
それらは奥にあるドラム缶のような機器につながっていて、その向こうで千穂は、ここで
見つけたらしいスパナを振り上げ、
ガンッ ガンッ
と何かに打ち付けていた。
「千穂、なにしてるんだ!」
傍に行ってもこちらを向かず、彼女の横顔、何かに憑かれたような形相に俺はぞっとする。
「マナが言ってるの……こわい人はもういないって……続きをしようって……」
そんなことをぶつぶつと呟きながら、そこにある細長いロッカーの外付けの鍵へ、一心不乱
に工具を振りおろしている。
”ガキン”と音がして、鍵が飛んだ。
錠のかかっていたスチールの把手の一部がちぎれている。
そして観音開きの戸へ、千穂が手をかけた瞬間、俺は何かとてつもなく嫌な予感がして、
「千穂やめろ!」
止めようとしたが扉は一気に開かれる。
中に少女がいた。
狭い闇に白い顔だけが浮かんで見え、まぶたは開かれているが眼球がなく、二つの空洞から
血を滴らせては、真っ赤な口を開いて叫ぶ。
「みーつけた!」
千穂の腹に飛び付き――
そして消えた。
◇
数ヵ月後、俺は病院へ向かう途中、公園の子供たちを見てある違和感を思い出していた。
それは千穂の夢に関することだ。
あのシャッター街で見た首吊り死体は、そこの銭湯の主人だった。
遺書もあり経営難による自殺と断定されたが、死後およそひと月という日数は、千穂が夢を
見ていた時期と一致する。
そしてボイラー室のロッカーからは、身元不明の少女の白骨死体が見つかった。
何重にもかさねたゴミ袋に詰められ、しかも状態からみて、骨になる前からバラバラに
されていたらしい。
共に入れられていた遺品から、二十年前に行方不明になった少女とされたが、死者たちの
間に何があったか詳しいことはもうわからない。
とにかくあの日以来、千穂は例の夢を見なくなった。
男の死により解放された少女の魂が、自分を見つけてもらいたくて千穂に夢を見せたのだろう
――俺はつたない想像ながらも、強いてそう考え、もう何も心配することはないのだと彼女に
話し、自分でもそう思うようにしている。
だが……
唯一、ボイラー室で聴いた少女の言葉だけが引っかかっていた。
千穂は彼女を探しあてたが、あの言葉はその真逆を意味するものだ。
マナはかくれんぼでオニをやっていた。そして目の前に現れた千穂にそれを告げた。
見つけられたのは千穂の方だったのだろうか。
もしそうならオニに捕まった後は……
俺はいつしか病室前まで来ていることに気づく。
くだらない、もう終わったことだ――。
夢は見なくなったが、千穂は強いショックから長くうつ状態になっている。
今は会話もままならず、入院治療をしているが、お腹の子と共に夫である俺が
支えていかねばならない。
あのとき千穂はすでに妊娠していたが、肉体的には健康を取り戻し、子供に被害がなかった
のは安堵すべきことなのだろう。
入室すると千穂はベッドで眠っていた。
俺は横の椅子に座り、タオルケットの上から、大きくなったお腹へと手をやる。
それから頭を近づけ、そっと頬を寄せた。
新たな命の鼓動にじっと耳を澄ませる。
と、中からごく小さく聴こえてきた。
「モウイイヨー」
作者ラズ
よろしくお願いします。
「怖い」ってなんだろうってことを自分なりに考えたのですが、一つには
「すごく嫌」ってことなのかも知れないなと思いながら書きました。